春麗が目覚めたのは、あの事件から丸三日経ってからだった。目覚めてからも傷口が炎症を起こし、高熱が出ていた。結局、喋れるようになるまでには、そこからさらに二日ほど必要だった。

 槐殿の臥牀に横たわり、春麗はまだ少し(かす)む目を横に向ける。そこには真っ赤に目を腫らした佳蓉が春麗のそばで泣いていた。

「しゅん、れ……い様……」
「ごめんね、心配かけて」
「本当……ですよ……」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭ってやると、佳蓉は怒ったように笑っていた。

「それで、どうなったの?」
「……皇太后様のことですね」
「うん」

 佳蓉は少し悩んでから、話し始めた。

 珠蘭は自分の関与が発覚するのを恐れ、浩然の口を封じるために刃物で刺そうとしたらしい。

 それであの時『刺殺』って……。

「ですがその刃物には毒が塗ってあったようで……。春麗様はその毒のせいで三日三晩眠り続けていらっしゃいました」
「そうだったの……。それで浩然様は」
「春麗様のおかげで怪我はなく。皇太后様に殺されそうになったことで、今までのことも全て話す気になったそうです」

 珠蘭は青藍の予想通り、自分の息子である(りゅう)(そう)(せい)を次期皇帝にするために青藍の周りの人間を一人また一人と手にかけていたらしい。その()(しゅ)(にん)が浩然だった。牢に入れておいた、桃燕を殺そうとした犯人を手にかけたのも同様だった。

「それで……」

 他の人間が死んでいく中、浩然一人が生き残り、そうやって自分一人が青藍のそばにいられるようにして信頼を得ていた。

 結果、青藍は一人になり併せて流した噂のせいで誰も青藍に近づかなくなった。そんな中、形だけの生贄妃のはずだった春麗に青藍が興味を持つようになり、夜も共にするようになった。

 二人の間に何もないことは本人たちにしかわからない。毎晩のように春麗の元に通う姿を見て珠蘭は不安になったのだろう。
子供ができれば自分の子である蒼晴が皇帝となる可能性はぐっと低くなるのだから。

「どうして、浩然様はそのようなことをしたのかしら……」

 浩然のことを信じていた青藍のことを思うと胸が痛んだ。ずっと一緒にいた浩然が、何故このようなことをするに至ったのか、春麗は理由を知りたかった。

「……春麗様は、浩然様に妹がいらっしゃることをご存じでしょうか」
「ええ、知っているわ。……まさか」
「はい。妹を皇太后様に人質に取られていたようです。裏切れば命はないぞ、と。それで……」

 春麗は目を閉じると、唇を噛んだ。

 浩然がしたことは決して許されることではない。しかし、浩然もまた皇太后の犠牲者だった。青藍と浩然の仲を引き裂いた皇太后のことが許せなかった。

「でも春麗様のおかげで全ては解決したようです。実家に戻っていらした他の妃嬪の方々も戻ってこられるようですし」
「……そう」

 後宮に人が戻ってくる。それはきっと青藍にとってはいいことだ。死の皇帝などという不名誉な二つ名が払拭されたのだから。

 それなのに、春麗の胸には重く苦しいものがのしかかる。
春麗以外の人の元に青藍が通うこともあるかもしれない。肌を重ねることがあるかもしれない。皇帝としての責務を果たすために、仕方のないことだと理解はしている。しかし、それでも……。

「大丈夫ですよ」
「え?」
「他の方々が戻っていらしたとしても、主上の想いは春麗様一筋だと思います」
「そう、かしら」
「ええ、きっとそうです」

 胸を張る佳蓉に、春麗は曖昧に微笑んだ。本当に、そうであればどれほどいいか。

 しかし、春麗の不安が現実のものとなるのは、そう遠い日ではなかった。



 数日のうちに、後宮の中は騒がしくなった。戻ってくる妃嬪に先駆けて、従者や侍女たちが後宮へと上がり、掃除などを始めたからだ。

 そんな中、春麗は一人だった。

 あの日から青藍は一度も春麗の元を訪れることはなかった。日に一度、体調に変わりはないかという確認が、内侍を通じて入ってはいたが、青藍本人が来てくれることはなかった。

 佳蓉曰く「色々な後処理で忙しい」らしい。

 春麗はなんとなくこのまま存在をなかったことにされてしまうのではないかと思っていた。

 後宮の中では空席となっている四夫人や九嬪に誰がなるのか、と言った話で持ちきりだった。

 死の皇帝の噂が嘘だったことがわかれば、妃嬪の座に娘をつかせたい親はいくらでもいるだろう。自身が後宮に上がりたいと望む娘も多いはずだ。

 贄が必要なくなれば、生贄妃だった春麗はもうは用なし、なのだ。

「春麗様……」
「あ……」

 気付けば春麗の頬を涙が伝っていた。

 不安そうに春麗を見る佳蓉になんとか微笑もうとする。けれど、笑おうとすればするほど、涙が溢れてくる。

「ふっ……うっ……うぅっ……」
「春麗様……」

 泣き止むことができたのは、しばらく経ってからだった。その間、佳蓉はずっとそばにいてくれた。

 泣きはらした目に濡れた手巾を当ててくれる。

「ありがとう……」
「いえ……。お茶を淹れましょうか」
「そう……ね。お願いしてもいい?」
「ええ! ……あら?」

 茶を淹れるために部屋を出ようと扉を開けた佳蓉は、声を上げた。

「佳蓉?」
「春麗様! 主上が、春麗様をお呼びとのことです!」

 佳蓉の言葉に、春麗は慌てて目の腫れを化粧で隠し、大急ぎで指定された謁見の間へと向かった。

 普段は青藍が槐殿へと来てくれていたので、春麗から訪ねるのは初めてだ。案内の宦官に連れられて春麗は謁見の間へと向かった。
そこには久しぶりに見る青藍と――そしてもう二度と会いたくなかった顔が並んでいた。

「お父様……それに……花琳……」

 椅子に座る青藍から少し離れた場所に、床に座った俊明と花琳の姿があった。春麗は動揺を隠し、青藍のそばに用意された椅子に腰掛けた。

 そんな春麗の姿を花琳は怖いぐらいの笑みで見つめていた。

「それで、本日の要件とは」
「はい。我々はお詫びしたいことがございまして参りました」
「ほお? 詫びたいこととは?」

 俊明の言葉に、春麗は胸が高鳴るのを感じた。

 もしかすると、今までの春麗への仕打ちを謝ってくれるのではないか、ようやく家族の一員だと認めてくれるのではないか。

 もしそうだとしても、きっとそれは春麗のことを思って、というよりは家と一族としてこれからの政治的なことのためだろう。だが、それでもよかった。
春麗は俊明に娘として、そして花琳に姉と思ってもらいたかった。

 しかしそんな春麗の思いは、一瞬で打ち砕かれた。

「はい。主上には大変申し訳ないことを致しました」
「余に?」
「そうでございます。手違いかその者が仕組んだのか、本来後宮に上がるのはこの花琳の予定だったのです」
「な……」

 春麗は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。春麗が何を仕組んだと、俊明は言うのか。手違い? 一体何の話をしているのだろう。

 戸惑う春麗を置いてけぼりにしたまま、俊明の話は続く。

「その者は呪われた子。このようなところに出せるような子ではございません。出来損ないの家婢以下の者にございます。陛下の妃となれるような者ではないのです」
「ふむ。それで?」

 どこか楽しそうに青藍は言う。そんな青藍の態度に春麗は泣きたくなった。青藍は俊明の言うことを信じてしまうのだろうか。いや、そんなわけはない。そう思うのに、何故か不安な気持ちが拭えない。

 震える手を押さえ、春麗は必死に顔を上げた。そんな春麗の前で、花琳が華のような笑みを浮かべた。

「主上、お初にお目にかかります。私が楊俊明の娘、花琳でございます。本来でしたら私が後宮に上がるところを、姉が……私を無理矢理閉じ込め自分が……。呪われたくなければ大人しくしていろと言われ……。ですがずっとお慕いしておりました」

 花琳は同情を引くように涙を浮かべ、青藍へと話し続ける。

 周りに控えていた侍従たちは気の毒そうに花琳を見つめていた。露骨に春麗へと疑いの目を向ける者までいた。

「つきましては、主上。その娘の処分は私どもにお任せ頂き、改めて花琳を後宮に上がらせて頂ければと思うのですがいかがでしょうか」
「待って! そんなの、私!」
「お前は黙っていろ」
「……っ」

 思わず口を挟んだ春麗の言葉を、俊明は厳しい口調で遮った。その口調に、春麗は何も言えなくなってしまった。

 ずっと、ずっとこの口調に怯え続けてきた。そしてきっとこれからも。

 後宮に上がってから今日まで、夢のような日々だった。それが現実に戻るだけ。仕方がない。そう、仕方がないのだ。きっと青藍も花琳を選ぶ。春麗を選ぶような人などいない。

「……話はわかった」

 ほら、ね……。

 青藍の言葉に、春麗は俯き涙を堪えた。そんな春麗とは対照的に、俊明は嬉々とした声を上げた。

「では――!」
「お前はどうしたい?」
「え……?」

 その言葉は、そして青藍の視線は、春麗に向けられていた。

「この者たち曰く、お前がここにいるのは間違いだそうだ。それで? お前自身はどうしたいのだ」
「わた……し……」
「主上、その者の言うことなど……!」
「余は春麗に聞いておるのだ。それとも何か。お前は余の問いに答えさせないつもりか」
「い、いえ。そういうわけでは……。春麗、早く答えなさい。お前は家に戻る。それでいいだろう?」

 笑顔を浮かべているが、俊明の目は一切笑っていなかった。「わかっているだろうな」とでも言うかのような視線で春麗を睨みつけていた。

 このまま後宮から追い出されてしまえば、またあの家に戻り、死ぬまで下女として働かされ続ける。もう二度と、青藍に会うことはできないだろう。

 わかっている。自分ではなく花琳の方が妃という立場にふさわしいことも、青藍の隣に立つべきなのも。

 なのに、なのに……。

「わた……しは……」

 俯いたままだった春麗は、顔を上げた。金色の目で、前を見据えて。

「私は、ここにいたいです」
「お前……!」
「お姉様⁉ 生け贄の分際で何をふざけたことを!」

 春麗の言葉に、俊明と花琳は(いきどお)ったが、そんな二人には見向きもせず、青藍は椅子から立ち上がると、春麗の方へと向かった。

 そしてその身体を、(たくま)しい腕で抱きしめた。

「きゃっ」
「よく言った」

 未だ状況が理解できていない俊明と花琳は呆けたように二人の姿を見、そして尋ねた。

「主上……?」
「と、いうことだ。その娘はいらん。余には春麗がいるからな」
「主上! ですが!」
「うるさい」

 食い下がろうとする俊明を青藍は一喝すると、侍従に視線を向け、俊明たちを押さえつけさせた。

「私はこれがいいと言っているのだ。まだ何かあるのか」
「主上! そんな女より私の方があなた様にふさわしいですわ!」
「帰れ! そなたらが今までこれに何をしてきたか、余が知らぬとでも思っているのか。本当であれば相応の処罰をすることもできるのだ」

 青藍は冷たい視線を俊明と花琳に向けた。凍てつくような視線に、二人は悲鳴を上げその場に座り込んだ。

 そんな二人を蔑むように青藍は見下ろした。

「だがこれがそれを望まん。だから金輪際、余や春麗の前に姿を見せるな。それがそなたらへの罰だ。……連れて行け」

 引きずられるようにして俊明と花琳は姿を消した。

 そして残ったのは、青藍と春麗の二人だけ。

「主上……わた、私……」
「ん?」
「私……ここにいても……いいのですか?」
「お前は俺の妃だろう? 俺の元以外、どこに行くというのだ」

 青藍は春麗を抱きしめる腕に力を込めた。もう離さないとでもいうかのように。

 そのぬくもりは、目覚めてからずっと春麗が欲しくて欲しくてたまらなかったものだった。

「ずっと……会いに来てくださらなかったから……もう、私……は、必要ないのだと、思っており、ました」
「会いに行けなくて悪かった。事後処理が立て込んでいてな。やっと全て片付いた」
「では……私のことなどどうでもよくなったわけでは、ないの、ですね?」

 春麗の頬を涙が伝う。その涙を、青藍は指先でそっと拭い取ると微笑んだ。

「当たり前だろう。誰がそんなことを言ったのだ」
「誰も……。ですが、死の皇帝の汚名を(そそ)いだ今となっては、私など不必要だと、そう勝手に思っておりました。所詮、私は生贄妃。後宮には元々いらっしゃった方々やこれから新しくたくさんの方々がいらっしゃるとの話も聞き、私はもう不要なのかと、そう……」
「馬鹿が」

 言葉とは裏腹に、その口調は優しかった。春麗にもわかる。その言葉に、どれほどの愛情が込められているのかを。

「今日はもうこの引見以外全て断った。このあとはずっとお前と一緒だ」
「主上……私、は……」
「黙れ。もうこれ以上話はいい。それよりも早く行くぞ。今日はお前の隣で眠りたい。いや、今日だけではない。これからずっとだ」

 春麗の身体を抱きしめ直すと、青藍は春麗に口づけた。

 まるで壊れ物のように優しく抱きしめてくれる青藍のぬくもりは、温かくて優しくて、幸せとはこういうことを言うのだと春麗に教えてくれるようだった。

 両腕に抱かれ、春麗は青藍に連れられるまま回廊を進むが、向かう先は春麗の住む槐殿の方角ではなかった。

「あ、あの……」
「全てが片付いたと申しただろう」

 たどり着いたのは日桜宮と対をなす、皇后のための宮殿、月桜宮。そんなところに、どうして。……まさか。

 春麗は青藍を見上げた。青藍は春麗の言いたいことがわかったのか、口角を少し上げた。

「頭の固い古狸共を黙らせるのに時間がかかってしまった。だが、もう誰にも口出しはさせぬ」

 その扉を開けると、青藍はそっと春麗を下ろし、その背を押した。促されるままに春麗はその部屋に足を踏み入れる。

 槐殿も実家の部屋と比べれば天と地ほどの差があった。だが、この部屋は槐殿と比べることさえも烏滸がましいほど豪華絢爛な造りだった。

 造りだけではない。おそらく、部屋に揃えられた調度品全てが、手を触れるのを躊躇うほどの品々だった。

 そしてその部屋の真ん中に、仕立て上げられた衣装が掛けられていた。淡い桃色を基調とし、梅桃の花が刺繍されたそれは、まるで……。

「慎ましやかなようでいて、凜としたところがある。梅桃はまるでお前のようだ。気付いているか。お前がいる場所には笑顔が溢れる」
「そ、そのようなことは」
「知らず知らずのうちに、皆お前の笑顔につられ笑みを浮かべる」
「……主上も、ですか?」

 春麗はおずおずと尋ねた。返事の代わりに、青藍は優しく笑みを浮かべる。

「お前にはあれを着て私の隣で笑っていて欲しい」
「あ……」
「否とは言わせないぞ」

 青藍の言葉に春麗ははにかみながら頷く。そんな春麗を満足そうに見ながら、青藍は言う。

「そしてこれからは、ここがお前の居場所だ」
「ここ、が……」

 その言葉の意味がどういうことなのかわからないわけではない。青藍が春麗に何を望んでいるのか。けれど。

「どうした?」

 青藍の言葉に、春麗は小さく首を振った。

「違います」
「違う?」
「はい、私の居場所はここではありません」
「では、どこだと言うのだ」

 怒っているのではない。青藍は面白がっている。一体何と返すのか楽しみで仕方がないという表情を浮かべる青藍に、春麗は笑みを浮かべた。

「私の居場所は――主上、あなたの隣です」

 春麗の言葉に、青藍は満足そうに笑う。その翡翠色の瞳にははにかむ春麗の姿が映っていた。春麗の金色の瞳にも、同じように青藍の姿が映っているはずだ。

 この目が嫌いだった。周りの人間が春麗を疎ましく思うのと同じように、春麗もまた自身の持つこの呪われた目を疎んできた。
しかし青藍は、呪われた金色の目を綺麗だと言ってくれる。隣で笑っていて欲しいと言ってくれる。それなら。

 春麗は自分の意志で踏み出した。この部屋の、主となるために。



 これは呪われた目を持ち、家族にすら疎まれ虐げられ続けた少女が、死の皇帝を愛し、愛され、誰よりも幸せな皇后となるための物語――。