翌日、春麗は佳蓉と共に再び水月の姿を探していた。日差しが熱くなり太陽の位置が高くなった頃、佳蓉が声を上げた。

「ああ、いらっしゃいました」

 春麗の住む槐殿から桃燕の住む梅花殿に向かう途中にある()(おう)()()(はん)に水月はしゃがみ込んでいた。忙しいと言っていたけれど、何かをしているようには見えなかった。やはりあれは春麗の誘いを断るための言い訳だったのだろう。

 ぼんやりと池を見つめる水月は、まだ春麗と佳蓉が近くに来たことに気付いていない。さらに春麗は水月に近寄った。その時、水月の頬に痣があることに気付いた。襦裙の裾から覗く足にもいくつもの痣が見える。古いものから最近付けられたと思われるものまで大小様々あった。

 春麗が一歩踏み出した時、池畔にいた鳥たちが一斉に飛び立った。その音で水月は振り向き、ようやくそこに春麗がいることに気付いた。

「あ……っ」
「待って! 逃げないでください!」

 慌てて駆け出そうとする水月の手を春麗は掴んだ。袖から覗く腕には痣だけではなく切り傷も目立つ。春麗の視線が自分の腕に向けられていることに気付いた水月は慌てて袖でそれらを隠した。

「……水月様、もう隠さないでください」
「な、んのこと、でしょう、か」
「私、全部知っています。誰が、水月様にこのようなことをしたのかも。私のために、それを黙っていてくださったことも」
「な……」

 水月は一瞬言葉に詰まり、揺れる瞳で春麗を見た。そんな水月の瞳を春麗は真っ直ぐに見つめ返す。大丈夫だと、自分が守るからとそう伝えたかった。

――しかし。

「春麗様は何か勘違いしていらっしゃいます」
「勘違い?」

 水月の言葉は、春麗の想像とは違っていた。

「はい。……嫌がらせを受けていることはその通りです。ですが春麗様がおっしゃった『私のために』という言葉、これは違います。私は、私のために春麗様を避けたのです」
「それ、は、どういう……」
「……春麗様と一緒にいるとまた嫌がらせをされかねません。ですから離れました。それだけです」

 水月の言葉に、春麗は息を飲んだが、すぐに気を取り直す。

「そう言って私を守ろうとしてくださってるのですよね」
「違います。違うんです。……もう放っておいてください」

 向かい合ったまま震える声で水月は言う。言葉では否定していてもその瞳はとてもそうは言っているように思えなかった。

 水月は何かを隠している。きっとそれは春麗のためを思ってのことだと思う。しかし、今の水月は教えてくれない。

「……水月様」

 春麗は水月から手を離すと、自分自身の頭に刺さっている簪を引き抜いた。それは先日、青藍から貰った南方で加工をされたという簪だった。
対になっている簪の片割れは、いつか水月に渡したいと思い大事にしまっていたのだけれど。

「これを受け取ってはもらえませんか」
「簪、ですか」

 一瞬、手を引こうとした水月だったが、春麗がその手に握らせると諦めたように受け取った。薄い桃色の玉がついた簪に、水月はポツリと呟いた。

「まるで春麗様のような玉ですね」

 その言葉に、春麗が何か言おうとするよりも早く「失礼します」と頭を下げ、水月はその場をあとにした。残された春麗は去って行く水月の背中を見つめることしかできなかった。

 そんな春麗に、そばに控えていた佳蓉が声を掛ける。

「戻りましょうか」
「……うん」

 先程までの水月の言葉を反芻しては、それでも信じたいと春麗は思う。

 言葉少なに歩き出す春麗に、佳蓉は寄り添うように言った。

「私、昨日の言葉撤回致します」
「佳蓉?」

 思わず足を止め、後ろにいる佳蓉を見る。佳蓉は真っ直ぐに春麗を見つめていた。

「自己保身のために春麗様を避けているのだとそう言いましたが、そうではありません。きっとあの方は何かを隠しています」
「……うん、私もそう思う」

 春麗自身、水月のことを信じている。きっと水月の言葉は本心ではないと思っていた。それでも僅かにあった不安な気持ちが、佳蓉が言い切ってくれたことで、(いく)(ぶん)か紛れた気がした。

 青藍の決めた期限は刻一刻と近づいている。明日中になんとかできなければ、青藍は約束通り桃燕に処刑を言い渡すだろう。春麗のために。

「どうすればいいのだろう」

 もう一度、桃燕の元に行ったところで追い返されるのは目に見えている。水月が誰かに嫌がらせを指示、もしくは実行しているのが桃燕だという証拠をどうすれば突きつけられるのだろう。

「主上に助けて頂くわけにはいかないのですか?」

 確かに青藍に頼めば証拠も何もかも揃えてくれるだろう。
しかし、それでは春麗が解決したとは言えない。

「……私、ね。主上の隣に立っても、恥じない人間になりたいの」
「春麗様……」
「後宮に来るまでの私なら、今回のようなことを解決するのは、絶対に無理だって諦めていた。私が手を出すよりも主上に全てを任せて水月様を助けてもらえれば、その方が誰にも迷惑をかけないし、いいって」

 人の顔色を窺い、怯えながら生きていたあの頃なら、きっと。

「でも、どうしてだろう。今は私のせいで起きたことの責任は私が取りたい。大切な友人も私が守りたい。もう何一つとして諦めて逃げたくない。そう思うの。……我が儘だってわかっている。それでも……」

 佳蓉に言いながら言葉にすればするほど、自分の我が儘でしかないのではという思いが大きくなる。春麗の気持ちよりも、今苦しんでいる水月を助けるのが先ではないか。

 春麗のせいで苦しんでいるのに、自己満足のためにその苦しみを長引かせるなどあってはならないのではないか。

「そう思っていたのだけれど、やっぱり――」
「いいのではないですか?」

 佳蓉の言葉と重なるようにして華鳳池の中で何かが跳ねる音が聞こえた。一瞬、意識がそちらに引っ張られ、そしてもう一度佳蓉を見た。

「え?」

 佳蓉の言葉は春麗にとって意外なものだった。そんな無茶はするなと、青藍に任せて春麗はゆるりと過ごすように言われるのだと思っていた。聞き返した春麗に佳蓉は優しく微笑んだ。

「そのために、主上に姜宝林様の安全をお願いされたのでしょう?」
「それは、うん。そう、だけれど」
「では、姜宝林様のことは主上を信じましょう。あの方が任せろとおっしゃったのであれば必ず大丈夫です。なにしろ、我が国の皇帝陛下ですから」
「ふふ、そうだね」

 そうだ、帝国で一番の権力者に水月のことは頼んだのだ。春麗が心配することはない。今の春麗がしなければならないのは、桃燕に今までのことを認めさせること、そしてこれからは何もしないと約束させることだけだ。

「頑張らなくちゃ」
「無理はなさいませんよう。春麗様に何かあれば、私の首もきっと繋がってはいないでしょうから」
「そんなわけ――」

 ないでしょと笑おうとして佳蓉の表情が真剣なことに気付く。その顔に青藍のことを思い出し、もしかしたら笑い事では済まないかもしれない、と背筋が震えた。春麗が表情を曇らせただけで、その元凶である桃燕を処刑しようとしたぐらいだ。春麗に何かあれば処刑どころでは済まないかもしれない。佳蓉が「九族皆殺し……」と呟いたのが聞こえて、背筋を悪寒が走った。

「……気をつけるね」
「そうして頂けると助かります」

 淡々と言っているが、春麗の身を案じているのだと伝わってきた。春麗にとって青藍は大切な人だ。水月は大事な友達だ。それでは佳蓉は? 主と侍女、という立場ではあるけれど、春麗にとって佳蓉は。

 隣に立つ佳蓉の姿を春麗は気付かれないように見上げる。春麗よりも二つ年上の佳蓉はいつもしっかりしていて、後宮に来たばかりの頃から春麗を支え導いてくれている。

 最初こそ佳蓉の態度にむず(がゆ)く思い、戸惑うこともあったが、今となれば侍女になってくれたのが佳蓉でよかったと思う。そう、佳蓉がいたから今の春麗がある。

「春麗様?」

 視線に気付いた佳蓉が、不思議そうに首を傾げた。そんな佳蓉に、春麗ははにかみながら笑った。

「佳蓉はまるで私のお姉さんみたいだね」
「なっ……そのようなこと、おっしゃってはいけません!」
「今は誰も聞いていないから、ね」

 春麗の言う通り、華鳳池の周辺に人の姿はなかった。笑顔を浮かべる春麗に佳蓉はため息を吐いた。

「聞いていなくても口にしてはいけないのです」
「わかったわ」

 佳蓉の言葉に春麗は肩を落とした。そんなふうに叱られるとは思っていなかった。ただ友達とは違うこの関係に名前を付けようとした、それだけなのに。

 落胆する春麗を見て佳蓉は困ったように微笑んだ。

「ですが、ありがとうございます――」
「え? 今っ」

 聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で佳蓉が言った言葉を、春麗は思わず聞き返す。けれど。

「なんですか?」
「……ううん、なんでもない」

 すまし顔で、けれど少しだけ照れくさそうな表情を浮かべた佳蓉に、春麗は首を振ると「行こうか」と襦裙の裾を(ひるがえ)して歩き出した。そのすぐ後ろを佳蓉もついてくる。どこかくすぐったさを感じる。しかし、これ以上その感情に(ひた)ることはできない。春麗はまだなにもできていないのだ。

 昨日と同じように華鳳池を通り過ぎると桃燕の住む梅花殿へと向かった。もう一度きちんと話をしよう。今度こそ(しら)を切られないように。そう思う春麗だったが、梅花殿で門前払いをされた。

「お会いできないとはどういうことですか」

 門前に立つ女官に佳蓉は尋ねたが、女官は頑なに首を振り続けた。

「先程もお伝えした通りです。黄昭儀様は本日はお忙しくお会いになることはできません。お引き取りください」
「確認もせずそのように言われて、引き下がれるわけがないでしょう。春麗様がお会いしたいとおっしゃっているとお伝え頂けませんか?」
「確認は必要ございません。どなたかとは違い、昭儀であられる桃燕様はお忙しい身。特に本日は主上が梅花殿へといらっしゃるのですから、その前になどお会いできるわけがございません」
「主上が?」

 女官は春麗の様子を窺い見るかのように視線を向け、それから満面の笑みを浮かべた。

「ええ。主上からの達てのお申し出ということで、本日お二人でお過ごしになるそうですわ」

『主上からの達てのお申し出』を強調して女官は言った。その意図は見え見えなのだが、さすがに女官が皇帝である青藍の言葉を騙るとも思えず、春麗の胸中は穏やかではいられなかった。呆然とする春麗を女官は鼻で笑う。

「お帰り頂けますね」

 女官の言葉に春麗は頷くことしかできなかった。

 無言のまま槐殿への道のりを早足で歩く。一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。梅花殿を出て、華鳳池を通り過ぎた頃、ようやく速度を落とした春麗に、佳蓉は心配そうに声を掛けた。

「春麗様、あの」

 佳蓉の言葉に、春麗は足を止めた。

「……大丈夫。心配しないで」

 何とか笑顔を浮かべると、佳蓉を振り返った。表情を隠すのは得意だった。苦しくても悲しくても無表情を貫き、感情を殺し生きてきた。それなのに。

「あれ? おかしいな」

 笑っているはずなのに口角が引きつる。それなら感情を押し殺してしまおう。そう思うのに、思えば思うほど眉尻が下がっていく。これではまるで泣きそうな顔だ。

「ご、ごめんね。なんか、上手く笑えなくて。その」
「……このような時まで、笑おうとしなくてよろしいのですよ」
「でも」
「無理に感情を押し殺そうとしないでください。ここには私しかおりません」

 佳蓉の言葉に春麗は「ありがとう」ともう一度笑おうとし、やはり上手く笑えないまま引きつったような笑みを浮かべることしかできなかった。

「主上が黄昭儀様の元にいらっしゃるという件ですが」
「えっと、うん。しょうがないよね。主上は皇帝陛下だし、他の妃嬪に対しても平等に接しなければいけないと思うし、だから、その」
「いえ、おそらく先程のあれは黄昭儀様のお父上が関わっているのでは、と思われます」
「お父上?」

 佳蓉の言葉に春麗は首を傾げた。確か、桃燕の実家は高官を輩出することで有名だと以前に佳蓉が言っていた。

「ええ。黄昭儀様のお父上からの頼みであれば、主上といえど断ることは容易ではないかと」

 それはつまり、青藍の意思ではなく、政治的な意図があり桃燕の宮を訪れることになったと、佳蓉はそう言いたいのだろうか。

「で、でも。もしかしたら本当に主上が望まれたのかも」
「あり得ません」
「どうしてそう言い切れるの?」
「逆に、どうして春麗様は主上がそう望まれたのだと思われるのですか? まさかと思いますが、主上のお気持ちがおわかりになっていないなどと言うのではございませんよね」

 そう言われてしまうと、春麗は何も言えなくなる。青藍が度々春麗の宮を訪れているのは事実だ。さらに、今までは他の妃嬪の宮を訪れるようなこともなかったと水月が言っていた。それはつまりほんの僅かではあるかもしれないが、春麗のことを特別に想ってくれているということだと、思ってもいいのだろうか。

 黙り込む春麗に佳蓉は深々とため息を吐いた。

「春麗様、さすがに主上がお気の毒です」
「佳蓉! 誰かに聞かれたら不敬に」
「ですから、周りにはどなたもいらっしゃらないので大丈夫です」

 すでに華鳳池からさらに奥へと歩いている。これ以降にある宮は春麗の住む槐殿以外には古びて今は誰も住んでいないような殿舎ばかりだった。

「だからって」
「春麗様。私の目には主上は春麗様を愛おしく思っておいでのように映ります」

 はっきりと言い切る佳蓉を前にし、春麗は再び口を閉じた。そうであって欲しいと思う気持ちと、自分などが誰かから愛されるなど有り得ないと思ってしまう気持ちがせめぎ合う。
愛されたい。しかし、長年染みついた価値観というのはそう簡単に変えられるものではない。春麗には自分が他人から愛されているという自信がない。

「不安であれば主上にお尋ねしてみるのはいかがでしょう」
「尋ねるって、何を?」
「そうですね。例えば『私のことを愛しておいでですか?』ですとか」
「そ、そんなこと無理に決まっているわ」

 考えただけでも頬が熱くなる。実際に青藍に面と向かって言うなど春麗にはできそうになかった。そんな弱気な春麗を佳蓉は咎める。

「ですが春麗様は不安なのでしょう? であれば、その不安は主上に解消して頂くよりございません」

 佳蓉の言うことは最もなのかもしれないが、春麗にその課題は難しすぎる。それに、今はそれどころではない。今、春麗がすべきことは水月に対する嫌がらせが桃燕からだということを認めさせ、やめさせることだ。

 今は青藍の命で守られてはいるが、いつまでも甘えるわけにはいかない。それに春麗に与えられた期間は三日。明日がその刻限なのだ。

 なんとかできるつもりでいた。なんとかしたかった。なのに結局、何もできないまま時間だけが過ぎていく。

「春麗様?」
「……うん。佳蓉の言うことはわかるの」
「では!」

 顔を輝かせた佳蓉に「でも」と春麗は首を振った。

「今は、聞かない」
「何故です?」
「今、私がしなければいけないのは、水月様をお助けすることだから」
「あっ」

 春麗の言葉に、佳蓉は顔を青ざめ頭を下げた。

「申し訳ございません。私……」
「頭を上げて。大丈夫だから。でも、せっかく言ってくれたのにごめんね」

 申し訳なさそうにする佳蓉に気にしないように言うと、春麗は槐殿へと戻った。佳蓉は先程の失言を気にしてか「夕餉を取りに行くその足で姜宝林様のご様子を見てきます」と殿舎をあとにした。

 一人残された春麗は長椅子に座るとため息を吐いた。今頃、青藍は桃燕と一緒なのだろうか。二人でどんな話をしているのだろうか。ここで春麗にしたように、桃燕の頭を引き寄せそして――。

「っ……」

 二人の様子を想像するだけで胸が苦しい。春麗は(きょう)()の胸元をぎゅっと掴んだ。せっかく佳蓉が綺麗に着付けてくれた襦裙が台無しだ。今はそんなことを考えている時ではないだろう。誰のせいで水月が嫌がらせを受けていると思うのだ。こんな時まで自分の感情を優先させるなどさもしいにもほどがある。

 頭ではそう理解しているのに、心がついていかない。

「主上……」

 長椅子の肘置きに春麗は頭をもたれ掛けた。簪を外したせいで、乱れたのか髪の毛が頬に落ちる。払いのけるために腕を上げるのも(おっ)(くう)だった。春麗は重い瞼を閉じると、そのまま眠りについた。



 目が覚めると辺りは薄暗かった。今はいつの刻だろうか。夕餉を取りに行くと言っていた佳蓉は戻ってきたのか。そもそも自分はどうして臥牀に横たわっているのだろう。まだ覚めきらない頭をなんとか覚醒させながら、春麗は臥牀から身体を起こした。襦裙だったはずだがいつ着替えたのか、被衫を身に纏っていた。

 どうなっているのだろう。臥牀を出ると春麗は小窓を開けた。闇が残る中、東の空に(けい)(めい)が輝いているのが見えた。間もなく夜が明けるのだろう、真夜中の暗さとは違い、青みがかり明け始めた空は、昼間に見えるそれよりも綺麗に見えた。

「綺麗……。って、もうすぐ朝? え、嘘。どうして?」

 夕餉を食べるどころか、朝まで眠ってしまっていた。驚きを隠せずにいる春麗の耳に、何かが擦れるような音が聞こえた。

「誰?」
「春麗様、お目覚めですか」
「佳蓉?」

 音の正体は佳蓉だったようで、扉が開き顔を覗かせた。

「おはようございます」
「おはよう。私、いつの間にか眠ってしまっていたみたいで」
「起こしはしたのですがお疲れのご様子で。着替えて寝る、とのことでしたのでそのようにさせて頂きました」
「そう。うん、ありがとう」

 昨日は水月を探し回り、そのあと梅花殿へと向かったこともあり疲れていたのだろう。言われて見れば、確かに佳蓉にそんなことを言ったような、気がする。せっかく夕餉を取りに行ってくれたというのに申し訳ないことをしてしまった。

 ふう、と息を吐いた春麗の頬に、先程開けた小窓から入ってきた風が触れる。

 被衫に着替えていたとはいえ、まだまだ暑いこの季節。じっとりと汗を掻いたのか湿っぽくなっている。妙にべとつく被衫に眉をひそめ、それからそんなことを思ってしまう自分自身に笑ってしまった。

 生家にいた頃は、これくらいのべとつきはいつものことだった。井戸で身体を洗うのだってよくて数日に一度だった。それなのに今ではたった一日(もく)(よく)できないだけでべとつきが気になるとは。

 被衫に手をかけたまま動作が止まった春麗に気付いたのか、佳蓉が声を掛けた。

「春麗様、沐浴の準備を致しますので申し訳ございませんが、もう少々そのままお待ち頂けますか?」
「うん、ありがとう」

 必要ないと断ることもできたが、春麗は位階はないとはいえ青藍の妃嬪だ。いつ宮を青藍が訪れるかわからない以上、毎日清潔にしておくことは最低限のたしなみであった。それをさせないことは、侍女である佳蓉が責められることを、春麗は知っていた。

 佳蓉が準備してくれた湯涌で頭と身体を洗い、(よく)(そう)で身体を温める。本来であれば四夫人や九嬪といった上級妃の使う殿舎以外に風呂はない。下級妃や女官は決められた時間に浴場で頭や身体を洗う。湯には数日に一度入れるとのことだった。

 しかし、春麗の住む槐殿はその昔、上級妃が住んでいたらしく湯殿が備え付けられていた。おかげで湯を沸かしさえすれば、殿舎にいながら沐浴ができるというのはありがたい限りだった。

 べとつきもなくなり、身体を拭いた春麗は真っ白な(はだぎ)を身につけた。いくら空が白んできているとはいえ、朝餉の時間にはまだ早い。日が昇ると共に働き出す女官や宦官たちもさすがにまだ寝静まっている頃だろう。

 今も湯殿の扉の前で控えているであろう佳蓉もそうだ。普段であればまだ眠っているはずの時間に、自分のせいで起こしてしまったことを申し訳なく思う。春麗が疲れていたのであれば、同じだけの道のりを歩いた佳蓉も疲れていただろうに。

 そうだ、まだ眠いことにしてもう少し休ませてあげよう。春麗はそう決めると衫のまま湯殿を出た。

「春麗様、お着替えは」
「もう少し休もうかなって。だから佳蓉も私のことは気にせず眠ってくれて大丈夫よ」
「ですが」
「まだあと半刻は眠れるでしょ。私のせいで起こしてごめんね」

 春麗が微笑むと佳蓉は申し訳なさそうな、けれど少し安心したような表情を浮かべていた。わざとらしく欠(あくび)をすると春麗は臥牀へと戻った。身体が温まったからか、本当に眠くなってきた。半刻ほどではあるけれど眠ってしまおう。

 瞼を閉じてうつらうつらし始めた頃、俄に外が騒がしくなった気がした。何かあったのだろうか。佳蓉に確認しようとして身体を起こしたその時、部屋の扉が開き佳蓉が飛び込んできた。

「しゅ、春麗様。お召し物を」
「どうしたの?」
「い、今」
「先触れなしに失礼するぞ」
「あ――」

 佳蓉の声を遮るようにして現れたのは青藍だった。普段着ている黄袍ではなく、袍衫を纏っただけの軽装だった。とはいえ、衫姿の春麗ほどではない。慌てて(ふすま)を引き寄せ身体を隠した。

「あー……その、すまない」

 春麗の様子に、ようやく我を取り戻したのか青藍は気まずそうに顔を背けた。春麗はひとまず衾を背中から羽織ると、青藍を見ずに口を開いた。

「どうなさったのですか」
「……俺が、俺の妃に会いに来て問題があるのか」
「問題はございませんが、まだ日も昇らぬ頃。何かあったのかと思いまして」
「……ったからな」
「え?」

 青藍がポツリと言った言葉が春麗には聞き取れなかった。春麗が聞き返すよりも早く、青藍は春麗の臥牀に近づくとその縁に腰掛けた。音を立てて臥牀が軋む。

「あ、あの」
「顔が見たかっただけだ」
「主上……」

 まさかそのような言葉をきくとは思ってもみなかった。春麗は頬が熱くなるのを感じる。

 青藍は片手に体重をかけると、反対の手を春麗の頬に伸ばしてきた。
指先が頬に触れ、思わず肩が震える。そんな春麗を見て青藍は笑った。

「お前はいつまで経っても慣れないな」
「も、申し訳ありません」
「謝らなくていい」

 青藍は春麗の唇を親指でなぞるともう一度笑った。

 そのあと、青藍は本当に顔を見に来ただけのようで日の出と共に自分の宮へと戻って行った。

「一体何だったんだろう」
「先程もおっしゃってらしたじゃありませんか。春麗様のお顔が見たかった、と」
「で、でもたった一日会えなかっただけなのに」

 運んできた朝餉を小卓に並べながら佳蓉は言う。

「ええ。ですから、昨日お会いできなかったことを大変悔やんでいたそうです」

 そういえば、昨日は青藍が槐殿に来ることはなかった。桃燕と過ごす、と言っていたからおそらくそのせいで――。

「昨日は大変だったそうですよ」
「え?」
「浩然様が先程おっしゃっておられましたが、やはり黄昭儀様がお父上に頼まれたようで、無理矢理予定を入れられたそうです。主上も無下には、できず昼は黄昭儀様と、そして夕餉は黄昭儀様のお父上とご一緒だったようで、ただひたすらに眉をひそめたまま時間が経つのを待っていらしたようです」

「そう、なんだ」

 春麗は青藍が桃燕と共に過ごしたけれど楽しんでいなかった、ということに安堵する自分がいることに気付いた。いつから自分はこんな嫌な人間になってしまったのだろう。人の不幸を喜ぶような嫌な人間に。

「でもよかったですよね」
「佳蓉?」

 だから自分が思っていたことを佳蓉が口に出したことに春麗は驚きを隠せなかった。

「な、何を言っているの。よかったなどと、そんな」
「どうしてです? では春麗様は主上が黄昭儀様とご一緒に過ごされて楽しまれた方がよかったとおっしゃるのですか?」
「そういうわけでは、ないけど」

 思わず正直に言ってしまった春麗に佳蓉は微笑んだ。

「好きな人が他の女性と共に過ごすことに、心穏やかでいられる人間など一人もおりません。相手がたとえ主上だったとしてもです」
「え……?」

 佳蓉の言葉の意味が一瞬理解できなかった。好き? 誰が? 誰を?

「私が――主上を?」

 好き。

 口に出した瞬間、その言葉がすとんと胸の奥深くに下りてきた。まるで最初からそこにあったかのように、ずっとそこにいたかのように。

「この感情が、好き?」

 青藍のことを考えると心臓の鼓動が早くなる。触れられると頬が熱くなる。青藍が他の妃と一緒にいたかと思うと、胸の奥が痛くて苦しくて泣きたくなる。そんな感情の名前が、好き――。

「で、でも私なんかが主上を好きになって本当にいいのかな」
「『私なんか』とおっしゃるのはおやめください。それに、誰かが誰かを想う気持ちというのは他人には干渉することのできない、大切なものなのです」
「佳蓉……」

 呪われた目を持つ自分が、誰かを好きになってもいいと、そう言うのだろうか。人の死に一番近い呪われた自分が、本当に好きになっても、いいのだろうか。

「たとえ誰かが否定したとしても、春麗様だけはその気持ちを否定しないであげてください。春麗様がご自分のことをお好きではないことを知っています。でもきっと、誰かを好きになれるということは、自分のことも好きになれるとそう思うのです」

 佳蓉は春麗の金色の目を真っ直ぐに見て微笑みかけた。

 ずっとこの目が怖かった。どうしてこんな目があるのかと恨んだことは数え切れない。自分自身が受け入れられなかったこの目を、青藍だけは最初から受け入れてくれた。

 もしかしたらあの日、この目にかかった呪いを知ってもなお受け入れてくれたあの瞬間から、春麗は青藍に惹かれていたのかもしれない。

「うん、もう否定しない。私は主上が好き」
「そのお気持ちを是非、主上にお伝えください」
「そ、それは……ちょっと……」

 口ごもる春麗に何を勘違いしたのか、佳蓉は「確かに、こういうことは男性の方から言って頂きたいものですよね」と難しい表情を浮かべてブツブツと言っていた。

 矛先が変わったことに安堵し、春麗はすっかり冷めた朝餉に手を伸ばす。今頃青藍も朝餉を口にしているのだろうか。

「いつか一緒に朝餉が食べられたらいいな」

 思わず口をついて出た言葉に、佳蓉は嬉しそうに手を叩いた。

「そのためにはやはり(どう)(きん)して頂くのが一番かと!」
「も、もう! 朝から何を言ってるの!」
「ですが――」
「佳蓉の馬鹿!」

 春麗は匙を手に取ると(かゆ)(すく)い口に入れた。突然怒られた佳蓉は理由がわからないと言いたげに首を傾げ「何を怒ってるのですか?」と真剣に尋ねてきた。

 槐殿で賑やかな朝餉の時間が流れる頃、後宮ではちょっとした騒ぎが起きていたのだが、二人はそれを知るよしもなかった。