◇◇◇
朝餉を終えてしばし歓談した後は、木蘭の寝室の隣にある私室へ場所を移した。
ここは本殿に造られたいわゆる書斎にあたり、立派な格子窓からは壺庭が望める。
(銀花亭の白木蓮はそろそろ終盤に入る頃ですが、紅玉宮の紫木蓮の花はあとひと月は見頃でしょう。窓を開けているので芳しい香りがしますね。木蘭様の香り、というかどちらかというと紫淵殿下の香りを思い出すような気も?)
厳粛な気高さを思わせる優雅な花の香りと、その深層で香る蜜の甘い匂いは、天藍宮で焚かれていた香炉から漂っていた匂いにも似ている。
(そういえば、こちらの書斎の調度品の配置も、紫淵殿下の執務室に似ていますね)
ぼんやりと昨夜のことを思い出していた苺苺はふとそんなことを考えながら、壺庭の紫木蓮の手入れをする木蘭を愛でながら刺繍を楽しむ。
本日は茶会の予定もあるので、木蘭の手習いはすべて休みだ。
なので苺苺はこうして、できるだけ木蘭のそばにつきっきりで過ごす。
苺苺の腰掛ける椅子の前にある茶机には、たくさんのぬい様が入った藤蔓籠が置かれており、その向かい側の長椅子には、めいっぱい陣取った白蛇ちゃんたちが朗らかな顔で鎮座している。
いざという時のための準備も万端だった。
「……木蘭様、苺苺様。怡君でございます」
扉の外から入室の許可を得る声が掛かる。
「どうぞお入りください」
壺庭にいた木蘭の代わりに苺苺が答えると、女官用の普段着ではなく正装した怡君が、「失礼いたします」と部屋に入ってきた。
木蘭もそれに気がつき、室内に入る。
「木蘭様、そろそろお召し替えのお時間でございます。どうぞお支度部屋へ」
「わかった。支度は怡君が手伝ってくれるのか?」
「私と春燕と鈴鹿がお手伝い致しますよ。若麗様は最終確認を終え次第、こちらに」
「そうか。それじゃあ苺苺、ここで好きに過ごしていてくれ」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ、木蘭様」
「ああ、行ってくる」
書斎から出て行く木蘭と怡君を、苺苺は穏やかに見送る。
木蘭の衣裳がずらりと並ぶ支度部屋は本殿内にあり、この書斎とも近いので、もしあやかしが出てもすぐに助けに行けるだろう。
(本日もお茶会のお呼ばれはありませんので、わたくしは個人的に、あくまで私用で鏡花泉の東の四阿へお散歩に行かせていただきましょう!)
決定的な瞬間を押さえるためには、付かず離れずの距離感も必要なのだ。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
手元の絹布に通していた〝白蛇の鱗針〟を引っ張り、図案の裏側で針目に糸を何度もくぐらせて絡めると、きゅっと針を引っ張ってから糸を丁寧に鋏で切った。
それからほどなくして、書斎の扉の向こうから再び入室許可を求める声が響いた。
苺苺が「どうぞ」と促すと、「失礼いたします」と怡君と同じく女官の正装に身を包んだ若麗が入ってくる。
今日の若麗はとびきり綺麗であった。
(朱家の三の姫であることを忘れさせない凛とした立ち振る舞い、そして紅玉宮の筆頭女官として貴姫である木蘭様を引き立てるお衣裳と髪飾り選び……。お見事です)
もし彼女の前に木蘭が立っておらず、後ろに怡君と春燕、鈴鹿が並んでいたら、清楚な朱家の妃に見えるかもしれない。
けれど幼くとも覇気のある木蘭という存在が、彼女たちを最上級妃の上級女官として正しくまとめ上げていた。
(もしもここが皇帝陛下の納められている後宮であったならば、若麗様は今宵、女官から一夜にして寵妃になられるでしょう)
そう思わせるほどの嫋やかさが、今日の若麗からは見え隠れしていた。
「出発の挨拶に参りました。私どもは木蘭様とご一緒いたしますので、なにかご不便がおありでしたら、他の女官たちにお申し付けくださいね」
「わかりましたわ。わたくし〝異能の巫女〟とは名ばかりで、あやかし退治もできていない居候ですのに、細やかなお気遣いをいただきましてありがとうございます」
「いいえ、そんなにご謙遜なさらないでください。苺苺様がいらしてから、木蘭様の笑顔が増えて、紅玉宮が明るくなりました。今までの木蘭様はしかめっ面で、なんでもひとりでおやりになることが多かったですが、今は苺苺様に甘えられたりと……ふふっ、年齢相応で。ご成長が楽しみです」
「かわゆい木蘭様は無敵ですっ。本日のお茶会でも、木蘭様が元気で健やかにお過ごしになれるよう願いながら刺繍をしつつ、こちらでお留守番をしていますね」
「お願いいたします。それでは」
若麗が腰を折って挨拶をし、踵を返して……肩越しに振り向く。
「あの、木蘭様のお部屋に、昨夜は紫淵様がいらしたのですか?」
「はい?」
苺苺は突然の質問にきょとんとした。
若麗は身体を苺苺に向けなおし、頬を染める。
「紅玉宮の閂は閉まっていたはずですが、まさかお忍びで? 美雀の起こした事件の調査でいらしたのでしょうか? 紅玉宮の筆頭女官として、紫淵様をお出迎えできず申し訳なかったです」
熱くなった頬に片手を添えて隠した若麗は、恋慕の情を抱える姫のような表情で黒い瞳を潤ませた。
(し、紫淵殿下ッ!! なぜかわかりませんが若麗様にはほとんどバレてますっ!!)
ギクリと顔を強張らせた苺苺は『とにかく上手に言い訳をしないと!』と、胸の前で両手をぶんぶんを横に振る。
「いっいいえ! 来られては、いませんでしたね?」
「ですが苺苺様から紫淵様の焚かれる香の匂いがかすかに……。御髪でしょうか?」
「ええっ!? そんな匂いが!?」
すんすんと自分自身を匂ってみるが、わからない。
「あっ! 木蘭様の寝台で、一緒に寝させていただいたからでしょうか!? それとも、こちらのお部屋も木蓮の香りでいっぱいですし、その香りでしょうかっ!?」
(紫淵殿下のお部屋の香りと似ていますし、この言い訳で押し通すしかありませんっ)
「あの、若麗様? どうかしまし――」
苺苺があたふたと言い訳をしていると、若麗の真っ黒な双眸がすっと温度をなくす。
そして紅を引いた口元に、不気味な弧を描いた。
その瞬間。
――ザクッ! ザクザクザクザクザクッ!
長椅子の上にあった白蛇ちゃんたちが、刃物で斬りつけられたかのように、次々と腹を裂かれていく。
一瞬にしてすべての白蛇ちゃんが無残な姿に成り果たその刹那、若麗の周囲にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
若麗は今しがた起こった怪奇現象に目もくれず、余裕のある笑みを浮かべる。
「私、ずっと苺苺様が羨ましかったんです。最下級妃でも妃は妃ですから。……けれど、それもきっと今夜まで」
ひらひら、ひらひら。
若麗の周りを不気味に彩るように、燐光を撒き散らすどす黒い呪妖が踊る。
あの時の……呪詛に近い黒い胡蝶が、今にも苺苺に襲いかかろうとせんとさざめいた。
「そろそろお茶会の時間ですね。私はこれで失礼いたします」
「はい。木蘭様をよろしくお願いいたします」
呆気にとられた苺苺は、小刻みに震える手を悟られぬよう気丈に振る舞い、挑戦的な笑顔を浮かべながらそう返答するので精一杯だった。
若麗が退出した部屋で、無意識に詰めていた息をふうっと短く吐く。
(美雀さんの呪妖と比較すると、まさに育ちきったという表現がふさわしい姿でした。美雀さんの呪妖が蛹から孵ったばかりの蝶なら、若麗様のは……豊富な呪毒を含んだ霊気という〝蜜〟を吸い尽くして育った胡蝶の女王)
「――呪詛になる前に、決着をつけなくてはいけませんね」
苺苺は静かに決意を固める。
椅子から立ち上がると、長椅子に横たわるズタボロになった白蛇ちゃん抱き枕をそっと手に取った。
「うううっ、今夜はお別れ会です……っ。のちほど宵世様からありったけの爆竹をお借りましょう。ばばばーんと白蛇ちゃんたちの無念を晴らさなければ……」
苺苺はえぐえぐと涙を流しながら、「悲しいです」と腹綿の出た白蛇ちゃんに頬ずりした。
部屋の中に散り散りになった白蛇ちゃんたちを一箇所に集め、飛び散った腹綿の回収を終えた苺苺は、「これでよしっ」と額を拭う。
(そろそろ鏡花泉へ向かいましょう。木蘭様は、そろそろ金緑宮を過ぎたあたりでしょうか?)
苺苺はたくさんのぬい様を入れた藤蔓の籠を手に持つ。
上級妃は御輿に乗り、それを宦官に担がせ、周囲に女官を侍らせてて移動することも多いが、小さな空間内ではいざという時に逃げ場を失う。そのため木蘭は、『今回は徒歩で向かう』と話していた。
紅玉宮は後宮の入り口のそばである、もっとも天藍宮に近い場所にある。鏡花泉はその真反対で、皇太子宮の最奥。水星宮の近くだ。
まっすぐ一本道の大通りを通っても、木蘭の幼い足ではかなりの時間がかかる。
(鏡花泉に到着なさる前に追いつけたらよいのですが。近くまでは走って、こそっと身を隠しましょう)
考えつつ、苺苺は書斎を出て、本殿の扉を開こうとする。だが、しかし。
「えっ、ええっ? ……――扉が開きませんッ!」
ガタガタと揺らしてみても、扉はびくともしない。
扉の内側の閂はかけられていない。となると。
「外から鍵を!? あわわわわ、まさか閉じ込められてしまうとは……!!」
苺苺は顔を蒼白にして打ちひしがれる。
「なぜ気がつかなかったのでしょうか……。きっと若麗様が出発を告げにきた後に、本殿からお人払いをなさったのですわ……!」
(木蘭様やわたくしに悟られぬよう、内密に女官の皆さんたちへ指示を出されていたのですね)
この時間ならば本殿で掃除をしている中級女官たちも、いつのまにかいなくなっている。
朝餉のこともある。彼女たちは若麗から『今日は掃除を早めに切り上げて休憩をとってほしいと、木蘭様からの伝言よ』と聞いて、掃除を中断して外から鍵をかけたのかもしれない。
白蛇妃はすでに外出したとか、別棟の自室で休んでいるとか、言い訳はどうにでもなる。
「……こ、こうなったら窓から出ましょう!」
苺苺はパタパタと走って自分が出られそうな大きな窓を探そうとする。
が、どの部屋の扉も錠前がかけてあり、鍵が閉まっていた。
「な、な、な。全部だめだなんて〜〜〜っ! さすがは紅玉宮の防犯意識です……!」
仕方ないので廊下の小窓の鍵を開けて、「どなたかいらっしゃいませんかーっ!」と力いっぱい叫んでみるも、外には人っ子ひとりいる様子がない。
「もしかして……皆さん、お出かけに……?」
(ありえます。昨日の今日ですし、若麗様が突然『お休み』を言い渡されて……お茶菓子を詰めて、後宮内のどこかに遊びに行かれたのやも……! どうしましょう、この調子では紅玉宮の門も外側から錠前がかかっているはずですっ)
残すは書斎しかない。
苺苺は急いで襦裙の裾をひるがえし、本殿の奥へと引きかえす。
「きっと壺庭からなら……!」
壺庭に面する床から天井までの大きな格子窓は、引き戸になっていて庭に出ることができる。
(高い塀に囲まれてはいるものの、その壺庭をぐるりと回れば、本殿の二階に続く階段があります。楼榭から屋根に降り立って、それで、そこから……どうにかなるでしょうかぁぁぁ!?)
屋根の上なんか歩いた経験もない。
「ううっ、いまさらですが、練習しておくべきでしたッ」
苺苺は急いで壺庭を出て、真っ白な髪をなびかせながら中庭を走る。真珠色のそれは陽の光を浴びてきらきらときらめいて美しいが、反対に表情は『あわわわわ』と聞こえてきそうな必死な形相をしていた、
大袖を翻しながら階段を登って、楼榭の上を走り、苺苺は二階の欄干に勢いよく両手で捕まる。
「ど、どなたか、いらっしゃいませんか〜〜〜っ」
最後の足掻きに叫んで、ぐっと唇を噛み締める。
(これはもう、屋根に降りて、どうにかして紅玉宮の塀に飛び移るしかありません)
「木蘭様の命をお助けするために、わたくしはここに来たのです。屋根くらい……塀くらい越えられなくてどうしますかっ! 女は度胸ですっ! いきますよっ」
苺苺は欄干の前から一度大きく下がってから、呼吸を整え、助走をつける。
「いっ、せー、のー、せいっ!」
そして勢いよく欄干を飛び越え、そのまま屋根の黄瑠璃瓦の上を全速力で駆けた。
まるで鳥になったような気分だ。今ならなんだってできる気がする。
(本殿の屋根から一番近い塀瓦の上に飛び移れたら、こちらのものです! あとは紅玉宮の外に降り立って、全速力で――)
「あっ!!」
つるっと、瓦の上で足が滑った。
今ならなんだってできる、だなんて強めの錯覚に過ぎなかったらしい。
ひやりと五臓六腑が浮かぶ感覚がする。
「おっ、落ち――っ! …………ない?」
「はぁぁぁ。あなたって本当に世話が焼けますね」
苺苺は、いつのまにか宵世の腕の中にいた。どうやら屋根の上から落ちそうになっていたところを、抱きとめられたらしい。
状況を理解して、苺苺は頭上に疑問符を浮かべる。
「へ? 宵世様? どうしてこちらに?」
「あなたが鏡花泉に現れないからですよ。仕方がないから様子を見に来たんです。そしたら屋根から滑り落ちそうなあなたを見つけたので」
宵世は苺苺を横抱きにして、軽々と跳躍し、紅玉宮の塀を越える。
そしてそのまま、人気のない屋根瓦の上を物凄い速さで走り出した。
「ひ、ひえぇ。早すぎです、宵世様っ」
「口、開けてたら舌を噛みます。閉じてください」
「は、はいっ」
「犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいとは言いましたが、ここまで離れた別行動は望んでません。茶会はもう始まっている頃です。まったく、紅玉宮に閉じ込められるなんて。どれだけ鈍臭いんだか」
「すみません……」
「あなたは木蘭様のあやかし避けなんですから、現場にいてもらわないと困るんです。しっかり〝異能の巫女〟してくださいよ」
「すみません……」
「…………まあ、閉じ込められたくらいでよかったですよ。怪我はないですか」
宵世はばつが悪そうにそう言って、ちらりと苺苺を見下ろす。
その目元はうっすらと紅色に染まっている。
けれどビュンビュンと吹き抜ける風圧で目が開けられなかった苺苺は、毒舌宦官の言葉に打ちひしがれたまま、「ないですッ! お助けくださりありがとうございます!」と力の限り叫んだ。
(それにしても、さすが東宮補佐官様です。とっても身軽で運動神経も良いのですね。紫淵殿下も足音がしませんし、皇太子殿下とその右腕は、これほどの妙技を持っていなくては危険なのやも……!)
明らかに人間業とは思えない宵世の移動方法に対し、苺苺はただただ羨望の眼差しを向ける。
「……なんですか、その目は。そろそろ鏡花泉の東に着きますよ。自分の足で走る準備しててください」
「はい」
苺苺がひとつ頷くと、宵世は水星宮の塀の屋根から降り立ち林の中を駆け抜ける。
宵世が大きな木の太い枝を飛び移って移動していくうちに、苺苺の目にも拓けた場所にある四阿が見えた。
四阿では華やかに着飾った七人の妃が、様々な表情でお茶や点心を楽しんでいる。
選妃姫の課題である『香包』について、各々の解釈や進行状況、完成品の程度の予測を言葉巧みに聞き出しているのだろう。
その周囲には正装した女官が総勢四十人ほどいるだろうか。
朗らかに見える七妃たちのおしゃべりの裏で、女官たちは互いを牽制しあっている様子だ。
その時。
宵世と苺苺は視界の端に、牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫が四肢を躍動させ、猛突進している姿を捉えた。
その首に靡くのは音の鳴らない鈴付きの、純白の披帛。
「あれは!」
「猫魈様です!」
あやかしの急襲に気がついた女官たちが、「きゃあああ!」「あやかしよ!」「逃げて!」と甲高い悲鳴をあげ、逃げ惑い、その場は阿鼻叫喚となった。
猫魈は「シャァァァアアア!」と咆哮し一直線に木蘭を目指す。
木蘭の後ろで控えていた怡君と春燕、鈴鹿が可哀想なくらいガタガタと震えて顔面を蒼白にしながら、木蘭を守るようにして腕を広げて、前に出た。
騒然としたその場に降り立った宵世の腕から、苺苺は弾かれるように飛び出す。
そのまま木蘭の前に躍り出て、そして、
「猫魈様!」
と苺苺は腹の底から大きく叫んだ。
ぴくりと耳を動かした猫魈の双眸と、苺苺の瞳がかちあう。
牙を剥いた猫魈の開いていた瞳孔が針のように細くなった。
迷いなく後脚に力を込めた猫魈は、大きく躍動し、苺苺へと飛びかかる。
「シャァァァァッ!」
「苺苺――!」
木蘭の切羽詰まった叫び声が猫魈の咆哮と重なる。
獅子ほどの巨体が苺苺に突進するかと思われた、その時――。
「にゃーんっ」
「あうっ」
猫魈が苺苺の肩に両前脚をかけ、勢いよく押し倒した。
苺苺はごちんと地面で頭を打って、思わず舌を噛む。
大きな姿の猫魈はとたんに子猫ほどの大きさになると、ぺろぺろと苺苺の頬を舐めた。どうやら妖術を使ったらしい。
「にゃぁぁぁん」
「ああ、猫魈様……。そうだったのですね。またお大変なめに……!」
苺苺は地べたにペタリと座り込むと、子猫になった猫魈を手の中でよしよしと撫でる。
猫魈の話から推察するに、猫魈はまた名が刻まれた式符で道術を使われ、後宮内に顕現されてしまったようだ。
しかし苺苺がくれた友情の証のおかげで、道士に意識までは操られずに済んだらしい。
『木蘭を喰い殺せ』と再び命じられたが、寸前まで使役の術にかかったふりをして、木蘭を安全なところへ連れ去ったうえで苺苺が来るのを待つ気でいたとか。
「あやかしに喰い殺せと命じるなんて、非道な女官だ」
「へ? すみません、宵世様。今なんと?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
猫魈を抱き上げる苺苺の隣に、眉根を寄せながら立った宵世が首を横に振る。
その宵世がどこぞへ合図を送ると、隠れていたらしい青衛禁軍に属する東宮侍衛の武官たちが、四方八方を取り囲んだ。
「四半刻ほど前、『あやかしが後宮内に侵入した』との報告を受け――、あやかしを退ける力を持つ〝異能の巫女〟として紅玉宮預かりになっていた白蛇妃を伴い、巡回していた最中でした。あやかしを引き入れた首謀者を炙り出すため、ご報告が遅れましたこと誠に申し訳ございません」
宵世はまったく申し訳なさそうではない顔で淡々と口にすると、
「貴姫様、淑姫様、徳姫様、賢姫様、令儀様、芙容様、彩媛様、お怪我はございませんでしたか」
とこれまた淡々と言う。
墨をこぼしたような黒髪美青年を前に、妃たちは頬を赤らめてふるふると小さく首を振る。
あやかしに阿鼻叫喚だった女官たちも、見目麗しいと女官や宦官たちに人気の高い宵世の登場で、悲鳴を黄色い声に変えていた。
今まで張り詰めていた緊張の糸が緩む。
だがしかし、誰もが白蛇妃への感謝など抱かずにいるようだった。
宵世の脇に歩み立った木蘭が、周囲を見渡してから、最上級妃らしく背筋をぴんと伸ばして叫ぶ。
「皇太子宮に侵入したあやかしは、『白蛇の娘』が弱体化した。皆の命を救わんと、命懸けでこの場に駆けつけた白蛇妃に、すべからく叩頭せよ!」
そんな木蘭の言葉を聞き最初に反応を示したのは、一番背の高い中性的な容貌の美姫、碧家出身の淑姫だった。
「感謝いたします、白蛇妃」
彼女は美しく丁寧な所作でもって叩頭する。
その凜とした声に、我に返った五妃たちはどこか不満そうに戸惑った表情を浮かべながらも、「感謝いたします」と淑姫に続くようにして叩頭した。
女官たちもそれに習い、続々と皆が叩頭していく。
苺苺はその光景にびくりと肩を揺らして、猫魈を抱きしめる。
「ど、どうぞ皆様、頭をお上げください」
後宮に来てからというもの、見知らぬ妃や女官たちに嫌われることは幾度もあったが、感謝されることなどあっただろうか。
(木蘭様暗殺阻止のために駆けつけたのですが、まさかこんな風に皆様にお礼を言われるだなんて)
「事件が起きる前に駆けつけることができて、よかったです」
照れくさい気持ちではにかみながら、苺苺は微笑みを浮かべた。
「……東宮補佐官殿、この場の指揮を頼めるか」
「御意」
木蘭に代わって、怖い表情をした宵世が前に出る。
「朱若麗を捕縛せよ」
「……っ!」
黒い胡蝶が舞う中、若麗は東宮侍衛長によって捕縛された。
◇◇◇
茶会は中止になり、集った妃たちはその場で解散となった。
宵世の采配で青衛禁軍の東宮侍衛がそれぞれ彼女たちの護衛に付き、各々の宮へと帰路につく。
捕縛された『木蘭暗殺未遂事件』を起こした犯人、朱若麗は、朱家次期当主の三の姫という立場から、紅玉宮で取り調べが行われることと決まった。
場所を移した一行は、紅玉宮にある木蘭の私室に向かう。
入室可能な関係者は限定され、木蘭、宵世、東宮侍衛長、そして若麗となった。
「木蘭を三度も暗殺しようなんて。馬鹿な真似をしたなぁ、若麗? 木蘭は俺たち朱家の宝だったんじゃねーの?」
この垂れ目の東宮侍衛長こそが、紫淵のもうひとりの腹心。
木蘭が白州を訪れた際に、木蘭の後ろに控えていたあの般若護衛。齢十九になる朱家当主が次男、零理であった。
朱皇后陛下の随分歳の離れた弟君にあたり、紫淵とはそれこそ赤子の時からの幼馴染になる。
そして零理にとって、若麗は血の繋がった姪に当たった。だが彼は、両膝で跪かせた若麗の首に、長剣の刃先を戸惑いもなく向ける。
しかし、若麗は「誤解です」と静かに首を振った。
「木蘭様、私はあやかしとなにも関係ありません。一体なぜ、私があやかしを使役するのですか? それに木蘭様を暗殺しようだなんて、理由がありません……!」
「野苺の葉茶の有毒性について、自然な会話を装って美雀に吹き込んだのはお前だな?」
木蘭の言葉に、若麗ははっと息をのむ。
「美雀が春燕に抱く劣等感を感じ取り、うまく煽って操作したんだろう? 春燕はちょうど苺苺を紅玉宮預かりにしたことに反発し、事あるごとに意見していた」
そんな春燕を紅玉宮の中で孤立させようと、美雀が他の女官たちに、
『春燕は悪口が多くて意地悪なところがあるの。昔から私も、姐姐には虐められてきたわ』
と喋って裏から根回ししていたというのは、美雀が捕まった後に女官たちから聞いた話だ。
美雀はその劣等感を、いつしか木蘭や苺苺にまで向けるようになっていた。
「春燕を評価する妃が邪魔だと、憎しみを抱くようになっていた美雀に毒のことを話せば、春燕を紅玉宮から追放するために行動に移すと理解していたのだろう?」
「そんな、ことは……」
「一度、猫魈を使った妾の暗殺に失敗していた若麗のことだ。自分の手を汚さずに妾を暗殺できる方法を考えて、美雀が事を起こしてくれるのを待った。違うか?」
美雀は春燕が事件を起こしたことにし、紅玉宮を追放されたらいいと考えた。
木蘭と苺苺を暗殺できるかどうかはどうでも良かった。
ただ春燕が被る罪の大きさが、大きければ大きいほどいいと考えていたのだ。
計画が失敗したら、野苺の葉茶を作った張本人である苺苺に罪を被せられるし、逃げ場は十分にある。
「お前の計画では、あの時ついでに苺苺も糾弾して追放するはずが……とんだ失敗だったな」
木蘭が鼻であざ笑うと、若麗は顔色を変えてギリっと奥歯を噛み締めた。
「美雀の計画が上手くいけば、『犯人である春燕は白蛇妃に毒された』だの、『やはり白蛇の娘が紅玉宮に不幸をもたらす』だのと言って追い出す予定だったんだろう? あやかしを紅玉宮に引き入れるには、〝異能の巫女〟が邪魔だからな」
「選妃姫が始まって今日で九十九日目です。それで悲願を成就するために、邪魔で邪魔で仕方がなかった白蛇妃を、今日はまんまと紅玉宮に閉じ込めた。なぜあなたは、木蘭様を暗殺してまで――紅玉宮の妃になりたかったんですか?」
木蘭の言葉を引き継ぎ、木蘭を守るようにして立つ宵世が言う。
「……紅玉宮の、妃、ですか? うふふっ。まあ、皆様。どうしてそんな突拍子もないお話になるんです?」
「筆頭女官なら、妾を暗殺する手段も機会も、いくらでもあったはずだ。だがそれをせず、あやかしを使役し……美雀を使うという回りくどく足のつかない方法を選んでいた。それは自分の手を汚さず綺麗なままでいることによって、皇太子の前で後ろ暗いことのない妃になりたかったから。間違っているか?」
本日の若麗がまとっているのはそのための衣裳、そのための化粧だ。
「猫魈が妾を襲おうとした時……若麗、お前だけが妾を守ろうとはしなかった。どうせ逃げおおせて、妾があやかしに殺された不幸の理由を歴史上の『白蛇の娘』に重ね、苺苺を罪人に仕立て上げる予定だったんだろう?」
「うふふっ。木蘭様は幼くていらっしゃるのに、想像力が豊かですのね」
「あいにく、見た目通りの年齢ではないからな」
木蘭はやれやれと肩をすくめると、紫水晶の大きな瞳で若麗をすっと冷たく見据える。
「百日以内に妃のいなくなった紅玉宮に君臨するのは、朱木蘭の血筋に連なる――朱若麗。お前だ。……さて。ここまで来て、言い逃れは無駄だぞ。もう逃げ場はない」
木蘭は上座にあたる椅子に座り、肘掛の上で頬杖をついた。
「鏡花泉の東の四阿付近の竹林で、宦官の詰所から昨晩盗まれた封籠が見つかった。……若麗、猫魈を従妖にした際の式符を持っているな? 出せ」
「………っ」
ぎりいっと奥歯を噛み締めた若麗は、本当にもう言い逃れができないのだと悟った。
悪態を吐き、言葉の限り暴言をわめき散らしたいのをぐっと我慢しながら、胸元から式符を取り出す。
道術を力を込めて作られた白い式符には【招来猫魈】と書いてある。
それを宵世が受け取った。
「これはどこで手に入れた?」
木蘭が問いかける。
「……西八宮である女官から……目くらましの霊符と合わせて、金品と交換をしました。彼女は以前、西八宮に来ていた異国の宮市で買ったそうです。道術も彼女から基礎を教わりました。ですが、彼女は……不治の病に侵されていたため先日亡くなっています」
「そうか」
神妙な顔で木蘭は頷く。
「若麗。お前の処罰は後宮からの追放、そして朱家での生涯に渡る禁足だ。またいかなる理由があろうとも、燐華城に立ち入ることは禁じる。燐華城内に足を踏み入れた瞬間、死罪を覚悟しろ」
「……そんな――ッ!」
「すべて未遂に終わったからこそ、情けをかけてやった。苺苺もお前の死罪は望まないだろう」
「……情け? うふふっ、幼児からの情けなんて、そんなのいらないわ! あなたが現れなければ、私が選妃姫に臨めたの。それなのに、選妃姫に臨めない私をお父様は自分の地位を固めるためだけに、皇帝陛下に嫁選びに参加させた。……ねえ、知っていて? ふふっ、皇帝陛下に見染められたら、私は紫淵様の義理の母になるんですって。そんなの、そんなの耐えられない……!!!!」
ねえ、義理の母なのよ? と若麗は目を見開き、何が面白いのか狂ったように笑う。
「そんなの、そんなの耐えられないわ……。だから西八宮で、ずっと復讐の方法を考えていたの。……うふふっ、だからあなたの女官になれると聞いた時、救われたのだと思った」
若麗はうっそりと嗤う。
若麗は幼い頃から、宮廷行事の際にひっそりと姿を現す紫淵に恋心を抱いていた。
悪鬼面をかぶり決して顔を見せない彼に惹かれたのは、その洗練された所作と、美しい紺青の黒髪、そして凛々しい立ち姿、なによりも氷のような冷たさを帯びる甘い声だったかもしれない。
祖父や父が招かれた宮廷行事がある際には、二人に何度も頼み込んで、次期当主の三の姫という立場で顔を出した。
いつか彼と一言でも話せますように。
そしてお顔を拝見できますように。
そう願いながら。
十三歳のある日、招かれた宮廷行事の際に道に迷った。しかも、絶対に入ってはいけないと言われていた皇帝陛下の後宮に迷い込むなんて。絶対に処罰される。帰宅は絶望的だと思った。
そんな時、幼い若麗に救いの手が差し伸べられる。見知った影を見つけたのだ。
『零理お兄様!』
若麗は走って、彼らを追いかけた。
そして禁足地で見つけたのだ。叔父の零理と、――紺青の黒髪が煌めく絶世の美少年を。
彼が紫淵様だ。
若麗にはすぐにわかった。
絶世の美少年は若麗を認めると、ふいっと顔をそらす。そして零理に何事かを耳打ちして、零理と一緒に後宮から外に出してくれた。
会話はなかった。だが視線は交わった。
その日の若麗の心臓は、人生で一番ドキドキしていたかもしれない。
その日の夜、事のあらましを聞いた父が言った。
『皇太子宮の封が解かれたら、お前は慣例に従い皇太子妃になる。朱家の血筋の家格が合う娘はお前しかいないからな』
あの美しい紫淵様の妃に、私が……?
若麗はその日から、一生懸命に妃教育に励んだ。
紫淵の隣で見つめ合い、手を繋ぎ、愛し合うのを夢見ながら。
しかし、現実はどうだろう。
伯母の縁者にあっさり朱家の姫の座を奪われ、皇帝の後宮に放りこまれた。
皇后陛下の女官として後宮で日々を生きる中、じくじくと木蘭への憎しみが疼き、胸を侵食して止まらなかった。
幼妃が捨て置かれていれば、まだ憎しみの溜飲が下がったかもしれない。
だが紫淵の寵愛を一身に受けていたのは、この後宮で一番憎悪を向ける相手――木蘭だった。
「筆頭女官としてあなたに尽くしていたら、あなたがいなくなったあとに紫淵様から寵愛を受けられると思っていたのに……絶対に許さないわ、朱木蘭! 私の紫淵様を返して……ッ」
若麗が素早く頭に刺していた簪を抜き、その鋭い切っ先を木蘭へ向けて立ち上がる。
だがその四肢を、宵世の隠し持っていた暗器――赤い紐のついた双剣の縄鏢が一瞬にして縛り上げた。次の瞬間には、零理の長剣の刃が彼女の薄い腹に当てられる。
「……――ッ!」
「これだから後宮の女は嫌になる」
腹心の臣下への信頼からか命の危機にも動じず、若麗に冷めきった目を向けていた木蘭は、「そろそろ頃合いだな」と言うと、座っていた椅子から立ち上がった。
若麗がこの部屋に入る前に、手伝いも呼ばずに召し替えたのだろう。先ほどまで身に纏っていた茶会向けの衣裳から、いつのまにか濃紫の深衣を身にまとっていた木蘭は、長すぎる裾を引きずりながら歩く。
ほら、ひとりで着替えもできない幼な子のくせに。
そう思っていた矢先、奇怪なことが起きた。
目の前にいた美幼女が、不敵な笑みを浮かべたまま大人になり、そして――。
「勝手に恋心を抱かれて、殺されかけては迷惑だ。恥を知れ」
「あ、ああ……そんな……。そんな、木蘭様が……紫淵様だなんて……!」
若麗は絶望感に苛まれながら、静かに一筋の涙を流した。
朝餉を終えてしばし歓談した後は、木蘭の寝室の隣にある私室へ場所を移した。
ここは本殿に造られたいわゆる書斎にあたり、立派な格子窓からは壺庭が望める。
(銀花亭の白木蓮はそろそろ終盤に入る頃ですが、紅玉宮の紫木蓮の花はあとひと月は見頃でしょう。窓を開けているので芳しい香りがしますね。木蘭様の香り、というかどちらかというと紫淵殿下の香りを思い出すような気も?)
厳粛な気高さを思わせる優雅な花の香りと、その深層で香る蜜の甘い匂いは、天藍宮で焚かれていた香炉から漂っていた匂いにも似ている。
(そういえば、こちらの書斎の調度品の配置も、紫淵殿下の執務室に似ていますね)
ぼんやりと昨夜のことを思い出していた苺苺はふとそんなことを考えながら、壺庭の紫木蓮の手入れをする木蘭を愛でながら刺繍を楽しむ。
本日は茶会の予定もあるので、木蘭の手習いはすべて休みだ。
なので苺苺はこうして、できるだけ木蘭のそばにつきっきりで過ごす。
苺苺の腰掛ける椅子の前にある茶机には、たくさんのぬい様が入った藤蔓籠が置かれており、その向かい側の長椅子には、めいっぱい陣取った白蛇ちゃんたちが朗らかな顔で鎮座している。
いざという時のための準備も万端だった。
「……木蘭様、苺苺様。怡君でございます」
扉の外から入室の許可を得る声が掛かる。
「どうぞお入りください」
壺庭にいた木蘭の代わりに苺苺が答えると、女官用の普段着ではなく正装した怡君が、「失礼いたします」と部屋に入ってきた。
木蘭もそれに気がつき、室内に入る。
「木蘭様、そろそろお召し替えのお時間でございます。どうぞお支度部屋へ」
「わかった。支度は怡君が手伝ってくれるのか?」
「私と春燕と鈴鹿がお手伝い致しますよ。若麗様は最終確認を終え次第、こちらに」
「そうか。それじゃあ苺苺、ここで好きに過ごしていてくれ」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ、木蘭様」
「ああ、行ってくる」
書斎から出て行く木蘭と怡君を、苺苺は穏やかに見送る。
木蘭の衣裳がずらりと並ぶ支度部屋は本殿内にあり、この書斎とも近いので、もしあやかしが出てもすぐに助けに行けるだろう。
(本日もお茶会のお呼ばれはありませんので、わたくしは個人的に、あくまで私用で鏡花泉の東の四阿へお散歩に行かせていただきましょう!)
決定的な瞬間を押さえるためには、付かず離れずの距離感も必要なのだ。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
手元の絹布に通していた〝白蛇の鱗針〟を引っ張り、図案の裏側で針目に糸を何度もくぐらせて絡めると、きゅっと針を引っ張ってから糸を丁寧に鋏で切った。
それからほどなくして、書斎の扉の向こうから再び入室許可を求める声が響いた。
苺苺が「どうぞ」と促すと、「失礼いたします」と怡君と同じく女官の正装に身を包んだ若麗が入ってくる。
今日の若麗はとびきり綺麗であった。
(朱家の三の姫であることを忘れさせない凛とした立ち振る舞い、そして紅玉宮の筆頭女官として貴姫である木蘭様を引き立てるお衣裳と髪飾り選び……。お見事です)
もし彼女の前に木蘭が立っておらず、後ろに怡君と春燕、鈴鹿が並んでいたら、清楚な朱家の妃に見えるかもしれない。
けれど幼くとも覇気のある木蘭という存在が、彼女たちを最上級妃の上級女官として正しくまとめ上げていた。
(もしもここが皇帝陛下の納められている後宮であったならば、若麗様は今宵、女官から一夜にして寵妃になられるでしょう)
そう思わせるほどの嫋やかさが、今日の若麗からは見え隠れしていた。
「出発の挨拶に参りました。私どもは木蘭様とご一緒いたしますので、なにかご不便がおありでしたら、他の女官たちにお申し付けくださいね」
「わかりましたわ。わたくし〝異能の巫女〟とは名ばかりで、あやかし退治もできていない居候ですのに、細やかなお気遣いをいただきましてありがとうございます」
「いいえ、そんなにご謙遜なさらないでください。苺苺様がいらしてから、木蘭様の笑顔が増えて、紅玉宮が明るくなりました。今までの木蘭様はしかめっ面で、なんでもひとりでおやりになることが多かったですが、今は苺苺様に甘えられたりと……ふふっ、年齢相応で。ご成長が楽しみです」
「かわゆい木蘭様は無敵ですっ。本日のお茶会でも、木蘭様が元気で健やかにお過ごしになれるよう願いながら刺繍をしつつ、こちらでお留守番をしていますね」
「お願いいたします。それでは」
若麗が腰を折って挨拶をし、踵を返して……肩越しに振り向く。
「あの、木蘭様のお部屋に、昨夜は紫淵様がいらしたのですか?」
「はい?」
苺苺は突然の質問にきょとんとした。
若麗は身体を苺苺に向けなおし、頬を染める。
「紅玉宮の閂は閉まっていたはずですが、まさかお忍びで? 美雀の起こした事件の調査でいらしたのでしょうか? 紅玉宮の筆頭女官として、紫淵様をお出迎えできず申し訳なかったです」
熱くなった頬に片手を添えて隠した若麗は、恋慕の情を抱える姫のような表情で黒い瞳を潤ませた。
(し、紫淵殿下ッ!! なぜかわかりませんが若麗様にはほとんどバレてますっ!!)
ギクリと顔を強張らせた苺苺は『とにかく上手に言い訳をしないと!』と、胸の前で両手をぶんぶんを横に振る。
「いっいいえ! 来られては、いませんでしたね?」
「ですが苺苺様から紫淵様の焚かれる香の匂いがかすかに……。御髪でしょうか?」
「ええっ!? そんな匂いが!?」
すんすんと自分自身を匂ってみるが、わからない。
「あっ! 木蘭様の寝台で、一緒に寝させていただいたからでしょうか!? それとも、こちらのお部屋も木蓮の香りでいっぱいですし、その香りでしょうかっ!?」
(紫淵殿下のお部屋の香りと似ていますし、この言い訳で押し通すしかありませんっ)
「あの、若麗様? どうかしまし――」
苺苺があたふたと言い訳をしていると、若麗の真っ黒な双眸がすっと温度をなくす。
そして紅を引いた口元に、不気味な弧を描いた。
その瞬間。
――ザクッ! ザクザクザクザクザクッ!
長椅子の上にあった白蛇ちゃんたちが、刃物で斬りつけられたかのように、次々と腹を裂かれていく。
一瞬にしてすべての白蛇ちゃんが無残な姿に成り果たその刹那、若麗の周囲にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
若麗は今しがた起こった怪奇現象に目もくれず、余裕のある笑みを浮かべる。
「私、ずっと苺苺様が羨ましかったんです。最下級妃でも妃は妃ですから。……けれど、それもきっと今夜まで」
ひらひら、ひらひら。
若麗の周りを不気味に彩るように、燐光を撒き散らすどす黒い呪妖が踊る。
あの時の……呪詛に近い黒い胡蝶が、今にも苺苺に襲いかかろうとせんとさざめいた。
「そろそろお茶会の時間ですね。私はこれで失礼いたします」
「はい。木蘭様をよろしくお願いいたします」
呆気にとられた苺苺は、小刻みに震える手を悟られぬよう気丈に振る舞い、挑戦的な笑顔を浮かべながらそう返答するので精一杯だった。
若麗が退出した部屋で、無意識に詰めていた息をふうっと短く吐く。
(美雀さんの呪妖と比較すると、まさに育ちきったという表現がふさわしい姿でした。美雀さんの呪妖が蛹から孵ったばかりの蝶なら、若麗様のは……豊富な呪毒を含んだ霊気という〝蜜〟を吸い尽くして育った胡蝶の女王)
「――呪詛になる前に、決着をつけなくてはいけませんね」
苺苺は静かに決意を固める。
椅子から立ち上がると、長椅子に横たわるズタボロになった白蛇ちゃん抱き枕をそっと手に取った。
「うううっ、今夜はお別れ会です……っ。のちほど宵世様からありったけの爆竹をお借りましょう。ばばばーんと白蛇ちゃんたちの無念を晴らさなければ……」
苺苺はえぐえぐと涙を流しながら、「悲しいです」と腹綿の出た白蛇ちゃんに頬ずりした。
部屋の中に散り散りになった白蛇ちゃんたちを一箇所に集め、飛び散った腹綿の回収を終えた苺苺は、「これでよしっ」と額を拭う。
(そろそろ鏡花泉へ向かいましょう。木蘭様は、そろそろ金緑宮を過ぎたあたりでしょうか?)
苺苺はたくさんのぬい様を入れた藤蔓の籠を手に持つ。
上級妃は御輿に乗り、それを宦官に担がせ、周囲に女官を侍らせてて移動することも多いが、小さな空間内ではいざという時に逃げ場を失う。そのため木蘭は、『今回は徒歩で向かう』と話していた。
紅玉宮は後宮の入り口のそばである、もっとも天藍宮に近い場所にある。鏡花泉はその真反対で、皇太子宮の最奥。水星宮の近くだ。
まっすぐ一本道の大通りを通っても、木蘭の幼い足ではかなりの時間がかかる。
(鏡花泉に到着なさる前に追いつけたらよいのですが。近くまでは走って、こそっと身を隠しましょう)
考えつつ、苺苺は書斎を出て、本殿の扉を開こうとする。だが、しかし。
「えっ、ええっ? ……――扉が開きませんッ!」
ガタガタと揺らしてみても、扉はびくともしない。
扉の内側の閂はかけられていない。となると。
「外から鍵を!? あわわわわ、まさか閉じ込められてしまうとは……!!」
苺苺は顔を蒼白にして打ちひしがれる。
「なぜ気がつかなかったのでしょうか……。きっと若麗様が出発を告げにきた後に、本殿からお人払いをなさったのですわ……!」
(木蘭様やわたくしに悟られぬよう、内密に女官の皆さんたちへ指示を出されていたのですね)
この時間ならば本殿で掃除をしている中級女官たちも、いつのまにかいなくなっている。
朝餉のこともある。彼女たちは若麗から『今日は掃除を早めに切り上げて休憩をとってほしいと、木蘭様からの伝言よ』と聞いて、掃除を中断して外から鍵をかけたのかもしれない。
白蛇妃はすでに外出したとか、別棟の自室で休んでいるとか、言い訳はどうにでもなる。
「……こ、こうなったら窓から出ましょう!」
苺苺はパタパタと走って自分が出られそうな大きな窓を探そうとする。
が、どの部屋の扉も錠前がかけてあり、鍵が閉まっていた。
「な、な、な。全部だめだなんて〜〜〜っ! さすがは紅玉宮の防犯意識です……!」
仕方ないので廊下の小窓の鍵を開けて、「どなたかいらっしゃいませんかーっ!」と力いっぱい叫んでみるも、外には人っ子ひとりいる様子がない。
「もしかして……皆さん、お出かけに……?」
(ありえます。昨日の今日ですし、若麗様が突然『お休み』を言い渡されて……お茶菓子を詰めて、後宮内のどこかに遊びに行かれたのやも……! どうしましょう、この調子では紅玉宮の門も外側から錠前がかかっているはずですっ)
残すは書斎しかない。
苺苺は急いで襦裙の裾をひるがえし、本殿の奥へと引きかえす。
「きっと壺庭からなら……!」
壺庭に面する床から天井までの大きな格子窓は、引き戸になっていて庭に出ることができる。
(高い塀に囲まれてはいるものの、その壺庭をぐるりと回れば、本殿の二階に続く階段があります。楼榭から屋根に降り立って、それで、そこから……どうにかなるでしょうかぁぁぁ!?)
屋根の上なんか歩いた経験もない。
「ううっ、いまさらですが、練習しておくべきでしたッ」
苺苺は急いで壺庭を出て、真っ白な髪をなびかせながら中庭を走る。真珠色のそれは陽の光を浴びてきらきらときらめいて美しいが、反対に表情は『あわわわわ』と聞こえてきそうな必死な形相をしていた、
大袖を翻しながら階段を登って、楼榭の上を走り、苺苺は二階の欄干に勢いよく両手で捕まる。
「ど、どなたか、いらっしゃいませんか〜〜〜っ」
最後の足掻きに叫んで、ぐっと唇を噛み締める。
(これはもう、屋根に降りて、どうにかして紅玉宮の塀に飛び移るしかありません)
「木蘭様の命をお助けするために、わたくしはここに来たのです。屋根くらい……塀くらい越えられなくてどうしますかっ! 女は度胸ですっ! いきますよっ」
苺苺は欄干の前から一度大きく下がってから、呼吸を整え、助走をつける。
「いっ、せー、のー、せいっ!」
そして勢いよく欄干を飛び越え、そのまま屋根の黄瑠璃瓦の上を全速力で駆けた。
まるで鳥になったような気分だ。今ならなんだってできる気がする。
(本殿の屋根から一番近い塀瓦の上に飛び移れたら、こちらのものです! あとは紅玉宮の外に降り立って、全速力で――)
「あっ!!」
つるっと、瓦の上で足が滑った。
今ならなんだってできる、だなんて強めの錯覚に過ぎなかったらしい。
ひやりと五臓六腑が浮かぶ感覚がする。
「おっ、落ち――っ! …………ない?」
「はぁぁぁ。あなたって本当に世話が焼けますね」
苺苺は、いつのまにか宵世の腕の中にいた。どうやら屋根の上から落ちそうになっていたところを、抱きとめられたらしい。
状況を理解して、苺苺は頭上に疑問符を浮かべる。
「へ? 宵世様? どうしてこちらに?」
「あなたが鏡花泉に現れないからですよ。仕方がないから様子を見に来たんです。そしたら屋根から滑り落ちそうなあなたを見つけたので」
宵世は苺苺を横抱きにして、軽々と跳躍し、紅玉宮の塀を越える。
そしてそのまま、人気のない屋根瓦の上を物凄い速さで走り出した。
「ひ、ひえぇ。早すぎです、宵世様っ」
「口、開けてたら舌を噛みます。閉じてください」
「は、はいっ」
「犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいとは言いましたが、ここまで離れた別行動は望んでません。茶会はもう始まっている頃です。まったく、紅玉宮に閉じ込められるなんて。どれだけ鈍臭いんだか」
「すみません……」
「あなたは木蘭様のあやかし避けなんですから、現場にいてもらわないと困るんです。しっかり〝異能の巫女〟してくださいよ」
「すみません……」
「…………まあ、閉じ込められたくらいでよかったですよ。怪我はないですか」
宵世はばつが悪そうにそう言って、ちらりと苺苺を見下ろす。
その目元はうっすらと紅色に染まっている。
けれどビュンビュンと吹き抜ける風圧で目が開けられなかった苺苺は、毒舌宦官の言葉に打ちひしがれたまま、「ないですッ! お助けくださりありがとうございます!」と力の限り叫んだ。
(それにしても、さすが東宮補佐官様です。とっても身軽で運動神経も良いのですね。紫淵殿下も足音がしませんし、皇太子殿下とその右腕は、これほどの妙技を持っていなくては危険なのやも……!)
明らかに人間業とは思えない宵世の移動方法に対し、苺苺はただただ羨望の眼差しを向ける。
「……なんですか、その目は。そろそろ鏡花泉の東に着きますよ。自分の足で走る準備しててください」
「はい」
苺苺がひとつ頷くと、宵世は水星宮の塀の屋根から降り立ち林の中を駆け抜ける。
宵世が大きな木の太い枝を飛び移って移動していくうちに、苺苺の目にも拓けた場所にある四阿が見えた。
四阿では華やかに着飾った七人の妃が、様々な表情でお茶や点心を楽しんでいる。
選妃姫の課題である『香包』について、各々の解釈や進行状況、完成品の程度の予測を言葉巧みに聞き出しているのだろう。
その周囲には正装した女官が総勢四十人ほどいるだろうか。
朗らかに見える七妃たちのおしゃべりの裏で、女官たちは互いを牽制しあっている様子だ。
その時。
宵世と苺苺は視界の端に、牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫が四肢を躍動させ、猛突進している姿を捉えた。
その首に靡くのは音の鳴らない鈴付きの、純白の披帛。
「あれは!」
「猫魈様です!」
あやかしの急襲に気がついた女官たちが、「きゃあああ!」「あやかしよ!」「逃げて!」と甲高い悲鳴をあげ、逃げ惑い、その場は阿鼻叫喚となった。
猫魈は「シャァァァアアア!」と咆哮し一直線に木蘭を目指す。
木蘭の後ろで控えていた怡君と春燕、鈴鹿が可哀想なくらいガタガタと震えて顔面を蒼白にしながら、木蘭を守るようにして腕を広げて、前に出た。
騒然としたその場に降り立った宵世の腕から、苺苺は弾かれるように飛び出す。
そのまま木蘭の前に躍り出て、そして、
「猫魈様!」
と苺苺は腹の底から大きく叫んだ。
ぴくりと耳を動かした猫魈の双眸と、苺苺の瞳がかちあう。
牙を剥いた猫魈の開いていた瞳孔が針のように細くなった。
迷いなく後脚に力を込めた猫魈は、大きく躍動し、苺苺へと飛びかかる。
「シャァァァァッ!」
「苺苺――!」
木蘭の切羽詰まった叫び声が猫魈の咆哮と重なる。
獅子ほどの巨体が苺苺に突進するかと思われた、その時――。
「にゃーんっ」
「あうっ」
猫魈が苺苺の肩に両前脚をかけ、勢いよく押し倒した。
苺苺はごちんと地面で頭を打って、思わず舌を噛む。
大きな姿の猫魈はとたんに子猫ほどの大きさになると、ぺろぺろと苺苺の頬を舐めた。どうやら妖術を使ったらしい。
「にゃぁぁぁん」
「ああ、猫魈様……。そうだったのですね。またお大変なめに……!」
苺苺は地べたにペタリと座り込むと、子猫になった猫魈を手の中でよしよしと撫でる。
猫魈の話から推察するに、猫魈はまた名が刻まれた式符で道術を使われ、後宮内に顕現されてしまったようだ。
しかし苺苺がくれた友情の証のおかげで、道士に意識までは操られずに済んだらしい。
『木蘭を喰い殺せ』と再び命じられたが、寸前まで使役の術にかかったふりをして、木蘭を安全なところへ連れ去ったうえで苺苺が来るのを待つ気でいたとか。
「あやかしに喰い殺せと命じるなんて、非道な女官だ」
「へ? すみません、宵世様。今なんと?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
猫魈を抱き上げる苺苺の隣に、眉根を寄せながら立った宵世が首を横に振る。
その宵世がどこぞへ合図を送ると、隠れていたらしい青衛禁軍に属する東宮侍衛の武官たちが、四方八方を取り囲んだ。
「四半刻ほど前、『あやかしが後宮内に侵入した』との報告を受け――、あやかしを退ける力を持つ〝異能の巫女〟として紅玉宮預かりになっていた白蛇妃を伴い、巡回していた最中でした。あやかしを引き入れた首謀者を炙り出すため、ご報告が遅れましたこと誠に申し訳ございません」
宵世はまったく申し訳なさそうではない顔で淡々と口にすると、
「貴姫様、淑姫様、徳姫様、賢姫様、令儀様、芙容様、彩媛様、お怪我はございませんでしたか」
とこれまた淡々と言う。
墨をこぼしたような黒髪美青年を前に、妃たちは頬を赤らめてふるふると小さく首を振る。
あやかしに阿鼻叫喚だった女官たちも、見目麗しいと女官や宦官たちに人気の高い宵世の登場で、悲鳴を黄色い声に変えていた。
今まで張り詰めていた緊張の糸が緩む。
だがしかし、誰もが白蛇妃への感謝など抱かずにいるようだった。
宵世の脇に歩み立った木蘭が、周囲を見渡してから、最上級妃らしく背筋をぴんと伸ばして叫ぶ。
「皇太子宮に侵入したあやかしは、『白蛇の娘』が弱体化した。皆の命を救わんと、命懸けでこの場に駆けつけた白蛇妃に、すべからく叩頭せよ!」
そんな木蘭の言葉を聞き最初に反応を示したのは、一番背の高い中性的な容貌の美姫、碧家出身の淑姫だった。
「感謝いたします、白蛇妃」
彼女は美しく丁寧な所作でもって叩頭する。
その凜とした声に、我に返った五妃たちはどこか不満そうに戸惑った表情を浮かべながらも、「感謝いたします」と淑姫に続くようにして叩頭した。
女官たちもそれに習い、続々と皆が叩頭していく。
苺苺はその光景にびくりと肩を揺らして、猫魈を抱きしめる。
「ど、どうぞ皆様、頭をお上げください」
後宮に来てからというもの、見知らぬ妃や女官たちに嫌われることは幾度もあったが、感謝されることなどあっただろうか。
(木蘭様暗殺阻止のために駆けつけたのですが、まさかこんな風に皆様にお礼を言われるだなんて)
「事件が起きる前に駆けつけることができて、よかったです」
照れくさい気持ちではにかみながら、苺苺は微笑みを浮かべた。
「……東宮補佐官殿、この場の指揮を頼めるか」
「御意」
木蘭に代わって、怖い表情をした宵世が前に出る。
「朱若麗を捕縛せよ」
「……っ!」
黒い胡蝶が舞う中、若麗は東宮侍衛長によって捕縛された。
◇◇◇
茶会は中止になり、集った妃たちはその場で解散となった。
宵世の采配で青衛禁軍の東宮侍衛がそれぞれ彼女たちの護衛に付き、各々の宮へと帰路につく。
捕縛された『木蘭暗殺未遂事件』を起こした犯人、朱若麗は、朱家次期当主の三の姫という立場から、紅玉宮で取り調べが行われることと決まった。
場所を移した一行は、紅玉宮にある木蘭の私室に向かう。
入室可能な関係者は限定され、木蘭、宵世、東宮侍衛長、そして若麗となった。
「木蘭を三度も暗殺しようなんて。馬鹿な真似をしたなぁ、若麗? 木蘭は俺たち朱家の宝だったんじゃねーの?」
この垂れ目の東宮侍衛長こそが、紫淵のもうひとりの腹心。
木蘭が白州を訪れた際に、木蘭の後ろに控えていたあの般若護衛。齢十九になる朱家当主が次男、零理であった。
朱皇后陛下の随分歳の離れた弟君にあたり、紫淵とはそれこそ赤子の時からの幼馴染になる。
そして零理にとって、若麗は血の繋がった姪に当たった。だが彼は、両膝で跪かせた若麗の首に、長剣の刃先を戸惑いもなく向ける。
しかし、若麗は「誤解です」と静かに首を振った。
「木蘭様、私はあやかしとなにも関係ありません。一体なぜ、私があやかしを使役するのですか? それに木蘭様を暗殺しようだなんて、理由がありません……!」
「野苺の葉茶の有毒性について、自然な会話を装って美雀に吹き込んだのはお前だな?」
木蘭の言葉に、若麗ははっと息をのむ。
「美雀が春燕に抱く劣等感を感じ取り、うまく煽って操作したんだろう? 春燕はちょうど苺苺を紅玉宮預かりにしたことに反発し、事あるごとに意見していた」
そんな春燕を紅玉宮の中で孤立させようと、美雀が他の女官たちに、
『春燕は悪口が多くて意地悪なところがあるの。昔から私も、姐姐には虐められてきたわ』
と喋って裏から根回ししていたというのは、美雀が捕まった後に女官たちから聞いた話だ。
美雀はその劣等感を、いつしか木蘭や苺苺にまで向けるようになっていた。
「春燕を評価する妃が邪魔だと、憎しみを抱くようになっていた美雀に毒のことを話せば、春燕を紅玉宮から追放するために行動に移すと理解していたのだろう?」
「そんな、ことは……」
「一度、猫魈を使った妾の暗殺に失敗していた若麗のことだ。自分の手を汚さずに妾を暗殺できる方法を考えて、美雀が事を起こしてくれるのを待った。違うか?」
美雀は春燕が事件を起こしたことにし、紅玉宮を追放されたらいいと考えた。
木蘭と苺苺を暗殺できるかどうかはどうでも良かった。
ただ春燕が被る罪の大きさが、大きければ大きいほどいいと考えていたのだ。
計画が失敗したら、野苺の葉茶を作った張本人である苺苺に罪を被せられるし、逃げ場は十分にある。
「お前の計画では、あの時ついでに苺苺も糾弾して追放するはずが……とんだ失敗だったな」
木蘭が鼻であざ笑うと、若麗は顔色を変えてギリっと奥歯を噛み締めた。
「美雀の計画が上手くいけば、『犯人である春燕は白蛇妃に毒された』だの、『やはり白蛇の娘が紅玉宮に不幸をもたらす』だのと言って追い出す予定だったんだろう? あやかしを紅玉宮に引き入れるには、〝異能の巫女〟が邪魔だからな」
「選妃姫が始まって今日で九十九日目です。それで悲願を成就するために、邪魔で邪魔で仕方がなかった白蛇妃を、今日はまんまと紅玉宮に閉じ込めた。なぜあなたは、木蘭様を暗殺してまで――紅玉宮の妃になりたかったんですか?」
木蘭の言葉を引き継ぎ、木蘭を守るようにして立つ宵世が言う。
「……紅玉宮の、妃、ですか? うふふっ。まあ、皆様。どうしてそんな突拍子もないお話になるんです?」
「筆頭女官なら、妾を暗殺する手段も機会も、いくらでもあったはずだ。だがそれをせず、あやかしを使役し……美雀を使うという回りくどく足のつかない方法を選んでいた。それは自分の手を汚さず綺麗なままでいることによって、皇太子の前で後ろ暗いことのない妃になりたかったから。間違っているか?」
本日の若麗がまとっているのはそのための衣裳、そのための化粧だ。
「猫魈が妾を襲おうとした時……若麗、お前だけが妾を守ろうとはしなかった。どうせ逃げおおせて、妾があやかしに殺された不幸の理由を歴史上の『白蛇の娘』に重ね、苺苺を罪人に仕立て上げる予定だったんだろう?」
「うふふっ。木蘭様は幼くていらっしゃるのに、想像力が豊かですのね」
「あいにく、見た目通りの年齢ではないからな」
木蘭はやれやれと肩をすくめると、紫水晶の大きな瞳で若麗をすっと冷たく見据える。
「百日以内に妃のいなくなった紅玉宮に君臨するのは、朱木蘭の血筋に連なる――朱若麗。お前だ。……さて。ここまで来て、言い逃れは無駄だぞ。もう逃げ場はない」
木蘭は上座にあたる椅子に座り、肘掛の上で頬杖をついた。
「鏡花泉の東の四阿付近の竹林で、宦官の詰所から昨晩盗まれた封籠が見つかった。……若麗、猫魈を従妖にした際の式符を持っているな? 出せ」
「………っ」
ぎりいっと奥歯を噛み締めた若麗は、本当にもう言い逃れができないのだと悟った。
悪態を吐き、言葉の限り暴言をわめき散らしたいのをぐっと我慢しながら、胸元から式符を取り出す。
道術を力を込めて作られた白い式符には【招来猫魈】と書いてある。
それを宵世が受け取った。
「これはどこで手に入れた?」
木蘭が問いかける。
「……西八宮である女官から……目くらましの霊符と合わせて、金品と交換をしました。彼女は以前、西八宮に来ていた異国の宮市で買ったそうです。道術も彼女から基礎を教わりました。ですが、彼女は……不治の病に侵されていたため先日亡くなっています」
「そうか」
神妙な顔で木蘭は頷く。
「若麗。お前の処罰は後宮からの追放、そして朱家での生涯に渡る禁足だ。またいかなる理由があろうとも、燐華城に立ち入ることは禁じる。燐華城内に足を踏み入れた瞬間、死罪を覚悟しろ」
「……そんな――ッ!」
「すべて未遂に終わったからこそ、情けをかけてやった。苺苺もお前の死罪は望まないだろう」
「……情け? うふふっ、幼児からの情けなんて、そんなのいらないわ! あなたが現れなければ、私が選妃姫に臨めたの。それなのに、選妃姫に臨めない私をお父様は自分の地位を固めるためだけに、皇帝陛下に嫁選びに参加させた。……ねえ、知っていて? ふふっ、皇帝陛下に見染められたら、私は紫淵様の義理の母になるんですって。そんなの、そんなの耐えられない……!!!!」
ねえ、義理の母なのよ? と若麗は目を見開き、何が面白いのか狂ったように笑う。
「そんなの、そんなの耐えられないわ……。だから西八宮で、ずっと復讐の方法を考えていたの。……うふふっ、だからあなたの女官になれると聞いた時、救われたのだと思った」
若麗はうっそりと嗤う。
若麗は幼い頃から、宮廷行事の際にひっそりと姿を現す紫淵に恋心を抱いていた。
悪鬼面をかぶり決して顔を見せない彼に惹かれたのは、その洗練された所作と、美しい紺青の黒髪、そして凛々しい立ち姿、なによりも氷のような冷たさを帯びる甘い声だったかもしれない。
祖父や父が招かれた宮廷行事がある際には、二人に何度も頼み込んで、次期当主の三の姫という立場で顔を出した。
いつか彼と一言でも話せますように。
そしてお顔を拝見できますように。
そう願いながら。
十三歳のある日、招かれた宮廷行事の際に道に迷った。しかも、絶対に入ってはいけないと言われていた皇帝陛下の後宮に迷い込むなんて。絶対に処罰される。帰宅は絶望的だと思った。
そんな時、幼い若麗に救いの手が差し伸べられる。見知った影を見つけたのだ。
『零理お兄様!』
若麗は走って、彼らを追いかけた。
そして禁足地で見つけたのだ。叔父の零理と、――紺青の黒髪が煌めく絶世の美少年を。
彼が紫淵様だ。
若麗にはすぐにわかった。
絶世の美少年は若麗を認めると、ふいっと顔をそらす。そして零理に何事かを耳打ちして、零理と一緒に後宮から外に出してくれた。
会話はなかった。だが視線は交わった。
その日の若麗の心臓は、人生で一番ドキドキしていたかもしれない。
その日の夜、事のあらましを聞いた父が言った。
『皇太子宮の封が解かれたら、お前は慣例に従い皇太子妃になる。朱家の血筋の家格が合う娘はお前しかいないからな』
あの美しい紫淵様の妃に、私が……?
若麗はその日から、一生懸命に妃教育に励んだ。
紫淵の隣で見つめ合い、手を繋ぎ、愛し合うのを夢見ながら。
しかし、現実はどうだろう。
伯母の縁者にあっさり朱家の姫の座を奪われ、皇帝の後宮に放りこまれた。
皇后陛下の女官として後宮で日々を生きる中、じくじくと木蘭への憎しみが疼き、胸を侵食して止まらなかった。
幼妃が捨て置かれていれば、まだ憎しみの溜飲が下がったかもしれない。
だが紫淵の寵愛を一身に受けていたのは、この後宮で一番憎悪を向ける相手――木蘭だった。
「筆頭女官としてあなたに尽くしていたら、あなたがいなくなったあとに紫淵様から寵愛を受けられると思っていたのに……絶対に許さないわ、朱木蘭! 私の紫淵様を返して……ッ」
若麗が素早く頭に刺していた簪を抜き、その鋭い切っ先を木蘭へ向けて立ち上がる。
だがその四肢を、宵世の隠し持っていた暗器――赤い紐のついた双剣の縄鏢が一瞬にして縛り上げた。次の瞬間には、零理の長剣の刃が彼女の薄い腹に当てられる。
「……――ッ!」
「これだから後宮の女は嫌になる」
腹心の臣下への信頼からか命の危機にも動じず、若麗に冷めきった目を向けていた木蘭は、「そろそろ頃合いだな」と言うと、座っていた椅子から立ち上がった。
若麗がこの部屋に入る前に、手伝いも呼ばずに召し替えたのだろう。先ほどまで身に纏っていた茶会向けの衣裳から、いつのまにか濃紫の深衣を身にまとっていた木蘭は、長すぎる裾を引きずりながら歩く。
ほら、ひとりで着替えもできない幼な子のくせに。
そう思っていた矢先、奇怪なことが起きた。
目の前にいた美幼女が、不敵な笑みを浮かべたまま大人になり、そして――。
「勝手に恋心を抱かれて、殺されかけては迷惑だ。恥を知れ」
「あ、ああ……そんな……。そんな、木蘭様が……紫淵様だなんて……!」
若麗は絶望感に苛まれながら、静かに一筋の涙を流した。