相良(さがら)櫻子(さくらこ)は「無能」だった。

「お姉さま、早く髪を梳かしなさいな。今日は女学校のお友だちと、中央通りに新しくできたミルクホールへ行くのよ」

 相良家で一番広い和室、壁際の鏡台に向かった少女が、自慢げに言った。少女は白磁の肌に愛らしい丸い瞳を持ち、鮮やかな蝶紋様の着物と深い紫色の袴をまとっている。街を歩けば十人に八人は振り返る美貌を持った彼女は、櫻子の三つ歳下の妹、深雪だった。絹のように艶やかな黒髪を背中に流し、鏡越しに櫻子を見やる。

「ほら、早く。いくら『無能』なお姉さまでも、それくらいはできるでしょう?」
「はい、ただいま……」

 柘植の櫛を手にした櫻子は、深雪の背後に立つ。痩せた手でゆっくりと櫛を髪に通していった。
 深雪に比べて、櫻子の恰好はいかにもみすぼらしい。すり切れてくすんだ灰色の絣に、艶を失った髪を飾り気もなく一つにまとめただけ。肌は不健康に青白く、陰鬱な表情が顔全体に暗い影を落としていた。体つきも華奢というよりは全体的に薄く、袖から伸びる手首には骨の形が浮いている。
 櫻子が髪を梳かしていると、櫛の歯が深雪の髪に引っかかった。くん、と深雪の頭が後ろに軽く引っ張られる。
 途端、深雪の手のひらから文字通り火花が散った。

「何するのよ!」

 勢いよく振り向き、ばちばちと火の粉を飛ばす手のひらで櫻子の頬を張る。パァンと乾いた音がして、櫻子は畳にくずおれた。

「も、申し訳ありません……」
「謝罪なんて当たり前よ! この私に向かってなんて態度なの! 髪を梳かすことも満足にできないわけ!?」
「申し訳……」

 容赦ない打擲を受けた頬を押さえ、櫻子は謝罪を繰り返す。もうずっとこうだった。彼女にできるのは謝ることだけ。それが「無能」な彼女に許された唯一の権利だった。
 騒ぎを聞きつけて、二人の母である紅葉が部屋へやってくる。手のひらから火花を散らす深雪と、床に這いつくばった櫻子を見て、だいたい様子を察したようだった。

「櫻子、あなたはまた失敗したの? 深雪を怒らせるあなたが悪いのよ」

 冷たい目で櫻子を見下ろす。櫻子がまた謝罪しようとしたところで、一転して暖かな眼差しを深雪に向けた。

「深雪、あなたの異能は強力なのだから、無能な櫻子にも手加減しておやりなさいね。無能が死んだらあなたの経歴に傷がつくわ。深雪はこの相良家を継ぐ者なのだから、気をつけて。お父さまも私も、あなたに期待しているわ」
「はーい。分かりましたわ、お母さま。死なない程度にね」

 ちら、と櫻子に視線をやる。くすくす笑って櫻子を蹴飛ばし、母の元へ歩み寄った。

「ねえお母さま、私、新しい服が欲しいわ。百貨店に外つ国の綺麗なドレスが入ったのよ」
「まあ、それは買わなくてはね。今度の御門主宰の夜会に向けて、とびきり良いものを揃えてあげましょう」

 二人はもはや櫻子には目もくれず、部屋を出ていく。ついで使用人が部屋の前を通り過ぎたが、見て見ぬふりして立ち去った。その軽やかな足音を聞きながら、櫻子は心の中で呟いた。

 ——どこか遠くへ行きたい、な。

 けれど、櫻子に許された「遠く」とは、あの世か日本くらいしかなく、どちらがより近いかと言えば、冗談でなくあの世なのだった。

■ ■ ■

 櫻子の住む至間國は、日本の自治州である。日本海に囲まれた大きな島であり、御門と呼ばれる君主を戴き、日本と対等の地位を築いている。それを可能にしているのが、至間國の民が持つ異能だった。

 異能——通常の人間にはあり得ざる超常の力。何もないところに雷を落としたり、強い風を巻き起こしたり、手も触れずに物を動かしたりする。深雪が見せた発火能力も異能の一つだ。至間國民はあまねく異能者であり、その脅威をもって至間國は日本を含む他の国と渡りあっている。そのため、至間國では強力な異能者を作り出すことが非常に重要だった。異能が遺伝することは古くから知られていたので、必然、強力な異能者同士で結束を固める。そうして自然発生した血族のうち、特に強力な一族に、御門は華族として爵位を与え、至間國での便宜を図った。

 相良家も由緒正しい男爵家である。最近は強力な異能者が生まれず燻っていたところに誕生したのが深雪だった。両親は深雪に特別の愛情を注ぎ、相良家の復権を恃んでいる。櫻子が母の胎内に置き忘れた力を全て吸収したかのように、深雪には強力な発火の異能が備わっていた。

 そう、相良櫻子には異能がなかった。発火も、風起こしも、読心も、特別なことは一切できない。
 至間國では恐らく彼女だけである。櫻子は相良家の恥として使用人以下の扱いを受け、使用人からですら、不気味と思われ遠ざけられているのだった。

■ ■ ■

 その日の昼。相良家の門前にて、櫻子は一人、掃き掃除をしていた。風の流れのせいか、庭に植えられた植木の葉が溜まるのである。客を出迎えるときに葉一枚でも落ちていたら容赦なく紅葉や深雪からの折檻を受けるので、使用人はこの仕事を櫻子に押し付けていた。
 櫻子は、箒でかき集めた木の葉の山をぼんやり眺めた。そっと手のひらをかざし、葉が燃え上がる様を夢想する。

「葉よ、燃えろっ」

 もちろん何も起こらない。木の葉はさんさんと昼の日差しに照らされ、変わりなく山積みになっている。照れくさくなって、櫻子は思わず辺りを見回した。昼下がりの道は人通りもなく、ときどき、風が乾いた土埃を巻き上げるくらいだった。

「当たり前だわ……」

 櫻子は苦笑し、ごみ袋を手に取る。無能な自分が何を夢見ても叶うことはない。この十九年間、何度も味わった事実だった。
 そのとき、ごう、と突風が吹いて櫻子にぶつかった。髪が乱れ、着古した絣の裾が翻る。木の葉の山が崩れて一面に葉が舞い上がった。

「きゃっ」

 思わず顔を覆ったが、突風は一度きりで、その後はぴたりと止んでしまった。櫻子は首を捻りながら、辺りに散らばった葉をもう一度かき集めるため、箒の柄を握り直した。

■ ■ ■

 珍しく父の庄太郎から呼び出しがあったのは、次の日の夜のことだった。
 夕食の片付けを済ませた櫻子が庄太郎の執務室へ向かうと、そこには父だけでなく、母と妹の姿もあった。父も母も不自然なほど愛想の良い笑顔を浮かべていたが、深雪は入室した櫻子を強く睨みつけた。その視線の強さに、櫻子は入り口のそばで立ち尽くす。

「おお、櫻子か、もっと近くに寄ると良い」

 猫撫で声で庄太郎が櫻子を呼ぶ。紅葉も庄太郎の前に置かれた座布団を手のひらで示し、優しげな微笑みを浮かべる。

「あなたはここへ座るのよ。私たちの可愛い娘ですもの。立ちっぱなしで大切なお話はできないわ」
「は……」

 櫻子は息を呑んだ。未だかつて、こんな言葉を母から渡されたことはない。母からぶつけられる言葉は、いつだって尖った侮蔑か怒声だった。
 その中で、深雪だけが無言である。母の隣に座った彼女は、唇を噛んで櫻子を睨みあげていた。櫻子にとってはむしろその方が気楽だった。

「失礼します」

 おそるおそる、示された座布団に座る。座った途端、誰が座れと言った! というような怒号が飛んできて張り倒されるのではないかと怯えたが、そんなことはなかった。父も母も、相変わらず不気味な笑顔を浮かべている。

「櫻子、お前ももう十九だろう。そろそろ嫁いでいい頃だと思ってな」

 庄太郎が口火を切った。櫻子は膝の上に置いた拳を握りしめる。今まで、櫻子に教育が与えられたことはなかった。茶の湯も琴も書道も、華族の娘にふさわしい手習いは全て深雪が享受すべきものだったからだ。そんな櫻子が、今さら嫁入り? 無能の娘を娶りたい物好きがこの國にいるとは思えない。どこぞの好色な男に妾として囲われるのだろうか。自分の想像に、櫻子は目の前が暗くなるのを感じた。

「櫻子は私たちの娘だ。親の言う通り、嫁いでくれるな?」
「は、い……」

 カラカラに乾いた喉で、なんとかそれだけ返事をした。どうせ嫌だといったところで頷くまで鞭打たれるだけだ。それなら素直に頷いてしまった方が被害が少ない。けれど、せめてこの先の運命くらいは知りたかった。
 必死に顔を上げ、父を見据える。娘の返事に満足した庄太郎はすでに立ち上がっていた。
 櫻子は口を開く。

「私は、どこへ嫁ぐのですか」
「ああ、言い忘れていたな」

 庄太郎は見たことないほど笑みくずれ、自慢げにその名を口にした。

「仁王路伯爵の次男にして至間國軍務局少佐、仁王路(におうじ)静馬(しずま)さまのところだ」

 櫻子は目を見開く。仁王路と言えば、彼女ですら知っている名門だ。強力な異能者を多数輩出し、御門の信頼も篤いと聞く。そんなところに、櫻子が? 何かの間違いではないのか。櫻子は慌てて頭の中の華族名鑑を引っ張り出し、仁王路家に若い女を好む助平爺がいなかったか記憶を辿った。いなかった。

「な、なぜそのようなところに私が……」

 呆然と呟くと、庄太郎がご機嫌で答えた。

「なんでも、櫻子を街で見かけて一目惚れしてぜひ正妻として迎えたいとのことだ。櫻子は紅葉に似て美しい顔立ちだからな。自慢の娘だよ」
「私でなく深雪の間違いでは」

 言いかけた櫻子の言葉を、深雪の叫びが遮った。

「そうよ! どうして無能のくせにお姉さまが選ばれたの!」

 深雪は座布団を踏みつけて立ち上がり、庄太郎に詰め寄る。庄太郎は愛娘の剣幕にたじたじとなりながらも、はっきり告げた。

「それは私も何度も確認したんだよ。でも、先方は無能の姉の方だと言うんだ。この家に無能は一人しかいない。私とて不思議だが、分かっておくれ。こんな訳の分からない縁談でも、仁王路家とつながりができる機会を逃すわけにはいかないんだ。それに深雪は変わらず我が相良家の後継者だ。そのうちに良い縁談を見つけてあげるから」

 フーッと荒い息を吐く深雪を宥めるように、庄太郎が言う。紅葉も腰を上げ「櫻子に一目惚れする男がいるわけないでしょう。何か裏があるに違いないわ。深雪の方がよほどまともな婚約ができるのだから」と深雪の背中を撫でる。

 散々な言われようだが、櫻子も全面的にその意見に賛成だった。一切合切が恋で片づく夢物語は存在しない。櫻子は何らかの異常事態に巻き込まれている。しかし、彼女の家族は娘を守るつもりはさらさらなく、むしろそんな厄介ごとに大切な深雪が巻き込まれなくて良かったと胸を撫でおろしているのだ。

 ——櫻子がふらついた足取りで執務室を後にしても、誰も彼女を追ってはこなかった。

■ ■ ■

 嫁入り当日。晴れ渡った空の下、櫻子は相良家の門前で仁王路静馬を待っていた。静馬の意向で結婚式は行わず、相良家まで静馬が櫻子を迎えに来る手筈になっている。以降、櫻子は彼の家で暮らす。それがこの婚姻の全てだった。
 今日の櫻子は、綺麗に髪を整え、化粧を施し、紅葉のお下がりの上等な訪問着を身にまとっていた。相良家令嬢に見えるよう、母が取り計らった結果だ。

「ふん、どうせとんでもない醜男よ」

 櫻子の後ろに立つ深雪が吐き捨てる。それでもおろしたての振袖を着ているのは、仁王路伯爵の名前に釣られたからに違いない。もし静馬の目に止まれば他の名家との婚姻につながる可能性だってある。
 そのとき、道の向こうから黒い自動車が走ってきた。至間國では自動車は高価だ。珍しい光景に櫻子が思わず目で追っていると、それはどんどん近づいてきて、やがて彼女の前にゆっくりと停車した。動物の唸り声のような、低いエンジン音に身をすくませる。背後に立つ深雪や両親も驚いたように息を呑むのが分かった。

 運転席のドアが音も立てずに滑らかに開く。そこから降りてきたのはすらりと背の高い美青年だった。櫻子より少し歳上だろうか。白皙の肌に凄みを感じるほど整った顔立ち。切れ長の瞳は血のような緋で、白銀の髪が日差しを受けてきらめいている。その身を包む黒の三揃いが、さらに凛々しさを際立たせていた。
 男は呆然と見上げる櫻子に微笑みかけると、優雅に一礼した。彼の耳に付けられた大ぶりの装身具が、涼しい音を立てて揺れる。

「仁王路家が次男、仁王路静馬と申します。この度は相良櫻子さまを貰い受けに参上しました」

 予想だにしなかった光景に、櫻子は瞬きひとつできない。最初に衝撃から覚めたのは父の庄太郎で、相好を崩して静馬に話しかけた。

「いえいえ、仁王路さまのような立派な方に嫁げるとは、ふつつかな娘にとっては望外の喜びでございますよ。ささ、櫻子も何か言いなさい」

 突然話の矛先を向けられ、櫻子はうろたえた。静馬が黙って櫻子を見ている。本人としてはただ眺めているだけなのだろうが、美しいものの視線には圧がある。結局、櫻子はぺこりと頭を下げ「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」と蚊の鳴くような声で挨拶を述べることしかできなかった。

「緊張していらっしゃるのかな」

 静馬が軽やかに笑う。それから一歩足を踏み出し、櫻子をふわりと抱き上げた。

「!?」

 足が宙に浮き、櫻子は身をこわばらせた。背と膝裏を支える静馬の腕は小揺るぎもしない。それでも櫻子は恐怖を感じ、もちろん静馬に抱きつくなどという芸当は不可能で、急に近づいた彼の顔を直視できず、ただ涙目で硬直するしかなかった。

「それでは皆さま、失礼しますね」

 庄太郎たちに何かを言う隙を与えず櫻子を助手席に座らせると、静馬は自分も運転席に乗り込んで車を発進させた。

■ ■ ■

「あの、一つお聞きしたいのですが」

 櫻子がようやく言葉を発する余裕を取り戻したのは、静馬の住む仁王路家の別邸に到着してからだった。國の中枢である至間宮に程近い場所に立つ屋敷は、櫻子からして見れば広大な洋館で、静馬に言わせれば仁王路家の本邸の物置らしい。静馬はその別邸に一人で暮らしており、今日からは櫻子と二人暮らしということだった。

「なにかな?」

 玄関ホールで、静馬と櫻子は向かい合う。静馬は優しげな微笑を浮かべているが、櫻子はどうしてもこの状況を無邪気に喜ぶことができなかった。

「どうして結婚相手に私を選んだのですか?」

 静馬は肩をすくめた。
「手紙に書いただろう? 君に一目惚れしてしまったからだよ」
「嘘です」

 櫻子は勇気をかき集め、きっぱりと首を横に振った。こんな失礼なことを言えば、激昂されるかもしれない。この婚約を破棄されるかもしれない。けれど、櫻子は言わずにはいられなかった。

「私は仁王路さまにお会いしたことがございません。会ったこともない人間に一目惚れをするのは、無理です」
「遠くから見ていたのかもしれないよ? 君は会ったことを忘れてしまったのかも。それに、君も今日から仁王路だ。静馬と気楽に呼んでくれて構わないよ」
「どんな遠くにいたとしても、仁王路……静馬さまのような目立つ方を見逃すことはあり得ませんし、一度会えば忘れられるはずもございません。……なぜ無能の私なのですか?」

 真っ直ぐに静馬を見つめる。静馬は笑みを消し、無表情で櫻子を見下ろした。

「無能だからだ」
「えっ?」

 思ってもいない答えにポカンと口を開ける。静馬は静かに手をあげ、手のひらに青い炎を出現させた。深雪の火花とは比べ物にならないほど大きく、少し離れた櫻子のもとまで熱さが伝わってくる。それを軽々と操り、廊下に並ぶ洋燈の一つに灯してみせた。

「異能病、という言葉を知っているかな? 異能を発動させるための異能力は、体内で生成されている。この生成能力が高ければ高いほど、より強力な異能者として至間国では尊ばれる。だが、異能を持つのは所詮人間の身。強すぎる異能力は、持ち主の身体を蝕み、食い荒らす。高熱、全身の痛み、強い倦怠感などを訴え、いずれ自我を喪失して死に至る。それが異能病だ。とはいえ、発病するケースは少ない。異能者は生きているだけで異能力を発散するし、至間國で過ごしていれば、異能を発動させることは呼吸と同義だ。異能力が身体に影響を与えることはない。——通常なら」

 静馬は言葉を切った。不自然なほどの明るさで燃え続ける洋燈を見つめながら、

「だがまれに、発散が追いつかないほど異能力の生成能力が高い者がいる。それが僕だ。僕は常時異能力を体外に発散する耳飾りを身につけ、どんな些細なことにも異能を使う。軍務局の少佐として精鋭の皆と異能を用いた鍛錬を行い、軍事行動では先陣を切る。それでも追いつかない。この派手な瞳や髪の色も強力すぎる異能の副作用だ。ついでに言えば、僕の生成能力は未だに成長を続けているらしい」

 苦笑すると、耳飾りがしゃらりと鳴った。洋燈の光を受けた耳飾りはぎらぎらした輝きを放っている。櫻子は呼吸も忘れて聞き入っていた。

「そこで目をつけたのが、君だ」

 静馬の緋色の瞳が、櫻子をとらえる。知らず彼女は肩をこわばらせた。

「君は無能だと言ったが、正確ではない。『無を能う』異能者だ。君はおそらく、触れる異能全てを無効化できる」
「な、何を根拠にそのようなことを……」
「君が門前で掃き掃除をしていたことがあっただろう? そのときに僕の異能で君を襲ってみた。使ったのは風を操る異能で、普通ならズタズタに斬り裂かれてひとたまりもない。だが、君は平然として木の葉の山を片付けていたから、推測が正しいとすぐに分かったよ」

 櫻子はめまいがした。あのときの突風は静馬の異能だったのだ。あのあと木の葉が散らばって片づけるのが大変だった。いや、それよりも。

「私が本当に異能のない人間だったらどうされていたんです……」
「そのときは僕が責任持って治療したさ。傷一つ残さないよ」

 何も問題はない、というような穏やかな口調だ。櫻子の背筋に冷たいものが走る。この人は、他人を一体なんだと思っているのだろう。そしてそんな人が櫻子を選んだ理由とはなんなのだろう。

「だから僕は君と結婚しようと思った。——櫻子、これは契約だよ」
「え……」

 静馬は櫻子に手を差し伸べ、低い声で囁いた。

「僕は君に仁王路家とのつながりを与える。君は僕に異能を発散させる機会を与える。悪いが、僕は僕のために君を逃がすわけにはいかない。君を妾として囲って、駆け落ちでもされたらたまったものではない。君は僕の唯一の妻だ。逃げたら地獄の底まで追いかけるから、そのつもりでいてくれ」

 その声の昏さに、櫻子は血の気が引いていくのを感じた。視界が明滅し、足元がふらつく。目の前の男が恐ろしかった。今までさまざまな悪意に触れてきたが、それとはまったく異質の、初めて見る情念。それでも、震える手を伸ばし、静馬の手を握りしめた。

「——はい。よろしくお願いします」

 静馬が少し驚いたように目を見開く。櫻子はその瞳を真っ向から見据えた。
 櫻子には、泣いて逃げ帰る場所などない。暖かく彼女を迎え入れてくれる家族もいない。嫁入りを決められた時点で——いや、無能の相良櫻子として生まれた時点で、運命は定められていたのだ。ここでやっていくしかない。どんなに辛い目に遭おうとも。
 櫻子は震える声で問うた。

「それで、私は何をすれば良いのでしょうか……?」
「毎晩僕の寝室に来て、少しの間手を握ってくれればいいよ」
「……それだけ、ですか?」

 目を瞬かせた櫻子に、静馬はそっけなく頷いた。

「それ以外に君には何も望まないよ。その代わりに、君は仁王路櫻子として好きに過ごすといい。百貨店に行けば最上級の待遇を受けられるし、仁王路の伝手をたどって伯爵夫人たちをパーティに招くこともできる。そうだ、この家には使用人がいないから好きなだけ雇おうか?」
「い、いえ……」

 戸惑って首を横に振る。相良家で使用人以下の存在だった櫻子には、静馬の並べる何もかもが、今まで想像すらもしないことだった。握りしめた静馬の手をそっと離し、櫻子は小さく呟いた。

「私も、特に望むことはございません。このお屋敷で過ごしていいのであれば、おとなしく暮らします」
「……ふぅん、そうか」

 静馬は不審げに目をすがめる。その視線が、櫻子の痩せた首元や、不自然に厚い化粧、上等だが古い訪問着の裾をたどった。

「まあ、君が良いと言うなら、それで構わないが」