「ああ、あれのことか。今夜は君の安全を考慮してここにいてもらおうと思って用意した。枕がないと寝にくいだろう?」
「それは……ありがたいですが、その、なぜに安全を? 紅玉宮でわたくしが置いていただいてる部屋も、十分安全な気がするのですが……?」
「今日、後宮警備を担う宦官の詰所から、あやかし捕獲用の封籠(ふうろう)が盗まれた」
 紫淵の告げた言葉に、苺苺は驚きで目を見開く。
「美雀の起こした事件の混乱に乗じて、手薄になった詰所に何者かが侵入したらしい。目撃者はいないが、この手口は以前のあやかし……猫魈(ねこしょう)の時と同じだ」
「なんと!」
「実は『木蘭暗殺未遂事件』が起きた後、東宮侍衛たちに命じて皇太子宮内を徹底的に調べさせていた」
 東宮侍衛とは皇太子である紫淵を護衛する武官だ。武官の中でも皇太子の直臣たる青衛禁軍所属になるため、より信頼できる精鋭部隊と言える。
 内待省に属し皇太子宮を管轄する宦官に、皇太子宮内に関する報告は常々あげさせていたが、各妃たちの俸禄や食事、茶葉や反物などの下賜品も規定通りに行われていることになっていた。
 紅玉宮の主人として目を光らせてはいた範囲では、皇太子宮に上がってくる報告通り。
 だが実態はどうだろう。宦官や女官たちは私腹を肥やすために、白蛇妃が正当に受け取るべきものを着服していた。
 閉鎖的な後宮内では、宦官による不正や横領もあり信用がおけない。私利私欲のために動く者も、他の皇子や貴族、妃嬪などと癒着して偽の報告をあげる者もいる。
 そうなってくると、本来は後宮の門外を護衛する東宮侍衛を介入させることになる。
 厄介な体質の紫淵は宵世に指揮権を預け、東宮侍衛長率いる武官たちに事件解明の証拠を集めてもらっていたのだ。
「とはいえ、主要部署は皇帝宮内。皇太子宮側に面する御花園までの捜索がせいぜいだったが、犯人も皇帝宮に罪をかぶせる度胸はなかったみたいだな。その捜査時、盗まれたものとみられる封籠が、鏡花泉(きょうかせん)付近にある竹林の中で見つかった」
(鏡花泉は水星宮の裏側に広がっています。竹林となると……)
「水星宮とは対角線上に位置する、御花園にほど近い場所でしょうか? 恐ろしい女官の方はそこに道術をかけた猫魈様を隠し、事件当日にあらかじめ籠の封を解いていたと」
「宵世が言うには、相当霊力のある道士になるとあやかしを式符(しきふ)に封じて従妖(じゅうよう)に下し、無言で命じるだけで自由自在に顕現ができるらしい。だが犯人はわざわざ封籠を用いている。しかも目くらましの呪文が書かれた呪符付きの、だ。これらの証拠から犯人が道術を使う際には呪文や儀式が必要となり、あらかじめ犯行現場を定めておく必要があると考えられる」
「ふむふむ。それで紫淵殿下は、恐ろしい女官の方が今回も同じ手を使われるはずだと……?」
「俺はそう考えている」
 紫淵が険しい表情で頷く。
 苺苺は寝台にあった枕のことなど忘れて、「それは一大事です」と眉根を寄せた。
 昨晩、紫淵と一緒に呪妖を目撃した際、苺苺は女官宿舎のふたつの部屋で、蝋燭の灯りの中に揺れる呪妖の光を見た。
 ひとつめは、春燕と美雀の部屋だ。
 しかし、呪妖は宿主の周囲にとどまっている様子だった。ということは、あのどす黒い、強烈な殺意を抱いた末に生まれたような呪詛に近い呪妖とはどう見ても違う。
 だが、もうひとつの部屋の光は、爛々としていて――。
 事件を起こした美雀が捕まった今、疑いは確信に変わっている。
「美雀さんの起こした事件との関連性から鑑みても、そろそろ()()が手を打つはずです」
「〝選妃姫に臨んだ妃が百日経たずに命を落とした場合、血族を代わりに妃とせよ。百日を皇太子宮で過ごした妃が命を落とした際はすべからく空位とする〟――選妃姫の『八華八姫』に関する規律だ。()()の計画を遂行するためには、木蘭暗殺は百日以前に行われなくてはならない」
「つまり……明日、ですね?」
「ああ。だから君には今夜、ここで過ごしてもらう。美雀を操って、君の追放も暗殺も失敗した()()が、君を紅玉宮から消し去るために今夜なにをしでかすかわからないからな」
「わかりました。では明日は何があってもすぐに対応できるよう、しっかり身体を休ませていただきます」
 苺苺はその場を辞すために簡略の礼を取ってから、「ですが」と微笑みを浮かべる。
「わたくしは、枕があるのでしたら寝台ではなく長椅子でも大丈夫ですので」
「……は? 長椅子?」
「はい、今夜はこちらでぐっすり眠らせていただきます。長椅子が使用不可であれば、廊下でも、二階の楼榭(ロウシャ)も結構です!」
「ちょっと待ってくれ。俺の話を聞いていたか?」
「ええ、もちろんです。紫淵殿下は執務が終わり次第、ごゆるりと寝台でおやすみください。明日の木蘭様のためにもっ」
(わたくしが木蘭様と一緒ではないことを好機と捉えられてもいけませんし、今夜は夜警をおやすみして、ぐっすり就寝させていただきましょう。そして明日は全力で木蘭様をお守りするため、ぴったりくっついて過ごさせていただきますっ)
 ふんすと気合を入れた苺苺は、紅珊瑚の瞳をごうごうと燃え上がらせる。
(とりあえず、先ほどの枕をいただいてこなくては)
 その時。こんこんこん、と執務室の扉が入室の許可を求めて叩かれる。
「入れ」
 紫淵が短く答えると、白磁の茶壺(ちゃふう)(ふた)茶托(ちゃたく)付きの湯呑である蓋碗(がいわん)を乗せたお盆を手に持った宵世が「失礼致します。お茶をお持ちしました」と慣れた足取りで入ってきた。
「僕のことは気にせず、お話の続きをどうぞ」
「ああ。もとより気にするつもりもないが。……珍しいな、宵世が白毫烏龍(はくごうウーロン)を淹れるなんて」
 いつもは『時間がもったいないから起きておいてください』とか言って、眠気覚ましにすごく濃い茶を淹れるのに。
 紫淵は手元に届いた茶器の蓋をふちを少しずらして、琥珀色をした白毫烏龍の果実と蜂蜜を思わせる香りを楽しみながら、怪訝(けげん)な顔で宵世を見やる。
「まあ、そうですね。今夜はどうしても早く寝落ちしてほしいお方がいらっしゃるので」
(むむ? 紫淵殿下のことでしょうか? 確かに宵世様のおっしゃる通りです! 紫淵殿下も連日頑張りすぎですし、今夜は執務をお休みして明日に備えられた方がよろしいかと)
 宵世は苺苺を『わかっていなさそうですが、そこのあなたですよ』という顔で一瞥すると、
「さあ、どうぞ」
と長椅子の前に置かれている低い卓子に蓋碗を置いた。
「白蛇妃様。明日は犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいね。東宮補佐官と白蛇妃が並んでいるのは至極不自然ですから」
「合点承知でございます。わあ、わたくし白毫烏龍は初めていただきますわ。ありがとうございます」
(最高峰の茶葉を寝る前のお茶として使われるだなんて、さすが天藍宮ですっ)
 うきうきと好奇心で頬を緩ませた苺苺は、わくわくで逸る気持ちを抑えつつ、丁寧な所作で蓋碗を茶托(ちゃたく)の下から左手のひらに乗せる。
 右手の親指と人差し指で蓋を摘んでずらし、すんすんと芳しい香りを楽しむと「ほう……」っと感嘆のため息をついた。
「とっても豊潤な香りがします。甘い蜂蜜や果実酒のような……?」
「発酵度が高いので。最高峰と呼ばれる由縁は、生産方法が非常に難しく、年に一度少量しか収穫できないこともありますが……。なんと言っても、美しい琥珀の艶めきを持つ水色と独特の深い甘みが、西方の上流階級に好まれる『香檳酒(シャンパン)』を思わせるという――」
「ふ、あ………っ」
 宵世は直立不動でつらつらと香檳烏龍(シャンピンウーロン)とも呼称される茶葉の説明を行なっている横で、茶器に唇をつけてこくりこくりとお茶を嚥下していた苺苺が、唐突に呂律の回らぬ様子で呟いた。
 その甘くとろけ落ちる蜂蜜のような声音に、紫淵はびくりと肩を揺らす。
 慌てて苺苺の様子をうかがうと、苺苺の頬や目元は赤く蒸気し、けぶるような真珠の長い睫毛がの下では紅珊瑚の大きな瞳がとろとろと潤みを帯びていた。
 その双眸がうっとり艶やかに、紫淵を捉える。
「しえん、でんかぁ……。なにか……ん、ん……っ、へん、れす……」
 思わず食みたくなるほど濡れた赤い果実の唇が、たどたどしく名前を呼ぶ。
 木蘭と刺繍と茶菓子にしか興味がなかった少女の、直視できないほどの色っぽい姿に、紫淵は頬が熱くなるのがわかった。
 鼓動が否応無しにドキドキと激しくなる。
 喉にきゅうっと甘い感情がせり上がり、反対に胸の内側が独占欲でずくりと切なく痛んだ。
「……宵世! お前いったいなにを茶に混ぜた……!?」
香檳酒(シャンパン)ですけど」
 焦ってガタリと椅子を揺らしながら立ち上がった紫淵に対し、宵世は悪びれもなくケロリと言う。
「は、はあ? 香檳酒だと!?」
「ええ。以前、紫淵様が白蛇妃に下賜されていた西方の品つながりで。あの時に国使の方からいただいた最高級品です。これぞ本当の香檳烏龍ですね。おや、一気に飲むとはなかなか」
 宵世は苺苺の手の中にある蓋碗を確認し、爽やかな笑みを浮かべる。
「白蛇妃のことですから、どうせ長椅子で寝るとか、廊下で寝るとか、二階の楼榭にある寝台で寝るとか言いだしそうだと思いまして」
「ぐっ。全部当たっているから言い返せない」
「紫淵様は長剣抱えて紅玉宮の寝室で寝る気でいるんでしょう? それならそうと最初から話せばいいんですよ。心配かけまいとしても逆効果です」
 執務が終わったあと、確かに紫淵は木蘭の寝室でおとりになるつもりでいた。
 なにもなければそれでいい。しかしなにかあった時は、青年の姿であれば遠慮なく長剣も振るえるので、あやかしにも遅れはとらない。
「白蛇妃がいない紅玉宮で今夜中に片がつけば良いですが、終わらなかったらどうするんです?」
「それはわかっているさ。だから、そのだな……あとで寝台に運べばいいかと」
「甘いですね。どうせ途中で起きて、『紅玉宮へおともします!』とか言いだしますよ」
 宵世はげんなりした様子で、空中をぽやぽやと眺めている苺苺を見下ろす。
 明日の紅玉宮ではなにが起きるかわからない。
 極限まで気を研ぎ澄まして、白蛇妃は〝異能の巫女〟として木蘭と自分自身の命を守らなくてはいけないのだ。
 廊下や外で寝られて風邪でも引かれたら困るし、長椅子で横になって疲れがとれなくても困る。
 今日だって美雀が起こした事件を解決したばかり。連日の疲れが溜まっているのは我が主だけでなく、この憎たらしくもついつい世話を焼きたくなる存在も同じで――。
 宵世は肩を下げながら大きなため息をつく。
「とにかく、天藍宮の寝室以外で寝られたら面倒ですからね……って、もう眠ってますね」
 いつのまにか長椅子にくたりと横になっていた苺苺の顔を、宵世が覗き込む。
 先ほどまでの、とろけるような艶やかな表情は夢だったのかと思えるほど消えさっている。
 紫淵の胸を切なく掴んでいることなど知りもしない苺苺は、「むーらんしゃまぁ」となんの夢を見ているのかわかりやすい寝言を唱えながら、すぴーすぴーっと安らかな寝息をたてていた。
「こんなに酔うなんて、きっと酒も少量しか口にしたことなかったはずだぞ」
「そうでしょうね、思ったよりも効きすぎました。ですが大丈夫です。僕は耳が良いので、何かあったらすぐに駆けつけられますよ」
 そう言って、宵世は夢の中に旅立っている苺苺を、紫淵の寝台に運ぶため担ぎ上げようとして、
「……宵世。俺がやる」
 音もなく隣へやってきた紫淵に腕を掴まれた。
 普段はただただ冷たい紫水晶の双眸の奥に、仄暗い熱が揺らめいている。
 それは白蛇妃に対する、激情とも呼べる苛烈な独占欲や嫉妬心。
「……殺気だだ漏れじゃないですか。やめてくださいよ。僕はあなたの忠実なる従僕で、暗器で、あやかしです」
「……そうだな。お前は俺の悪友で、右腕で、あやかしだ。疑ってなんかいない」
 紫淵がそう告げた時には、宵世が感じていた突き刺さるような威圧感はおさまっていた。
 紫淵は苺苺の両膝の裏に腕を回し、背中を支えて抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこだ。
 羞恥心で頬を染めた紫淵は、ちょっと拗ねたような表情をしているものの、どこか満足げに幸せそうな顔で苺苺を見つめている。
 望めばこの国のすべてを手に入れることができ、ゆえに本当に欲しいものは手に入らない次期皇帝が、唯一気にかけ、心を寄せる……――仮初めの皇太子宮の妃。
 けれども、きっといつか近い将来、主人は白蛇妃を手に入れるのだろう。
 宵世は幼い頃の紫淵を思い出す――。
 あの頃の紫淵は、後宮妃たちから向けられる壮絶な悪意と悪鬼が歴代の皇太子に向けていた怨念のすべてを被ってしまい、瘴気に呑まれてほとんど鬼化しかけていた。
 その呪詛を命がけで押さえ込んでくれたのが、白家で九尾の銀狐に過保護に庇護され、さらには溺愛されて育った幼い苺苺だった。
 今も昔も、彼女は兄が数百年を生きる神獣だとは知らない様子であるが、あの日、力尽きて昏倒してしまった苺苺の記憶を封じたのは、宵世と同じく特異な存在である彼女の兄だ。
 宵世は幼い紫淵が苺苺と過ごした日々の記憶を対価に、東八宮の地下に封じられた悪鬼の封印を再び強固なものにした。その際にほとんどの霊力を失うことになったのだが、後悔はしていない。
 そして、静嘉に言われた通りに宵世は密約を交わしたのだ。
『ふたりに起きたことはすべて内密に』
『わかりました。ふたりは出会ってなど、いなかった』
 ……あれから九年。ひとつの九星が巡り、幼かった皇子も大人になった。けれど。
 武芸に秀で、誰よりも冷酷な処断を指先ひとつで行えるようになった紫淵様が、また再び白蛇の娘に惹かれることになろうとは……。
 宵世はかすかに眉を下げて、自らの主人を見つめる。
 現在、紫淵の身に起きている怪異――性別が変わり、年齢も後退して幼女に変化するという怪異は、苺苺に封じてもらった悪鬼の怨念とは別ものだ。
 建国時代から歴代の皇太子を蝕んできた呪詛で、皇太子が成人の儀を迎えるまでに命を落とすよう仕向けるためのもの。そのため起きる事象は大小さまざまで多岐に渡る。そして呪詛の発現は兆候にすぎず、年数を経て怪異に変わる。これが非常に厄介であった。
 ……だが、この世でもしも主人を怪異から救えるとしたら、それはきっと白蛇の娘だけ。
 そう考えて、危ない橋を渡る決意をした。
 紫淵と苺苺が再び出会うことで、悪鬼の封印が綻びるのではないかと懸念し、不安に思わないはずがなかった。
 そして美しく可憐な少女に成長した苺苺が、歴代の白蛇の娘のように後宮だけでなく紫淵自身にも災いをもたらすのではと警戒していたわけだが――どうやら、どちらも杞憂だったようだ。
 苺苺の人となりには、長い時間を生きた宵世にもどこか惹かれるものがある。
 そんな彼女へ向ける主人の視線が過去見たこともないほど柔らかくて甘いものだから、宵世はなんとなくイライラしてきて、『はいはい、末永く爆発しろ』と作り笑顔を浮かべながら紫淵を見送ったのだった。


 ◇◇◇


 翌朝。苺苺が目を覚ますと、紅玉宮の木蘭の寝室にいた。
 窓紗が掛かった格子窓からは薄く陽が差し込んできている。
 上半身を起こして見回すと、大きな寝台の真ん中ほどで眠っていたらしい自分とは遠いところに、小さく蹲るように眠っている木蘭の姿があった。
(あんなところに木蘭様がっ! 寝台から落ちなくてよかったです……!)
 苺苺は抜き足差し足で寝台から降りて、寝ぼけたままあくびをする。
(それにしても、ふわわわ……。昨晩は天藍宮に行ったような気がしたのですが、夢だったのでしょうか? なんだか紫淵殿下と言い合いをして、宵世様から美味しいお茶を勧められたような……?)
「ん、苺苺。起きたのか……?」
 んんん、と小さく唸りながら木蘭は寝ぼけ目をこすった。
「おはようございます、木蘭様。お支度をお呼びいたしますね」
「ああ」
 苺苺が扉の閂を外して、部屋の外にいる女官に声をかける。
 その姿を木蘭は寝台に座ったまま眺めながら、小さな指先で、眉間にできた幼い顔に似合わぬシワを揉む。
「くそっ。不眠症が解消されたと思ったらすぐ眠く……っ」
 ――結局、一晩中ここで佩剣(はいけん)し犯人を待ち構えていた紫淵だったが、犯人は現れなかった。
 あやかしを使役するのなら夜が一番霊力が強まる。
 だが、それを押してでも、木蘭を〝異能の巫女〟から切り離したところを狙いたいのだろう。
 自分の手を汚さぬために、ギリギリまで粘って仕組んだ()()()使()()()()()が潰えというのに、決して勇み足になったりはしない。
 時間が押し迫った分、()()は木蘭を確実に仕留めたいのだ。
『……頃合いか』
 紫淵は周囲の気配を探り、長い前髪を搔き上げる。
 そろそろ女官たちが起き出す時間だ。今から数刻は安全だろう。
 そうして朝陽が昇る前に天藍宮に戻り、紫淵の寝台でぐっすりと眠っていた苺苺を抱き上げて、この部屋へ連れて帰ってきていた。
 しかし、朝陽が昇り木蘭の姿になった途端、壮絶な眠気が襲ってきて、ついつい一瞬で意識が飛んでしまっていた。
 やはりこの身体は不便だと、こんな非常時にはことさらに実感する。
 そんなことを木蘭が思考していると、部屋の扉の外から入室の許可を求める声がしたのちに、()()がしずしずといつもと変わらぬ様子で綺麗な礼を取る。
「おはようございます、木蘭様。朝のお支度をお手伝いいたします」
「おはよう。頼む」
 決して仮面を剥がすことなく貞淑に振る舞い、慎重に一歩一歩確実に詰めていく姿勢は実に見事。
 ――やはり紅玉宮の筆頭女官に相応しく、肝が座っていてぶれないな。
 木蘭は朱家の娘らしい完璧な所作の礼を取る若麗を前にして、すっと冷たく目を細めた。

 身支度を整えたあとは、紅玉宮の広間でいつもの朝餉だ。
 しかし今回は給仕を行う女官の顔ぶれが違った。苺苺はぱちくりと瞬きをする。
「若麗様が朝餉の席にいらっしゃるのは珍しいですね」
 大きな深皿から、海老や貝柱の出汁で作られた豆漿粥(とうにゅうがゆ)をお玉で掬った紅玉宮の筆頭女官に、配膳されるのを待っている苺苺はお行儀よく話しかける。
「昨日の事件の混乱であちらこちらの仕事が滞っておりますので、私がお手伝いに加わったんです」
「そうなのですか。お忙しい中、ご準備していただきありがとうございます」
「いいえ、滅相もございません。私どもは紅玉宮の女官ですから、木蘭様と苺苺様が健やかにお過ごしいただけるように尽くすのが使命ですので、どうかお気になさらずに」
 若麗は頼りになるお姉さんらしい優しげな笑顔を作る。
 そんな会話の最中も他の女官たちが次々に料理をよそい給仕をしてくれているが、どこか皆元気がない。
 木蘭はそんな様子を見るに見かねて、「配膳を終えた料理から下げるように」と言う。
「今日の朝餉は苺苺と妾のふたりでとることにする。皆、早めに朝餉を食べて休み時間をとるように」
 そう告げて、広間から早々に女官たちを退出させることにした。
 侍女見習いの立場にある年若い中級女官たちは、料理の乗った皿を持って木蘭と苺苺に礼をすると急いで踵を返し、
「わあ、豪華な朝餉だわ」
「木蘭様が私たちの心を気遣ってくださったのですね」
「見て、紅棗(ナツメ)枸杞子(クコの実)がこんなにたくさんっ」
「豆漿粥の色合いってなんだか白蛇妃様みたいでお洒落よね? 美容に良さそう」
「私、この海老の小籠包が食べたいわ! それからこっちの〜」
 などと口々に喋りながら嬉しそうに広間を出て、女官たちの私室がある棟に向かって行った。
「若麗も皆と一緒に朝餉を食べに行ってくれ」
「ですが」
「幾つだと思っているんだ。妾とて、朝餉くらい食べられる」
 木蘭は栗鼠(りす)のごとく頬を膨らませる。
(はわわわっ! 朝からなんて貴重な! 栗鼠ちゃん姿の木蘭様、かわゆいです!!!! 次のぬい様は栗鼠ちゃん姿にしましょう……っ! ぬい様と栗鼠ちゃん様、それから寝衣のあやかしちゃん姿のねむねむ様、きっと並べたら壮観に違いありません……!)
 苺苺は両頬を押さえて、めろめろになる。
 そんな紅玉宮の妃二人の様子に、若麗は「ふふっ」と吹き出すように微笑んでから、「わかりました」と折れた様子で頷く。
「では先に、本日のご連絡をお伝えいたしますね」
「うむ」
徳姫(とくき)様が主催のお茶会は、未の刻(午後二時)までにお集まりをとのことでした。場所は金緑宮(きんりょくぐう)ではなく、鏡花泉(きょうかせん)の東の四阿(あずまや)だそうです。お手土産はどうなさいますか?」
「どうせ次の選妃姫の腹の探り合いをする茶会だ、徳姫が喜びそうな茶菓子でいいだろう。朱州の桃花月餅はどうだ?」
 桃花(とうか)月餅(げっぺい)とは朱州の銘菓で、桃花の塩漬けを練りこんで作る、鮮やかな桃色をした月餅だ。
「良いご判断だと思います。それでは準備が整い次第、お支度のお手伝いに参ります」
 若麗はそう言って礼を取ると、しずしずと広間を辞した。
「さすが木蘭様ですっ! (ヨウ)家の姫君であらせられる徳姫(とくき)様は『探春(たんしゅん)(うたげ)』で桜花舞を披露されていましたから、『月日が移ろった今でも徳姫様の優美さを忘れることは誰もできません』と、桃花月餅でお伝えなさるのですね! きっと徳姫様や徳姫様推しの女官の皆様も、お喜びになると思います」
「そうだな」
 つんと澄ました顔で木蘭はそう言って、豆漿粥の器を手に取る。
 茶会に呼ばれた妃たちは、茶会の主催者、そして時には参加した妃たちに手土産を配る。
 それには血筋による家格を示したり、妃としての階級と威厳を知らしめたり、時に皇太子の寵愛を匂わせて他妃を牽制し、はたまた配下として庇護を仰ぎたいと擦り寄ったりと、ひとつの品に様々な思惑が複雑に絡ませてある。
 その思惑を正しく読み取るのもまた後宮妃の生きるすべ。
 足元をすくわれぬよう、本当の心を隠し、自分の意のままに操れる者こそが強者として君臨できる。
 木蘭が今回の土産に選んだのは(ぎょく)でも反物でもなく、ただの茶菓子だ。
 貴姫として、決して徳姫にへりくだる品じゃない。
 だが、茶会の主催者は必ず気を良くする。他の妃たちも、最上級妃が贈った土産に滲ませた年上の妃への羨望に警戒心をおさめる。
 表面上は穏やか笑顔を絶やさず、『次の選妃姫では自分こそが一番に選ばれるはずだ』と、腹の中では強い自信に酔うだろう。
 それこそが木蘭の狙いであった。
 茶会に集った誰もが、自分自身を過信し、――最下級妃の白蛇妃の存在を忘れてしまえばいい。
「ふふふっ。噂をすれば桃花月餅です」
 苺苺が円卓の上にそっと並べていた〝龍血の銘々皿〟に現れた、呪毒の宿る茶菓子もどきへ手を伸ばす。
「朝餉の時間にお茶菓子が出るのは初めてですね」
「……朝餉の時間まで悪いな」
「いいえ! わたくし、木蘭様のためなら悪意も美味しくいただきますっ」
 そう言って、苺苺は「いただきます。はむっ、んんん……! おいひいです〜〜〜!!」といつものように極上の茶菓子を味わう様子で頬を緩ませながら、呪毒を食べた。
 皇太子宮の宦官や女官たちが、なんの後ろ盾もないのに白蛇妃に嫌がらせをしたり、与えられる褒賞や下賜品を横領したりできるはずがない。
 彼らの後ろには妃の存在がある。
 白蛇妃に罪をなすりつけて、自分たちを正当化したあと、上手に庇いだてしてくれる妃がいるのだ。
 だからこそ、紫淵は思う。今に見ているがいい、と。
 俺がただひとり、どこまでも甘やかし尽くして幸せにしてやりたいと願うのは、この能天気な『白蛇の娘』。
 ――白苺苺だけだ、と。
 頬を高揚させて美味しそうに呪毒を頬張る苺苺を眺めながら、愛らしい幼妃(おさなひ)は策士な笑みを浮かべた。