◆◇
朝目が覚めると、心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われた。昨晩スマホを握ったまま眠ってしまったようで、起きた瞬間右手が強張っていた。
いつものと変わらない朝ではあった。でも、決定的に変わってしまっていた。目を閉じて、まず最初に神林の顔を思い浮かべる。いち、に、さんと目を閉じて数字を唱えてみたが、なんの感情も湧き出てこない。同時に穂花の手をとる彼を想像してみたけど、心はずいぶんと凪いでいた。
「成功だ……」
嬉しい、という感覚にはならなかった。でも、ほっとしたのは事実だ。私は見事彼への恋心を手放すことができたのだ。やった、やったよ。
「お母さんおはよう!」
朝ごはんを食べに一階に降りるといつもより元気な様子の娘に、母は「えっ」と驚いているようだった。
「今日学校で勉強してくるからちょっと遅くなるかも」
「そ、そう。頑張って」
「あと、この間はごめんなさい。文化祭の実行委員も期末テストも両方頑張るから」
自分でも驚くくらい素直に、母への謝罪の気持ちがすっと溢れ出ていた。心の枷がなくなったことで、これまでむしゃくしゃしていた母への反抗心が急に萎んでしまったらしかった。
「え、ええ……」
面食らったままの母を尻目に用意された朝ごはんを食べる。いくら私の気持ちが変化したからといって、母の気持ちまで突然切り替わるはずはない。今はゆっくりと解決の時を待たなければ。
しかし少なくとも、母の表情が以前よりも柔らかくなっていることに気がついた。私の気持ちが少し変化するだけで、周りの人間にもこれほど影響が出るのか。知らなかった。『SHOSHITSU』アプリが教えてくれたのだ。
「いってきます」
朝ごはんを食べ終わり支度も終えたところで家を出た。「いってらっしゃい」という母の声を背中で受け止めて私は学校へと向かった。
文化祭の準備は滞りなく進んだ。
授業の中でも文化祭に費やす時間が増え、その度に気が引き締まった。無事に当日を迎えられるかという不安の中で、しかし神林の的確な指示により大きな揉め事もなく時間が過ぎていった。彼への恋情を失ったことで、彼が穂花と楽しげに話しているところを見ても嫌な気分にならなくなった。余計な感情に振り回されなくなったことで、文化祭後の期末テストの勉強にも身が入るし、そんな私を見て母も気持ちを落ち着かせている。
アプリを使ってから、気持ちの面でいいことしかない。最初はとんだアプリだと思っていたけれどまさか感謝する日が来るなんて。
「永遠、本当にありがとうね」
「どうしたんだ急に」
11月に入り、当日に向けて放課後に教室の準備をしていた。他のクラスも同じように文化祭の準備で盛り上がっている。2年2組は壁の装飾を作ったりメニューを考えたり本を並べたりとやることが満載だ。
私は彼と共に装飾を手伝っていた。前より素直に彼と話をすることができる。フラットな気持ちで彼と向き合える。ずいぶんとやりやすくなった。実行委員のパートナーとして、良い関係を築けていると思う。
「前にも言ったけど永遠のおかげで順調に進んでると思う。男子も女子も、永遠の言うことだから素直に聞いてくれてる気がする。正直、実行委員に推薦された時は不安で仕方なかったから助かってるの」
この数週間、私がどれほど彼に感謝したかを伝えたかった。二年生が始まった頃には知らなかった彼のカリスマ性にどれほど助けられたか。まさかここまで彼が積極的にクラスを動かしていくなんて想像すらしていなかった。
「はは。何言ってんだ。俺も前に言ったけど、最初からこんな男だったわけじゃないんだ」
「どういう意味?」
神林はしばらく考え込んでから、言葉を続けた。
「まあつまり、日和がいたから頑張れたというか……」
嘘をついているようには見えなかった。でも、彼をここまで突き動かす原因が自分だとは信じられなくて思わず息を飲んだ。
「気を遣ってくれてるの」
わざと茶化すように言った。そうでもしなければ、全身を駆け巡る喜びを隠しきれないような気がしたから。
「そんなわけないだろう。でもまあ、それだけじゃないかな。日和が仲間だったこともそうだけど、もう一つ……」
「もう一つって?」
「それは——」
「永遠、こっち来てくんない?」
彼が口を開きかけたところで、後ろから名前を呼ばれて振り返った。メニュー班の男子が相談があるんだと手招きしていた。
「どうした?」
神林がメニュー班の方へと駆けていく。彼は何を言おうとしたんだろう。気になったけれど、その後の作業が1時間以上続き、気がつけばへとへとになった身体で帰路についていた。
朝目が覚めると、心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われた。昨晩スマホを握ったまま眠ってしまったようで、起きた瞬間右手が強張っていた。
いつものと変わらない朝ではあった。でも、決定的に変わってしまっていた。目を閉じて、まず最初に神林の顔を思い浮かべる。いち、に、さんと目を閉じて数字を唱えてみたが、なんの感情も湧き出てこない。同時に穂花の手をとる彼を想像してみたけど、心はずいぶんと凪いでいた。
「成功だ……」
嬉しい、という感覚にはならなかった。でも、ほっとしたのは事実だ。私は見事彼への恋心を手放すことができたのだ。やった、やったよ。
「お母さんおはよう!」
朝ごはんを食べに一階に降りるといつもより元気な様子の娘に、母は「えっ」と驚いているようだった。
「今日学校で勉強してくるからちょっと遅くなるかも」
「そ、そう。頑張って」
「あと、この間はごめんなさい。文化祭の実行委員も期末テストも両方頑張るから」
自分でも驚くくらい素直に、母への謝罪の気持ちがすっと溢れ出ていた。心の枷がなくなったことで、これまでむしゃくしゃしていた母への反抗心が急に萎んでしまったらしかった。
「え、ええ……」
面食らったままの母を尻目に用意された朝ごはんを食べる。いくら私の気持ちが変化したからといって、母の気持ちまで突然切り替わるはずはない。今はゆっくりと解決の時を待たなければ。
しかし少なくとも、母の表情が以前よりも柔らかくなっていることに気がついた。私の気持ちが少し変化するだけで、周りの人間にもこれほど影響が出るのか。知らなかった。『SHOSHITSU』アプリが教えてくれたのだ。
「いってきます」
朝ごはんを食べ終わり支度も終えたところで家を出た。「いってらっしゃい」という母の声を背中で受け止めて私は学校へと向かった。
文化祭の準備は滞りなく進んだ。
授業の中でも文化祭に費やす時間が増え、その度に気が引き締まった。無事に当日を迎えられるかという不安の中で、しかし神林の的確な指示により大きな揉め事もなく時間が過ぎていった。彼への恋情を失ったことで、彼が穂花と楽しげに話しているところを見ても嫌な気分にならなくなった。余計な感情に振り回されなくなったことで、文化祭後の期末テストの勉強にも身が入るし、そんな私を見て母も気持ちを落ち着かせている。
アプリを使ってから、気持ちの面でいいことしかない。最初はとんだアプリだと思っていたけれどまさか感謝する日が来るなんて。
「永遠、本当にありがとうね」
「どうしたんだ急に」
11月に入り、当日に向けて放課後に教室の準備をしていた。他のクラスも同じように文化祭の準備で盛り上がっている。2年2組は壁の装飾を作ったりメニューを考えたり本を並べたりとやることが満載だ。
私は彼と共に装飾を手伝っていた。前より素直に彼と話をすることができる。フラットな気持ちで彼と向き合える。ずいぶんとやりやすくなった。実行委員のパートナーとして、良い関係を築けていると思う。
「前にも言ったけど永遠のおかげで順調に進んでると思う。男子も女子も、永遠の言うことだから素直に聞いてくれてる気がする。正直、実行委員に推薦された時は不安で仕方なかったから助かってるの」
この数週間、私がどれほど彼に感謝したかを伝えたかった。二年生が始まった頃には知らなかった彼のカリスマ性にどれほど助けられたか。まさかここまで彼が積極的にクラスを動かしていくなんて想像すらしていなかった。
「はは。何言ってんだ。俺も前に言ったけど、最初からこんな男だったわけじゃないんだ」
「どういう意味?」
神林はしばらく考え込んでから、言葉を続けた。
「まあつまり、日和がいたから頑張れたというか……」
嘘をついているようには見えなかった。でも、彼をここまで突き動かす原因が自分だとは信じられなくて思わず息を飲んだ。
「気を遣ってくれてるの」
わざと茶化すように言った。そうでもしなければ、全身を駆け巡る喜びを隠しきれないような気がしたから。
「そんなわけないだろう。でもまあ、それだけじゃないかな。日和が仲間だったこともそうだけど、もう一つ……」
「もう一つって?」
「それは——」
「永遠、こっち来てくんない?」
彼が口を開きかけたところで、後ろから名前を呼ばれて振り返った。メニュー班の男子が相談があるんだと手招きしていた。
「どうした?」
神林がメニュー班の方へと駆けていく。彼は何を言おうとしたんだろう。気になったけれど、その後の作業が1時間以上続き、気がつけばへとへとになった身体で帰路についていた。