万事休すか、と春燕が唇をぎゅっと噛み締めた時。
「……な、なぜ、私を……!?」
 杖を持つ宦官たちに捕らえられたのは、床に崩れ落ちたままの姿で冤罪を訴えるように泣いていた美雀だった。
「美雀。お前のことは昨晩苺苺から報告を受けて、すでに宵世が調べている」
 紅玉宮の幼い主人、木蘭は威風堂々とした足取りで捕らえられた美雀の前に歩み出ると、紫水晶の双眸を冷たく細めながら彼女を見下ろした。
「昨日、尚食局に搬入されていた野兎が一匹盗まれた。その際、『不自然な蓋つきの籠を抱えていた皇太子宮の女官を見た』と多数の目撃証言があったんだが、西八宮の下女がお前の顔を覚えていてな」
 三年も一緒に働いたのだからわかる。彼女は美雀だった、と。
「…………っ!」
「妾も今朝報告を聞き、紅玉宮ではどう罰するべきか考えあぐねていた最中だった。だが、盗みだけでなく……――皇太子妃を未遂とはいえ二人も害そうとした罪、そして虚言を重ね、皇太子宮最上級妃付きの上級女官である春燕に濡れ衣を着せた罪は重い」
 投獄され杖刑ののちに、上級女官から下女へ落とされるだけでは済まされない。
 彼女には厳罰が下るだろう。
「毒茶の威力を試すなら、せめてどぶ鼠でも捕まえたら足がつかなかっただろうに。育ちの良さが(あだ)になったな」
 木蘭の言葉を聞き、美雀はギリっと奥歯を噛みしめる。
「美雀、妹妹……なんで……」
「姐姐が全部悪いのよ!! 昔からそう。利用してやってただけなのに勝手に姐姐づらして! そのせいで紅玉宮で私は姐姐の下に見られるようになったッ。私が街一番の美人で、誰からも可愛がられて幸せだったから嫉妬して、こうやって私に意地悪をするんでしょう!?」
「私が美雀を妬む? そんなわけないでしょう。私たち、いくら姉妹でも別人なのよ……? それに意地悪なんてしてないわっ」
「してるわ! 木蘭様にも白蛇妃様にも取り入って……私の出世の邪魔してるっ! 私が先に後宮に入ったのに……私が先に妃になるはずだったのに!! こんなのおかしいわ、姐姐はずっと私のご機嫌を伺って、なんでも請け負って、下女みたいに傅いててよ!!」
「宵世、連れて行け」
「御意」
「私の人生がめちゃくちゃになったのは姐姐のせいよ! 今すぐ紅玉宮から出て行って……ッ」
 泣きわめく美雀は宦官たちにきつく取り押さえられながら、紅玉宮を後にした。


 ◇◇◇


「そ、壮絶な修羅場でした……。あれが後宮……恐ろしいところです……」
「あれくらいなら後宮では序の口程度のやり合いだ。死人が出なくてよかったな」
 執務用の椅子に腰掛け、長い足を組んだ紫淵は憂いを含んだ顔で淡々と言う。
 ここは皇太子の居城である天藍宮(てんらんきゅう)
 本来ならば夕刻となり後宮の門が閉ざされたあと、後宮妃は滅多なことでは門の外へは外出できない。
 そんな後宮内皇太子宮は紅玉宮預かりの〝白蛇妃〟苺苺は、初めて訪れた天藍宮で紫淵の執務室に通されていた。
 後宮から出てしまったという罪悪感でなんとなく居心地が悪い。
 それに万が一、許可なく後宮を抜け出しているところを誰かに見つかったらと思うと、不安に駆られてしまう。
 だって、あやかし用の地下牢に投獄された経験のある白蛇妃だ。問答無用で即刻打ち首になる気がするのも無理はない。
(わたくしは全力で木蘭を推すために後宮へ来ただけであって、後宮で死ぬ気はさらさらないのですが……! けれどもあのご様子では、)
「わたくしと木蘭様も、だっだだだ脱走罪で……!」
「寝室の内側から扉に閂をかけているから、女官に侵入される心配はない。外から声をかけて反応がなくても寝ているだけだと思うだろう。そのためにわざわざ俺が演技をして寝室に君を引き入れたんだ、問題はない」
 苺苺がビクビクしていると、呆れ顔の紫淵が「心配する必要すらない話題だな」と首を振る。
 まあ連れ出したのは皇太子宮を治める皇太子殿下本人なので、誰かにバレたところでどうとでもなる。
 それにもし、二人の姿が目撃されたとしても、【皇太子殿下が白蛇妃と月下の逢瀬!? 天藍宮で禁断のご寵愛】と煽るような見出しと尾ひれと背びれと胸びれがついて、後宮全土に激震が走るだけなのだが。
 苺苺はそんな状況下にあることにまったく気がついていない様子だ。
(はぁぁ……。ここに来るまでの間でどっと疲れてしまいました……。それに加えて、呪妖を視るためとは言え白蛇ちゃんを長く封印しすぎた弊害の疲労も……)
 紫淵の執務机の向かい側に置かれた応接用の長椅子を勧められた苺苺は、そこに座ったまま〝白蛇の鱗針〟を片手にグッタリしている。
 いくら異能の才が強まり、歴代の白蛇の娘にはなかった癒しの力を得たと言っても、常に悪意に蝕まれていると癒しの力も追いつかないものだ。
 目の前には、夜光貝の総螺鈿(そうらでん)細工が施された漆塗りの卓子がある。
 普段の苺苺であれば、その緻密な吉祥図案と猫足の曲線美に心底感服するところなのだが、今は「きらきらしていてきれいですね、まるでおほしさまのようです」と現実逃避をする感想しか浮かばなかった。
「ふふふ、ふふふ」
「……苺苺、君はよほど疲れたんだな。言動が支離滅裂だ」
(それにしても……。昨晩のあの様子から事件が起きそうな気配は察知していましたけれど……まさか『木蘭(ムーラン)様暗殺未遂事件その二』と『白蛇妃(はくじゃひ)暗殺未遂事件』、それから『上級女官追放未遂事件』が立て続けに起きるだなんて……)
「って、いえいえ、死人なら出ましたよっ」
「……誰か死んだか?」
「無実の野兎ちゃんが暗殺されてしまいました……!!!!」
「皇帝陛下の滋養強壮料理用に食肉業者から仕入れていたやつだろう」
「なっ、なんと冷たい! 紫淵(シエン)殿下は鬼ですっ、この悪鬼武官!! ではなくて悪鬼皇子めっ!」
「なんとでも言ってくれていい。事実だしな」
 野兎は苺苺によって手厚くお別れ会が行われた。あの世で寂しくないように、ぬい様と白蛇ちゃんも一緒に詰めてある。どうか野山を元気に駆け回ってほしいと思う。
 執務の手を止めた紫淵は机の上で頬杖をつくと、「それよりも」と言葉を切る。
「君の身になにも起こらなくてよかった。美雀が刃物でも持っていたら、あの姿の俺では君を守れないかもしれないからな」
 静かな夜にふんわりと溶けるような微笑みを浮かべる。
(うっ)
 絶世の美青年の甘い眼差しを直視してしまった苺苺は、手慰みに刺していた刺繍の手を止めて、その絹扇で目元以外の顔を覆う。
「い……今の会話の流れで、よくそのようなお顔をできますね……?」
「今夜の図案はまた凄いな。『白蛇玄鳥神鹿図』に観音菩薩と紫木蓮とは……天界か? 君は一体どこへ向かっているんだ」
「木蘭様は天女様の御使いですので、推しの概念を表現しました。ではなくて、」
「華やかでいいな。色選びもいいからごちゃついていないし、統一感があっていつまでも眺めていたくなる。なによりも、なんだか嬉しい」
「わたくしの突っ込みは聞いてませんね?」
(……今夜の紫淵殿下はおかしいです)
 時刻はすでに亥三つ(22時半)を回っている。
 しかし苺苺が寝衣ではなく、普段は散歩用に使用している簡単な衣裳をまとっているのは、ちょうど夜警に出てすぐだったからだ。
 猫魈(ねこしょう)を使った『木蘭暗殺未遂事件』の犯人である〝恐ろしい女官〟が誰だかわかった今、()()から木蘭を守らなくてはならない。
(現行犯で取り押さえた暁には、ぜひとも心を入れ替えていただかなくては。ふっふっふ、この白苺苺、必ずや木蘭様の素晴らしさを布教し、恐ろしい女官の方を木蘭様沼に突き落としてさしあげますわ! そのためにも今夜からは本殿に籠城ですっ)
 そう強く意気込んだ苺苺がぬい様と〝白蛇の神器〟を携え、紅玉宮(こうぎょくきゅう)本殿の見回りを始めようとしていたところ、寝室からぬっと出てきた寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭様に抱きつかれて、
『お姉様ぁ。(わらわ)ひとりで寝るのは怖いです。今夜は妾と一緒の部屋で寝てくださぁい』
と言われたからさあ大変。
(かわゆいが大爆発をしていて、ついつい寝室に……。そうして気がついたら紫淵殿下に捕まって、こんなところまで……)
 寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭から『目をつぶってしばらく待つこと』と言われて、衝立の裏でおとなしく待って過ごしていたら、いつの間にか寝衣から着替えた紫淵から『もういいぞ』なんて声をかけられるとは聞いていない。
 あまりの出来事に苺苺は『こんなの詐欺です!』と叫んでしまった。
 そうして箪笥の下に隠されていた扉から階段を降り、地下通路を通って出た先は、灯籠がらんらんと輝く天藍宮(てんらんきゅう)の瀟洒な寝室。
『苺苺、今夜はここで寝てくれないか』
『え?』
『俺は向こうの部屋で執務をしているから、問題があったら呼んでくれ』
『ええっ!?』
『おやすみ』
 まるでそれが自然であるかのように紫淵は優しい手つきで苺苺の頬を撫で、そう言い残して寝室を出て行く。
 はて? と思い室内を見回すと、木蘭の部屋にあるものよりも大きくて豪華な寝台の上には、紫色の堅物感のある枕が。
 そしてその隣には、新品とおぼしきふわっふわの羽根枕が鎮座しているではないか。
『ええええええっ』
 苺苺は思わず羞恥心にさいなまれ、ぶわりと頬を染め上げる。
『ま、待ってください! わたくしも行きます!』
 弾かれるようにして慌てて寝室から飛び出した苺苺は、濃紫の深衣姿の紫淵の背中を追いかけた。
 早足が捌く長い裾がふわりと広がるのに合わせて、後頭部を一部結って載せらた皇太子を表す(かんむり)(かんざし)飾りと、背中に流された紺青の黒髪がさらさらと揺れている。
 銀糸の刺繍が施された幅広の帯がきっちりと締め上げる腰はより細く見え、いつもの冷酷な雰囲気が漂う佩剣(はいけん)した武官姿とはまた異なる雰囲気だ。
 地下通路では判らなかったが、この姿は紫淵をこの宮の主人たらしめていて、よりいっそう高貴さが漂っている気がする。
 随分と見慣れてきた紫淵の姿との違いに、苺苺が少しどぎまぎしてしまうのも仕方ないだろう。
 しかもそんな皇太子の寝室に枕がふたつ、なんてただごとではない。
(い、いいえ。気おくれしていても仕方ありませんっ。ビシッと行きましょう! ビシッと!)
 そうして紅玉宮の本殿より長い廊下を通って辿り着いた先がここ、現在地である紫淵の執務室である。
(いったいなんだったのでしょうか……? もしかしてあれも豪華薔薇風呂と三食昼寝付きの〝異能の巫女〟の給金に含まれて……?? だとしたら不要な優待特典です)
 苺苺は絹扇の裏からじーっと胡乱げな視線で紫淵をうかがう。
「なんだその目は」
「いえ。あの枕はなぜあんなところに? と考えていまして」