「そうだ、あたしサイダー買いにいこっと。二人もいる?」

たこ焼きを食べ終わった穂花がお尻についた土草を払いながら聞いた。サイダー、という響きが焼きそばの塩気で満たされた口の中で弾ける心地よさを想像させた。

「ほしい!」

「俺も」

二人とも即答。

「分かった。じゃあちょっと待ってて」

気の利く穂花は一人でサイダーを買いに出かけた。

「任せちゃって大丈夫かな」

「大丈夫だ。あいつは昔からああだから」

「ふふ、そっか。世話焼きなのは昔からか」

夏の夕闇がそうさせているのか、私も神林も、この間までの気まずい空気感を忘れて以前のように普通に話せていることに驚く。

「あのさ、終業式の日はごめんね」

自分でもびっくりするくらい素直に言葉が紡がれていく。

「俺の方こそ、ごめん。春山さんのこと傷つけちゃったみたいだ」

「ううん、そんなことないよ。私が神経質になりすぎてただけだから」

「そのことなんだけどさ。あれからちょっと思い出したんだ。春山さんと屋上で話したこと」

「え、本当に?」

「ああ。といっても全部じゃないんだけど。話の内容は正直あんまり覚えていない。でもあの日、春山さんに傷ついてほしくないって思ったのは本当なんだ」

俺は、春山さんが傷つくところを見たくないんだよ。
確かにあの日彼はそう言ってくれた。私が消してしまった柚乃を元に戻そうかと迷っていると話したとき、彼は反対だと言った。
その瞬間、素直に嬉しかった。彼が自分の悩みを真剣に聞いて応えようとしてくれているということが、枯れかけた私の心に水を垂らしてくれたんだ。

「それと、あの時春山さんのことをもっと知りたいって思ったこと。それを思い出したんだ」

「そっか……」

胸にこみ上げる安堵。押し寄せる喜び。ここ二週間ほどずっと曇天模様でモヤモヤとしていた心が、急に晴れ模様に変わり始め
る。
神林は私との思い出を忘れたわけじゃない。
少なくとも、あの時湧き上がった感情は心が覚えていてくれたのだ。

「ありがとう」

肩の力がふっと抜けて背中に羽が生えたかのように軽くなる。神林も、私の表情が和らいだのを見て、安心したようにほっと息を吐いた。私たちはお互いに相手のことを気にしながら、肩肘を張って過ごしてきたのだ。そうと分かるとなんだか馬鹿らしくなってきた。

「あと前から言おうと思ってたんだけど」

「なに?」

「春山さん、俺のこと『神林』って呼ぶじゃん。永遠でいいから。穂花みたいに」

永遠、という響きに急に脈が速くなる。
確かに穂花は彼のことを名前で呼んでいる。でも、幼馴染みでもない私がそう呼ぶなんて恥ずかしくてできなかったのだ。

「それなら、神林——永遠も私のこと日和って呼んで。それならおあいこでしょう」
自分でも驚くほど、素直にそう言えた。
だけど、バクバクと鳴る心臓が煩くて、顔面が最高潮に熱い。日も落ちかけた時間帯なのに、背中からも額からも汗が噴き出ていた。おまけに耳が真っ赤になっているのは、鏡を見なくても分かった。

「分かった。日和って呼ぶよ」

初めて彼が私の名を呼んだ。お母さんやお父さんから呼ぶのとも、穂花が呼ぶのとも違った輪郭を帯びていた。できるなら「もう一度呼んで」とリクエストしたいくらいだったけれど、さすがに恥ずかしくて言えない。
それに、神林の背後から突如現れた穂花に驚いて、わっと声を上げてしまった。

「あれあれ、お取り込み中だった?」

「ち、違うよ! ちょっとびっくりしただけ……」

「そっか〜なんか怪しいけど、まあいいや!」

私たちの先ほどのやりとりを聞いていたか分からないが、私も神林も穂花の登場で口をつぐんだ。

「それよりほら、ラムネ買って来たよ。はい」

穂花が言う通り、彼女の手には三本のラムネが握られていた。

「ありがとう」

「さんきゅ」

それぞれ一本ずつ青色のビンに入ったラムネを受け取る。お祭りの時ぐらいしか飲むことのできないラムネ。実際はそんなことないのかもしれないけれど、日常ではあまり見かけない。
シュワシュワと溢れ出るサイダーをごくりと一口飲む。ビンを傾けると、カランとビー玉がガラスにぶつかる音が耳に心地よい。
これだこれ。まさに夏祭りの醍醐味とも言える。

「ぷはー! 生き返った!」

仕事終わりにビールを飲むおっさんのような唸り声を上げる穂花。
「うまっ」と男らしく飲みながら汗を拭う神林。
私もつられてもう一口、いや二口も三口もゴクゴクとサイダーを流し込んだ。お腹の中でせり上がってくる炭酸の気配を感じながら、一時の幸せを満喫した。

「永遠、飲むの早い」

気がつけば神林のラムネのビンが空になっていた。ビー玉だけが光るビンを見つめながら感心していたのが、ビン越しに穂花が「あれ?」と首を傾げる姿が映る。

「日和、いつの間に『永遠』って呼ぶようになったの?」

「え、あ、それは」

「さっき話してたんだよな。俺も『日和』って呼ぶからお互い遠慮なしにしようて」

神林の『日和』という響きがもう一度耳に反響して小っ恥ずかしい。彼が私の名を呼ぶと、ラムネがお腹で弾けるみたいに、じゅわっと心が浮き立つのだ。

「そうなの!? あたしがいない間にそんなに進展してたなんて……!」

驚愕スクープ! とでも言いたげに、彼女は大袈裟に驚いてみせた。でも、一瞬彼女の表情に陰りが見えたのは気のせいだろうか。その大袈裟な反応が、逆に本心を悟らせないようにしているためではないかと疑う。

「あんまり囃立てるなよ。俺たちだって名前で呼んでるから一緒だっつーの」

「ほほう。一緒、ねぇ」と懐疑的な視線を送る穂花。いい加減恥ずかしさに耐えられなくなった私は、話題を変えようと「花火もうすぐ始まるよ」と二人に教えてあげた。

「わ、いけない。みんなあっちに流れて行ってるよ」

「俺たちも早く行こうぜ」

花火は今私たちが座っていた土手よりももう少し離れたところで打ち上がる予定だった。その場でも見ることはできるのだが、真正面で見るには遠い。他の観覧客のように移動するのが得策だ。
私たちは立ち上がり、土手を降りて人波に埋もれる。浴衣の帯が別の誰かの浴衣にぶつかって着崩れないか気にしながら歩いた。前を行く神林と穂花を見失わないように、懸命に進む。慣れない下駄の鼻緒が指の間で擦れて痛い。

「はぐれないようにしないと」

不意に何かに手首を掴まれた。神林の手だった。彼は少しも振り向くことなく私の手を引いている。穂花は余裕そうに前を歩いていて、神林に手を引かれる自分が小さな子供みたいで恥ずかしかった。
でもそれ以上に、彼の汗ばんだ手から伝わる緊張感に、きゅっと心臓が帯で結ばれたように締め付けられた。
観覧席に辿りつかぬうちに、ヒュ〜という花火の音がして、前方の夜空に花が咲いた。

「わ、始まった!」

興奮気味の穂花がこちらを振り返る。手をつないでいることが穂花にバレるのがなんとなく後ろめたくて、私たちは大袈裟に反応してみせた。

「すごいね! きれい……」

「圧巻だな」

動いていた人の流れが一斉に静止し、皆それぞれに打ち上げられる花火に見惚れている。スマホで動画を撮る者、しっかりと目に焼き付ける者、わぁ、と歓声を上げる者と様々だが、目の前で繰り広げられる光のショーに心奪われていることは同じだった。
すごいすごい、と子供がはしゃぐ声が聞こえる。私は声も上げられないまま、煌く夜空を見ていた。神林の手は依然として私の手を掴んで離さない。手をつないでいることを忘れているかのように、彼も花火に没頭していた。花火と繋がれた手に交互に意識がいく。彼はなんとも思っていないのだろうか。それとも何も思わないぐらい、自然に繋いでくれているんだろうか。
私はこんなにも揺さぶられているというのに。
花火への感動なのか、神林の手から伝わる温もりへの緊張なのか頭の中がごちゃごちゃになり感情の整理がつかない。

「永遠、やばいね! あたしが好きな花火だ」

「本当、すげえな。感動だわ」

興奮気味の穂花が神林の方を見てはしゃぐ。たぶん彼女はその瞬間、私の存在を忘れていたのだ。彼女の目に、花火の光が映る。私の目に、頬を染めた彼女の嬉しそうな表情が映る。
さっと、神林と繋いだ手を後ろに回した。本当は手を離そうとしたんだけれど、思ったよりも彼はしっかりと私の手を握っており簡単には離れなかった。だからそのまま。穂花に見つからないように、私たちは懸命に繋がっていた。