——静馬さまの様子がおかしいわ。
櫻子は、帰宅した静馬を玄関で出迎え、眉をひそめた。明らかに顔色が悪く、足取りが重い。いつもぴしりと背筋を伸ばして、しっかりと地を踏む人とは思えない。櫻子は思わず、静馬の右手を取った。
「……どうかしたかな?」
静馬が微笑む。それも無理に作り上げたものに見えて、櫻子はうろたえた。
「あの、静馬さま」
「うん?」
「ええっと……」
口ごもり、自分が嫌になった。早く休んでもらうべきなのに、もたもたして余計な時間を取っている。静馬が苛立ちの一つも見せないことが、逆に申し訳なさを募らせた。
櫻子はやっとのことで言葉を紡いだ。
「た、体調が悪そうです。お医者さまを呼びましょうか? それとも、お薬を持ってきましょうか?」
静馬が目を見開く。櫻子を見下ろし、ゆっくりと瞬きした。櫻子の取った手が小さく震える。彼は額にこぼれ落ちた前髪を払い、なんでもないように笑った。
「ああ、いや平気だ。これは、少し……」
言葉が途切れる。櫻子が不審に思う間もなく、静馬がこちらに向かって倒れ込んできた。
「静馬さま!」
悲鳴じみた声をあげ、櫻子は慌てて静馬の体を支えようとする。しかし支え切れるはずもなく、一緒になって床に崩れ落ちてしまった。
静馬を間近にして、その具合の悪さが切実に伝わってきた。息は荒く、体全体が熱い。顔からは血の気が引き、真っ青だった。
静馬が切れ切れにつぶやいた。
「大丈夫、だ……今日は、耳飾りが……」
「え?」
静馬の耳元に目をやる。そこに付けられた耳飾りは黒ずみ、輝きを失っていた。理由はよく分からないが、役目を果たしていないことは確かだ。櫻子は慌てて静馬の手を握りしめ必死に言い募った。
「静馬さま、私に力をお渡しください。そうすれば、少しは——きゃっ」
屋敷が大きな音を立てて揺れた。こんな時に地震か、と振り仰いだところで、違うと気づく。壁の洋燈は異様なほど大きく燃え盛り、玄関ホールに置かれた花瓶が直線を描いて遠くの壁にぶつかっていく。かと思えば、砕けた花瓶が自然に修復されて床に転がった。
——異能だ。
櫻子は腕の中でぐったりしている静馬を見つめた。この家の中でこんな異能を使えるのは彼しかいない。おそらく、体を蝕む異能力を少しでも発散するため、異能が暴走しているのだろう。
屋敷が不規則に揺れる中、櫻子は静馬の腕の下に体を滑り込ませ、半ば引きずるようにして寝室へ向かった。その間も部屋の扉がバタバタと開閉を繰り返したり、棚が倒れてきたりと気が気ではない。なんとかベッドに静馬を寝かせたときには、櫻子の頭にタンコブができていた。ふっ飛んできた花瓶が頭を直撃したのである。
だが、苦しげに横たわる静馬を見ていると、頭の痛みも感じられなかった。せめて水でも持ってこようと、櫻子はベッドのそばを離れようとする。そのとき、静馬の手が櫻子の手を掴んだ。
その手の熱さにぎょっとする。櫻子は慌てて静馬の手を握り返した。
「どうなさいましたか? 何か私にできることはありますか」
「……さくら、こ」
かすれた声で静馬が囁く。うっすら目を開き、熱に潤んだ瞳に櫻子を映した。
「めいわく、かけて、すまない」
「平気ですよ。耳飾り、壊れてしまったんですか?」
「とられた」
「え?」
驚いて聞き返すと、静馬は薄く笑った。何度か咳き込み、
「よくあることだ……油断していたな、それより櫻子のことを気にしていたから」
「わ、私ですか?」
「うん……」
まどろむように答えると、静馬は瞼をおろした。白銀のまつ毛に、滲んだ涙がきらめいている。
「むりやり娶って、悪かった。本当はきちんと、君の心を乞うべきだった」
「そんな……」
櫻子はおろおろする。そんなこと気にしなくていいのに。櫻子にそんな価値はないのに。
静馬の手に力が込められる。祈るような響きで囁かれた。
「それでも、そばにいてくれると、うれしい」
すう、と寝息が聞こえる。揺れは収まり、寝室を飛び回っていた本がばさりと音を立てて床に落ちた。ページが折れ曲がっている。早く拾わなければ、と思うのに、櫻子は身じろぎ一つできない。
——そばにいて、と言われた。
それは櫻子の人生において一度も乞われたことのない願いだった。生まれてこの方、彼女は誰からも遠巻きにされ、罵詈雑言を投げられて生きてきた。誰もが櫻子を「無能」と蔑み、同じ人間とは見做さなかったのだ。
——浮かれてはだめだ、静馬さまとの結婚は契約なのだから。私の異能が彼にとって都合が良かっただけ。
そう言い聞かせても、手の熱さが逃げることを許さない。
始まりこそ櫻子の意志を無視したものだったが、それ以降、静馬が何かを無理強いすることはなかった。異能力発散のための道具として一度も口を聞かずに過ごすことだってできたのに、櫻子を気にかけてくれた。少なくとも、櫻子の人生において、最も誠実に接してくれた人だった。
——静馬さまは、私とは違う世界の方なのだから。
ひねくれた思考が水を差す。でも、それならば今の状況はなんだ。耳飾りを取られてもよくあることだと流す。誰からも愛されて、守られてきた人はそんな目には遭わない。
そもそも、と部屋を見回した。
なぜ彼はこの屋敷に一人で暮らしているのだろう。伯爵家次男ならば、使用人の一人や二人いて当然だ。それにもかかわらず、彼は誰も寄せつけず広い屋敷で一人過ごしている。家族から遠巻きにされているのか、周囲に被害を及ぼすことを恐れた静馬が一人を選んだのか、もしくはその両方なのか。櫻子には分からない。いずれにせよ、その華やかな肩書きから想像される暮らしではない。ひどく孤独だ。
それでも彼は、櫻子に謝罪し、そばにいてほしいと希う。いつも俯いて、状況に流されて、どこか遠くへ行きたいと夢見るばかりの櫻子とは違って、きちんと目の前の相手に向き合っていたのだ。
櫻子は、夜が明けるまで、静馬の手を握っていた。
■ ■ ■
静馬の目が覚めたのは、翌日のことだった。
だいぶ顔色が良くなっており、櫻子はほっと息を吐いた。
「おはようございます、静馬さま。お加減はいかがですか?」
「……櫻子は、一晩中?」
「はい」
櫻子は頷いた。つないだ手を指し示し、
「少しはお役に立てるかと思って。私には分かりませんが、異能力は発散できておりますか?」
「……ああ、もう大丈夫だ」
ぼんやりした口調で答えた静馬は、ハッと目を見開くと半身を起こした。
「櫻子、怪我はないか?」
「え?」
「異能が暴走しただろう」
「ああ、頭を少し……でも、大したことではありません」
「見せてみろ」
櫻子が身を寄せると、静馬の手が櫻子の頭を撫でた。軽くコブに触れたあと、安堵したように吐息をつく。
「大きな怪我ではないようだが、あとでしっかり冷やしておくように。吐き気やめまいはしないか?」
「大丈夫です。ほんの少しぶつけただけですよ」
「結果論だ。打ちどころが悪ければどうなっていたか分からない」
静馬の体が離れていく。つないでいた手もほどかれた。急に空いた手のひらがひやりと冷えて、櫻子はとっさに両手を握りしめた。
「櫻子、こっちを向いて」
告げられ、静馬の方を向く。彼の手のひらが櫻子の頬を包んだ。
長い指が櫻子の目の下をなぞる。静馬が心配そうに眉を下げた。
「隈ができている。今日はもう休むといい」
「これくらい何ともありません。静馬さまのおそばにおります」
そう言った途端、静馬の指が硬直した。気まずげに櫻子を窺う。
「……僕は何か言ったか」
「お嫌であれば忘れます」
「いやいい。……それで? そばにいてくれるのか?」
ヤケになったような声音に、櫻子は思わずふふっと笑った。
「はい。もちろんでございます」
静馬は驚いたように櫻子を見つめている。きょとんと首を傾げると、眩しそうに彼の目が細められた。
「……うん、櫻子は笑っている方が良い」
櫻子は、帰宅した静馬を玄関で出迎え、眉をひそめた。明らかに顔色が悪く、足取りが重い。いつもぴしりと背筋を伸ばして、しっかりと地を踏む人とは思えない。櫻子は思わず、静馬の右手を取った。
「……どうかしたかな?」
静馬が微笑む。それも無理に作り上げたものに見えて、櫻子はうろたえた。
「あの、静馬さま」
「うん?」
「ええっと……」
口ごもり、自分が嫌になった。早く休んでもらうべきなのに、もたもたして余計な時間を取っている。静馬が苛立ちの一つも見せないことが、逆に申し訳なさを募らせた。
櫻子はやっとのことで言葉を紡いだ。
「た、体調が悪そうです。お医者さまを呼びましょうか? それとも、お薬を持ってきましょうか?」
静馬が目を見開く。櫻子を見下ろし、ゆっくりと瞬きした。櫻子の取った手が小さく震える。彼は額にこぼれ落ちた前髪を払い、なんでもないように笑った。
「ああ、いや平気だ。これは、少し……」
言葉が途切れる。櫻子が不審に思う間もなく、静馬がこちらに向かって倒れ込んできた。
「静馬さま!」
悲鳴じみた声をあげ、櫻子は慌てて静馬の体を支えようとする。しかし支え切れるはずもなく、一緒になって床に崩れ落ちてしまった。
静馬を間近にして、その具合の悪さが切実に伝わってきた。息は荒く、体全体が熱い。顔からは血の気が引き、真っ青だった。
静馬が切れ切れにつぶやいた。
「大丈夫、だ……今日は、耳飾りが……」
「え?」
静馬の耳元に目をやる。そこに付けられた耳飾りは黒ずみ、輝きを失っていた。理由はよく分からないが、役目を果たしていないことは確かだ。櫻子は慌てて静馬の手を握りしめ必死に言い募った。
「静馬さま、私に力をお渡しください。そうすれば、少しは——きゃっ」
屋敷が大きな音を立てて揺れた。こんな時に地震か、と振り仰いだところで、違うと気づく。壁の洋燈は異様なほど大きく燃え盛り、玄関ホールに置かれた花瓶が直線を描いて遠くの壁にぶつかっていく。かと思えば、砕けた花瓶が自然に修復されて床に転がった。
——異能だ。
櫻子は腕の中でぐったりしている静馬を見つめた。この家の中でこんな異能を使えるのは彼しかいない。おそらく、体を蝕む異能力を少しでも発散するため、異能が暴走しているのだろう。
屋敷が不規則に揺れる中、櫻子は静馬の腕の下に体を滑り込ませ、半ば引きずるようにして寝室へ向かった。その間も部屋の扉がバタバタと開閉を繰り返したり、棚が倒れてきたりと気が気ではない。なんとかベッドに静馬を寝かせたときには、櫻子の頭にタンコブができていた。ふっ飛んできた花瓶が頭を直撃したのである。
だが、苦しげに横たわる静馬を見ていると、頭の痛みも感じられなかった。せめて水でも持ってこようと、櫻子はベッドのそばを離れようとする。そのとき、静馬の手が櫻子の手を掴んだ。
その手の熱さにぎょっとする。櫻子は慌てて静馬の手を握り返した。
「どうなさいましたか? 何か私にできることはありますか」
「……さくら、こ」
かすれた声で静馬が囁く。うっすら目を開き、熱に潤んだ瞳に櫻子を映した。
「めいわく、かけて、すまない」
「平気ですよ。耳飾り、壊れてしまったんですか?」
「とられた」
「え?」
驚いて聞き返すと、静馬は薄く笑った。何度か咳き込み、
「よくあることだ……油断していたな、それより櫻子のことを気にしていたから」
「わ、私ですか?」
「うん……」
まどろむように答えると、静馬は瞼をおろした。白銀のまつ毛に、滲んだ涙がきらめいている。
「むりやり娶って、悪かった。本当はきちんと、君の心を乞うべきだった」
「そんな……」
櫻子はおろおろする。そんなこと気にしなくていいのに。櫻子にそんな価値はないのに。
静馬の手に力が込められる。祈るような響きで囁かれた。
「それでも、そばにいてくれると、うれしい」
すう、と寝息が聞こえる。揺れは収まり、寝室を飛び回っていた本がばさりと音を立てて床に落ちた。ページが折れ曲がっている。早く拾わなければ、と思うのに、櫻子は身じろぎ一つできない。
——そばにいて、と言われた。
それは櫻子の人生において一度も乞われたことのない願いだった。生まれてこの方、彼女は誰からも遠巻きにされ、罵詈雑言を投げられて生きてきた。誰もが櫻子を「無能」と蔑み、同じ人間とは見做さなかったのだ。
——浮かれてはだめだ、静馬さまとの結婚は契約なのだから。私の異能が彼にとって都合が良かっただけ。
そう言い聞かせても、手の熱さが逃げることを許さない。
始まりこそ櫻子の意志を無視したものだったが、それ以降、静馬が何かを無理強いすることはなかった。異能力発散のための道具として一度も口を聞かずに過ごすことだってできたのに、櫻子を気にかけてくれた。少なくとも、櫻子の人生において、最も誠実に接してくれた人だった。
——静馬さまは、私とは違う世界の方なのだから。
ひねくれた思考が水を差す。でも、それならば今の状況はなんだ。耳飾りを取られてもよくあることだと流す。誰からも愛されて、守られてきた人はそんな目には遭わない。
そもそも、と部屋を見回した。
なぜ彼はこの屋敷に一人で暮らしているのだろう。伯爵家次男ならば、使用人の一人や二人いて当然だ。それにもかかわらず、彼は誰も寄せつけず広い屋敷で一人過ごしている。家族から遠巻きにされているのか、周囲に被害を及ぼすことを恐れた静馬が一人を選んだのか、もしくはその両方なのか。櫻子には分からない。いずれにせよ、その華やかな肩書きから想像される暮らしではない。ひどく孤独だ。
それでも彼は、櫻子に謝罪し、そばにいてほしいと希う。いつも俯いて、状況に流されて、どこか遠くへ行きたいと夢見るばかりの櫻子とは違って、きちんと目の前の相手に向き合っていたのだ。
櫻子は、夜が明けるまで、静馬の手を握っていた。
■ ■ ■
静馬の目が覚めたのは、翌日のことだった。
だいぶ顔色が良くなっており、櫻子はほっと息を吐いた。
「おはようございます、静馬さま。お加減はいかがですか?」
「……櫻子は、一晩中?」
「はい」
櫻子は頷いた。つないだ手を指し示し、
「少しはお役に立てるかと思って。私には分かりませんが、異能力は発散できておりますか?」
「……ああ、もう大丈夫だ」
ぼんやりした口調で答えた静馬は、ハッと目を見開くと半身を起こした。
「櫻子、怪我はないか?」
「え?」
「異能が暴走しただろう」
「ああ、頭を少し……でも、大したことではありません」
「見せてみろ」
櫻子が身を寄せると、静馬の手が櫻子の頭を撫でた。軽くコブに触れたあと、安堵したように吐息をつく。
「大きな怪我ではないようだが、あとでしっかり冷やしておくように。吐き気やめまいはしないか?」
「大丈夫です。ほんの少しぶつけただけですよ」
「結果論だ。打ちどころが悪ければどうなっていたか分からない」
静馬の体が離れていく。つないでいた手もほどかれた。急に空いた手のひらがひやりと冷えて、櫻子はとっさに両手を握りしめた。
「櫻子、こっちを向いて」
告げられ、静馬の方を向く。彼の手のひらが櫻子の頬を包んだ。
長い指が櫻子の目の下をなぞる。静馬が心配そうに眉を下げた。
「隈ができている。今日はもう休むといい」
「これくらい何ともありません。静馬さまのおそばにおります」
そう言った途端、静馬の指が硬直した。気まずげに櫻子を窺う。
「……僕は何か言ったか」
「お嫌であれば忘れます」
「いやいい。……それで? そばにいてくれるのか?」
ヤケになったような声音に、櫻子は思わずふふっと笑った。
「はい。もちろんでございます」
静馬は驚いたように櫻子を見つめている。きょとんと首を傾げると、眩しそうに彼の目が細められた。
「……うん、櫻子は笑っている方が良い」