子猫になった猫魈(ねこしょう)を抱いた苺苺(メイメイ)はそわそわと、紅玉宮(こうぎょくぐう)の本殿の廊下を行ったり来たりしていた。
 若麗の沙汰が言い渡されるまでの間に、もし若麗の悪意が呪詛に変わったらどうしようかと思っていたのだ。

「破魔の術を込めて作った紫淵殿下用の深衣は、効果があったでしょうか」
「にゃぁん」

 最初は大好きな木蘭のために作りたいと思ってい破魔の衣裳たが、『大は小を兼ねる』と紫淵に言われてしぶしぶ大きい衣を縫った。
 木蘭の形代のぬい様もばっちり用意しているので大丈夫だとは思うが、『若麗様の悪意による白蛇ちゃん惨殺事件』には流石に鳥肌がたったものだ。

 けれど夜の帳が下りてしばらく経った頃、木蘭の部屋から宵世と零理に脇を固められた若麗が出てきた。

(ど、どういうことでしょうか? 木蘭様はご無事で……!?)

 苺苺は三人に駆け寄って、「木蘭様は?」と切羽詰まった表情で尋ねる。
 しかし零理は『気やすく喋りかんけんな』と般若の顔をしただけで、宵世は「諸事情で籠城(ろうじょう)するそうです」と淡々と言った。

「お元気でしたら良かったです。それでは、若麗様をお見送りに来られないのですか?」
「ええ。紅玉宮での夕餉はいらないそうですので、白蛇妃(はくじゃひ)様が女官たちに伝えておいてください。今夜の紅玉宮の指揮は全て白蛇妃様にお任せされるそうです」
「わかりましたわ。……あっ。でしたら宵世様、今晩は爆竹の許可をいただきたいのですが」
「あなた阿呆ですか? 許可するわけないでしょうが。よそでやってください。いや、よそでも駄目です」

 宵世に怒られた苺苺はしゅんとしながら頷き、ちらりと憔悴しきった若麗を見やる。
 筆頭女官の若麗は、すでに彼女の瞳の中にはいなかった。

「あの……若麗様。わたくし、若麗様から木蘭様のこれまでの日常をお聞きするのが、とっても楽しくて至福の時でした。そのお返しと言いますか、ぜひとも木蘭様の良いところをたくさん知っていただきたくて。こちらをご用意させていただきました」

 苺苺は頬を染めつつ、大袖からそっと真新しい紐閉じの書物を取り出す。

「……こちらは?」
「はいっ! 木蘭様と若麗様の素敵な日常や、かわゆいやりとりなどを日記形式でまとめさせていただいきました! これを読んだらきっと若麗様も、木蘭様の至高の尊さがわかると思うのですっ」

 木蘭様の尊さをいっぱい綴った『木蘭様日記』です! と苺苺はぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む。

「……そうね。今となっては、お慕いしていた方との大切な日々だったわ」

 若麗は涙ぐみながら、苺苺から渡された日記をぱらぱらとめくる。
 そこにはなんてことのない日常の風景があった。しっかりと覚えているやりとりもあるし、木蘭の笑顔や、風景や、匂いまで鮮明に思い出せる一幕もあった。
 あんなに憎しみを抱いていたのに、今はどこか懐かしい。
 なによりも心の奥底から湧き上がる熱が、木蘭の周囲を輝かしくきらめかせて……――尊くて、切なくて、愛おしく感じられた。

「……きっとこんなあなただから、木蘭様も心を開かれたのね」
「へ?」
「猫魈も、ごめんなさい。許されないことをしたわ」
「しゃぁぁあ」
「わわっ、猫魈様!」

 苺苺は腕の中で暴れ出した三毛猫をわたわたと抱きなおす。
 子猫姿の猫魈は小さな牙を剥くと、若麗の指先を噛んだ。
 若麗は驚いて、今にも泣きだしそうな笑みをこぼしながら、猫魈を撫でようとしていた手を引っ込める。

「……やっぱり私、あなたが羨ましいわ。苺苺。――選妃姫(シェンフェイジェン)、絶対に負けないでちょうだいね」

 若麗は物腰柔らかく、姉のような親しみやすささえ感じられる、優しい微笑みを浮かべた。

「……はい! 選妃姫でもしっかり木蘭様をお守りできるよう、全身全霊をかけて挑ませていただきますわ!」

 こうして無事、苺々よって木蘭沼に沈められた若麗は、紫淵の命により後宮を去ることになったのだった。


 ◇◇◇


 そうして――選妃姫(シェンフェイジェン)の当日がやってきた。

 恐ろしい女官の脅威も去り、夜警から解放された苺苺(メイメイ)は、毎日ぐっすりスヤスヤと水星宮(すいせいきゅう)に運び込まれたふかふかの布団に包まれて眠っていた。
 木蘭の命を狙う存在がいなくなった今、紅玉宮(こうぎょくきゅう)を辞して水星宮に帰って来ていたのだ。

「にゃーん?」
「おはようございます、猫魈(ねこしょう)様。んん、良い朝ですね〜〜〜」

 若麗(ジャクレイ)から従妖(じゅうよう)の契約を解かれた猫魈の主人は、苺苺へと書き換わった。ふたりは種族を越えた友人として、今は一緒に水星宮に住んでいる。

(まさかお部屋の調度品を一新していただけるとは思ってもみませんでした。紫淵(シエン)殿下、太っ腹です)

 そんな紫淵はといえば、苺苺が紅玉宮を辞すのを最後まで嫌がった。
 そして最後には『こうなったら水星宮を建てなおす!』と言い張ったが、時々互いに通って茶会や夕餉を共にするという話で折り合いがついた。
 さらに水星宮の簡素だった調度品は、紫淵の希望ですべて天藍宮(てんらんきゅう)並みの豪華な品々に取り替えられることに。
 おかげで水星宮は以前より瀟洒(しょうしゃ)な意匠の調度品に溢れ、小さくとも素敵な隠れ家風になっていた。

「まさかこんなに、自慢するところしかないお部屋になるだなんて……。ぎゅぎゅっと全てが整えられた単身者向け一室住居(風呂、御手洗完備、厨房無し)の水星宮、おそるべしですっ」
「にゃうん」
(早く木蘭様をご招待したいですわね。どんな反応をなさるでしょうか? 想像するだけで、ふふっ、幸せな気持ちになります)

 そんなことを考えながら、「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」と調子の外れた鼻歌交じりに寝台を整える。
 小さな子猫姿の猫魈も、三尾のしっぽをフリフリしながら前脚で念入りにもふもふの顔をを洗った。



 ふたりで朝餉を食べ、香包(シャンパオ)の最終準備を行い、そうして――夕方に差し掛かった頃。
 なにやら扉の外が騒がしくなる。

白蛇(はくじゃ)娘娘(にゃんにゃん)春燕(チュンエン)鈴鹿(リンルー)なのです」
「ちゃんと生きてる? 失礼するわよ」
「はいっ。どうぞ、お入りください」

 苺苺が返答すると、がらりと扉が開く。

「お久しぶりでございますなのです。お支度をお手伝いするのです」

 紅玉宮は木蘭付きの女官、侍女頭補佐となった春燕と第参席となった鈴鹿が、上級女官に相応しい正装をした姿で、不釣り合いなほど大きな葛籠(つづらこ)の箱を抱えて入ってきた。
 きょとんとした苺苺は、紅珊瑚の瞳をぱちぱちと瞬かせて丸くする。
 なにせ、苺苺にとってびっくりするようなことが起きた。
 紅玉宮に〝異能の巫女〟として住まわせてもううようになってから、朝の身支度や髪結いはすべてひとりで行ってきた。それは水星宮で当たり前にやっていたので、このふたりの女官の手を煩わせるまでもないと思って遠慮していたからだ。
 そして水星宮に戻った今、身支度を自分で整えるのは至極当たり前のことだった。それが、二人の女官が手伝ってくれると言い出したのだ。

「おふたりとも、本日は木蘭様のお支度でお忙しいですよね? そんな、わたくしまでお気になさらずに結構ですよ。本日も自分で――」
「いいから、ここに座って。香油の好き嫌いはある? お化粧の色味の好き嫌いは?」

 葛籠の箱をいろいろと広げながら、春燕が言う。

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして。好き嫌いはないですよ」
「好き嫌いがないなんてことはないでしょ? 木蘭様の次に目立たなきゃいけないんだからしっかりしてよ」
「ふふっ。春燕さんと鈴鹿さんに初めて整えてもらうのですから、どんなものでも嬉しいです」
「……馬鹿ね」

 春燕は顔を真っ赤にしてふいっとそっぽを向く。

「春燕、照れてるのです」
「照れてな、く、は、ないわよ」

 いつものやりとりが、尻すぼみになっていく。
 苺苺は賑やかなふたりのやりとりに、幸せな気持ちになって「ふふふっ」と桃色に頬を染めた。
 そして葛籠の中に入っていた大袖を手に取り、目を丸くする。

「わあ……! こちらのお衣裳、上質な絹の白地に紫銀糸の刺繍だなんて」
「そちらは白蛇娘娘へ、皇太子殿下からの贈り物なのです」
「木蘭様のところに届いたのよ。きっとこの間の、暗殺未遂事件から木蘭様を助けた褒賞だわ」
「そうなのですか。はわわ、着るのがもったいないくらい素敵ですね」
「もったいなくなんかないわ! ばしっと着こなしちゃって、木蘭様の隣で二番目に目立ってよねっ!」
 そう言って春燕は「打倒六妃!」と拳を突きあげた。
 今回の選妃姫(シェンフェイジェン)は、珍しく夜間に行われることとなっていた。
 御花園に作られた天幕の張られた会場は、三方向からならどこからでも観覧できる。
 普段は後宮内の秘匿された会場で行われるため、このような形で開催される選妃姫は非常に珍しく、周囲には皇太子殿下やその妃たちを一目見ようと、後宮中の女官や宦官たちが集まっていた。

「選妃姫が夜に行われるのは油桐花(ヨートンファ)が降るからかしら? ああ、こんな素敵な夜に、淑姫(しゅくき)様の凛とした姿が見れるだなんて」
「満点の星空と立夏雪(りっかのゆき)が一番似合うのは徳姫(とくき)様よ。見て、あの可憐な様子」
賢姫(けんき)様の天女のような声が夜の帳を揺らす瞬間は、きっと誰もが感嘆のため息をつかずにはいられないわ。皇太子殿下から『百花(ひゃっか)瓏玉(ろうぎょく)』を下賜されるのは賢姫様ね」
「まあ、間違ってもあの幼な子や白蛇妃(はくじゃひ)ではないわ」
「この間はちょっと、その、助けられたけれど。それとこれとは話が違うんだから!」

 それぞれの推しを称えてクスクスと笑う女官たちの話し声が、彼女たちにほど近い末席に座す苺苺(メイメイ)に聞こえていないはずがない。
 だが、しかし。

(立夏雪の中の木蘭(ムーラン)様の一挙手一投足、いいえ! 衣のはためきまでも見逃しはしません!)

と、燃える苺苺の耳には、女官たちの悪意のこもった話し声などまったく入っていなかった。

(それにしても木蘭様はいらっしゃいませんね……。お支度が遅れていらっしゃるのでしょうか? 春燕(チュンエン)さんと鈴鹿(リンルー)さんの手をわたくしが借りてしまったからですわっ。心配です……!)

 特別なおめかしをした苺苺の後ろには、なんと春燕と鈴鹿が控えている。
 審査員席には皇后陛下、四夫人、そして司会進行役の東宮補佐官である宵世(ショウセ)がいる。
 会場の向こうには、特別な場合にしか後宮内に入ることのできない青衛禁軍に属する零理(レイリ)が率いる東宮侍衛たちが警護に当たっていた。

「――ただいまより、選妃姫を開始いたします」

 宵世の声でわっと会場が華やぐ。
 そして天幕の裏から、この国の次期皇帝である皇太子、紫淵(シエン)が姿を現した。
 まさか本当に皇太子が現れるとは思っていなかった会場の人々は、さらに悪鬼面をつけていないその美貌にどよめき、のちに静まり返る。
 審査員席に座す人間以外は皆、紫淵にひれ伏した。

(おもて)を上げよ」

 夜の静けさに低く冷たい声音が響く。

(木蘭様……っ! ああ、立夏雪とかわゆい木蘭様の共演がぁぁぁ)

 苺苺は木蘭の欠席を悟り、がくりとうなだれた。


 そうこうしているうちに、『八華八姫(はっけはっき)』の姫君たちによる『端午節(たんごせつ)香包(シャンパオ)』のお披露目が始まった。
 一番手は最上級妃の木蘭だったが、病欠のため、筆頭女官となった怡君(イージュン)が代理人として作品を上座に座す紫淵へと披露する。それはちょっと糸がよれている、木蓮(もくれん)風の花があしらわれた香包だった。

 それに続いて淑姫、徳姫、賢姫、と作品のお披露目と謂われの説明を行う。
 紫淵は誰に声を掛けることもなく、そして誰の香包も受け取らなかった。

 そうして……ようやく最後に、最下級妃の白蛇を冠する苺苺の番が巡ってくる。
 苺苺は末席から立ち上がると、白蛇妃付きの侍女として控える春燕と鈴鹿とともに前へ出た。

「皇太子殿下に拝謁いたします。白蛇妃、苺苺でございます」
「ああ。君を待っていた」

 紫淵は初めて、進行のためではない(いら)えを返す。
 苺苺は紅珊瑚の瞳をぱちくりとして、紫淵を見上げた。

「恐悦至極に存じます。わたくしが『端午節の香包』として、紫淵殿下にお贈りしたいとご用意いたしましたのは、こちらでございます」
「それは…………ぬいぐるみ?」
「はいっ! 紫淵殿下を模して製作したぬい様でございます!」

 苺苺が元気よく伝える。
 香包にしては大きく、そして奇をてらいすぎた形を見て、会場中がざわざわとどよめいた。

「衣裳には五色の糸を使用し、破魔の紋様と健康を願う意匠の刺繍を施させていただきました。中にはお忙しい毎日でもぐっすり眠れるよう、安眠用の生薬を詰めてあります。抱き枕としてお使いください」
「……ふっ。くくく、さすが苺苺。面白いものを作ってきたな」

 そっと甘さを含んだ優しい声音でそう言うと、紫淵はふわりと微笑んだ。
 彼は鷹揚に上座から立ち上がると、苺苺の目の前までやってくる。そして。

「君には、これからも俺のそばにいてほしい」

 紫淵は懐から一本の(かんざし)を取り出すと、苺苺の綺麗に結い上げられた真珠色の髪に刺した。

「あ、ああ、あれって……希少な琅玕(ロウカン)翡翠(ヒスイ)で作られてるっていう、『紫翡翠の牡丹(ぼたん)瓏花(ろうか)』!?」
「さ、さ、最高位の『百花瓏玉』なのです――!」

 白蛇妃付きとして後ろに控えていた春燕と鈴鹿が「わああ」っと喜び、ぎゅっと手を取り合う。
 苺苺は驚きに見開いた目を丸めて、たった今下賜された最高位の『百花瓏玉』にそっと手を触れた。

「――白蛇妃、白苺苺の香包をもって選妃姫を終了とする!」

 紫淵の冷たく玲瓏な声が、後宮に高らかに響いた。



 ◇◇◇



 それからのことは、『白家白蛇伝』に書き加えられた、新たな物語より知ることができる。

 白蛇の娘の異能によって、皇太子は少しずつ、本来の姿に戻る時間が増えていくようになった。
 その間も後宮では様々な事件が起きたが、そのたびに白蛇の娘は持ち前の明るさと元気で切り抜け、そして人々は次々に白蛇の娘の真実の姿を知ることとなる。

 そうして、二年の月日が経ち――皇太子が成人の儀を迎え、悪鬼の呪詛による怪異が完全に解けた頃。
 八華八姫の慣例に従い官名を賜っていた姫たちは、皇太子によってそれぞれ名のある臣下に下賜され、皇太子宮はひとつの宮を残して封じられた。

 後の世に紫淵皇帝陛下が溺愛し庇護する〝唯一の寵妃〟となったのは、紅玉宮を与えられた白蛇の娘。
 紫淵皇帝陛下を献身的に支えた〝聡明な皇后〟と多くの女官や宦官に推され、慕われた白蛇妃――白苺苺である。



〈完〉