その日、佳蓉が持って帰ってきた返答は「明日お伺いさせて頂きます」という肯定的な返事だった。椅子に座っていた春麗は、佳蓉の言葉に思わず立ち上がった。

「め、迷惑そうじゃなかった?」
「いいえ。喜んでいらしたように私の目には映りましたよ」
「本当?」

 パッと顔を輝かせる春麗に、佳蓉は座るように促した。椅子に座り直す春麗を見ながら佳蓉が笑みを浮かべたのがわかった。

「どうしたの?」
「いえ、後宮に上がられた当初よりも、明るくなられたと思いまして」
「そう、かな」

 自分自身ではわからない変化を指摘され、春麗は頬を押さえる。明るく、なったのだろうか。わからない。けれど、ここでは一人の人間として扱ってもらえている。恐ろしい場所だと聞いていた後宮だったが、生家にいた時よりも生きていると思わせてくれる。

「そうかも、しれない」
「明日が楽しみですね」
「うん」

 明日、水月が槐殿を訪れたらどんな話をしようか。水月は何が好きだろうか。そのようなことを考えるうちに、あっという間に時間は過ぎた。

 翌日、臥牀を出て被(ねまき)から襦裙に着替える。佳蓉に髪を整えてもらい、いつもなら下ろす前髪を横に分けてもらった。鏡に映る春麗の目が戸惑い震えていた。

「春麗様……」

 その姿を見ていた佳蓉は心配そうに声を掛けた。春麗はなんとか笑顔を作ると小さく頷いた。大丈夫。もう逃げない。

 小卓には青藍から贈られた茘枝。それから水月が来たら淹れられるように茶の準備をした。

 落ち着かない春麗は部屋の中を行ったり来たりしてしまう。そんな春麗の様子に佳蓉は小さく笑った。

「春麗様、少し落ち着いては? お茶をお淹れしましょうか?」
「そ、そうね。……ううん、やっぱりいい。水月様がいらっしゃってから一緒に飲むわ」
「承知致しました」

 ふふ、と(こぼ)れる笑みを隠しきれないまま佳蓉は頷いた。そうこうしているうちに約束の刻限がきたが、水月が訪れることはなかった。

「春麗様……」
「大丈夫。まだ少し時間が経っただけだから」

 四半刻、半刻と時間が過ぎても水月は姿を現さなかった。何かあったのだろうか。それとも春麗の元に来るのが嫌になったのだろうか。だとしたらどうして昨日は行くと言ったのだろう。

「もしかしたら何かあったのかもしれません。一度様子を見て……」

 佳蓉がそう言った時、殿舎の入り口が騒がしくなった。慌てて佳蓉が様子を見に行くと、珍しく大きな声を出した。

「春麗様! 姜宝林様がいらっしゃいました!」
「えっ」

 佳蓉のあとを追いかけるように春麗が入り口へと向かうと、そこには水月の姿があった。春麗の顔を見るなり、水月は申し訳なさそうな表情を浮かべると頭を下げた。

「遅くなり、申し訳ございません」
「大丈夫ですから、頭をお上げください」
「ありがとうございます」

 顔を上げる水月の目を、春麗は真っ直ぐに見た。水月は驚いたような表情を浮かべたが、それも一瞬で、そっと微笑んだ。

「綺麗な、金色の瞳ですね」
「あ……」

 その言葉があまりにも優しくて、春麗の頬を温かいものが伝い落ちていく。佳蓉が慌てて差し出してきた手巾を受け取り、涙をそっと拭った。

 心の奥底で、もしかしたら気味悪がられるのではないかと不安があった。水月なら大丈夫だと、信じたいと思ってはいたものの、どうしても不安が残っていた。しかし、春麗の不安を拭い去るように、水月は微笑んでくれた。

「水月様、ありがとうございます」

 春麗は水月の手を取った。

「本当に、ありがとうございます」

 頭を下げ肩を振るわす春麗が落ち着くまで、水月はそばに居続けた。
 ようやく春麗が落ち着き、二人は小卓についた。春麗が佳蓉に茶の準備を頼むと、水月は口を開いた。

「本日はお招き頂きましたのに、遅れてしまい申し訳ございませんでした」
「いえ、大丈夫です。お忙しい中、お呼びして申し訳ないです」
「そんな! お招き頂けてとても嬉しかったのです。ですが、出がけに仕事を頼まれてしまい……。春麗様には遅れることを伝えておくと言われたのですが」
「え?」
「お聞きになられていない、ようですね」

 水月の言葉に、春麗は頷いた。一体どうしてこんなことになったのだろう。そう思った春麗の脳裏に一人の人物の姿が浮かんだ。まさか、でもそんなことをする人物は一人しか……。

「あの、変なことをお尋ねしますが、仕事を頼んだというのはもしかして、黄桃燕様、でしょうか」
「え、ええ。そうですが」
「ああ、それで……」

 全てが繋がった気がした。

「以前、私の襦裙が汚れ水月様に助けて頂いたことがありましたよね。あの時、私を突き飛ばし襦裙が汚れる原因を作ったのが黄桃燕様なのです」
「あ……」
「巻き込んでしまい、申し訳ございません」

 春麗は椅子に座ったまま、水月に頭を下げた。自分のせいで水月を巻き込んでしまった。その事実が春麗には悔しくて申し訳なくて仕方がない。水月はそんな春麗に首を振る。

「頭を上げてください」
「ですが」
「私なら大丈夫です。それより、春麗様がそんな顔をなさることの方が心苦しいです」
「水月様……」

 頭を上げた春麗を、水月は優しく微笑み見つめた。

「私のような者がこのようなことを言うなんて烏滸がましいかもしれませんが。先日、春麗様と一緒にお茶をした時間がとても楽しくて。なんだか後宮に上がる前の、まだ実家で暮らしていた時のことを思い出しました。だから今回、春麗様からお誘い頂いて、凄く嬉しかったのです」
「私もです! 水月様と過ごした時間がとても楽しくて、こんなふうに誰かと一緒にお茶をする時間なんて初めてで、つまり、えっと」
「ふふ、私たち同じことを思っていたのですね」

 はにかみながら笑う水月に、春麗は微笑み返す。「友達になりたい」そう伝えるつもりだったが、そんな言葉などなくても、きっと水月も同じ気持ちだ、そう思えたことが春麗には幸せだった。

 暫くして、佳蓉が見計らったように茶を持ってきたので、春麗と水月は茘枝を頬張りながら茶を飲むことにした。

 甘酸っぱくてみずみずしく、なんとも美味しい茘枝を始めて食べた時、春麗はとても感動したのだが、水月も「春麗様はこのような果物を食べられてるのですね」と驚いていた。勧められるままにもう一つ茘枝を手に取った水月は、ふと思い出したように言った。

「誰かと一緒にお茶をするのが初めてだとおっしゃいましたが」
「ええ。生家にいた頃はそのようなことをしたことはなくて」

 あの頃を思い出すと今もまだ胸の奥がキリキリと痛むが、もう二度と帰ることはないのだと思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、忘れても許されるのかもしれないと、思えるようになった。だから苦笑いは浮かべてしまうが、あの頃のことを話すことができた。

 そんな春麗に、何故か水月は悪戯っ子のような表情を浮かべる。

「ですが主上とは、二人でお茶を飲んで過ごされているのでは?」
「え、あ、そ、それは」

 水月の言葉に青藍のことを思い出し、春麗の体温が上がった。頬が上気していることに気付き、慌てて両手で隠した。

「ふふ、何を思い出されてそのような表情をされているのですか?」
「や、そ、その」

 何と言えばいいのか春麗が困っていると、目の前で佳蓉がクスクスと笑っているのが見えた。これは、もしかして。

「揶揄いました?」
「そういうわけではないのですが、そのような表情を浮かべるようなことがあったということでしたら、黄昭儀様が(しっ)()なさるのも無理ないことですわ」
「え?」
「主上は後宮を持たれてはいますが、必要以上にこちらにいらっしゃることはございません。お渡りもありませんし、そもそも自分からどなたかの宮へ行かれたこともないのではないでしょうか。もしかすると母后陛下を亡くされた後宮という場所を好ましく思われてはいないのかもしれません。死の皇帝と呼ば
れていることも相まって、春麗様が後宮にいらっしゃるまで代替わりから数カ月ございましたが、後宮へのお出ましは数えるほどしかなかったように思います」

 水月の言葉に春麗は驚きを隠せなかった。春麗の知っている青藍は、怪我をした春麗を心配し駆けつけてくれ、甘いものや珍しいものなどがあれば、わざわざ槐殿に持ってきてくれた。顔を出せない日でも浩然に言付けて色々なものを届けてくれた。そんな青藍しか春麗は知らなかった。そう言うと水月は優しく微笑んだ。

「それだけ春麗様を愛されているということだと思います」
「愛されて、る?」
「ええ。春麗様がいらっしゃる前もいらっしゃってからも、そのように主上の寵愛を頂いているのは、春麗様ただ一人かと思います」

 水月の言葉に胸の奥がキュッとなった。愛されている。自分が、自分なんかが、青藍に。もしかしたら水月の勘違いかもしれない。しかし、勘違いだったとしても自分が誰かの、青藍の特別かもしれないと思うことがこんなにも嬉しいなんて。

 けれど、それと同時に不安になった。

 せっかく仲良くなれそうだと思ったのに、もしも水月も桃燕のように春麗を邪魔に思うようなことがあれば、と不安に思う。そんな春麗に水月は微笑んだ。

「春麗様はお優しいのですね」
「ち、違います。そうではなくて、私は、私は今まで気付かなかったけれど()(まま)なのかもしれません。主上に愛されていると聞いて嬉しいと思う半面、そのことで水月様から嫌われたらと思うと不安でなりません。どちらも欲しいと思うなんて我が儘だとわかっています。それでも」

 それでも初めて得た感情を、手放すことができなかった。今まで全て諦めてきた。自分に与えられるものなど何もないと思っていた。それなのに、こんなふうに自分が思うようになるなんて。

 そんな春麗の言葉に、水月はそっと手を取ると「春麗様」と名を呼んだ。

「そもそも私は主上の寵愛を求めてはいません。確かに実家の父や母はそれを望んでいるかもしれませんが、自分にその器量があるとは思っておりません。それよりも、こんなに可愛らしい友人ができたことの方が嬉しくて仕方ないのです」
「友、人?」
「違いましたか?」

 春麗は慌てて首を振った。その様子を見て水月は笑う。少し離れたところで、佳蓉が目元に手巾を当てているのが見えた。

「またお茶をしましょうね」と約束をして水月は自分の暮らす殿舎へと帰って行った。別れ際「あまり春麗様を独占したら主上に恨まれてしまうかもしれませんね」などと言うものだから、春麗は首まで赤くなってしまった。



 数日後、久しぶりに青藍が槐殿へとやってきた。来ない間も度々浩然に言付けていたというのに、さらにたくさんの菓子や果物を持ってきてくれた。

「わぁ、凄い。これはなんという果物ですか?」

 方卓には青藍が持ってきた土産物が所狭しと並べられている。先日届けられた桜(さくらんぼ)や茘枝だけでなく不思議な形をした果物らしきものや焼き菓子もあった。

「鳳(パイナップル)という南国の果物だ」
「こんなにトゲトゲしているのに果物なんですか?」
「ああ。食べてみるか?」
「よろしいのですか?」
「そのために持ってきたんだ」

 青藍は鳳梨を佳蓉に手渡すと、切って持ってくるように指示を出した。困ったように鳳梨を見つめる佳蓉を見て「浩然」と呼び掛ける。そのまま槐殿に備え付けられた厨へと浩然は佳蓉を伴い向かった。

 部屋で青藍と二人きりになると水月の言葉が頭を過る。『それだけ春麗様を愛されていると――』

「どうした?」
「え、あ、な、何でもない、です」

 何でもないと言いながらも長椅子の端に後ずさるように移動する春麗に、青藍は不快そうに眉をひそめた。

「何故離れる」
「な、何故って」

 恥ずかしくて、などとは言えない。どうしたらいいか戸惑ううちに、青藍は距離を詰めるように春麗のそばに移動してきた。肩が触れそうな距離に青藍を感じ、春麗は自身の体温が上がっていくのを感じた。

「恥ずかしがっているのか」

 くつくつと笑う青藍の長い指が春麗の顎に触れ、そのまま上を向かせられると、春麗は青藍と目が合った。

「髪型を、変えたのだな」
「あ……はい」
「こちらの方がいい。今度、お前に似合う(かんざし)を贈ろう」
「ありがとう、ございます」

 礼を言う春麗に青藍はふっと笑みを浮かべ、そして小さくため息を吐いた。

「お疲れ、なのですか?」
「ん? ああ、ここのところ色々と立て込んでいてな。そのせいでお前に会いに来ることも儘ならなかった。この数日、お前は何をしていた?」
「わ、たしは、えっと……その、お友達が、できました」
「友達?」
「は、はい。水月様とおっしゃって、昨日は一緒に庭園に行きまして、お花見をしました。その前は槐殿に来て頂いてお茶を。水月様はとてもお優しくて、えっと、それで」

 たどたどしく、それでも嬉しそうに話す春麗の話を青藍は頷きながら聞いた。青藍の手が頬を、そして髪を撫でてくるのがどうにもくすぐったくて、時折春麗は首をすくめてしまう。

「しゅ、主上」
「ん? どうした? 話を続けろ。他には何があった?」
「他に、ですか?」
「ああ。困ったことはなかったか?」

 青藍の言葉に一瞬、桃燕にされたことが頭を過ったが、心配をかけたくなくて春麗はニッコリと笑った。

「はい。大丈夫です。困ったことと言えば一度襦裙の裾を汚してしまったことがあったのですが、それも水月様が綺麗にしてくださったのです。本当に素晴らしい方です。あ、そうだ。この焼き菓子なのですが、明日水月様とお茶をする時にお出ししてもいいですか? きっと喜んでくださると思うのです」
「……春麗」
「はい? んぐっ」

 返事をした春麗の口に、青藍は焼き菓子を一つ放り込んだ。口の中いっぱいに甘さが広がる。この菓子は一体何なのだろう。そんなことを考えながら()(しゃく)しているとあっという間に菓子は溶けて消えた。

「美味いか?」
「は、はい」
「ならもっと食べろ」

 青藍はもう一つ手に取ると、それを春麗の口元に持っていった。その口調に、春麗は違和感を覚えた。

「あ、あの」
「なんだ」
「もしかして、何か怒ってらっしゃいます、か?」

 どこか苛ついたような、怒っているような空気を感じた。何か春麗の態度が気に入らなかったのだろうか。それとも青藍が優しいからと調子に乗って喋りすぎてしまっただろうか。

「……ったく、そんなところだけ鋭くなくていいというのに。それも、人の顔色を窺って生きてきたせいか――」
「え?」

 最後の方は上手く聞き取ることができず、聞き返した春麗に「なんでもない」とだけ言うと、もう一つ焼き菓子を手に取り春麗の口に入れた。

「お前があまりにも『水月、水月』というからおもしろくなかっただけだ」
「え?」
「――だから。今は目の前にいる俺のことだけ見ておけということだ」
「そ、れは」

 もしかして、嫉妬、なのだろうか。目の前で舌打ちする青藍を思わずまじまじと見た。青藍が水月に嫉妬などするはずがないと思うのに、微妙な表情を浮かべている青藍を見ていると何故か否定できなかった。

「しゅ――」
「何も言うな。水月とやらと一緒に食べたければ明日、同じものを届けさせる。ここにあるものはお前のために持ってきたから、お前が食べろ」
「……はい」

 そう言われてしまえば断るわけにもいかない。春麗は勧められるままに焼き菓子を頬張った。そんな春麗のことを青藍は優しく見つめていた。

「え?」
 ふと気付けば、春麗のほうに青藍が身体を寄せてきていた。そのまま青藍の顔が春麗へと近づいてくる。春麗は何が起きているのかわからなかった。咄嗟にぎゅっと目を閉じた春麗の頬に、柔らかな何かが触れたような気がした。

「え、なっ、い、今っ」
「甘いな」
「まっ……」
「頬にそんなものを付けている方が悪い」

 ニヤリと笑う青藍に、春麗は頬を手で押さえた。きっと今、自分の顔は真っ赤になっている。そうわかるぐらい、青藍の唇が触れた頬は熱くなっていた。

「お待たせ致しました」

 まるで見計らったかのように、部屋へと佳蓉と浩然が戻ってきた。春麗の顔が赤くなっていることにも、青藍の機嫌が先程よりよくなっていることにも二人は触れることはなく、方卓の上に輪切りにした鳳梨を載せた皿を置いた。黄色く()れたその果物は、(とげ)だらけだった先程までと違い甘酸っぱい香りを漂わせている。

「食べないのか? なんならこれも食べさせてやろうか」
「だ、大丈夫です!」

 佳蓉に手渡された餐(フォーク)で鳳梨を差し、春麗は口に入れる。噛むと甘酸っぱい果汁が口の中いっぱいに広がった。少し舌先がピリリとしたが、それもまた初めての感覚だった。

「美味しい……」
「ならよかった」

 鳳梨を頬張る春麗を、青藍は優しく見つめていた。その姿は死の皇帝と言われている劉青藍と同一人物とはとても思えないほどだった。



翌日、槐殿には約束通り、昨夜青藍が持ってきたものと同じ焼き菓子が届けられた。茶をするために訪れた水月にそれを出し二人で食べようとした際に、昨夜の青藍からの頬への口づけを思い出し――赤くなった春麗を水月が不思議そうに見ていたことは青藍には絶対に秘密にしよう。