昼休み、神林は「ここじゃなんだし、上に行こう」と声をかけてきた。上って、一体どこのことだろうか。生徒があまり立ち入らない四階のことかな。あそこには音楽室や美術室といった特別教室しかないから、込み入った話をするには確かに有効かもしれない。
私たちはせっせと四階まで階段を上がる。そのまま廊下の方に出るのかと思いきや、神林はさらに上へと階段を上ろうとした。けれどそこには「立ち入り禁止」のテープが張られている。

「え、どこ行くの?」

「どこって、屋上」

「屋上! って、鍵空いてないよね? というか、生徒は立ち入り禁止なんじゃ……」

「あれ、知らないの。屋上の扉、鍵が壊れてるんだ」

「え」

「だからほら」

神林は屋上へと続く階段に張られている「立ち入り禁止」のテープをひょいと乗り越えて、私に手を差し伸べた。
「早く行こう」

私は、差し出された彼の右手と、いたずらっこの笑みを浮かべる彼の顔を交互に眺めた。神林って、いつからこんなにやんちゃな少年になったんだろうか。いや、もしかしたら最初からこれが彼の本当の姿なのかもしれない。
さすがにその手を握ることは恥ずかしかったので、私は無言でテープの下を潜った。

「じゃあ行こうか」

「怒られても知らないよ」

「そん時はそん時。怒られる時は一緒さ」

私は、神林と二人で職員室に呼び出され、先生に怒られる様子を想像した。雪村先生が頭を抱えている姿を想像するとなんだか面白かった。「優等生二人がどうしたんだ」って、きっと慌てるに違いない。
だけどまあ、この間5時間目をさぼったあたりから、私は自分の中で「優等生」という言葉はだいぶ薄れていた。求められるままに優等生ぶっていたけれど、私は母や父みたいに偉くないし、勉強ばかり頑張るなんて無理だ。
階段の突き当たりで彼は鉄の扉に手をかけた。ドアノブをぐっと回して体重をかける。ギギと蝶番が軋む音がして、扉はゆっくりと開いた。

「わあ……」

扉の向こうには、何もない殺風景なコンクリートの空間と、青空が広がっていた。太陽の光が直接肌に降り注ぎ、思わず両目を瞑る。蒸し暑い空気が全身を覆った。

「ね、開いたでしょう」

爽やかな笑顔で振り返る神林は、一仕事終えたという達成感に包まれているようだった。

「びっくりした。学校の屋上なんて小学校以来」

「普通は開かないもんな。鍵が壊れてるなんて、無用心にもいいとこだよ」

「神林は屋上に来るの何回目なの?」

「うーん、そんなに来てないよ。今日で3回目くらい」

「そうなんだ」

こんな秘密を知っているくらいだから、かなり常連なのかと思っていた。

「気づいているのはたぶん俺ぐらい。普通屋上に行こうなんて思わないからね」

「それじゃ私たちはあぶれ者だね」

「確かにそうだ」

私たちは笑いながらその場に腰掛けた。ちょうど扉がある壁の裏だ。ここだと日陰になっていて涼しかった。

「話したいことって、この間のことだよね」

早速私は神林に本題を投げかけた。昼休みの時間は限られている。彼ときちんと向き合うには時間が少ないように感じられた。

「そう。この前さ、春山さんが『上履き見つけてくれてありがとう』って言ったじゃん。その時、俺にはなんのことか分からなくてあんな反応してしまって。その後、誰だっけ? ああ、確か“エンドウユノ”さん。その名前も聞いたことがない名前だったから混乱してたんだ。本当にごめん」

「いや……あれは、私が寝ぼけてただけだから気にしないで」

神林が柚乃や上履きのことを知らなかったのは、いたしかたないことだ。謝ることではない。あの時は私の方が混乱してショックを受けてしまったからああいう反応になっただけで。彼の記憶からは柚乃の存在が消えているのだから、どうしようもないことだった。

「寝ぼけてた? 本当に?」

「うん。その日おかしな夢でも見てたみたい。私が学校でその柚乃っていう女の子にいじめられる夢。あんまりリアルだったから、現実と間違えちゃった。馬鹿だよね。小学生みたいだよねー」

あの日彼に伝えたことはすべて夢の話だった。そういうことにしておくのが、この奇怪な現象を説明するのには一番手っ取り早く簡単な方法だった。私の頭がおかしくなったというマイナスな印象はついてしまうが、事実を垂れ流してもっとおかしなやつだと思われるよりはマシだった。
私は、神林がどんな反応をするのか、じっと待っていた。その時間、心臓の動きが速くなって、汗が滲み出た。今度こそやばい人だと思われたらどうしよう。

ああ、私はいつから、神林にどう見られるかをこんなに気にするようになったんだろう。

ふと、自分の胸に問いかける。
神林を、いちクラスメイトではなく、特別な存在として意識している自分がいる。ずっと前から本当は気づいていたのに、見えないフリをしていた。

「夢って、嘘だよね」

だめだ、泣きそう。
私は三角座りした膝に顔を埋める。「大丈夫?」という彼の声が頭上から降ってくる。嘘だなんて、そんなこと言わないで。「災難な夢だったね」って言ってくれれば良かったのに。それでこの話を終わりにできた。
だけど、神林は話を続けようとしている。終わりになんてしてくれない。

「はは、なんでそんなこと言うの」

「だって、春山さんの顔見たら分かるよ。『気づいて欲しい』って顔してる」

「うそ……」

今度は私が「嘘」という番だった。
気づいて欲しい。
確かに私は、神林に本当のことを知ってほしかった。話したって絶対に理解できる内容ではないはずなのに、この人に嘘をつくということに、心が耐えられそうにないのだ。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。気がつけば彼の透き通るような瞳が私のすぐ隣にあった。さっきからずっとそばにいたはずなのに。この場に連れてこられる前の5倍は彼のことを考えてしまっていた。

「本当だよ。俺に嘘をつこうったって無駄だ。嘘が下手だね、春山さんは。だからもう諦めて話して欲しいんだけど。この前のこ
とが夢でなければ現実なんだと思う。春山さんはそのユノって子にいじめられていたの?」

核心をつくその問いが、私をこの間みたいに逃げられないように捉えていた。どうしてこの男は、遠藤柚乃という記憶にない人間のことを、本当に存在したのかってすぐに納得できるんだろう。普通だったら「やっぱり夢じゃない?」と終わらせてしまうところだろう。