仁王路の屋敷の空気は、なんとはなしに和らいだものになった。

 櫻子と静馬はできるだけ食事をともにし、必ず朝の挨拶を交わす。櫻子は昼間、静馬の手配により、琴やダンス、礼儀作法、普通教育を習うようになった。勉強は楽しく、櫻子の表情はどんどん明るくなった。また、上質な着物を着て化粧を施すようになると、傍目にも令嬢らしくなっていった。

 二人は夜もぽつぽつ会話を交わすようになった。櫻子は昼間の稽古の様子や読んだ本の感想を、静馬は外で起きたことや、家族の話をした。
 その中で、ふと、御門主宰の夜会の話題があがった。

「至間宮の近くにある迎賓館で開催される、華族の社交場だ。とはいえ、今度開催されるのはそこまで堅苦しいものではなく、華族の嫁や婿探しといった趣が強い。櫻子はどうしたい?」
「夜会、ですか……」

 静馬の寝室にて、二人はいつも通りに手をつなぎあわせていた。静馬の手のひらは温かく、櫻子は少しだけ眠気を感じていた。
 しかし、夜会という言葉が記憶を刺激する。櫻子はぱっちりと目を開いた。

「相良男爵家も招待されているのですよね?」

 深雪が夜会のため、綺麗なドレスをよくねだっていた。櫻子はいつもめかし込んだ深雪を見送るばかりだったので、夜会がどんなものかを知らない。彼女が自慢げに話すのを聞いたところによると、何もかもが洗練されており、立派な殿方がたくさんいるらしい。
 静馬が重く頷いた。

「そうだ。相良紅葉、深雪の二人が参加するらしい。十中八九、婿探しだろう。会いたくなければ、櫻子が無理に参加する必要はない」
「そうしたら、静馬さまはどうなさるのですか?」
「僕は御門から直々に招待状をもらっている身だ。不参加というわけにはいかないし、一人で出席する。他にもそういうやつはいるからね」
「お一人で……」

 櫻子は黙り込む。想像でしか知らないきらびやかな館を背景に、礼装を着こなした静馬が一人で立っている姿を思い描く。きっと彼は目立つだろう。想像の中の彼はすぐに数多の女性の視線を集めた。その中には深雪の姿もある。
 つないだ手をぎゅっと握りしめる。なんとなく、胸がもやもやした。

「わ、私も参加したいです。上手くやれないかもしれませんが……いずれ慣れなければならないことですから」
「そうか、櫻子がそう決めたなら、僕は君を支えるよ」

 静馬が櫻子の必死な様子を見て、優しく微笑む。緊張をほぐすように、櫻子の手の甲を親指の腹で撫でた。

「それなら、ドレスが必要かな。明日、百貨店に買いに行こうか」
「は、はい」

 櫻子は唇を引き結んだ。百貨店には荷物持ちとして行ったことはあるが、自分の買い物はしたことがない。ましてや自分用のドレスなんて夢見たことすらなかった。上手く選べるだろうか。まったく自信がない。
 難しい顔をして悩み始めた櫻子の手を引き寄せ、静馬が指先に口づける。櫻子は驚いて目を瞬かせた。唇の触れたところが火傷したように熱い。ついで、頬がかあっと赤くなるのが分かった。静馬は悪戯っぽく笑っている。

「妻にドレスを選ぶ栄誉を、僕に与えてくれるかい」
「え、ええっと……」
「うん?」

 笑みを深め、静馬が顔を寄せてくる。櫻子は固く目をつむった。すぐそばで、静馬がハッと息を呑むのを感じる。
 櫻子は真っ赤になった顔を伏せ、消え入りそうな声で答えた。

「よ、よろしくお願いします……」

 返事がない。おずおずと瞼を上げると、静馬が怖いほど真剣な顔で櫻子を見つめていた。

「あの……?」

 声をかけると、ハッと我に返ったようだった。半目になって遠くへ視線を投げる。白銀の髪の隙間から覗く耳に、わずかに朱が差していた。わざとらしく咳払いをして、

「ああ、うん。ドレス、ドレスの話だね、もちろん、任せてくれ」
「それ以外に何か……?」
「いや、こちらの話だ、気にしないでくれ」
「はあ……」

 とつぜん挙動不審になった静馬に首を傾げつつ、櫻子は素直に頷いた。

■ ■ ■

 至間國で一番大きな百貨店は、休日ともなると大混雑であった。しかし、櫻子が静馬に連れられてたどり着いたのは、落ち着いた雰囲気のサロンだった。柔らかな絨毯が足元に広がり、革張りのソファとローテーブルが、会話が聞こえないくらいの距離を保っていくつか置かれている。片側の壁面はガラス張りで、至間の街並みが見下ろせた。

「仁王路さま、お待ちしておりました。奥様のドレスですね。こちらに準備しております」

 百貨店の制服を身につけた品の良い婦人が出迎える。櫻子はあれよあれよというまに広々とした試着室に連れていかれ、目の前にずらりとドレスを並べられた。
 櫻子には、美しい布とリボンとフリルの洪水にしか見えない。目を回していると、隣に座った静馬が迷う様子もなくドレスを選び始めた。

 薄ピンク色のリボンがたくさんついたフレアドレスに、シックな黒色のタイトドレス、スカートがふわりと広がった、おとぎ話のお姫様のようなドレス……と着せ替え人形のように試着をこなす。静馬は櫻子の周りを回ってドレス一つ一つに丁寧に頷き、「どれも愛らしいな……」としごく真面目な顔つきで呟いていた。愛らしいのはドレスだ、と櫻子は必死に自分に言い聞かせる。でなければ顔を真っ赤にして、その場を逃げ出してしまいそうだった。

「——あ、これは」

 渡されたドレスに着替え、鏡に映った自分を確認して、櫻子は思わず口元をほころばせた。深い緋色の生地に、腰元に白銀のサテンのリボンがあしらわれた、上品なイブニングドレスだった。にこにこしたまま試着室の外に出ると、そこで待っていた静馬がどうかしたか、と目で尋ねる。その瞳を見返し、櫻子はますます笑みを深めた。

「いえ、このドレス、静馬さまの瞳の色と同じだと思って。今まで好きな色なんて考えたこともなかったのですが、最近は赤色が好きです。安心できるので……」
「安心?」
「はい、いつも私を見守ってくださる、とても安心できる瞳です」
「……そうか」

 噛みしめるように静馬が呟く。そのあとに「もう少し警戒してくれても構わないが……」とぼやいたのは、櫻子の耳には届かなかった。
 櫻子は、再度鏡の中の自分と目を合わせる。変ではない……いや、似合っていると思う。

「私、これが良いです。どうでしょう、静馬さま」
「ああ、とても似合っているよ」

 静馬が頷き、無事にドレスが決定した。