(紫淵殿下は推しではないのに、抱きしめられてドキドキするなんて変で――……あっ、これが動悸ですね。きっと連日の夜更かしでいよいよ体調不良になってきたのやも。今夜は呪靄(じゅあい)呪妖(じゅよう)もわんさかやってきていますし)
 すんっと無表情になった苺苺は、「あ、大丈夫です」と自分を捕らえている紫淵の腕を、ぽむぽむと叩いた。
「……大丈夫なのか?」
「はい。お気遣いくださりありがとうございます」
 本物の虫の大群であったなら虫が苦手な苺苺には阿鼻叫喚ものであるが、あれは呪妖だ。悪意の塊で、意識はあるが、この世のものではない。
(それに、悪意には慣れています)
「ですからもう離してくださって結構です」
「え、ああ、わかった」
 先ほどまでは恥ずかしそうにしていたのに、落差が激しすぎないか?
 とは言えず、紫淵は苺苺を解放する。
 苺苺は乱れた身なりをぱぱっと整えると、一歩踏み出し、欄干を両手で掴んで星が瞬く夜空を見上げた。
 呪妖は紫淵に斬り裂かれたことに驚き、こちから距離をとってひらひらと飛んでいる。
「呪靄から一瞬にして呪妖が生じたのには驚きました。呪妖は普通、宿主の周辺を舞っているものなのです。それがわたくしの方へやってくるとは……」
「珍しいのか?」
「初めてです。あの一瞬にして強烈な殺意を抱くほどのなにかが、あったのでしょうか?」
(木蘭様をお守りしている最中でも眼にしたことはないです。ということは、呪詛に変化する寸前まで精製された悪意ということに……。もしや、どなたかからわたくしと紫淵殿下の様子が見えて……?)
 苺苺は眼下にある宿舎をじっと睨みつける。
(呪靄も呪妖もわずかに光っているので、暗闇はむしろ好都合です。室内灯をつけていなくても、ぼんやり視えるはずですわ。――――ああ)
 見つけてしまった。
 ひっそりと蝋燭の灯りの中に揺れる、呪妖の光を。
(やはり、そうでしたか)

 悲しいような、落胆のような、切ない気持ちが苺苺の胸を締めつける。
 苺苺はしゅんと落ち込んだ様子で、胸元から両手のひらほどの大きさの白銅鏡を取り出す。
 白蛇の神器のひとつ、〝白澤(はくたく)八花(やつはな)(かがみ)〟だ。
「……大変申し訳ありませんが、宿主さんのもとへお還りください」
 苺苺は静かに告げながら紫淵の隣から一歩出ると、両手で下から支えて上向きに持った八花鏡に異能の力を鏡へ込めた。
 しゃらん、とどこからか鈴の音が聞こえる。
 すると宙に舞っていた黒い胡蝶たちはぴたりと動きを止め、ボウッと青紫色の炎に包まれた。
 燐火になったのだ。
 八花鏡に誘われ、宿舎の中からもひらひらと黒い胡蝶が出てきて、次々と燐火に呑まれていく。
 そうして青紫色の炎がうねり、ひとつに合わさって――……二本の角を持った獅子に似た瑞獣、白澤の姿を形作った。
 燐火の白澤は空を駆け、苺苺のもとへ飛び込むようにやってくると、すうっと音もなく八花鏡に吸い込まれて消えた。
 それはただただ幻想的な光景だった。
 紫淵はいつのまにか魅入ってしまい、気がついた時には長剣を鞘におさめていた。
「あれが、人間の悪意なんだな」
「はい。紫淵殿下にも呪妖が視えるようになったのは〝龍血の銘々皿〟の影響でしょう。血の契約をしたので、紫淵殿下とわたくしとの間になにかしら……縁ができてしまったのかもしれません」
「……なるほどな。先ほどの術は?」
「宿主の方には申し訳ありませんが、呪妖を宿主の元へ送り返す術を使わせていただきました。封じたわけではなく、本当にただ目の前から祓う効果しかないので、わたくしとしてはあまり使いたくないのですが……」
 苺苺は欄干のそばに寄って、女官の宿舎へ視線を走らせる。
(書物には基本中の基本とありましたが、送り返された方の気持ちを思うと、とてもじゃないですが使えません。だって、あの黒い胡蝶が一瞬だけ実体化して、し、し、し、死骸にぃぃぃ)
 静寂を爪で引っ掻くかのごとく、ビィィィンと月琴の弦が切れた音がする。
「きゃあああああああ――――っ!」
 それから一拍遅れて宿舎から甲高い悲鳴が上がり、とある部屋の灯籠に灯りがついた。
 苺苺はその様子を見て仰け反る。
「お、おいたわしや……!」
 灯りがともされた部屋は、春燕と美雀の寝所だった。