インターホンを鳴らすと、「はーい」という声とともに柚乃の母親らしき人物が玄関から出てきた。遠藤家の家の門は白いコンクリートの渋い柱に囲まれており、外からはシャッターが閉まっているため中の様子はほとんど見えない。シャッターの隣の扉から顔を出した柚乃のお母さんは、想像していたよりもずっと綺麗な人で、しかし明らかにやつれているように見えた。この人が、柚乃の言っていたプライドの高いお母さん……?
「どなたかしら」
「私、柚乃さんのクラスメイトの春山といいます。プリントを届けに来ました」
「あら、そうだったの。わざわざありがとう。良かったら柚乃と話してくれない?」
「え、いいんですか?」
「ええ。私じゃあの子の心を開けないみたいだから……」
寂しそうに目を伏せるお母さん。そこからは、これまで自分の理想を娘に押し付けてきたことへの後悔と、学校に行けなくなった娘をどうすることもできない無力さがにじみ出ているように見えた。
「お邪魔します」
入り口を抜けて玄関からこの家へ上がるとき、庭が視界に入ってきた。当たり前のように、彼女の家の猫を連れ去ったときの映像がフラッシュバックした。あの時は小綺麗だった庭には、いまやそこら中に雑草が生えていた。
「柚乃の部屋は二階だから、そのまま上がって」
「分かりました」
柚乃の家はうちとは違って吹き抜けのホールの端に階段がついているタイプでぱっと見ただけでもその広さに圧倒されてしまった。
お母さんは台所へと消えてゆき、私は一歩ずつ階段を上る。ミシミシ、なんて板が軋む音はまったくない。あまり足音を立てないように、二階へと上がると、奥の部屋の扉に「YUNO」というプレートの下がった扉があったので、そこが彼女の部屋だとすぐに分かった。
扉の前に立つと、部屋の中で柚乃が全神経を研ぎ澄ませてこちらの気配を気にしているのがありありと伝わってきた。私は軽くノックをする。「はい」と彼女が返事をした。母親ではないということを察知している様子だった。
「失礼します」
そうっと部屋の扉を開けると、ベッドの上で足を伸ばしている彼女が目に飛び込んできた。カーテンや布団など、全体的にピンク色に彩られた部屋が、いかにも女の子の部屋という感じがして意外だった。
「やっぱり春山さんか」
「がっかりした?」
「ううん。座って」
思ったよりもあっけらかんとした彼女の様子に内心ほっとしながら、勧められるがままベッドに腰かけた。柚乃はよいしょ、と腰をあげて私と横並びになる。いつか屋上へと続く階段で話した時と同じ構図だった。
「学校でプリントを預かったの。うちから近いし持ってきた」
「そうだったんだ。近いっていってもそんなにだよね。わざわざありがとう」
私は、重みのある封筒を彼女に手渡す。
「学校、ずっと来てないみたいだけど大丈夫?」
引きこもりの女の子に対して「大丈夫」だなんて、陳腐な言葉しか出てこない自分の対応力のなさにがっかりした。
けれど柚乃は私がいつそう聞いてくるのかを待っていたかのように、ふうと息を吸った。
「大丈夫、ではなかったかな」
「……そうだよね」
「ごめん。この間春山さんに聞かれた時は大丈夫だなんて軽く言っちゃってたけど、ちょっと甘かったわー。あれからあいつら、結構ねちっこくてさ」
あいつら、とはおそらくバレー部の先輩たちのことだろう。
「雑巾で顔拭かれたり金巻き上げられたり。部活では三年生全員を巻き込んで私を無視してくるしさ。部活以外の時間にもしょっちゅう呼び出しあるし、行かなかったら家にまで来るんだよ。信じられる?」
彼女の話を聞いていると、自分が柚乃にされていたことを思い出した。気にするな、と心では言い聞かせていても、浴びるように嫌がらせをされているとだんだんと感覚が麻痺していくあの感じ。
「すっごい粘着質だった。どれだけネチっこいんだって正直呆れたほど。ほんと、ダサいよねー。でもそれに負けてしまった私は
もっとダサいんだ」
悲しそうに萎れた声で話す柚乃。キリキリと胸が痛くなる。私がアプリを使わなければ、彼女はこんなことにはならなかった。柚
乃に押し付けた「いじめ」はどうやったらなくなるんだろうか。
「でもね」
彼女がふと顔をこちらへと向ける。
「なんだか今の状況が、自業自得だって気がしてる」
「自業自得って、どうして?」
「この前も話したかもしれないけど、私もどこかで人をいじめてたような気がするんだよね。気のせいかもしれないけど」
確かに彼女は以前、自分に迫ってくる上級生たちの下品な顔に、身に覚えがあると言っていた。それは紛れもなく、私が彼女にされていたことだった。
「しかも、その相手が春山さんだったような気がして……」
「……」
言葉が出なかった。
彼女には、アプリを使う前の記憶があるというのか。完全ではないが、ぼんやりと覚えているということ?
そんなことがあるなんて思ってもみなかった。私は確かに柚乃にいじめられていた。それは嘘でもまぼろしでもない。だとすれば、穂花や神林にも私が柚乃のことで悩んでいた話をした記憶が、少しでも残っているかもしれない。
とっさに思い浮かんだのは私を心配そうに覗き込む神林の顔だった。
屋上で見せてくれた彼の優しさはきっと、本物だったのだ。彼の中でも、もしかしたらまだほんのりと記憶の窓が開いているかもしれない。
「たぶん、気のせいだよ」
「そうなのかな? それにしてはあまりにリアルだったから怖くなってね」
「悪い夢だって。気にしないで」
「……まあ、でも一応さ、私の自己満足で言わせて。春山さん、本当にゴメン」
「ううん」
「ごめん」という言葉を聞いたとき、私の中でふわりと心に灯火が灯ったようだった。大抵のいじめって、加害者が被害者に謝るなんてことないんじゃないだろうか。気づいたときには大人になっていて、いじめた側はいじめられた側ほど何をしたかなんて覚えていない。いじめられた側はずっと心を蝕まれながら、いじめた人を許せないまま生きていく。でもできるなら、そんな暗い気持ちはとっとと捨て去ってしまう方がいい。誰かを恨み続けるのって、思ったよりも気力と体力がいるのだ。
柚乃は、私の心から一生暗闇になるはずだった影の部分を取り除いてくれた。
それは、『SHOSHITSU』アプリのおかげといっても過言ではない。あのアプリは、決して悪いものじゃない。今日まで興味本位で使ってしまったことを後悔していたが、今になってようやく、自分の行いを少しでも肯定することができた。
「ありがとう」
「え、何が?」
「ううん。こっちの話」
「なんだ、気になるなー」
それから私たちは、最近の学校のことや柚乃がハマっているゲームの話で盛り上がった。ゲームにハマったのなんて初めてだよ。お母さん、昔は許してくれなかったから。柚乃は「不登校も悪くないね」とあっけらかんと語っていた。こうして話していると、柚乃はごく普通の女の子だ。
「そういえば、うちのお母さん見た?」
「うん。さっき来たときに」
「どうだった?」
「普通のお母さんって感じだったよ。正直聞いてたお母さんとイメージが違った」
「私がこんなことになったからか、プライドなんてなくなっちゃったんだろうね。習い事のことも勉強のことも、あんまりうるさ
く言われなくなった」
「そっか。良かったのかな?」
「少なくとも私にとってはね。お母さんはどう思ってるのか知らないけど」
私は、先ほど目にした柚乃のお母さんの様子を思い出す。不登校になった娘のことを心配してやつれていた。どんな母親でも、我が子が大変な目に遭っていると知ればそうなるのも無理はないのだろう。
「お母さん、きっと心配してると思うよ」
「……だよね」
「お母さんときちんと話をして学校に来られるようになるといいね」
「うん、そうだね。そうする」
一体どの口が言っているのかと考えてみれば滑稽だった。たぶん、母ときちんと話をしなければならないのは紛れもなく私の方だ。
あまり長居するのもよくないと思い、私はベッドから立ちあがった。ここへ来る時よりも心はすっと洗われている。
「突然押しかけてごめんね。また2学期に待ってる」
「ううん、今日はありがとう。頑張ってもう一度学校行ってみようかなって思う。このままだと先輩たちに負けたみたいで悔しい
から」
柚乃の目にははっきりとした決意の色が滲んでいた。私は柚乃にいじめられているとき、彼女みたいに立ち向かおうとは思えなかった。だから柚乃はたぶん強い。私なんかよりもずっと。
私は柚乃の目を見て頷いたあと、そのまま彼女の部屋を後にした。扉を開けるとすぐ近くにお母さんが立っていて驚く。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったのだけれど」
柚乃のお母さんは麦茶とお茶菓子を載せたお盆を抱えていて、小さく頭を下げた。
「いえ、すみません。お気遣いいただいて」
「これ、届けようと思ったのだけどね。あなたと柚乃が自然に会話してたから邪魔したくなくて」
「そうなんですね。柚乃さん、元気そうで良かったです」
「元気だったかしら?」
「ええ。柚乃さんは強いからきっと大丈夫ですよ。2学期になったら学校にも来てくれると思います」
「そっか。あの子とたくさん話してくれてありがとう」
「お母さんも、話してみてください。私も自分の母親とは上手く会話できないことが多いので人のことは言えないんですけど。た
ぶん、柚乃さんはお母さんと話したがっていると思います」
今日初めて会ったばかりの柚乃のお母さんに、図々しくもすらすらと言葉が出てきてしまった。お母さんは私の勧めに驚いている様子だったが、「そうね」と頷いて小さく笑った。
「では今日は失礼します。お邪魔しました」
「ありがとう。ぜひまた遊びに来て」
柚乃のお母さんに「また遊びに来て」と言われるなんてとても不思議な気分だった。私は、アプリを使ってからどんどん自分の心境が変化していくのを感じていた。どこからともなく現れた謎のアプリに、まさかこれほど助けられるなんて思ってもみなかった。
「そんなに悪いものでもない、か」
確かに、穂花や神林の記憶から私と話をした記憶が消えてしまったのは辛い。その時に感じた感情まですべて否定された気分になった。
でも、アプリを使ったことで良い方向へ変わったこともある。一概に悪いものではなかったのだ。
遠藤家の門から出て、外の空気を吸い込むと肺の中だけでなく、心まで新鮮な気分で満たされた。柚乃が2学期からちゃんと学校に来ますようにと、青空に向かって祈った。
「どなたかしら」
「私、柚乃さんのクラスメイトの春山といいます。プリントを届けに来ました」
「あら、そうだったの。わざわざありがとう。良かったら柚乃と話してくれない?」
「え、いいんですか?」
「ええ。私じゃあの子の心を開けないみたいだから……」
寂しそうに目を伏せるお母さん。そこからは、これまで自分の理想を娘に押し付けてきたことへの後悔と、学校に行けなくなった娘をどうすることもできない無力さがにじみ出ているように見えた。
「お邪魔します」
入り口を抜けて玄関からこの家へ上がるとき、庭が視界に入ってきた。当たり前のように、彼女の家の猫を連れ去ったときの映像がフラッシュバックした。あの時は小綺麗だった庭には、いまやそこら中に雑草が生えていた。
「柚乃の部屋は二階だから、そのまま上がって」
「分かりました」
柚乃の家はうちとは違って吹き抜けのホールの端に階段がついているタイプでぱっと見ただけでもその広さに圧倒されてしまった。
お母さんは台所へと消えてゆき、私は一歩ずつ階段を上る。ミシミシ、なんて板が軋む音はまったくない。あまり足音を立てないように、二階へと上がると、奥の部屋の扉に「YUNO」というプレートの下がった扉があったので、そこが彼女の部屋だとすぐに分かった。
扉の前に立つと、部屋の中で柚乃が全神経を研ぎ澄ませてこちらの気配を気にしているのがありありと伝わってきた。私は軽くノックをする。「はい」と彼女が返事をした。母親ではないということを察知している様子だった。
「失礼します」
そうっと部屋の扉を開けると、ベッドの上で足を伸ばしている彼女が目に飛び込んできた。カーテンや布団など、全体的にピンク色に彩られた部屋が、いかにも女の子の部屋という感じがして意外だった。
「やっぱり春山さんか」
「がっかりした?」
「ううん。座って」
思ったよりもあっけらかんとした彼女の様子に内心ほっとしながら、勧められるがままベッドに腰かけた。柚乃はよいしょ、と腰をあげて私と横並びになる。いつか屋上へと続く階段で話した時と同じ構図だった。
「学校でプリントを預かったの。うちから近いし持ってきた」
「そうだったんだ。近いっていってもそんなにだよね。わざわざありがとう」
私は、重みのある封筒を彼女に手渡す。
「学校、ずっと来てないみたいだけど大丈夫?」
引きこもりの女の子に対して「大丈夫」だなんて、陳腐な言葉しか出てこない自分の対応力のなさにがっかりした。
けれど柚乃は私がいつそう聞いてくるのかを待っていたかのように、ふうと息を吸った。
「大丈夫、ではなかったかな」
「……そうだよね」
「ごめん。この間春山さんに聞かれた時は大丈夫だなんて軽く言っちゃってたけど、ちょっと甘かったわー。あれからあいつら、結構ねちっこくてさ」
あいつら、とはおそらくバレー部の先輩たちのことだろう。
「雑巾で顔拭かれたり金巻き上げられたり。部活では三年生全員を巻き込んで私を無視してくるしさ。部活以外の時間にもしょっちゅう呼び出しあるし、行かなかったら家にまで来るんだよ。信じられる?」
彼女の話を聞いていると、自分が柚乃にされていたことを思い出した。気にするな、と心では言い聞かせていても、浴びるように嫌がらせをされているとだんだんと感覚が麻痺していくあの感じ。
「すっごい粘着質だった。どれだけネチっこいんだって正直呆れたほど。ほんと、ダサいよねー。でもそれに負けてしまった私は
もっとダサいんだ」
悲しそうに萎れた声で話す柚乃。キリキリと胸が痛くなる。私がアプリを使わなければ、彼女はこんなことにはならなかった。柚
乃に押し付けた「いじめ」はどうやったらなくなるんだろうか。
「でもね」
彼女がふと顔をこちらへと向ける。
「なんだか今の状況が、自業自得だって気がしてる」
「自業自得って、どうして?」
「この前も話したかもしれないけど、私もどこかで人をいじめてたような気がするんだよね。気のせいかもしれないけど」
確かに彼女は以前、自分に迫ってくる上級生たちの下品な顔に、身に覚えがあると言っていた。それは紛れもなく、私が彼女にされていたことだった。
「しかも、その相手が春山さんだったような気がして……」
「……」
言葉が出なかった。
彼女には、アプリを使う前の記憶があるというのか。完全ではないが、ぼんやりと覚えているということ?
そんなことがあるなんて思ってもみなかった。私は確かに柚乃にいじめられていた。それは嘘でもまぼろしでもない。だとすれば、穂花や神林にも私が柚乃のことで悩んでいた話をした記憶が、少しでも残っているかもしれない。
とっさに思い浮かんだのは私を心配そうに覗き込む神林の顔だった。
屋上で見せてくれた彼の優しさはきっと、本物だったのだ。彼の中でも、もしかしたらまだほんのりと記憶の窓が開いているかもしれない。
「たぶん、気のせいだよ」
「そうなのかな? それにしてはあまりにリアルだったから怖くなってね」
「悪い夢だって。気にしないで」
「……まあ、でも一応さ、私の自己満足で言わせて。春山さん、本当にゴメン」
「ううん」
「ごめん」という言葉を聞いたとき、私の中でふわりと心に灯火が灯ったようだった。大抵のいじめって、加害者が被害者に謝るなんてことないんじゃないだろうか。気づいたときには大人になっていて、いじめた側はいじめられた側ほど何をしたかなんて覚えていない。いじめられた側はずっと心を蝕まれながら、いじめた人を許せないまま生きていく。でもできるなら、そんな暗い気持ちはとっとと捨て去ってしまう方がいい。誰かを恨み続けるのって、思ったよりも気力と体力がいるのだ。
柚乃は、私の心から一生暗闇になるはずだった影の部分を取り除いてくれた。
それは、『SHOSHITSU』アプリのおかげといっても過言ではない。あのアプリは、決して悪いものじゃない。今日まで興味本位で使ってしまったことを後悔していたが、今になってようやく、自分の行いを少しでも肯定することができた。
「ありがとう」
「え、何が?」
「ううん。こっちの話」
「なんだ、気になるなー」
それから私たちは、最近の学校のことや柚乃がハマっているゲームの話で盛り上がった。ゲームにハマったのなんて初めてだよ。お母さん、昔は許してくれなかったから。柚乃は「不登校も悪くないね」とあっけらかんと語っていた。こうして話していると、柚乃はごく普通の女の子だ。
「そういえば、うちのお母さん見た?」
「うん。さっき来たときに」
「どうだった?」
「普通のお母さんって感じだったよ。正直聞いてたお母さんとイメージが違った」
「私がこんなことになったからか、プライドなんてなくなっちゃったんだろうね。習い事のことも勉強のことも、あんまりうるさ
く言われなくなった」
「そっか。良かったのかな?」
「少なくとも私にとってはね。お母さんはどう思ってるのか知らないけど」
私は、先ほど目にした柚乃のお母さんの様子を思い出す。不登校になった娘のことを心配してやつれていた。どんな母親でも、我が子が大変な目に遭っていると知ればそうなるのも無理はないのだろう。
「お母さん、きっと心配してると思うよ」
「……だよね」
「お母さんときちんと話をして学校に来られるようになるといいね」
「うん、そうだね。そうする」
一体どの口が言っているのかと考えてみれば滑稽だった。たぶん、母ときちんと話をしなければならないのは紛れもなく私の方だ。
あまり長居するのもよくないと思い、私はベッドから立ちあがった。ここへ来る時よりも心はすっと洗われている。
「突然押しかけてごめんね。また2学期に待ってる」
「ううん、今日はありがとう。頑張ってもう一度学校行ってみようかなって思う。このままだと先輩たちに負けたみたいで悔しい
から」
柚乃の目にははっきりとした決意の色が滲んでいた。私は柚乃にいじめられているとき、彼女みたいに立ち向かおうとは思えなかった。だから柚乃はたぶん強い。私なんかよりもずっと。
私は柚乃の目を見て頷いたあと、そのまま彼女の部屋を後にした。扉を開けるとすぐ近くにお母さんが立っていて驚く。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったのだけれど」
柚乃のお母さんは麦茶とお茶菓子を載せたお盆を抱えていて、小さく頭を下げた。
「いえ、すみません。お気遣いいただいて」
「これ、届けようと思ったのだけどね。あなたと柚乃が自然に会話してたから邪魔したくなくて」
「そうなんですね。柚乃さん、元気そうで良かったです」
「元気だったかしら?」
「ええ。柚乃さんは強いからきっと大丈夫ですよ。2学期になったら学校にも来てくれると思います」
「そっか。あの子とたくさん話してくれてありがとう」
「お母さんも、話してみてください。私も自分の母親とは上手く会話できないことが多いので人のことは言えないんですけど。た
ぶん、柚乃さんはお母さんと話したがっていると思います」
今日初めて会ったばかりの柚乃のお母さんに、図々しくもすらすらと言葉が出てきてしまった。お母さんは私の勧めに驚いている様子だったが、「そうね」と頷いて小さく笑った。
「では今日は失礼します。お邪魔しました」
「ありがとう。ぜひまた遊びに来て」
柚乃のお母さんに「また遊びに来て」と言われるなんてとても不思議な気分だった。私は、アプリを使ってからどんどん自分の心境が変化していくのを感じていた。どこからともなく現れた謎のアプリに、まさかこれほど助けられるなんて思ってもみなかった。
「そんなに悪いものでもない、か」
確かに、穂花や神林の記憶から私と話をした記憶が消えてしまったのは辛い。その時に感じた感情まですべて否定された気分になった。
でも、アプリを使ったことで良い方向へ変わったこともある。一概に悪いものではなかったのだ。
遠藤家の門から出て、外の空気を吸い込むと肺の中だけでなく、心まで新鮮な気分で満たされた。柚乃が2学期からちゃんと学校に来ますようにと、青空に向かって祈った。