無能令嬢の契約結婚

 相良(さがら)櫻子(さくらこ)は「無能」だった。

「お姉さま、早く髪を梳かしなさいな。今日は女学校のお友だちと、中央通りに新しくできたミルクホールへ行くのよ」

 相良家で一番広い和室、壁際の鏡台に向かった少女が、自慢げに言った。少女は白磁の肌に愛らしい丸い瞳を持ち、鮮やかな蝶紋様の着物と深い紫色の袴をまとっている。街を歩けば十人に八人は振り返る美貌を持った彼女は、櫻子の三つ歳下の妹、深雪だった。絹のように艶やかな黒髪を背中に流し、鏡越しに櫻子を見やる。

「ほら、早く。いくら『無能』なお姉さまでも、それくらいはできるでしょう?」
「はい、ただいま……」

 柘植の櫛を手にした櫻子は、深雪の背後に立つ。痩せた手でゆっくりと櫛を髪に通していった。
 深雪に比べて、櫻子の恰好はいかにもみすぼらしい。すり切れてくすんだ灰色の絣に、艶を失った髪を飾り気もなく一つにまとめただけ。肌は不健康に青白く、陰鬱な表情が顔全体に暗い影を落としていた。体つきも華奢というよりは全体的に薄く、袖から伸びる手首には骨の形が浮いている。
 櫻子が髪を梳かしていると、櫛の歯が深雪の髪に引っかかった。くん、と深雪の頭が後ろに軽く引っ張られる。
 途端、深雪の手のひらから文字通り火花が散った。

「何するのよ!」

 勢いよく振り向き、ばちばちと火の粉を飛ばす手のひらで櫻子の頬を張る。パァンと乾いた音がして、櫻子は畳にくずおれた。

「も、申し訳ありません……」
「謝罪なんて当たり前よ! この私に向かってなんて態度なの! 髪を梳かすことも満足にできないわけ!?」
「申し訳……」

 容赦ない打擲を受けた頬を押さえ、櫻子は謝罪を繰り返す。もうずっとこうだった。彼女にできるのは謝ることだけ。それが「無能」な彼女に許された唯一の権利だった。
 騒ぎを聞きつけて、二人の母である紅葉が部屋へやってくる。手のひらから火花を散らす深雪と、床に這いつくばった櫻子を見て、だいたい様子を察したようだった。

「櫻子、あなたはまた失敗したの? 深雪を怒らせるあなたが悪いのよ」

 冷たい目で櫻子を見下ろす。櫻子がまた謝罪しようとしたところで、一転して暖かな眼差しを深雪に向けた。

「深雪、あなたの異能は強力なのだから、無能な櫻子にも手加減しておやりなさいね。無能が死んだらあなたの経歴に傷がつくわ。深雪はこの相良家を継ぐ者なのだから、気をつけて。お父さまも私も、あなたに期待しているわ」
「はーい。分かりましたわ、お母さま。死なない程度にね」

 ちら、と櫻子に視線をやる。くすくす笑って櫻子を蹴飛ばし、母の元へ歩み寄った。

「ねえお母さま、私、新しい服が欲しいわ。百貨店に外つ国の綺麗なドレスが入ったのよ」
「まあ、それは買わなくてはね。今度の御門主宰の夜会に向けて、とびきり良いものを揃えてあげましょう」

 二人はもはや櫻子には目もくれず、部屋を出ていく。ついで使用人が部屋の前を通り過ぎたが、見て見ぬふりして立ち去った。その軽やかな足音を聞きながら、櫻子は心の中で呟いた。

 ——どこか遠くへ行きたい、な。

 けれど、櫻子に許された「遠く」とは、あの世か日本くらいしかなく、どちらがより近いかと言えば、冗談でなくあの世なのだった。

■ ■ ■

 櫻子の住む至間國は、日本の自治州である。日本海に囲まれた大きな島であり、御門と呼ばれる君主を戴き、日本と対等の地位を築いている。それを可能にしているのが、至間國の民が持つ異能だった。

 異能——通常の人間にはあり得ざる超常の力。何もないところに雷を落としたり、強い風を巻き起こしたり、手も触れずに物を動かしたりする。深雪が見せた発火能力も異能の一つだ。至間國民はあまねく異能者であり、その脅威をもって至間國は日本を含む他の国と渡りあっている。そのため、至間國では強力な異能者を作り出すことが非常に重要だった。異能が遺伝することは古くから知られていたので、必然、強力な異能者同士で結束を固める。そうして自然発生した血族のうち、特に強力な一族に、御門は華族として爵位を与え、至間國での便宜を図った。

 相良家も由緒正しい男爵家である。最近は強力な異能者が生まれず燻っていたところに誕生したのが深雪だった。両親は深雪に特別の愛情を注ぎ、相良家の復権を恃んでいる。櫻子が母の胎内に置き忘れた力を全て吸収したかのように、深雪には強力な発火の異能が備わっていた。

 そう、相良櫻子には異能がなかった。発火も、風起こしも、読心も、特別なことは一切できない。
 至間國では恐らく彼女だけである。櫻子は相良家の恥として使用人以下の扱いを受け、使用人からですら、不気味と思われ遠ざけられているのだった。

■ ■ ■

 その日の昼。相良家の門前にて、櫻子は一人、掃き掃除をしていた。風の流れのせいか、庭に植えられた植木の葉が溜まるのである。客を出迎えるときに葉一枚でも落ちていたら容赦なく紅葉や深雪からの折檻を受けるので、使用人はこの仕事を櫻子に押し付けていた。
 櫻子は、箒でかき集めた木の葉の山をぼんやり眺めた。そっと手のひらをかざし、葉が燃え上がる様を夢想する。

「葉よ、燃えろっ」

 もちろん何も起こらない。木の葉はさんさんと昼の日差しに照らされ、変わりなく山積みになっている。照れくさくなって、櫻子は思わず辺りを見回した。昼下がりの道は人通りもなく、ときどき、風が乾いた土埃を巻き上げるくらいだった。

「当たり前だわ……」

 櫻子は苦笑し、ごみ袋を手に取る。無能な自分が何を夢見ても叶うことはない。この十九年間、何度も味わった事実だった。
 そのとき、ごう、と突風が吹いて櫻子にぶつかった。髪が乱れ、着古した絣の裾が翻る。木の葉の山が崩れて一面に葉が舞い上がった。

「きゃっ」

 思わず顔を覆ったが、突風は一度きりで、その後はぴたりと止んでしまった。櫻子は首を捻りながら、辺りに散らばった葉をもう一度かき集めるため、箒の柄を握り直した。

■ ■ ■

 珍しく父の庄太郎から呼び出しがあったのは、次の日の夜のことだった。
 夕食の片付けを済ませた櫻子が庄太郎の執務室へ向かうと、そこには父だけでなく、母と妹の姿もあった。父も母も不自然なほど愛想の良い笑顔を浮かべていたが、深雪は入室した櫻子を強く睨みつけた。その視線の強さに、櫻子は入り口のそばで立ち尽くす。

「おお、櫻子か、もっと近くに寄ると良い」

 猫撫で声で庄太郎が櫻子を呼ぶ。紅葉も庄太郎の前に置かれた座布団を手のひらで示し、優しげな微笑みを浮かべる。

「あなたはここへ座るのよ。私たちの可愛い娘ですもの。立ちっぱなしで大切なお話はできないわ」
「は……」

 櫻子は息を呑んだ。未だかつて、こんな言葉を母から渡されたことはない。母からぶつけられる言葉は、いつだって尖った侮蔑か怒声だった。
 その中で、深雪だけが無言である。母の隣に座った彼女は、唇を噛んで櫻子を睨みあげていた。櫻子にとってはむしろその方が気楽だった。

「失礼します」

 おそるおそる、示された座布団に座る。座った途端、誰が座れと言った! というような怒号が飛んできて張り倒されるのではないかと怯えたが、そんなことはなかった。父も母も、相変わらず不気味な笑顔を浮かべている。

「櫻子、お前ももう十九だろう。そろそろ嫁いでいい頃だと思ってな」

 庄太郎が口火を切った。櫻子は膝の上に置いた拳を握りしめる。今まで、櫻子に教育が与えられたことはなかった。茶の湯も琴も書道も、華族の娘にふさわしい手習いは全て深雪が享受すべきものだったからだ。そんな櫻子が、今さら嫁入り? 無能の娘を娶りたい物好きがこの國にいるとは思えない。どこぞの好色な男に妾として囲われるのだろうか。自分の想像に、櫻子は目の前が暗くなるのを感じた。

「櫻子は私たちの娘だ。親の言う通り、嫁いでくれるな?」
「は、い……」

 カラカラに乾いた喉で、なんとかそれだけ返事をした。どうせ嫌だといったところで頷くまで鞭打たれるだけだ。それなら素直に頷いてしまった方が被害が少ない。けれど、せめてこの先の運命くらいは知りたかった。
 必死に顔を上げ、父を見据える。娘の返事に満足した庄太郎はすでに立ち上がっていた。
 櫻子は口を開く。

「私は、どこへ嫁ぐのですか」
「ああ、言い忘れていたな」

 庄太郎は見たことないほど笑みくずれ、自慢げにその名を口にした。

「仁王路伯爵の次男にして至間國軍務局少佐、仁王路(におうじ)静馬(しずま)さまのところだ」

 櫻子は目を見開く。仁王路と言えば、彼女ですら知っている名門だ。強力な異能者を多数輩出し、御門の信頼も篤いと聞く。そんなところに、櫻子が? 何かの間違いではないのか。櫻子は慌てて頭の中の華族名鑑を引っ張り出し、仁王路家に若い女を好む助平爺がいなかったか記憶を辿った。いなかった。

「な、なぜそのようなところに私が……」

 呆然と呟くと、庄太郎がご機嫌で答えた。

「なんでも、櫻子を街で見かけて一目惚れしてぜひ正妻として迎えたいとのことだ。櫻子は紅葉に似て美しい顔立ちだからな。自慢の娘だよ」
「私でなく深雪の間違いでは」

 言いかけた櫻子の言葉を、深雪の叫びが遮った。

「そうよ! どうして無能のくせにお姉さまが選ばれたの!」

 深雪は座布団を踏みつけて立ち上がり、庄太郎に詰め寄る。庄太郎は愛娘の剣幕にたじたじとなりながらも、はっきり告げた。

「それは私も何度も確認したんだよ。でも、先方は無能の姉の方だと言うんだ。この家に無能は一人しかいない。私とて不思議だが、分かっておくれ。こんな訳の分からない縁談でも、仁王路家とつながりができる機会を逃すわけにはいかないんだ。それに深雪は変わらず我が相良家の後継者だ。そのうちに良い縁談を見つけてあげるから」

 フーッと荒い息を吐く深雪を宥めるように、庄太郎が言う。紅葉も腰を上げ「櫻子に一目惚れする男がいるわけないでしょう。何か裏があるに違いないわ。深雪の方がよほどまともな婚約ができるのだから」と深雪の背中を撫でる。

 散々な言われようだが、櫻子も全面的にその意見に賛成だった。一切合切が恋で片づく夢物語は存在しない。櫻子は何らかの異常事態に巻き込まれている。しかし、彼女の家族は娘を守るつもりはさらさらなく、むしろそんな厄介ごとに大切な深雪が巻き込まれなくて良かったと胸を撫でおろしているのだ。

 ——櫻子がふらついた足取りで執務室を後にしても、誰も彼女を追ってはこなかった。

■ ■ ■

 嫁入り当日。晴れ渡った空の下、櫻子は相良家の門前で仁王路静馬を待っていた。静馬の意向で結婚式は行わず、相良家まで静馬が櫻子を迎えに来る手筈になっている。以降、櫻子は彼の家で暮らす。それがこの婚姻の全てだった。
 今日の櫻子は、綺麗に髪を整え、化粧を施し、紅葉のお下がりの上等な訪問着を身にまとっていた。相良家令嬢に見えるよう、母が取り計らった結果だ。

「ふん、どうせとんでもない醜男よ」

 櫻子の後ろに立つ深雪が吐き捨てる。それでもおろしたての振袖を着ているのは、仁王路伯爵の名前に釣られたからに違いない。もし静馬の目に止まれば他の名家との婚姻につながる可能性だってある。
 そのとき、道の向こうから黒い自動車が走ってきた。至間國では自動車は高価だ。珍しい光景に櫻子が思わず目で追っていると、それはどんどん近づいてきて、やがて彼女の前にゆっくりと停車した。動物の唸り声のような、低いエンジン音に身をすくませる。背後に立つ深雪や両親も驚いたように息を呑むのが分かった。

 運転席のドアが音も立てずに滑らかに開く。そこから降りてきたのはすらりと背の高い美青年だった。櫻子より少し歳上だろうか。白皙の肌に凄みを感じるほど整った顔立ち。切れ長の瞳は血のような緋で、白銀の髪が日差しを受けてきらめいている。その身を包む黒の三揃いが、さらに凛々しさを際立たせていた。
 男は呆然と見上げる櫻子に微笑みかけると、優雅に一礼した。彼の耳に付けられた大ぶりの装身具が、涼しい音を立てて揺れる。

「仁王路家が次男、仁王路静馬と申します。この度は相良櫻子さまを貰い受けに参上しました」

 予想だにしなかった光景に、櫻子は瞬きひとつできない。最初に衝撃から覚めたのは父の庄太郎で、相好を崩して静馬に話しかけた。

「いえいえ、仁王路さまのような立派な方に嫁げるとは、ふつつかな娘にとっては望外の喜びでございますよ。ささ、櫻子も何か言いなさい」

 突然話の矛先を向けられ、櫻子はうろたえた。静馬が黙って櫻子を見ている。本人としてはただ眺めているだけなのだろうが、美しいものの視線には圧がある。結局、櫻子はぺこりと頭を下げ「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」と蚊の鳴くような声で挨拶を述べることしかできなかった。

「緊張していらっしゃるのかな」

 静馬が軽やかに笑う。それから一歩足を踏み出し、櫻子をふわりと抱き上げた。

「!?」

 足が宙に浮き、櫻子は身をこわばらせた。背と膝裏を支える静馬の腕は小揺るぎもしない。それでも櫻子は恐怖を感じ、もちろん静馬に抱きつくなどという芸当は不可能で、急に近づいた彼の顔を直視できず、ただ涙目で硬直するしかなかった。

「それでは皆さま、失礼しますね」

 庄太郎たちに何かを言う隙を与えず櫻子を助手席に座らせると、静馬は自分も運転席に乗り込んで車を発進させた。

■ ■ ■

「あの、一つお聞きしたいのですが」

 櫻子がようやく言葉を発する余裕を取り戻したのは、静馬の住む仁王路家の別邸に到着してからだった。國の中枢である至間宮に程近い場所に立つ屋敷は、櫻子からして見れば広大な洋館で、静馬に言わせれば仁王路家の本邸の物置らしい。静馬はその別邸に一人で暮らしており、今日からは櫻子と二人暮らしということだった。

「なにかな?」

 玄関ホールで、静馬と櫻子は向かい合う。静馬は優しげな微笑を浮かべているが、櫻子はどうしてもこの状況を無邪気に喜ぶことができなかった。

「どうして結婚相手に私を選んだのですか?」

 静馬は肩をすくめた。
「手紙に書いただろう? 君に一目惚れしてしまったからだよ」
「嘘です」

 櫻子は勇気をかき集め、きっぱりと首を横に振った。こんな失礼なことを言えば、激昂されるかもしれない。この婚約を破棄されるかもしれない。けれど、櫻子は言わずにはいられなかった。

「私は仁王路さまにお会いしたことがございません。会ったこともない人間に一目惚れをするのは、無理です」
「遠くから見ていたのかもしれないよ? 君は会ったことを忘れてしまったのかも。それに、君も今日から仁王路だ。静馬と気楽に呼んでくれて構わないよ」
「どんな遠くにいたとしても、仁王路……静馬さまのような目立つ方を見逃すことはあり得ませんし、一度会えば忘れられるはずもございません。……なぜ無能の私なのですか?」

 真っ直ぐに静馬を見つめる。静馬は笑みを消し、無表情で櫻子を見下ろした。

「無能だからだ」
「えっ?」

 思ってもいない答えにポカンと口を開ける。静馬は静かに手をあげ、手のひらに青い炎を出現させた。深雪の火花とは比べ物にならないほど大きく、少し離れた櫻子のもとまで熱さが伝わってくる。それを軽々と操り、廊下に並ぶ洋燈の一つに灯してみせた。

「異能病、という言葉を知っているかな? 異能を発動させるための異能力は、体内で生成されている。この生成能力が高ければ高いほど、より強力な異能者として至間国では尊ばれる。だが、異能を持つのは所詮人間の身。強すぎる異能力は、持ち主の身体を蝕み、食い荒らす。高熱、全身の痛み、強い倦怠感などを訴え、いずれ自我を喪失して死に至る。それが異能病だ。とはいえ、発病するケースは少ない。異能者は生きているだけで異能力を発散するし、至間國で過ごしていれば、異能を発動させることは呼吸と同義だ。異能力が身体に影響を与えることはない。——通常なら」

 静馬は言葉を切った。不自然なほどの明るさで燃え続ける洋燈を見つめながら、

「だがまれに、発散が追いつかないほど異能力の生成能力が高い者がいる。それが僕だ。僕は常時異能力を体外に発散する耳飾りを身につけ、どんな些細なことにも異能を使う。軍務局の少佐として精鋭の皆と異能を用いた鍛錬を行い、軍事行動では先陣を切る。それでも追いつかない。この派手な瞳や髪の色も強力すぎる異能の副作用だ。ついでに言えば、僕の生成能力は未だに成長を続けているらしい」

 苦笑すると、耳飾りがしゃらりと鳴った。洋燈の光を受けた耳飾りはぎらぎらした輝きを放っている。櫻子は呼吸も忘れて聞き入っていた。

「そこで目をつけたのが、君だ」

 静馬の緋色の瞳が、櫻子をとらえる。知らず彼女は肩をこわばらせた。

「君は無能だと言ったが、正確ではない。『無を能う』異能者だ。君はおそらく、触れる異能全てを無効化できる」
「な、何を根拠にそのようなことを……」
「君が門前で掃き掃除をしていたことがあっただろう? そのときに僕の異能で君を襲ってみた。使ったのは風を操る異能で、普通ならズタズタに斬り裂かれてひとたまりもない。だが、君は平然として木の葉の山を片付けていたから、推測が正しいとすぐに分かったよ」

 櫻子はめまいがした。あのときの突風は静馬の異能だったのだ。あのあと木の葉が散らばって片づけるのが大変だった。いや、それよりも。

「私が本当に異能のない人間だったらどうされていたんです……」
「そのときは僕が責任持って治療したさ。傷一つ残さないよ」

 何も問題はない、というような穏やかな口調だ。櫻子の背筋に冷たいものが走る。この人は、他人を一体なんだと思っているのだろう。そしてそんな人が櫻子を選んだ理由とはなんなのだろう。

「だから僕は君と結婚しようと思った。——櫻子、これは契約だよ」
「え……」

 静馬は櫻子に手を差し伸べ、低い声で囁いた。

「僕は君に仁王路家とのつながりを与える。君は僕に異能を発散させる機会を与える。悪いが、僕は僕のために君を逃がすわけにはいかない。君を妾として囲って、駆け落ちでもされたらたまったものではない。君は僕の唯一の妻だ。逃げたら地獄の底まで追いかけるから、そのつもりでいてくれ」

 その声の昏さに、櫻子は血の気が引いていくのを感じた。視界が明滅し、足元がふらつく。目の前の男が恐ろしかった。今までさまざまな悪意に触れてきたが、それとはまったく異質の、初めて見る情念。それでも、震える手を伸ばし、静馬の手を握りしめた。

「——はい。よろしくお願いします」

 静馬が少し驚いたように目を見開く。櫻子はその瞳を真っ向から見据えた。
 櫻子には、泣いて逃げ帰る場所などない。暖かく彼女を迎え入れてくれる家族もいない。嫁入りを決められた時点で——いや、無能の相良櫻子として生まれた時点で、運命は定められていたのだ。ここでやっていくしかない。どんなに辛い目に遭おうとも。
 櫻子は震える声で問うた。

「それで、私は何をすれば良いのでしょうか……?」
「毎晩僕の寝室に来て、少しの間手を握ってくれればいいよ」
「……それだけ、ですか?」

 目を瞬かせた櫻子に、静馬はそっけなく頷いた。

「それ以外に君には何も望まないよ。その代わりに、君は仁王路櫻子として好きに過ごすといい。百貨店に行けば最上級の待遇を受けられるし、仁王路の伝手をたどって伯爵夫人たちをパーティに招くこともできる。そうだ、この家には使用人がいないから好きなだけ雇おうか?」
「い、いえ……」

 戸惑って首を横に振る。相良家で使用人以下の存在だった櫻子には、静馬の並べる何もかもが、今まで想像すらもしないことだった。握りしめた静馬の手をそっと離し、櫻子は小さく呟いた。

「私も、特に望むことはございません。このお屋敷で過ごしていいのであれば、おとなしく暮らします」
「……ふぅん、そうか」

 静馬は不審げに目をすがめる。その視線が、櫻子の痩せた首元や、不自然に厚い化粧、上等だが古い訪問着の裾をたどった。

「まあ、君が良いと言うなら、それで構わないが」
 仁王路邸での日々は、おおむね穏やかに過ぎた。
 相良家での生活リズムが抜けない櫻子は、毎朝、日が昇るより先に起きる。しかし静馬はそれよりも早く起床し、軍務局に出仕している。そのため、二人が顔を合わせるのは夜、静馬の異能力を櫻子相手に発散するときだけだった。

 出仕する際には軍服をまとっている静馬だが、寝室ではくつろいだ恰好をしている。今夜は深い藍色の寝衣だった。壁に設置された洋燈が煌々と燃える中、薄暗がりに静馬の白い首筋が浮かび上がっていた。
 対して櫻子は、相良家から持ってきた煤色の寝巻き姿。たび重なる洗濯によりだいぶ生地が薄くなっている。

「……手を」
「はい、どうぞ」

 二人は小さな丸テーブルを挟んで向かいあっていた。テーブルの上に置かれた櫻子の手を、静馬の大きな手のひらが上から覆う。ひやりとした感触に思わず手が跳ねそうになるが、意志を総動員して耐えた。櫻子には何も感じられないが、静馬はこれで異能力を発散できているらしい。
 二人の間に会話はない。櫻子は何を言っていいか分からないし、静馬は櫻子に興味がないようだ。彼にとっては生きていくために必要な食事や排泄と同義の行動なのだろう。

 櫻子はそれで良かった。少なくともここでは罵声を浴びせられることはないし、理不尽な暴力に襲われることもない。静馬が出仕した後、余っていそうな食材を調理し食事をこしらえ、一人きりで食べる。その後は書庫で本を読み、静馬の帰宅を待つ。恐怖からはほど遠い、穏やかな日々。

 胸の内を空気が通り抜けていくような、すうすうした感じには目を閉ざす。きっとそこには、今まで恐れや怯えが埋め込まれていたのだろう。相良家を離れてそれがなくなって、心にぽっかりと穴が空いただけだ。
 静馬の手が離れていく。それを合図として櫻子は一人、自室に戻った。

■ ■ ■

 至間國軍務局参謀室。瀟洒な石造りの至間宮、その奥に存在する、精鋭のみが立ち入りを許された一室。
 出仕した静馬は、自分の机で待ち構えていた男を見て、顔をしかめた。

「おーい。静馬、お前、結婚したらしいじゃねえか。なんで親友たる俺に言わねえんだよ」

 からかうような笑顔で肩を組んでくるのは、静馬の同期である井上剛志だ。筋骨隆々の大男、大ざっぱな性格で気は良いが、すなわちデリカシーが無いのが欠点である、と静馬は思っている。この男を見ると室温が一度上昇するとはもっぱらの噂だ。実際、燃焼系の異能を得意とするので間違いではないのかもしれない。
 静馬は井上の腕を押し戻した。

「なんでもなにも、井上は外務長官の随伴でずっと留守にしてただろ。いつ言う暇があったんだよ」
「そこは電話でもなんでも良いだろ! 静馬ならテレパシーを使ってくれてもいいんだぜ?」

 テレパシーとは、心に直接思念を送る異能である。静馬はもちろん操れるが、使い方次第では相手の心を勝手に覗くことができる代物だ。それを使えと気軽に言われて、静馬は小さく息を吐いた。

「そんなことするわけないだろ。第一、僕なんかの結婚は井上に関係ない」
「いーや、大アリだね」

 井上がにんまり笑う。静馬の肩を掴み、ガクガクと揺さぶった。

「新婚生活はどうだ? 奥さんは可愛いか? くそー、俺も結婚したい!」
「はあ……」

 今度こそ深いため息をついて、静馬は腕を組んだ。脳裏に櫻子の顔を思い浮かべる。彼女はいつもうつむきがちで、あまり真正面から静馬を見ない。それこそ、彼女の顔をはっきり見たのは、「契約」の説明をしたときくらいではないか。

「まあ……上手くいっているんじゃないか」

 少なくとも、異能力の発散という点では文句なしだ。静馬は毎晩、常人なら一夜と保たない量の異能力を櫻子に渡しているが、彼女は平然としている。「無能」ここに極まれりだ。この点において特に静馬に不満はない。
 しかし静馬の返事を聞いた井上は、大仰に目を剥いた。

「おいおい新婚だって言うのに恐ろしく冷めてるな! そんなんじゃ逃げられちまうぞ」
「逃げることはないと思うが……」

 櫻子とは合意のうえ契約している。彼女に仁王路家のメリットを与える代わりに、静馬は彼女の無能を利用する。彼女はそれに頷き、日々を屋敷で過ごしているようだ。
 そんなこととは露知らない井上は、バシンと静馬の肩を手のひらで叩いた。

「静馬、お前女心を分かってねえなあ! いくらお前が強力な異能者で伯爵家の次男だとしても、心変わりするときは一瞬だぞ! どれだけ尽くしたってなあ、なんかよく分からんうちによく分からん理由で別れを告げられるんだ! 分かるか!?」
「さあ、井上が今までどんなふうに恋人にフラれたのかは分かったが」
「うるせーっ!! つい昨日フラれたばっかりだよちくしょう!!」

 天井を仰いで嘆く。静馬が適当に慰めようとしたところで、井上は静馬の方を向き、「でもな」と真顔で言った。

「本当に気をつけろよ。相手をちゃんと見ろ。奥さんは相良男爵家の長女だろ。あの家は次女の噂は良く聞くが、長女の話はとんと聞かない。『無能』らしいということしか。……なあ、社交界じゃ、静馬が一目惚れしたってことになってる。でもお前、そんなロマンチックな男じゃないだろ。どうせ何か目的があるんだろ。俺は聞かないよ。でも、一度巻き込んだ以上は、最後まで責任を持てよ」
「……分かっている」

 静馬は眉を寄せ、唸るように呟いた。
 頭に櫻子の姿がよみがえる。うつむいた顔の陰鬱さ、華奢というよりやつれた体格、顔色の悪さを隠すような厚化粧、小綺麗な服を着ていたのは嫁入りの日だけで、普段はすり切れた着物をまとっていること。そして何より、抱き上げたときの異様な軽さ。
 考え込んだ静馬を見て、井上は表情を和らげた。ぽん、と優しく肩に手を置く。

「礼には及ばないぜ、俺に可愛い女の子を紹介してくれればそれでいい」
「何を言っているんだお前は」

 手を振り払い、むすっと唇を尖らせる。机上の書類を取って軽く振った。

「井上も、陛下のところへ外遊の報告へ行くんだろう。僕も御前会議がある。そろそろ行くぞ」
「ああ、そうだな」

 井上は顔つきを引き締め、着崩した軍服の襟元を整える。静馬も仕事に頭を切り替え、御門の座す正殿へ向かった。

■ ■ ■

「櫻子は昼間、何をしているのかな?」

 突然そう問われて、櫻子はびくっと肩を震わせた。
 夜、静馬の寝室にて、いつも通り異能力の発散を行なっているときのことだった。
 テーブル越しに向かい合った静馬は静かな面持ちである。じっと櫻子を見つめ、返事を待っている様子だった。声色は凪いでいて、何かを咎めるふうでもない。

 質問の意図が分からず、櫻子は視線をうろうろと彷徨わせた。窓際に置かれたシワひとつないベッド、書類が積まれたライティングデスク、分厚い本が並ぶ本棚。部屋のどこにも答えは書かれていない。

 静馬は、櫻子が仁王路家の名を汚すような振る舞いをしていないか気にしているのだろうか。どこかで櫻子の昼間の行動について悪い噂が立っているのかもしれない。あるいは、さすがに何もしなさ過ぎだと怒りを覚えているのかも。
 櫻子はおそるおそる口を開いた。

「……書庫で、本を読んで過ごしております」
「読書が好きなら、この家からほど近い場所に書肆がある。案内しようか?」
「えっ……? いえ、その、大丈夫です。静馬さまのお手を煩わす訳にはまいりませんし……」

 反射的に断ってしまった。静馬はさして気にするふうでもなく、「そうか、残念だな」と呟いた。
 沈黙が落ちる。二人の間に会話がないのはいつものことだが、今夜の沈黙は肌を刺すようだった。気まずい。

 櫻子は、静馬とつないだ手に目を向けた。いつもならそろそろ離してくれる頃だが、今日はなぜだかつながれたままだ。
 静馬が言葉を継ぐ。

「櫻子の好きな食べ物は何かな。よければ外食してもいいし、取り寄せても構わないよ」
「好きな、食べ物……?」

 櫻子の人生で一度も問われたことのない問いだった。櫻子に与えられるのは残飯と決まっていて、好きとか嫌いとか言っている場合ではなかった。夏場に傷んだ肉を食べて苦しもうと、餓死するよりはマシだった。そういう環境を当たり前と思って生きてきたのだ。

 つながれた手の大きさの違いを、改めて感じる。きっとこの人は、周囲に愛されて、大切にされて育ってきたのだろう。温かく見守られて、なに不自由なく全てを与えられて。

 櫻子とは、あまりにも違う。
 櫻子はうつむき、力なく首を横に振った。

「……特に好き嫌いはございません。あの、日頃も、余っていそうな食材をいただいて食事を作っておりますが、ご迷惑でしたでしょうか……?」
「自分で料理を?」

 静馬が驚いたように声をあげる。櫻子はますます体を縮こまらせた。令嬢が自ら料理をするなんてはしたないことだ。少なくとも妹はそう言って台所に立つことはなかった。

「ご迷惑でしたら、すぐにやめます……」
「そんなことはない、台所は好きに使ってくれて構わないよ。だが、そうか……」

 静馬が何かに気づいたように口をつぐんだので、櫻子はこわごわと顔を上げた。彼は眉を寄せ、空いた方の手を口元にやってなにやら考え込んでいる。

「あの……」

 かすれた櫻子の声に静馬がハッと瞬く。つないでいた手に視線を落とし、ゆっくりとほどいた。

「すまない、長くなったね」
「いえ……その、本日はこれでよろしいでしょうか?」
「ああ、ありがとう。いつも助かっているよ」
「えっと、はい……」

 曖昧に頷く。それが契約なのだから静馬が礼を言う必要はない。櫻子は怪訝に思いながら、寝室を後にした。

■ ■ ■

 至間國軍務局参謀室。御前会議を終えて居室に戻った静馬の目に映ったのは、自分の席に我が物顔で腰かける井上だった。彼は静馬の顔を見るなり、「いよう!」と手を振ってみせる。静馬は眉間にシワを刻みながら、彼の元まで歩いていった。

「そこは僕の席だが」
「水くさいこと言うなって、親友だろ?」
「お前が座った後の椅子って微妙に良い匂いがして嫌なんだよな……」
「酷い言いようだな! これでも俺は女の子にモテるため、清潔感には気をつかってるんだぜ!?」
「で、何の用だ。依頼した件は結果が出たか?」

 鋭く目を細める静馬に、井上も面持ちをあらためる。軍服のポケットから一枚の封筒を取り出した。

「相良櫻子の家庭環境、ちゃんと調べておいた。ここにまとめてある。……こう言っちゃなんだが、酷いもんだぜ」
「……恩に切る」

 静馬はおごそかに封筒を受け取る。何の変哲もない茶封筒が、やけに重く感じられた。
 井上が痛ましそうに目を伏せる。

「相良家の連中は、彼女をまるで人扱いしていない。『無能』だからってそんなことできるか? 相手はただの女の子だぞ」
「できるだろう」

 静馬は淡々と答えた。その声の平坦さに、井上が弾かれたように顔を上げる。静馬は脳面のような無表情で封筒をしまい込んでいた。
 感情のない赤い瞳が、井上をとらえる。

「人は、自分とは違うモノに対して、どれだけでも残酷になれる。相手が同じ人間とは夢にも思わない。ただ、普通じゃないから——理由なんてそれだけで十分だ」

 井上は凍りついたように静馬を見上げる。光を透かす白銀の髪、深緋の瞳、ぞっとするほどの美貌の生き物が、彼を見下ろしている。
 井上の喉がごくりと鳴った。何か言わなくては、と口を開きかけ——。

「——静馬」

 背後から名を呼ばれ、静馬は反射的に背筋を正した。隣の井上も弾かれたように立ち上がる。振り返ると、腰に長剣を提げた軍服の男がこちらへ向かって歩いてくるところだった。

 たくましい体躯にいかめしい顔つきの男だ。腰の長剣は通常よりもずいぶん長く、刃は分厚く作られているが、男の足取りには一つの揺らぎもない。彼は身体強化の異能を持っており、その長大な剣をやすやすと扱う姿には軍務局の誰もが畏れを抱く。だが、静馬にとっては慣れ親しんだ人物だった。

「兄上、ご健勝でなによりです」

 こちらへやってくる男——仁王路伯爵家当主にして、至間國軍務局大佐の仁王路一臣に、静馬は礼儀正しく頭を下げた。井上もぎこちなく一礼する。

「そんなに畏まるな。ただ弟の顔を見にきただけだ」

 一臣は片手を振って頭を上げさせる。それから静馬に対し苦笑を向けた。

「結婚したそうだな。兄に祝いの言葉ひとつ贈らせてくれんとは、寂しいではないか」
「急だったもので。また落ち着いたらご挨拶に伺おうと」
「落ち着いたら、か」

 一臣の苦笑が深くなる。静馬の胸元を軽く小突いた。

「仁王路の分家たちも大騒ぎだぞ。あいつらは自分の娘を静馬に嫁がせて、本家に取り入る気満々だったからな。計算が狂って散々らしい」

 くくっ、と喉を鳴らす。静馬は静かに一臣を見つめた。櫻子との婚姻にあたり、無理を通したことは自覚している。何か咎めがあってもおかしくはなかった。
 一臣はやがて笑みを引っ込め、静馬の瞳を覗き込んだ。

「だが、お前はそんなことを気にする必要はない。好きな相手を選んで添い遂げろ。政略結婚はな、上手くいかん。私のようになるなよ」
「兄上……」

 数ヶ月前、一臣の妻であった伯爵令嬢が失踪した。出入りの庭師と道ならぬ恋に落ち駆け落ちしたらしい。一臣とは幼い頃からの許嫁で、周囲からは絵に描いたような当主夫婦と見られていただけに、衝撃は大きい。
 口をつぐんだ静馬に、一臣は太く笑った。

「私の方は気にするな。これでも仁王路家当主だ。なんとかするさ」

 静馬は何も答えられない。政略結婚とはいえ、兄が兄嫁を大切にしていたことを知っている。ふさわしい妻がいなくなったから、すぐに次、と人形の首をすげ替えるように再婚できる人ではない。
 静馬が何も言えないうちに、一臣はくるりと井上の方に顔を向けた。

「そういえば井上くん。君は今から、うちの部署と欧州情勢の危機管理会議ではないかね。良ければ一緒に行こう」
「はっ、喜んでお供致します」
「そんな堅くなるものではないよ。いつも弟が世話になっているね」

 一臣と井上が連れ立って部屋を去っていく。その背中を見送り、静馬は椅子に腰を下ろした。深いため息をつきながら封筒を取り出す。櫻子の調査結果を読み始めた。
 そこには、予想と違わない虐待行為が、予想を超える酷さで記載されていた。
 読んでいるだけで気分が悪くなるような文章に最後まで目を通し、封筒もろとも燃やしてしまう。静馬の手の中で、それはあっという間に灰に変わっていった。だが、櫻子の傷は灰のように簡単には消えないだろう。

 ジャラ、と耳元で耳飾りが音を立てた。静馬は耳元に手をやり、嘆息する。この耳飾りが異能力を発散できる量にも限界があり、定期的に取り替えなければならない。音が鈍くなったら交換時だった。
 予備の耳飾りを出そうと机の抽斗を開け——静馬は舌打ちした。しまっておいたはずの予備がない。

 時々あることだった。軍務局に入局する前、仁王路本家にいたときから、派手で目立つ静馬をやっかみ、もしくは邪魔に思い、さまざまな人間が嫌がらせを施した。これはその一つというわけだ。抽斗に鍵をかけてはいるが、異能者がやろうと思えばたいていどんなこともできる。

 腕時計に目をやり、帰宅までの時間を計算する。おそらく、まあ、なんとかなるだろう。
 少しの体の怠さを感じながら、静馬は仕事を続けた。
 ——静馬さまの様子がおかしいわ。

 櫻子は、帰宅した静馬を玄関で出迎え、眉をひそめた。明らかに顔色が悪く、足取りが重い。いつもぴしりと背筋を伸ばして、しっかりと地を踏む人とは思えない。櫻子は思わず、静馬の右手を取った。

「……どうかしたかな?」

 静馬が微笑む。それも無理に作り上げたものに見えて、櫻子はうろたえた。

「あの、静馬さま」
「うん?」
「ええっと……」

 口ごもり、自分が嫌になった。早く休んでもらうべきなのに、もたもたして余計な時間を取っている。静馬が苛立ちの一つも見せないことが、逆に申し訳なさを募らせた。
 櫻子はやっとのことで言葉を紡いだ。

「た、体調が悪そうです。お医者さまを呼びましょうか? それとも、お薬を持ってきましょうか?」

 静馬が目を見開く。櫻子を見下ろし、ゆっくりと瞬きした。櫻子の取った手が小さく震える。彼は額にこぼれ落ちた前髪を払い、なんでもないように笑った。

「ああ、いや平気だ。これは、少し……」

 言葉が途切れる。櫻子が不審に思う間もなく、静馬がこちらに向かって倒れ込んできた。

「静馬さま!」

 悲鳴じみた声をあげ、櫻子は慌てて静馬の体を支えようとする。しかし支え切れるはずもなく、一緒になって床に崩れ落ちてしまった。
 静馬を間近にして、その具合の悪さが切実に伝わってきた。息は荒く、体全体が熱い。顔からは血の気が引き、真っ青だった。
 静馬が切れ切れにつぶやいた。

「大丈夫、だ……今日は、耳飾りが……」
「え?」

 静馬の耳元に目をやる。そこに付けられた耳飾りは黒ずみ、輝きを失っていた。理由はよく分からないが、役目を果たしていないことは確かだ。櫻子は慌てて静馬の手を握りしめ必死に言い募った。

「静馬さま、私に力をお渡しください。そうすれば、少しは——きゃっ」

 屋敷が大きな音を立てて揺れた。こんな時に地震か、と振り仰いだところで、違うと気づく。壁の洋燈は異様なほど大きく燃え盛り、玄関ホールに置かれた花瓶が直線を描いて遠くの壁にぶつかっていく。かと思えば、砕けた花瓶が自然に修復されて床に転がった。

 ——異能だ。

 櫻子は腕の中でぐったりしている静馬を見つめた。この家の中でこんな異能を使えるのは彼しかいない。おそらく、体を蝕む異能力を少しでも発散するため、異能が暴走しているのだろう。

 屋敷が不規則に揺れる中、櫻子は静馬の腕の下に体を滑り込ませ、半ば引きずるようにして寝室へ向かった。その間も部屋の扉がバタバタと開閉を繰り返したり、棚が倒れてきたりと気が気ではない。なんとかベッドに静馬を寝かせたときには、櫻子の頭にタンコブができていた。ふっ飛んできた花瓶が頭を直撃したのである。

 だが、苦しげに横たわる静馬を見ていると、頭の痛みも感じられなかった。せめて水でも持ってこようと、櫻子はベッドのそばを離れようとする。そのとき、静馬の手が櫻子の手を掴んだ。
 その手の熱さにぎょっとする。櫻子は慌てて静馬の手を握り返した。

「どうなさいましたか? 何か私にできることはありますか」
「……さくら、こ」

 かすれた声で静馬が囁く。うっすら目を開き、熱に潤んだ瞳に櫻子を映した。

「めいわく、かけて、すまない」
「平気ですよ。耳飾り、壊れてしまったんですか?」
「とられた」
「え?」

 驚いて聞き返すと、静馬は薄く笑った。何度か咳き込み、

「よくあることだ……油断していたな、それより櫻子のことを気にしていたから」
「わ、私ですか?」
「うん……」

 まどろむように答えると、静馬は瞼をおろした。白銀のまつ毛に、滲んだ涙がきらめいている。

「むりやり娶って、悪かった。本当はきちんと、君の心を乞うべきだった」

「そんな……」

 櫻子はおろおろする。そんなこと気にしなくていいのに。櫻子にそんな価値はないのに。
 静馬の手に力が込められる。祈るような響きで囁かれた。
「それでも、そばにいてくれると、うれしい」

 すう、と寝息が聞こえる。揺れは収まり、寝室を飛び回っていた本がばさりと音を立てて床に落ちた。ページが折れ曲がっている。早く拾わなければ、と思うのに、櫻子は身じろぎ一つできない。

 ——そばにいて、と言われた。

 それは櫻子の人生において一度も乞われたことのない願いだった。生まれてこの方、彼女は誰からも遠巻きにされ、罵詈雑言を投げられて生きてきた。誰もが櫻子を「無能」と蔑み、同じ人間とは見做さなかったのだ。

 ——浮かれてはだめだ、静馬さまとの結婚は契約なのだから。私の異能が彼にとって都合が良かっただけ。

 そう言い聞かせても、手の熱さが逃げることを許さない。
 始まりこそ櫻子の意志を無視したものだったが、それ以降、静馬が何かを無理強いすることはなかった。異能力発散のための道具として一度も口を聞かずに過ごすことだってできたのに、櫻子を気にかけてくれた。少なくとも、櫻子の人生において、最も誠実に接してくれた人だった。

 ——静馬さまは、私とは違う世界の方なのだから。

 ひねくれた思考が水を差す。でも、それならば今の状況はなんだ。耳飾りを取られてもよくあることだと流す。誰からも愛されて、守られてきた人はそんな目には遭わない。

 そもそも、と部屋を見回した。
 なぜ彼はこの屋敷に一人で暮らしているのだろう。伯爵家次男ならば、使用人の一人や二人いて当然だ。それにもかかわらず、彼は誰も寄せつけず広い屋敷で一人過ごしている。家族から遠巻きにされているのか、周囲に被害を及ぼすことを恐れた静馬が一人を選んだのか、もしくはその両方なのか。櫻子には分からない。いずれにせよ、その華やかな肩書きから想像される暮らしではない。ひどく孤独だ。

 それでも彼は、櫻子に謝罪し、そばにいてほしいと希う。いつも俯いて、状況に流されて、どこか遠くへ行きたいと夢見るばかりの櫻子とは違って、きちんと目の前の相手に向き合っていたのだ。
 櫻子は、夜が明けるまで、静馬の手を握っていた。

■ ■ ■

 静馬の目が覚めたのは、翌日のことだった。
 だいぶ顔色が良くなっており、櫻子はほっと息を吐いた。

「おはようございます、静馬さま。お加減はいかがですか?」
「……櫻子は、一晩中?」
「はい」

 櫻子は頷いた。つないだ手を指し示し、

「少しはお役に立てるかと思って。私には分かりませんが、異能力は発散できておりますか?」
「……ああ、もう大丈夫だ」

 ぼんやりした口調で答えた静馬は、ハッと目を見開くと半身を起こした。

「櫻子、怪我はないか?」
「え?」
「異能が暴走しただろう」
「ああ、頭を少し……でも、大したことではありません」
「見せてみろ」

 櫻子が身を寄せると、静馬の手が櫻子の頭を撫でた。軽くコブに触れたあと、安堵したように吐息をつく。

「大きな怪我ではないようだが、あとでしっかり冷やしておくように。吐き気やめまいはしないか?」
「大丈夫です。ほんの少しぶつけただけですよ」
「結果論だ。打ちどころが悪ければどうなっていたか分からない」

 静馬の体が離れていく。つないでいた手もほどかれた。急に空いた手のひらがひやりと冷えて、櫻子はとっさに両手を握りしめた。

「櫻子、こっちを向いて」

 告げられ、静馬の方を向く。彼の手のひらが櫻子の頬を包んだ。
 長い指が櫻子の目の下をなぞる。静馬が心配そうに眉を下げた。

「隈ができている。今日はもう休むといい」

「これくらい何ともありません。静馬さまのおそばにおります」

 そう言った途端、静馬の指が硬直した。気まずげに櫻子を窺う。

「……僕は何か言ったか」
「お嫌であれば忘れます」
「いやいい。……それで? そばにいてくれるのか?」

 ヤケになったような声音に、櫻子は思わずふふっと笑った。

「はい。もちろんでございます」

 静馬は驚いたように櫻子を見つめている。きょとんと首を傾げると、眩しそうに彼の目が細められた。

「……うん、櫻子は笑っている方が良い」
 仁王路の屋敷の空気は、なんとはなしに和らいだものになった。

 櫻子と静馬はできるだけ食事をともにし、必ず朝の挨拶を交わす。櫻子は昼間、静馬の手配により、琴やダンス、礼儀作法、普通教育を習うようになった。勉強は楽しく、櫻子の表情はどんどん明るくなった。また、上質な着物を着て化粧を施すようになると、傍目にも令嬢らしくなっていった。

 二人は夜もぽつぽつ会話を交わすようになった。櫻子は昼間の稽古の様子や読んだ本の感想を、静馬は外で起きたことや、家族の話をした。
 その中で、ふと、御門主宰の夜会の話題があがった。

「至間宮の近くにある迎賓館で開催される、華族の社交場だ。とはいえ、今度開催されるのはそこまで堅苦しいものではなく、華族の嫁や婿探しといった趣が強い。櫻子はどうしたい?」
「夜会、ですか……」

 静馬の寝室にて、二人はいつも通りに手をつなぎあわせていた。静馬の手のひらは温かく、櫻子は少しだけ眠気を感じていた。
 しかし、夜会という言葉が記憶を刺激する。櫻子はぱっちりと目を開いた。

「相良男爵家も招待されているのですよね?」

 深雪が夜会のため、綺麗なドレスをよくねだっていた。櫻子はいつもめかし込んだ深雪を見送るばかりだったので、夜会がどんなものかを知らない。彼女が自慢げに話すのを聞いたところによると、何もかもが洗練されており、立派な殿方がたくさんいるらしい。
 静馬が重く頷いた。

「そうだ。相良紅葉、深雪の二人が参加するらしい。十中八九、婿探しだろう。会いたくなければ、櫻子が無理に参加する必要はない」
「そうしたら、静馬さまはどうなさるのですか?」
「僕は御門から直々に招待状をもらっている身だ。不参加というわけにはいかないし、一人で出席する。他にもそういうやつはいるからね」
「お一人で……」

 櫻子は黙り込む。想像でしか知らないきらびやかな館を背景に、礼装を着こなした静馬が一人で立っている姿を思い描く。きっと彼は目立つだろう。想像の中の彼はすぐに数多の女性の視線を集めた。その中には深雪の姿もある。
 つないだ手をぎゅっと握りしめる。なんとなく、胸がもやもやした。

「わ、私も参加したいです。上手くやれないかもしれませんが……いずれ慣れなければならないことですから」
「そうか、櫻子がそう決めたなら、僕は君を支えるよ」

 静馬が櫻子の必死な様子を見て、優しく微笑む。緊張をほぐすように、櫻子の手の甲を親指の腹で撫でた。

「それなら、ドレスが必要かな。明日、百貨店に買いに行こうか」
「は、はい」

 櫻子は唇を引き結んだ。百貨店には荷物持ちとして行ったことはあるが、自分の買い物はしたことがない。ましてや自分用のドレスなんて夢見たことすらなかった。上手く選べるだろうか。まったく自信がない。
 難しい顔をして悩み始めた櫻子の手を引き寄せ、静馬が指先に口づける。櫻子は驚いて目を瞬かせた。唇の触れたところが火傷したように熱い。ついで、頬がかあっと赤くなるのが分かった。静馬は悪戯っぽく笑っている。

「妻にドレスを選ぶ栄誉を、僕に与えてくれるかい」
「え、ええっと……」
「うん?」

 笑みを深め、静馬が顔を寄せてくる。櫻子は固く目をつむった。すぐそばで、静馬がハッと息を呑むのを感じる。
 櫻子は真っ赤になった顔を伏せ、消え入りそうな声で答えた。

「よ、よろしくお願いします……」

 返事がない。おずおずと瞼を上げると、静馬が怖いほど真剣な顔で櫻子を見つめていた。

「あの……?」

 声をかけると、ハッと我に返ったようだった。半目になって遠くへ視線を投げる。白銀の髪の隙間から覗く耳に、わずかに朱が差していた。わざとらしく咳払いをして、

「ああ、うん。ドレス、ドレスの話だね、もちろん、任せてくれ」
「それ以外に何か……?」
「いや、こちらの話だ、気にしないでくれ」
「はあ……」

 とつぜん挙動不審になった静馬に首を傾げつつ、櫻子は素直に頷いた。

■ ■ ■

 至間國で一番大きな百貨店は、休日ともなると大混雑であった。しかし、櫻子が静馬に連れられてたどり着いたのは、落ち着いた雰囲気のサロンだった。柔らかな絨毯が足元に広がり、革張りのソファとローテーブルが、会話が聞こえないくらいの距離を保っていくつか置かれている。片側の壁面はガラス張りで、至間の街並みが見下ろせた。

「仁王路さま、お待ちしておりました。奥様のドレスですね。こちらに準備しております」

 百貨店の制服を身につけた品の良い婦人が出迎える。櫻子はあれよあれよというまに広々とした試着室に連れていかれ、目の前にずらりとドレスを並べられた。
 櫻子には、美しい布とリボンとフリルの洪水にしか見えない。目を回していると、隣に座った静馬が迷う様子もなくドレスを選び始めた。

 薄ピンク色のリボンがたくさんついたフレアドレスに、シックな黒色のタイトドレス、スカートがふわりと広がった、おとぎ話のお姫様のようなドレス……と着せ替え人形のように試着をこなす。静馬は櫻子の周りを回ってドレス一つ一つに丁寧に頷き、「どれも愛らしいな……」としごく真面目な顔つきで呟いていた。愛らしいのはドレスだ、と櫻子は必死に自分に言い聞かせる。でなければ顔を真っ赤にして、その場を逃げ出してしまいそうだった。

「——あ、これは」

 渡されたドレスに着替え、鏡に映った自分を確認して、櫻子は思わず口元をほころばせた。深い緋色の生地に、腰元に白銀のサテンのリボンがあしらわれた、上品なイブニングドレスだった。にこにこしたまま試着室の外に出ると、そこで待っていた静馬がどうかしたか、と目で尋ねる。その瞳を見返し、櫻子はますます笑みを深めた。

「いえ、このドレス、静馬さまの瞳の色と同じだと思って。今まで好きな色なんて考えたこともなかったのですが、最近は赤色が好きです。安心できるので……」
「安心?」
「はい、いつも私を見守ってくださる、とても安心できる瞳です」
「……そうか」

 噛みしめるように静馬が呟く。そのあとに「もう少し警戒してくれても構わないが……」とぼやいたのは、櫻子の耳には届かなかった。
 櫻子は、再度鏡の中の自分と目を合わせる。変ではない……いや、似合っていると思う。

「私、これが良いです。どうでしょう、静馬さま」
「ああ、とても似合っているよ」

 静馬が頷き、無事にドレスが決定した。
 夜会の舞台となる迎賓館は、櫻子の想像よりもずっと立派な洋館だった。篝火が白亜の壁を照らし出し、夜でもその威容を明らかにしている。

 櫻子は緋色のドレスをまとい、アップにした髪には花簪を挿している。胸元には小さなダイヤのネックレスが輝いていた。
 隣に立つ静馬は一分の隙もないテールコートだ。大広間に一歩足を踏み入れた途端、周囲の人々が一斉に彼の方を振り向くのが分かった。特に女性陣の視線が熱い。

 そんな静馬の隣に並んで自分はおかしくないだろうか、と櫻子は肩を丸めそうになる。だが、対する静馬は涼しい顔で、当然のように櫻子をエスコートした。
 人の多い大広間を慣れた様子で歩き、とあるテーブルの近くで、ちょうど談笑を終えた男を呼び止めた。

「兄上、ご挨拶に参りました。妻を紹介させてください」

 櫻子は男を見上げた。静馬から話を聞いていたが、実際に会うとずいぶんと大柄で威圧感がある人だ。櫻子はこわばった体を叱りつけ、稽古の通り、優雅なカーテシーを披露した。

「相良男爵家が長女、櫻子でございます。ご挨拶が遅れまして誠に申し訳ございません」
「いやいや、それは静馬が悪いのだから気にすることはない。こちらこそ、これからも弟をよろしく頼む」

 一臣は表情を和らげ、櫻子に頷きかけた。ついで静馬に向かい、短くもはっきり告げる。

「大切にするように」
「——この上なく」

 兄弟の間で強く視線が交わる。一臣はふっと笑って、肩の力を抜いた。

「ならば、良い」

 失礼する、と言い置いて、一臣は立ち去った。何か大事な会話が交わされていたような気がして、櫻子は静馬を見上げる。彼は兄の背中を静かな目で追っていた。

「あの、静馬さま——」
「よう、静馬」

 呼びかけたところで背後から別の男の声がして、櫻子はびくっとした。静馬は声の持ち主に心当たりがあるらしく、一瞬顔をしかめてから、この上なく綺麗な愛想笑いを作ってみせる。

「こんばんは、井上殿」

 振り向くと、大柄な男が立っていた。人の良さそうな笑顔を浮かべ、静馬と櫻子を見比べている。

「なんだよそのご丁寧な挨拶は。奥さんの前だから猫被ってんのか?」
「櫻子、この男は井上剛志という。僕の同僚だ」

 静馬がぶっきらぼうに紹介する。不躾、というより、親しさから許される雑さに見えた。櫻子は慌ててドレスの裾を軽く引いて挨拶した。

「は、初めまして。仁王路櫻子と申します」
「おお、あなたが噂の。こんなに美しい方なら、静馬が俺に紹介したがらないのも納得です」
「余計なことを言うな」

 静馬は苦虫を噛みつぶしたような表情だ。小首を傾げる櫻子に、井上はひそひそと囁く。

「ここだけの話、静馬のやつ、職場で櫻子嬢の話をする割に、絶対に本人には会わせてくれないって評判なんですよ。面白半分ですが櫻子嬢の実在を疑われていたりして、今日の夜会じゃ伝説の櫻子嬢に会えるのを楽しみにしていたんです」
「聞こえてるぞ」

 静馬が割り込み、しっしと井上を追い払った。

「連れと来ているんだろう。早く戻れ」
「はいはい。夫婦のお邪魔はしませんよっと。それでは櫻子嬢、お元気でお過ごしください」

 井上は櫻子に向かって一礼し、人混みの中に消えていった。

「まったくあいつは……」

 静馬がぼやいている。櫻子はその袖をちょいと引っ張った。

「どうかしたかな?」
「職場で私のお話をされているんですか? どんな?」
「……大したことではないよ」
「……」
「ああもう! 仕方がないだろう、僕だって浮かれることくらいある」
「浮かれたお話を?」
「……まあ、少しは」

 静馬は顔を隠すように口元に拳を当て、あらぬ方を向く。それでも目元が赤く染まっているのがよく分かった。櫻子はくすくすと笑い出したいのを我慢しながら、静馬の腕に触れた。

「私は嬉しいです。静馬さまのお心の中に、私の居場所があるみたいで」
「……とっくにそうだよ」

 静馬は櫻子の手に自分の手を重ね、拗ねたように唇を尖らせた。

「僕はたぶん、君の思う数百倍、君にまいってる」
「えっ?」

 率直な言葉に、櫻子はうろうろと視線を彷徨わせた。その耳元に静馬が低く声を吹き込む。吐息が耳朶に触れた。

「頼むから、あまり軽率に僕を喜ばせるようなことを言わないでくれ。抑えが効かなくなる」
「ひぁっ……わざとやってますね?」
「お返しだよ」

 晴れやかに笑う静馬を睨みつけ、櫻子は耳を押さえた。顔が熱い。けれど、ちっとも嫌な気分ではなかった。
 こんなに楽しい時を過ごせるなら、夜会に来てよかった——。
 そう思いかけたところで、櫻子の体が凍りつく。人混みの中、一人の少女から目が離せない。その少女はめざとく櫻子を見つけ、愛らしい笑顔を浮かべてつかつかと歩いてきた。

「こんばんは、お姉さま」
「深雪……」

 リボンとフリルがふんだんにあしらわれたドレスをまとって、優雅に一礼するのは相良深雪。正真正銘、櫻子の妹だ。
 静馬が櫻子の肩を抱く。完全に表情を消して深雪を見下ろした。
 深雪はころころと笑い、鮮やかな鳥の羽根が飾られた扇子で口元を覆う。

「うふふ、お姉さまはずいぶんと大切にされているのですね。羨ましいことですわ」
「……何のつもりだ」

 櫻子が口を開く前に静馬が応じる。今まで聞いたことのないような、怒りを秘めた響きだった。
 だが、深雪は堪えた様子もない。大きな瞳を潤ませ、櫻子の両手を痛いほど強く握りしめてきた。

「私、お姉さまにずっと謝りたかったのだわ。ごめんなさい、実家ではあんなひどいことをして……でも本気じゃなかったのよ、許してね?」

 思ってもみなかったことを言われ、櫻子は喉が塞がったようになる。深雪は言葉を挟む隙も与えず続けた。

「それでね、相良家はいま、お父さまが手を出した新事業に失敗して苦境にあえいでいるの。私の結婚持参金も出せないくらいに。そのせいで私には良い縁談が来ないのよ。お姉さまとお義兄さまの力で、金銭でも縁談でも、何か援助してくださいな」
「えっ……」

 言い淀む櫻子に、深雪はずいと身を寄せる。目だけが笑っていない笑顔で言った。

「ねえお姉さま、血のつながった家族を捨てるなんて薄情な真似、しないわよね?」

 深雪が顔を覗き込んでくる。瞳孔が開いた深雪の瞳は、穴のように真っ黒に見えた。吸い込まれそうなほどに。

「やめろ」

 静馬がすばやく背後に櫻子を庇う。険しい目つきで深雪を睨めつけた。

「家同士の話なら、それなりに筋を通してもらおう。当主が出てくる正式な場が用意されれば、こちらも応じるつもりはある」
「そんな堅いことを言わないでくださいな。家族なのよ、私たち。助け合うのが当たり前じゃなくて?」
「これ以上、ここで話すことはない。お引き取り願おう」

 ピシャリと撥ね付けられ、さすがの深雪も深追いは無駄と悟ったのか。忌々しそうに舌打ちして踵を返す。その姿はすぐに見えなくなった。

「——櫻子、大丈夫かな?」

 優しく背を撫でられて、櫻子は我を取り戻した。自分がずいぶん浅く呼吸をしていたことに気づく。大きく深呼吸すると、やっと気分が楽になった。今さら体が震え出す。静馬に大切にされて、相良家のことなんか忘れたと思っていたのに。深雪に何も言えず、ただ庇われているだけだった。そして何より、深雪の言うことに頷いてしまいそうな自分が嫌だった。「家族」という魔法の言葉を出され、流されてしまいそうな自分が。

 静馬がそっと櫻子の手を取る。手の甲に、深雪の指の形がくっきりと赤く残っていた。

「大丈夫だ」

 静馬の手の温もりに涙がこぼれそうになる。いけない、せっかくの化粧が崩れてしまう。

「そのうち君の父から話し合いの場が設けられるだろうが、そのときには僕が話をつけてくるから。櫻子は心配しなくていい」
「でも、静馬さまにばかりご負担を……」
「負担なものか」

 静馬は櫻子を見つめ、きっぱり言った。

「櫻子と僕は家族だろう。ならば、助け合うのが当然だ」
 数日後、静馬の言う通り、相良家から招待状が届いた。相良家と仁王路家の今後の関係について話し合いたいとのことだった。
 玄関先、不安げな面持ちで見送る櫻子に対し、静馬は優しく笑いかけた。

「そう心配することはないよ。金銭援助の代わりに、これきり櫻子や僕には関わらないことを約束させる。それだけ話してすぐに帰ってくるから」
「やはり私も……」

 言いかけた櫻子の唇を、静馬の人差し指が柔らかくおさえた。身をかがめ、言い聞かせるように櫻子と視線を合わせる。

「正直に言うとね、僕は自分の大事な人を下衆の前に晒すのは好まない。本当は閉じ込めておければ良いと思っているんだよ」

 静馬は櫻子の額に口づける。愛おしげな仕草とは裏腹に、唇は冷たかった。櫻子が驚いて動けないでいると、静馬は茶化すように肩をすくめてみせた。

「——冗談だ、怖がらないでくれ」

 その響きの方がよほど切実に聞こえて、櫻子は呆然と立ち尽くす。思わず手を伸ばそうとしたところで、静馬は背を向けた。

「それでは、行ってくる」

 櫻子の指先で、玄関の扉が閉ざされる。

 ——思いもよらぬ訪問者があったのは、しばらく後のことだった。

■ ■ ■

 相良家の客間では、櫻子の父である庄太郎が待っていた。よく手入れされた庭が臨める和室で、開け放たれた障子窓から風が流れ込んでくる。

「本日はお忙しいところを……」
「前置きはいい。早く用件を話してもらおう」

 静馬は庄太郎の挨拶を遮った。櫻子の受けた仕打ちを知ったときから、彼はこの家族に一片の敬意を払うつもりもなかった。
 傲慢とも言える静馬の態度に庄太郎の顔が一瞬歪む。しかし瞬時に笑顔を取り繕うとすぐに話を切り出した。

「実は、仁王路さまに、櫻子をお返しいただきたく」
「——は?」
「我が家の財政状況が悪化しているのは仁王路さまもご存知かと思います。そんな折に、継続的な資金援助を申し出てくださる御仁がおりましてな。しかしその代わりに、妾として娘を一人差し出せと言うのですよ。跡取りの深雪をそんな目に遭わせるわけにはいきませんが、櫻子ならちょうどいい」
「断る。櫻子はすでに仁王路家の人間で、あなた方の手の及ばぬ存在だ」

 静馬は眉間に険しいシワを寄せ、短く答えた。だが、庄太郎の顔には脂ぎった笑みが浮かぶ。

「それなら、仁王路さまが援助してくださるので? 正直言って、あなたにはガッカリしているのですよ。結納金こそ多かったが、それきり。もっとご支援いただけないと櫻子を嫁がせた意味がない」
「手切金、と言う意味であれば支払ってもいい。それであなた方が付きまとわなくなるなら安い買い物だ」

 吐き捨てるように告げる。庄太郎が、困った子どもを相手にするように猫撫で声を出した。

「まあまあ、お怒りを鎮めてください。何も大金をせしめようというつもりはないんですよ。ただ、月々いくらかお支払いいただければ……」
「娘が大事だというなら事業を畳み、田舎に隠棲すればよろしい。皆で働きに出れば、家族三人暮らしていくくらい訳ないだろう。こちらは手切金を一括で支払う。それで相良家と仁王路家の付き合いは切れる。それ以外の条件を呑むつもりはない」

 静馬の冷ややかな態度に、庄太郎はスッと真顔になった。

「交渉決裂ですか。ならば、櫻子から言わせるしかありませんね」
「——どういう意味だ?」
「今夜、屋敷に帰ってごらんなさい。きっと櫻子はあなたとの離婚を申し出ますよ」

 その瞬間、地の底から突き上げるような揺れが相良邸を襲った。部屋の中にはごう、と激しい風が巻き起こる。障子が軋みながら音を立てて倒れた。辺り一面にバチバチ火花が散り、柱に焦げ跡を作る。悲鳴をあげて腰を抜かす庄太郎を人影が覆った。ゆらりと立ち上がった静馬が庄太郎を見下ろしていた。その表情を見て、庄太郎はガタガタ震え出す。静馬は風に髪をなぶらせ、異相の美しさを極めたかんばせの中、瞳だけを炯々と見開いて、恐ろしく冷ややかに命じた。

「今話せ。僕は最高に機嫌が悪いんだ」

■ ■ ■

 仁王路本邸、仁王路一臣の執務室のソファに、櫻子は座っていた。向かいには一臣が腰掛けている。静馬を見送った後、一臣から使者がやって来て、櫻子はここに連れてこられたのだった。
 目の前の一臣は黙っているだけで周囲に圧を与える男だった。櫻子は出されたお茶を飲み、話を切り出した。

「……その、本日はどのようなご用件でしょうか」

 一臣がじっと櫻子を見据え、口を開く。

「単刀直入に言う。静馬と離婚してくれないか」

 それを聞いた瞬間、櫻子の胸の中には、どうして、とやはり、という言葉が同時に生まれた。いつか、誰かに言われるような気がしていた。こんな夢のような日々がいつまでも続くわけがないと。
 それでも、櫻子は震える手を拳にかえて、下がりそうになる視線を必死に一臣に向けた。

「……それはどういう意味でしょうか」

 一臣は、小娘の睨みなど痛くも痒くもないという風情で淡々と続ける。

「静馬は仁王路伯爵家の次男だ。華族として、男爵家の娘と結婚している場合ではないのだよ。君よりも多くの利益を与えられる人間はたくさんいる」
「しかし、静馬さまは」
「君と静馬の結婚は、静馬の体質が関係あるのだろう。こちらも把握している。君はおおかた、無効の異能を持っているのだろう? だがそれは妾という立場でも果たせるのではないかね? 静馬は律儀な男だから一度結婚した以上は別れを切り出せないだろう。静馬を本当に思うなら、君から申し出るのが一番ではないかね」

 櫻子は唇を噛みしめた。そんなことは分かっている。櫻子は静馬にたくさんのものをもらったのに、彼女が返せるものはわずかだ。でも、静馬は櫻子のことを家族と言ってくれた。彼の愛情が呼び水になって、櫻子の中には欲が生まれてしまった。静馬の一番そばにいるのは、自分がいい、と。
 櫻子は一臣に顔を向け、はっきり言い切った。

「お断りします。私は静馬さまから言われなければ、頷くことはできません」
「……そうか、残念だよ。君もあの家族と同類の、自分勝手な女というわけだ」

 一臣が冷淡に呟く。蔑みの眼差しを櫻子に向けた。

「それにしても、君の家族はなんだね? 今日は、卑しくも静馬に金の無心をするため呼びつけているそうじゃないか」

 櫻子は眉を寄せる。

「……なぜそれを?」
「君は知らなくても良いことだよ」

 とつぜん櫻子の視界がぼやけ始めた。急激に襲ってきた眠気に耐えられず、櫻子はソファにくずおれる。全てが滲んでいく世界の中、立ち上がった一臣が近づいてくるのが辛うじて分かった。

「安心したまえ。ただの眠り薬だ。君は、夫との身分の差に引け目を感じ、離婚届に署名して失踪したことになる。美談だよ。次に目覚めたときには、至間國から日本へ向かう船の中だ。傍目には異能者に見えないのだから、日本で上手くやるといい」

 意識を失う寸前、階下で何かが爆発するような音を聞いたような気がした。

■ ■ ■

「……て、起きて!」

 必死な女性の声がして、櫻子は目を覚ました。何度か瞬いて、自分の状況を把握する。どこかの床に転がされており、特に拘束はされていない。体の節々が痛むが、命に別状はなさそうだ。そして、見知らぬ女性がそばに膝をついていた。

 起き上がり、四囲を見回す。そこはそっけない内装の小部屋だった。窓はないが、船の中ではなさそうだ。恐らく、部屋と部屋の間に作られた隠し部屋だろう。
 こちらを窺う様子の女性に問いかける。仕立ての良い着物を着た、美しい女性だった。

「あなたは?」
「わたくしは仁王路春菜……仁王路一臣の妻ですわ」

 櫻子はぱちりと目を瞬かせる。

「どうしてこんなところに? 失礼ですが、庭師と駆け落ちしたと伺いました」
「外ではそんなふうに……」

 春菜は瞳を揺らし、両手で顔を覆った。その拍子にあらわになった白い首筋に、どす黒い痣が広がっているのが見えた。

「わたくし、仁王路一臣に幽閉されているのです。あの男は悪魔です。初めは優しかったのに、わたくしが誰かと話していると、誰とも口を利くな、目を合わせるな、と暴力を振るい……耐えきれず、わたくしを憐んでくれた庭師と逃げようとしたところを捕まり、このような目に」
「そんな……」

 櫻子は呆然と呟く。頭の中で、全てがつながった気がした。

■ ■ ■

 執務室を訪れた静馬の周りには異能による火花が散り、彼の通ってきた道を示すように、邸内の物が全て薙ぎ倒されていた。殺気立った静馬に視線をやり、一臣は唇を歪めた。

「ずいぶん乱暴な訪問だな」
「兄上、全て話は聞きました。あなたが相良家も巻き込んで、僕と櫻子を離婚させ、僕を伯爵令嬢と娶せようとしていること。櫻子はどこです?」
「口を割ったか。まったく、とことん使えん家だな」
「——櫻子は、どこです?」

 静馬の問いに、一臣は答えない。窓辺に立ち、外を眺めている。
 静馬は苛立ちながら質問を続けた。

「なぜこのようなことを? 以前、仁王路家のことは気にするなと言っていたのは嘘ということですか」
「なあ、静馬」

 一臣が静かな声で尋ねた。外を眺めたまま、日差しに目を細める。

「お前も私の弟だ。こう思ったことはないか? 特別愛でた花には、自分のためだけに咲いてほしい。誰の目にも触れさせず、誰の色にも染まらず、自分の庭で枯れてほしい、と」
「何の話です?」
「あの櫻子という娘に、ずいぶん執着しているようだな。上手くやったものだ。生家で虐げられていた娘に愛情を与えれば、一途にひたむきに懐くだろう。だが、この先はどうなるか。外の世界を知った娘は、それでもお前を選び続けてくれると思うか? いや、無理だ。あの女のように」
「何を……」

 眉根を寄せた静馬は、兄の静かな横顔を見やり総毛立った。

「——まさか」

 目を見開く。失踪した兄嫁の顔が脳裡に浮かんだ。

「箱庭の維持には手間と金がかかる。お前には是非、どこぞの伯爵令嬢と番ってもらわなくてはならない。仁王路家のますますの発展のためにな」
「そのためだけに?」

 静馬は声を低めて問いかけた。眼前の狂気の男が、それだけのためにこんなことをするとは思えなかった。静馬から櫻子を奪ったのは、おそらく。
 一臣が唇を吊り上げる。血走った眼を静馬に向け、両手を広げてみせた。

「もちろん、それだけじゃないさ。——私は、お前の苦しむ顔が見たい。私はずっと、お前のことが大嫌いだった。異能も制御できない出来損ないのくせに、臆面もなく仁王路家の人間として過ごすのが許せない。この面汚しが!」

 部屋の空気を震わせる怒声を、静馬はまっすぐに受け止めた。自分でも驚くほど、心は凪いでいた。

「ええ、そうですか。そんなこと、僕はずっと、知っていましたよ」

 幼い頃から受けた様々な嫌がらせ。その背後に一臣がいることくらい、とっくに知っていた。どれだけ厳重に保管しても紛失する、耳飾りの盗難犯の正体も。だが、静馬は気づかないふりをしていた。彼のそばには兄以外誰もいなかったから。
 そして何よりも。

「僕も僕のことが嫌いでした」

 静馬を恐れ遠巻きにする人々、周囲を傷つけてしまうのではないかという恐怖。そんな自分に価値はないと思った。異能も容貌の美しさも肩書きも、誰かを脅かすなら意味はない。一生を孤独に生きるならそれでもいいと決めていた。

 だが、無能の娘の噂を聞いたとき、初めて欲が生まれた。彼女が「無を能う」異能を持っているなら、自分と連れ添ってくれるかもしれない。彼女が男爵家の娘なら権力にものを言わせて娶ってしまえばいい。契約で縛ればどこにも行けやしないだろう、と。
 自分の浅ましさに嘲笑が漏れる。家族に疎まれ虐げられる娘を、彼もまた慰めに利用したのだ。

 ——それでも、櫻子はそばにいると言ってくれた。

「僕は、受け入れてくれる人が一人でもいるなら、それでいい。人生は、その人に出会うための旅です」

 静馬は櫻子を手離せない。もう二度と彼女のような人には出会えないと分かっているから。一番近くに引き寄せて、掴んで、嫌がっても抑えつけてしまうかもしれない。彼女が外の世界を知ったとき、どうするか分からないのは静馬も同じだ。

「だから、分かりますよ。その人を見つけてしまったときの衝動は。——あなたなら、きっと自分の最も近くに箱庭を作るでしょう」

 静馬が部屋の片隅に目を向ける。執務室の大きな書物机、そこに座ったときに、真正面に位置する場所に、わずかにずれた壁紙があった。一臣の表情が凍りつく。
 静馬が異能を発動させる。音も立てず、隠し扉が開いた。

■ ■ ■

 隠し部屋の中は窓のない小部屋だった。箱庭からはほど遠い、居心地の悪そうな牢屋だ。

 そこに、手を組み合わせて座り込む二人の少女を見つけて、静馬は眉を上げた。

「櫻子! それに春菜さまも」
「静馬さま!」

 櫻子がぱっと顔を明るくする。春菜も安堵したように息を吐いた。静馬の記憶にあるよりもずいぶんと痩せていた。

「どうやってここに……そうだ、一臣さまが」
「分かっている。兄上は……」

 静馬が言いかけたとき、小部屋の外から哄笑が響き渡った。春菜が青ざめ、身をすくませる。入り口にゆらりと人影が現れた。一臣だった。片手に長剣を提げ、幽鬼のような足取りでこちらへ寄ってくる。春菜が櫻子の腕にしがみつく。櫻子はとっさに春菜を背後に庇った。
 長剣のきっさきが櫻子に向けられた。

「春菜に触るな!」
「もうやめましょう、兄上」

 でたらめに振り回された長剣を難なく避け、静馬が一臣を床にねじ伏せようとする。だが一臣は春菜から目を逸らさないまま、異能を用いた恐るべき膂力で静馬を跳ね除けた。そのまま起き上がり、櫻子と春菜の方へ突進する。

「春菜! 来い!」
「——失礼しますね」

 櫻子が一歩前に出る。その右手が振りかぶられたかと思うと、一臣の頬を思い切り打った。一臣は勢いよく吹き飛び、壁に後頭部をぶつけて気絶した。

「……えっ?」

 春菜があっけに取られている。静馬は無言で一臣と櫻子を見比べていた。
 櫻子は一臣を見下ろし、決然と告げた。

「私の前で、よくも静馬さまを傷つけてくださいましたね。無能になっただけでこの有様とは、異能に頼りすぎでは?」
 その後はもう大騒ぎだった。春菜を監禁していた罪で一臣は収監。仁王路家当主の座は静馬が継ぐことになった。相良家とは手切金を支払って縁を切ったが、結局元の生活を維持することはできず、爵位を返上して田舎に隠棲したらしい。とはいえ、たかが一男爵家の消滅は話題になることもなく、至間國の社交界は、もっぱら仁王路一臣の醜聞で盛り上がっていた。

「おかえりなさいませ、静馬さま」
「ただいま。起きている櫻子の顔を久々に見られたな……」

 深夜、仁王路本邸に帰宅した静馬は、ぱたぱたと出迎えた櫻子を見て微笑んだ。
 当主の仕事に、軍務局の業務。一臣の空けた穴は大きく、静馬は連日多忙を極めていた。帰宅しても夜更けのことが多く、すやすや眠る櫻子の寝顔を見つめながら、そっとその手を握りしめていたのだった。

 人心地ついてから、静馬の寝室で異能力の発散を行う。別邸とは異なり、寝室には二人掛けのソファが置いてある。二人はそのソファに並んで座り、手をつなぎ合わせていた。
 櫻子が静馬を見上げ、口を開いた。

「本日は春菜さまにお会いしてきました。春菜さまのご両親はご立腹ですが、春菜さまの説得のおかげで、だいぶ態度はやわらいでいるようです。今度、正式に静馬さまがご挨拶に伺っても受け入れていただけるとのこと」
「そうか、ありがとう。手間をかけたね」
「いえ、静馬さまを支えるのは妻として当然のことですから」

 えへん、と胸を張る櫻子が愛おしくて、静馬は思わず抱きしめる。腕の中で、櫻子が真っ赤になった。

「あの、あのっ、もう十分ではありませんか!?」
「もう少し、かな」

 すでに十分な量の異能力を渡し終えているが、櫻子には分からない。腕の中の温もりを感じながら、静馬はうっすらと眠気を感じた。

「で、では、異能力をよりたくさん発散するために、別のやり方を試しても良いのではないでしょうか!」
「……別のやり方?」

 静馬の眠気が吹っ飛んだ。櫻子を見つめると、彼女の顔は茹で上がったように赤くなっていた。

「せ、接触面積を増やすとか、その……い、いえ! 忘れてください! 何でもございませんので!」
「……いや、試す価値はあるな」

 静馬は真面目ぶった口調で宣言し、櫻子を抱き上げた。腕の中の重みが愛おしい。櫻子はもう目をつぶって、いっぱいいっぱいの様子だった。
 ベッドに櫻子の体を横たえる。彼女の前髪をそっと撫でると、ぴくっと肩が跳ねた。

「……触れても?」
「もう、お好きにしてください……」

 許しを得て、静馬は櫻子に口づけた。長い夜の始まりだった。

<了>

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