仁王路邸での日々は、おおむね穏やかに過ぎた。
 相良家での生活リズムが抜けない櫻子は、毎朝、日が昇るより先に起きる。しかし静馬はそれよりも早く起床し、軍務局に出仕している。そのため、二人が顔を合わせるのは夜、静馬の異能力を櫻子相手に発散するときだけだった。

 出仕する際には軍服をまとっている静馬だが、寝室ではくつろいだ恰好をしている。今夜は深い藍色の寝衣だった。壁に設置された洋燈が煌々と燃える中、薄暗がりに静馬の白い首筋が浮かび上がっていた。
 対して櫻子は、相良家から持ってきた煤色の寝巻き姿。たび重なる洗濯によりだいぶ生地が薄くなっている。

「……手を」
「はい、どうぞ」

 二人は小さな丸テーブルを挟んで向かいあっていた。テーブルの上に置かれた櫻子の手を、静馬の大きな手のひらが上から覆う。ひやりとした感触に思わず手が跳ねそうになるが、意志を総動員して耐えた。櫻子には何も感じられないが、静馬はこれで異能力を発散できているらしい。
 二人の間に会話はない。櫻子は何を言っていいか分からないし、静馬は櫻子に興味がないようだ。彼にとっては生きていくために必要な食事や排泄と同義の行動なのだろう。

 櫻子はそれで良かった。少なくともここでは罵声を浴びせられることはないし、理不尽な暴力に襲われることもない。静馬が出仕した後、余っていそうな食材を調理し食事をこしらえ、一人きりで食べる。その後は書庫で本を読み、静馬の帰宅を待つ。恐怖からはほど遠い、穏やかな日々。

 胸の内を空気が通り抜けていくような、すうすうした感じには目を閉ざす。きっとそこには、今まで恐れや怯えが埋め込まれていたのだろう。相良家を離れてそれがなくなって、心にぽっかりと穴が空いただけだ。
 静馬の手が離れていく。それを合図として櫻子は一人、自室に戻った。

■ ■ ■

 至間國軍務局参謀室。瀟洒な石造りの至間宮、その奥に存在する、精鋭のみが立ち入りを許された一室。
 出仕した静馬は、自分の机で待ち構えていた男を見て、顔をしかめた。

「おーい。静馬、お前、結婚したらしいじゃねえか。なんで親友たる俺に言わねえんだよ」

 からかうような笑顔で肩を組んでくるのは、静馬の同期である井上剛志だ。筋骨隆々の大男、大ざっぱな性格で気は良いが、すなわちデリカシーが無いのが欠点である、と静馬は思っている。この男を見ると室温が一度上昇するとはもっぱらの噂だ。実際、燃焼系の異能を得意とするので間違いではないのかもしれない。
 静馬は井上の腕を押し戻した。

「なんでもなにも、井上は外務長官の随伴でずっと留守にしてただろ。いつ言う暇があったんだよ」
「そこは電話でもなんでも良いだろ! 静馬ならテレパシーを使ってくれてもいいんだぜ?」

 テレパシーとは、心に直接思念を送る異能である。静馬はもちろん操れるが、使い方次第では相手の心を勝手に覗くことができる代物だ。それを使えと気軽に言われて、静馬は小さく息を吐いた。

「そんなことするわけないだろ。第一、僕なんかの結婚は井上に関係ない」
「いーや、大アリだね」

 井上がにんまり笑う。静馬の肩を掴み、ガクガクと揺さぶった。

「新婚生活はどうだ? 奥さんは可愛いか? くそー、俺も結婚したい!」
「はあ……」

 今度こそ深いため息をついて、静馬は腕を組んだ。脳裏に櫻子の顔を思い浮かべる。彼女はいつもうつむきがちで、あまり真正面から静馬を見ない。それこそ、彼女の顔をはっきり見たのは、「契約」の説明をしたときくらいではないか。

「まあ……上手くいっているんじゃないか」

 少なくとも、異能力の発散という点では文句なしだ。静馬は毎晩、常人なら一夜と保たない量の異能力を櫻子に渡しているが、彼女は平然としている。「無能」ここに極まれりだ。この点において特に静馬に不満はない。
 しかし静馬の返事を聞いた井上は、大仰に目を剥いた。

「おいおい新婚だって言うのに恐ろしく冷めてるな! そんなんじゃ逃げられちまうぞ」
「逃げることはないと思うが……」

 櫻子とは合意のうえ契約している。彼女に仁王路家のメリットを与える代わりに、静馬は彼女の無能を利用する。彼女はそれに頷き、日々を屋敷で過ごしているようだ。
 そんなこととは露知らない井上は、バシンと静馬の肩を手のひらで叩いた。

「静馬、お前女心を分かってねえなあ! いくらお前が強力な異能者で伯爵家の次男だとしても、心変わりするときは一瞬だぞ! どれだけ尽くしたってなあ、なんかよく分からんうちによく分からん理由で別れを告げられるんだ! 分かるか!?」
「さあ、井上が今までどんなふうに恋人にフラれたのかは分かったが」
「うるせーっ!! つい昨日フラれたばっかりだよちくしょう!!」

 天井を仰いで嘆く。静馬が適当に慰めようとしたところで、井上は静馬の方を向き、「でもな」と真顔で言った。

「本当に気をつけろよ。相手をちゃんと見ろ。奥さんは相良男爵家の長女だろ。あの家は次女の噂は良く聞くが、長女の話はとんと聞かない。『無能』らしいということしか。……なあ、社交界じゃ、静馬が一目惚れしたってことになってる。でもお前、そんなロマンチックな男じゃないだろ。どうせ何か目的があるんだろ。俺は聞かないよ。でも、一度巻き込んだ以上は、最後まで責任を持てよ」
「……分かっている」

 静馬は眉を寄せ、唸るように呟いた。
 頭に櫻子の姿がよみがえる。うつむいた顔の陰鬱さ、華奢というよりやつれた体格、顔色の悪さを隠すような厚化粧、小綺麗な服を着ていたのは嫁入りの日だけで、普段はすり切れた着物をまとっていること。そして何より、抱き上げたときの異様な軽さ。
 考え込んだ静馬を見て、井上は表情を和らげた。ぽん、と優しく肩に手を置く。

「礼には及ばないぜ、俺に可愛い女の子を紹介してくれればそれでいい」
「何を言っているんだお前は」

 手を振り払い、むすっと唇を尖らせる。机上の書類を取って軽く振った。

「井上も、陛下のところへ外遊の報告へ行くんだろう。僕も御前会議がある。そろそろ行くぞ」
「ああ、そうだな」

 井上は顔つきを引き締め、着崩した軍服の襟元を整える。静馬も仕事に頭を切り替え、御門の座す正殿へ向かった。

■ ■ ■

「櫻子は昼間、何をしているのかな?」

 突然そう問われて、櫻子はびくっと肩を震わせた。
 夜、静馬の寝室にて、いつも通り異能力の発散を行なっているときのことだった。
 テーブル越しに向かい合った静馬は静かな面持ちである。じっと櫻子を見つめ、返事を待っている様子だった。声色は凪いでいて、何かを咎めるふうでもない。

 質問の意図が分からず、櫻子は視線をうろうろと彷徨わせた。窓際に置かれたシワひとつないベッド、書類が積まれたライティングデスク、分厚い本が並ぶ本棚。部屋のどこにも答えは書かれていない。

 静馬は、櫻子が仁王路家の名を汚すような振る舞いをしていないか気にしているのだろうか。どこかで櫻子の昼間の行動について悪い噂が立っているのかもしれない。あるいは、さすがに何もしなさ過ぎだと怒りを覚えているのかも。
 櫻子はおそるおそる口を開いた。

「……書庫で、本を読んで過ごしております」
「読書が好きなら、この家からほど近い場所に書肆がある。案内しようか?」
「えっ……? いえ、その、大丈夫です。静馬さまのお手を煩わす訳にはまいりませんし……」

 反射的に断ってしまった。静馬はさして気にするふうでもなく、「そうか、残念だな」と呟いた。
 沈黙が落ちる。二人の間に会話がないのはいつものことだが、今夜の沈黙は肌を刺すようだった。気まずい。

 櫻子は、静馬とつないだ手に目を向けた。いつもならそろそろ離してくれる頃だが、今日はなぜだかつながれたままだ。
 静馬が言葉を継ぐ。

「櫻子の好きな食べ物は何かな。よければ外食してもいいし、取り寄せても構わないよ」
「好きな、食べ物……?」

 櫻子の人生で一度も問われたことのない問いだった。櫻子に与えられるのは残飯と決まっていて、好きとか嫌いとか言っている場合ではなかった。夏場に傷んだ肉を食べて苦しもうと、餓死するよりはマシだった。そういう環境を当たり前と思って生きてきたのだ。

 つながれた手の大きさの違いを、改めて感じる。きっとこの人は、周囲に愛されて、大切にされて育ってきたのだろう。温かく見守られて、なに不自由なく全てを与えられて。

 櫻子とは、あまりにも違う。
 櫻子はうつむき、力なく首を横に振った。

「……特に好き嫌いはございません。あの、日頃も、余っていそうな食材をいただいて食事を作っておりますが、ご迷惑でしたでしょうか……?」
「自分で料理を?」

 静馬が驚いたように声をあげる。櫻子はますます体を縮こまらせた。令嬢が自ら料理をするなんてはしたないことだ。少なくとも妹はそう言って台所に立つことはなかった。

「ご迷惑でしたら、すぐにやめます……」
「そんなことはない、台所は好きに使ってくれて構わないよ。だが、そうか……」

 静馬が何かに気づいたように口をつぐんだので、櫻子はこわごわと顔を上げた。彼は眉を寄せ、空いた方の手を口元にやってなにやら考え込んでいる。

「あの……」

 かすれた櫻子の声に静馬がハッと瞬く。つないでいた手に視線を落とし、ゆっくりとほどいた。

「すまない、長くなったね」
「いえ……その、本日はこれでよろしいでしょうか?」
「ああ、ありがとう。いつも助かっているよ」
「えっと、はい……」

 曖昧に頷く。それが契約なのだから静馬が礼を言う必要はない。櫻子は怪訝に思いながら、寝室を後にした。

■ ■ ■

 至間國軍務局参謀室。御前会議を終えて居室に戻った静馬の目に映ったのは、自分の席に我が物顔で腰かける井上だった。彼は静馬の顔を見るなり、「いよう!」と手を振ってみせる。静馬は眉間にシワを刻みながら、彼の元まで歩いていった。

「そこは僕の席だが」
「水くさいこと言うなって、親友だろ?」
「お前が座った後の椅子って微妙に良い匂いがして嫌なんだよな……」
「酷い言いようだな! これでも俺は女の子にモテるため、清潔感には気をつかってるんだぜ!?」
「で、何の用だ。依頼した件は結果が出たか?」

 鋭く目を細める静馬に、井上も面持ちをあらためる。軍服のポケットから一枚の封筒を取り出した。

「相良櫻子の家庭環境、ちゃんと調べておいた。ここにまとめてある。……こう言っちゃなんだが、酷いもんだぜ」
「……恩に切る」

 静馬はおごそかに封筒を受け取る。何の変哲もない茶封筒が、やけに重く感じられた。
 井上が痛ましそうに目を伏せる。

「相良家の連中は、彼女をまるで人扱いしていない。『無能』だからってそんなことできるか? 相手はただの女の子だぞ」
「できるだろう」

 静馬は淡々と答えた。その声の平坦さに、井上が弾かれたように顔を上げる。静馬は脳面のような無表情で封筒をしまい込んでいた。
 感情のない赤い瞳が、井上をとらえる。

「人は、自分とは違うモノに対して、どれだけでも残酷になれる。相手が同じ人間とは夢にも思わない。ただ、普通じゃないから——理由なんてそれだけで十分だ」

 井上は凍りついたように静馬を見上げる。光を透かす白銀の髪、深緋の瞳、ぞっとするほどの美貌の生き物が、彼を見下ろしている。
 井上の喉がごくりと鳴った。何か言わなくては、と口を開きかけ——。

「——静馬」

 背後から名を呼ばれ、静馬は反射的に背筋を正した。隣の井上も弾かれたように立ち上がる。振り返ると、腰に長剣を提げた軍服の男がこちらへ向かって歩いてくるところだった。

 たくましい体躯にいかめしい顔つきの男だ。腰の長剣は通常よりもずいぶん長く、刃は分厚く作られているが、男の足取りには一つの揺らぎもない。彼は身体強化の異能を持っており、その長大な剣をやすやすと扱う姿には軍務局の誰もが畏れを抱く。だが、静馬にとっては慣れ親しんだ人物だった。

「兄上、ご健勝でなによりです」

 こちらへやってくる男——仁王路伯爵家当主にして、至間國軍務局大佐の仁王路一臣に、静馬は礼儀正しく頭を下げた。井上もぎこちなく一礼する。

「そんなに畏まるな。ただ弟の顔を見にきただけだ」

 一臣は片手を振って頭を上げさせる。それから静馬に対し苦笑を向けた。

「結婚したそうだな。兄に祝いの言葉ひとつ贈らせてくれんとは、寂しいではないか」
「急だったもので。また落ち着いたらご挨拶に伺おうと」
「落ち着いたら、か」

 一臣の苦笑が深くなる。静馬の胸元を軽く小突いた。

「仁王路の分家たちも大騒ぎだぞ。あいつらは自分の娘を静馬に嫁がせて、本家に取り入る気満々だったからな。計算が狂って散々らしい」

 くくっ、と喉を鳴らす。静馬は静かに一臣を見つめた。櫻子との婚姻にあたり、無理を通したことは自覚している。何か咎めがあってもおかしくはなかった。
 一臣はやがて笑みを引っ込め、静馬の瞳を覗き込んだ。

「だが、お前はそんなことを気にする必要はない。好きな相手を選んで添い遂げろ。政略結婚はな、上手くいかん。私のようになるなよ」
「兄上……」

 数ヶ月前、一臣の妻であった伯爵令嬢が失踪した。出入りの庭師と道ならぬ恋に落ち駆け落ちしたらしい。一臣とは幼い頃からの許嫁で、周囲からは絵に描いたような当主夫婦と見られていただけに、衝撃は大きい。
 口をつぐんだ静馬に、一臣は太く笑った。

「私の方は気にするな。これでも仁王路家当主だ。なんとかするさ」

 静馬は何も答えられない。政略結婚とはいえ、兄が兄嫁を大切にしていたことを知っている。ふさわしい妻がいなくなったから、すぐに次、と人形の首をすげ替えるように再婚できる人ではない。
 静馬が何も言えないうちに、一臣はくるりと井上の方に顔を向けた。

「そういえば井上くん。君は今から、うちの部署と欧州情勢の危機管理会議ではないかね。良ければ一緒に行こう」
「はっ、喜んでお供致します」
「そんな堅くなるものではないよ。いつも弟が世話になっているね」

 一臣と井上が連れ立って部屋を去っていく。その背中を見送り、静馬は椅子に腰を下ろした。深いため息をつきながら封筒を取り出す。櫻子の調査結果を読み始めた。
 そこには、予想と違わない虐待行為が、予想を超える酷さで記載されていた。
 読んでいるだけで気分が悪くなるような文章に最後まで目を通し、封筒もろとも燃やしてしまう。静馬の手の中で、それはあっという間に灰に変わっていった。だが、櫻子の傷は灰のように簡単には消えないだろう。

 ジャラ、と耳元で耳飾りが音を立てた。静馬は耳元に手をやり、嘆息する。この耳飾りが異能力を発散できる量にも限界があり、定期的に取り替えなければならない。音が鈍くなったら交換時だった。
 予備の耳飾りを出そうと机の抽斗を開け——静馬は舌打ちした。しまっておいたはずの予備がない。

 時々あることだった。軍務局に入局する前、仁王路本家にいたときから、派手で目立つ静馬をやっかみ、もしくは邪魔に思い、さまざまな人間が嫌がらせを施した。これはその一つというわけだ。抽斗に鍵をかけてはいるが、異能者がやろうと思えばたいていどんなこともできる。

 腕時計に目をやり、帰宅までの時間を計算する。おそらく、まあ、なんとかなるだろう。
 少しの体の怠さを感じながら、静馬は仕事を続けた。