神林がその日のうちにまた話しかけてくることもなく放課後になり、私は穂花のいる4組の教室に向かった。
「やや、日和元気かい?」
「久しぶり。元気だよ」
穂花と会うのも夏祭り以来。夏休みに穂花が送ってきた遊びの誘いメッセージは『SHOSHITSU』によって見事に消えていた。同時に、穂花の記憶から私を遊びに誘った事実ごとなかったことになっているはず。今回の代償は確か、「穂花の筆箱を奪う」だったような気がする。柚乃の時とは違いずいぶん軽い代償だ。私の推測通り、消したものの価値によって、支払わなければならない代償の大きさも変わってくるということだろう。だとすればやはり、小さなことならばアプリを有効に使う手立てがあるのかもしれない。
『SHOSHITSU』のおかげで、誘いに乗ることができなかった穂花と会う気まずさもない。多少緊張はしたが、彼女の顔を見れば普段通りのあっけらかんとした表情をしていて杞憂だった。
「このあとMバーガーにでも行かない?」
「いいね、行こう」
Mバーガーというのは言わずと知れたファストフードチェーン店だ。高校生なら誰しも放課後に寄り道したことがあるだろう。
始業式の今日、午前中で学校が終わったため午後からはフリーだった。夜まで両親は帰ってこないし、この時間を有効活用するしかない。
私たちはいそいそと学校から最寄りのMバーガーに向かった。田舎の店舗のためか店内は私たちのような学生か親子連れがほとんどだった。なんとか席を見つけ、対面で座る。二人ともハンバーガーとポテトのセットを注文した。
「夏休みも終わっちゃったね。高校生活もあと半分よ」
ポテトを口に何本も加えながら穂花はしみじみと切り出した。
「早いよね。やり残しのないようにしないと」
「お、意識高いね」
「意識高いというか来年はもう受験生だし。今まで以上に親が厳しくなると思うと吐きそう……」
「ははっ。日和の家は厳しいからねぇ。あたしのとこ逆に全然何も聞いてこないからサボりまくっちゃうよ。それに比べたらちゃ
んと良い成績とってる日和は恵まれてるんじゃない?」
恵まれている。
確かにうちの両親は頭が良いし、その恩恵をいくらか受けていることは間違いないんだろう。でも、勉強をして成績が落ちないようにキープできているのは自分の努力の所以なのではないんだろうか? もしそれすらも遺伝だとか環境のおかげだとか言われてしまえば、なんだか虚しくなる。
「そんなことないよ。私だっていっぱいいっぱい。私からすれば、放任主義の穂花の家が羨ましい」
「つまりあれだ。隣の芝生は青いってやつ」
「そうかもね」
穂花が羨ましい。家のことだけでなく、好きな人と幼馴染みでたくさんの思い出を共有していることも、その明るい性格で周囲の人間を和ませられることも。考え出したキリがなかった。嫉妬ほど醜くて嫌な感情はないと思っているのに、気がつけば暗い感情がひしひしと胸に広がっていく。
「てから、聞いた? 今度懇談会があるって」
「あーそういえば雪村先生が言ってたな。やだなあ、うちの親懇談大好きみたいだし、何話されるか分かんない」
「懇談が大好きって親もなかなか珍しいね」
「でしょ。普通面倒だし嫌だよねえ。ああ、考えるだけで憂鬱……」
「でもさ、日和は成績良いんだし、心配すること何もないじゃん。むしろあたしの方がやばいよ。先生に何言われるか分かんない
わ」
確かに私は人並み以上に良い成績を収めているという自覚があるけれど、母が望むのは「人並み以上」のレベルじゃない。もっと
上のレベルを求めてくる。そうなるといくら私でもかなりのプレッシャーになるわけで。
「まあでも確かにもし自分の親が日和の親みたいな教育熱心な人だったら嫌かも。あ、母親としてじゃなくて懇談においてはってことね。いっそのこと中止になればいいのにねぇ」
そう言って穂花は照り焼きハンバーガーにかぶりつく。口元にソースが付いたが、ペロリと舌で拭き取る。子供みたいな仕草が可
愛らしくて思わず笑ってしまった。
しかしそれよりも、穂花の言葉に私はハッとしていた。
そうだ、中止になればいいんだ。
懇談会なんて別になくなったところで問題にはならない。せいぜいうちの親みたいな懇談大好き保護者たちの楽しみの芽を一つ摘んでしまうくらいだ。それだって大した痛手でもないだろう。
「ちょっとお手洗い行ってくるわ」
「うん」
タイミングよく穂花が席を立った。私はスマホで『SHOSHITSU』アプリを起動する。
前回穂花の遊びの誘いメッセージを消したところから触っていなかったので、画面には『代償:彼女の筆箱を奪うこと』と表示されていた。
下の方へとスクロールすると、『新しく消失させるものを決める』というボタンがあったのでそこをタップした。少し待ってから画面が切り替わり、例のごとく最初のメッセージが出てきた。
『あなたが消したいものを、入力してください』
慣れた手つきで入力画面へと進む。
『消したいものは、2学期の懇談会』
決定ボタンを押すと、『了承しました。では、明日から”2学期の懇談会“が消えた世界をお楽しみください——』という定型文が表示される。ちなみに代償も確認しておく。
『代償:担任のプロテインを奪うこと』
ぷっと口からジュースを吹き出しそうになった。
「プロテインって」
『SHOSHITSU』はこんなギャクも言ってくるのか……。いやいや、雪村先生にとってはプロテインはとても大事なものだろうからギャクではないのか?
「日和、何一人で笑ってんの」
スマホから顔を上げるとお手洗いから戻ってきた穂花がジト目で見ていた。
「なんでもない!」
慌ててアプリを閉じ、スマホの画面をスリープ状態にした。
柚乃の消失の件があってからというもの、彼女にアプリを見せるのも話をするのも避けている。これ以上彼女の記憶を混乱させたくないというのもあるし、私自身穂花とアプリの話をしたときの記憶を共有できないことにもどかしさを覚えるのが嫌だった。
「あーあ、何かいいことでも起きないかね」
アプリで懇談会を消したからなのか単にタイミングのせいなのかは分からないが、穂花はまたポテトをつまみながら別の話題を出してきた。
「いいことって、神林との恋が進展するとか?」
「うわ、いきなりぶっ込んできたね。なんでそうなるのさ」
「だって、穂花の顔にそう書いてあるし」
「……う、バレた?」
「バレバレだって」
穂花が悩んだり話を聞いて欲しかったりするときは決まって色恋沙汰だ。昨年から友達をやっているが、彼女との話の中では恋バナが9割を占めている。年頃の女子二人が恋に興味がないはずがない。まして彼女の場合、相手は幼馴染み。どうやって恋愛に発展させるのか思い悩むのは当然だろう。
しかし私はどうして自分から彼の名を挙げてしまったのだろうか。
自分で言っておきながら、これから彼女と自分の好きな人についての恋の相談に乗らなければならない現実に打ちひしがれそうになった。馬鹿だな、私。ばかばかばか。
「いやーあたしとしてはさ、永遠は日和のことが好きなんだと思ってて」
「へ? なんで」
「だって最近お互い名前で呼び合ってるみたいだし。夏祭りの時だって手繋いでなかった?」
意外と核心部分をついてくる彼女の言葉に背中の汗がツーっと流れ落ちるのを感じた。
「そんなことないよ。名前は、その方が友達っぽいかなって。手を繋いだのは魔が差したっていうか……」
ちょっと苦しい言い訳をして吐きそうになる。そりゃないでしょ。酔っ払った勢いで! とかならまだ分かるが、私も彼も未成年でもちろんお酒なんて飲んでなかった。口にしたのは甘いラムネのみ。
「ふーん。ま、あたしはお似合いだと思ったんだけどさっ。二人にそういうつもりがないなら仕方ないよね」
仕方ない。
たぶん穂花はそう口にすることで、自分と神林の関係が進展することを肯定したいのだろう。大丈夫だよ、私も彼もお互いにそんな気はないから、とはっきり伝えてあげられたらいいのだけれど、なぜだか心がそれを拒んだ。
「そうだよ。頑張って。私は幼馴染みから恋愛に発展するのって憧れるしいいと思う」
心にも思ってないことを言うのに、少しだけ慣れてきた。神林本人を前にするとまだ胸が苦しいけれど、穂花の前ではピエロになれるかもしれない。
「ありがとう。やっぱり日和は友達だね!」
「急にそんなこと言うなんておかしい」
「ふふ、確かにそうか。応援してくれたら嬉しいです」
「かしこまって、変な穂花」
普段はへらへらと笑って周りの空気を和ませることが多い穂花が、今自分の恋を実らせようと一生懸命になっている。彼女の赤くなった頬や最近始めた金木犀の香水の香りが私を圧倒する。穂花がどんどん変わっていく。女の子らしく、花を咲かせて。
「そういえばこの後、永遠と帰る約束してるんだよね」
「この後って、神林の部活が終わってからってこと?」
「そう。うちの店でご飯食べることになってるからバスケ部終わるまで待ってる」
「そうなんだ。なんだかいい感じじゃん?」
「へへ」
恋する女の子の表情で微笑む穂花。
わざわざ部活の後に待ち合わせをして一緒に帰るなんて、神林も穂花のことを意識していと言っているようなもの。
私は次第に速くなる脈を深呼吸で必死になだめながら、二人が一緒になって楽しそうに笑っている光景をできるだけ思い浮かべないように努力した。
「あたし、最後まで諦めないから見てて」
強い意志の光を宿した瞳をこちらに向け宣言されてしまった私はもう、とっくにがんじがらめにされ始めていた。