◇◇◇


「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」
「……春燕? その言葉、この三日で聞き飽きてしまったわ」
「若麗様ぁ。そんなこと言うなら交代してください!」
「木蘭様の命令よ、代わったりできないわ。わかっているでしょう」
 紅玉宮の厨房で材料を広げ、本日の飲茶(やむちゃ)点心(おやつ)となる生地を手でこねながら、若麗は苦笑する。
「それに苺苺様って、とっても素朴で良い方よ? 妃であるのに威張っていないし、白州出身だから針仕事もお上手で……。しっかりした姫君だけれど、ふふっ、ぬいぐるみがないと夜は眠れないんですって」
「ふふふっ、そういうところが木蘭様の姐姐(おねえさま)たるゆえんでしょうか? 『白蛇の娘』なんて恐れられていたけれど、近くで過ごせばお優しい方だとすぐにわかりました」
 くすくすと、若麗と怡君は穏やかな声で微笑む。
「そうそう。水星宮を訪れた時には、女官の私を部屋に招いて手作りの薬草茶をご馳走してくれたのよ? 野苺の葉の薬草茶」
「野苺の葉が薬草茶になるのですか? それは知らなかったです」
「ええ、私もよ。なんでも、胃腸や美肌にとっても良いんですって」
「まあ。春先の御花園ではよく見かけますよね。まさか胃腸や美肌に良いだなんて」
 怡君は生地をこねていた手をつい頬に当ててしまい、舞った小麦粉に驚く。
 そんな様子を見て、厨房には侍女たちのクスクスという賑やかな笑い声が響いた。
「あらあら」
怡君(イージュン)様のお顔、真っ白なのです」
「ごめんなさい、つい驚いてしまって」
 若麗と鈴鹿の言葉に、怡君は恥ずかしそうに頬を染めながら、「やっぱり美肌には興味がありますから」と、口元にはにかんだ微笑みを浮かべる。
「作り方は、野苺の葉をそのまま乾燥させて薬草茶になさるのですか?」
「いいえ、葉を摘み取ってからよく乾燥させて作るそうよ。野苺の葉は生乾きのままだと腐敗の過程で(こうそ)を生んで、飲むと体内で急性中毒が発生してしまって、場合によっては死ぬこともある猛毒になるらしいの。だけどしっかり乾燥させて作ると、生薬と同じ効果が得られるそうよ」
「まあ。そのお話を聞くと少し怖いですが……美肌に良いとあっては飲んでみたくなりますね」
「ふふふ、そうね」
 毒にも薬にもなるという薬草は、生薬にも多い。そしてそういう生薬は希少で、病に非常に効くことも、有名な話だ。
 よほど美肌効果があるのだろう、と怡君は再び頬を押さえる。
 今朝も皇太子殿下の命で、東宮補佐官様が紅玉宮に来訪された。女官の憧れの的の宵世を前にして、やはり自分の身なりは気になるものである。
「ここだけの話、実は私も、お茶をいただいた日からお肌の調子がいいの」
「若麗様のお肌、最近きめもますます細やで綺麗だなと思っていたんです秘密は薬草茶だったんですね」
「ええ、そうかも。木蘭様のために少し分けていただいて、茶葉用の棚に入れてあるわ。私たちにも分けていただけないか、いつか苺苺様にまた頼んでみましょう」
 年長組の若麗と怡君の会話は穏やかに進む。
 それになんだかむかっ腹が立ったのは、春燕だ。
「若麗様も怡君様も簡単に絆されないでください! 確かに、白蛇妃が部屋でお世話してる野苺の果実は赤く実って美味しそうでしたけど……。でも、そんな猛毒茶になる野草を育ててるなんて、なにか魂胆があるに違いないわ! 『白蛇の娘』なんて、いつの時代も後宮では災いしか呼ばないんだから。絶対に追い出してやる」
「白蛇娘娘、鈴鹿は好きなのです」
「あんたはぼーっとしすぎなの! 刺繍ばっかりしてる最下級妃が、本当にあやかし避けになるわけがないわ! だいたい、あやかしなんて全然出てこないし。木蘭様を守ったのだって、まぐれだったんじゃないの? ……私にだってできる」
「こら、春燕。口が過ぎるわよ」
「はーい」
「春燕、若麗様に怒られたなのです」
「うるさいわね」
 わいわいと木蘭の侍女たちの賑やかな声が厨房に響く。
 そんな中、ひとり思いつめた様子で饅頭(マントウ)に包む(あん)を作る侍女がいた。
「……どうしたの美雀(メイチェ)? さっきから元気がないわね」
 一番元気の有り余っている春燕が、ひとつ年下の侍女に問う。
 ふたりは血の繋がった姉妹だ。地方でそこそこ大きな商家を営む両親を持つ。
 両親は姉妹を後宮に入れるため、幼い頃から一緒に手習いをさせていた。けれど美雀は甘えん坊な性格だったため、春燕が課題を引き受けることもしばしば。
『しょうがない子ね。この課題は手伝ってあげるけど、今度はもっと勉強するのよ?』
『うん、ありがとう姐姐(ジェジェ)! 姐姐だーいすきっ。私たちは自慢の仲良し姉妹ね!』
『そうね。でも妹妹(メイメイ)、後宮では暗記力だって重要なんだから。しっかりね』
 そう言いながらもながらも、春燕自身、家族から頼られることは嫌いではなかった。
『姉妹が同時期に後宮に上がっても皇帝の目には止まらん。次の秀女選抜の時、お前は十七を越える年になるが、今は美雀を先に入れる』
 三年前。美雀は街一番の容貌から、春燕よりもひと足先に皇帝宮の秀女選抜試験を受けた。
 そして次の秀女選抜試験を待つように言い含められた春燕だったが、今年の年始早々に公示された皇太子宮の女官登用試験を知り、父の言いつけを破って後宮へ上がること決断する。
 誰かの寵愛を争いたいわけじゃない。むしろ自分は裏方で誰かを支える方が向いている。
 そんな自身の性格から鑑みて、春燕は皇太子宮の女官を目指したのだ。
 仕える皇族は違うが、どちらにしても後宮。姉妹の再会は近いだろう。
 しかし後宮に入ったあとに大事な妹妹に会いに行くと、美雀は『下級女官にしかなれなかった。ここでは誰も私を必要としてくれない。姐姐と家族一緒の暮らしに戻りたい』と、泣き暮らしていた。
『ここは私がひと肌脱がなくちゃ』
 そう思った春燕は、筆頭女官の若麗に直談判した。
 美雀を紅玉宮の女官にしてもらえるよう頼み込んだのだ。
 春燕にとって美雀はなにものにも代え難い甘えん坊の妹妹で、美雀にとって春燕は幼い頃からなにがあっても助けてくれる、心強い姐姐だった。
「だって、姐姐がひどいんだもの。いつも悪口ばかり。もう聞きたくないわ」
「……そう。めんなさいね、かしましくして」
「違うの姐姐、気を悪くしないで? 私はただ姐姐が心配なの。悪口を言っていたら、姐姐が意地悪だと思われてしまうわ。……私は姐姐のためを思って言っているの」
 確かにこの三日間で、紅玉宮の雰囲気は変わってきていた。
 女官たちは皆、苺苺が普通の善良な少女であると気がつき始めている。
「でも正直な気持ちを言わなくてどうするの? 貴姫である木蘭様に進言するのも、私たち侍女の務めだわ。私に後ろ暗いことなんかない。歴史書を見て、ただ堂々と意見を述べているの。侍女としてなにか間違っているかしら?」
「なぜそんな意地悪を言うの……? う、ぐすっ……ひどいわ、姐姐……っ」
 美雀はとうとう泣き出してしまった。
 年長組が顔を見合わせ、「落ち着いて美雀」となだめる。
 春燕は唇をきゅっと噛み締めた。それを見て、鈴鹿が一歩前に出る。
「お、落ち着くのです美雀。白蛇娘娘は春燕の強気な性格、嫌いじゃなさそうなのです」
「そんなことない。うっ、ぐすっ、きっと迷惑してるはずよ。……姐姐。このままじゃ、姐姐の評判も下がってしまうわ。他の女官の皆も姐姐は意地悪ねって、そう言ってたもの」
 少女は庇護欲をくすぐる表情で涙をこぼし、心配げに眉をひそめる。
 厨房に満ちていた賑やかな空気は、いつのまにか凍っていた。
「――さあ、おしゃべりはここまで」
 ぱんぱん、と侍女たちを取りまとめる若麗がその空気を霧散させるように手を叩く。
「そろそろ饅頭を蒸しにかからないと、お八つ刻に間に合わなくなってしまうわ! (あん)はできあがった?」
「若麗様、奶皇包(カスタード餡まん)芝麻包(ごま餡まん)の餡はできました」
芋泥包(たろ芋餡まん)用もできたのです」
 若麗の問いに、怡君と鈴鹿が答える。
「それにしても……木蘭娘娘は最近なぜ鈴鹿たちの手作りを所望されるのです?」
「馬鹿ね、鈴鹿。木蘭様がお気に入りの美味しいものを、お気に入りの妃に食べさせたいからよ」
 生地に餡を包み込みながら、春燕が胸を張る。
「幼くして皇后(こうごう)様にも通づる矜持(きょうじ)を、貴姫様として自覚されているの。それから、私たち侍女の丁寧な仕事ぶりをご紹介されたいんだわ。はあ……とても名誉なことよ。木蘭様のためなら一日百個だって包子(パオズ)を作るのに」
 春燕は唇を尖らせると、「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」と若麗に再びごねた。


 ◇◇◇


 真夜中、丑の刻(午前1時)を過ぎた頃。
 紫淵は自身の本当の住居である天藍宮で、執務机について溜まった仕事をさばいていた。
 そばには宵世が控え、次々と書状を渡してくる。
(姚州の治水工事の件か。地質の観点から、山が崩壊し河川が氾濫するおそれがあると何度指摘しても、曖昧で消極的な返答ばかり返すな。国庫から出ている予算を一体なにに使っているんだ)
 紫淵は姚州(ヨウしゅう)官吏(かんり)から送られた報告に苛立ちながら、筆を持ち、(すずり)の中の墨につける。
 病弱な皇太子という設定の紫淵の執務は、こうしてほとんど書状でのやり取りで行われている。
 書状だと面倒な面会や挨拶はないし、執務時間もある程度自由がきく。
(後宮に入るまでは木蘭の姿になってもここで執務をしていたが、幼い身体での執務はすぐに疲れがたまるし、筋力のせいか手が小さいからか筆を走らせる速度も遅くなるしで、思うようにはいかなかった)
 そして後宮に入ってからは、それはもう酷い有様だった。
 なにせ女官がうろうろしている時間帯に紅玉宮へ執務を持ち込むわけにはいかない。
 元の姿に戻れない日々が連日続く時は宵世に頼んで隠し通路を開いてもらい、真夜中にこっそり紅玉宮の寝室で執務を行う夜もあった。
 不眠症も重なって、睡眠不足でふらふらになる日もざらにある。というか、そんな日ばかりだ。
(だが今はどうだろう)
 苺苺が形代を作ってくれてからは、すこぶる体調がいい。
 あの日から夜になると紫淵本来の姿に戻れるようになったし、維持できる時間も長くて助かっている。
「そういえば宵世はいつ眠っているんだ? 昼間もここの管理をして、空き時間には調査に出かけて、夜だってこうして俺の手伝いをしているだろう」
「僕たちに睡眠はあまり必要じゃないので。まあ紫淵様が来られる前に少し仮眠を取りましたが。ですが変な疲れが取れませんね。正直、道士には関わり合いたくないですよ」
 はあ……っと宵世は特大のため息をつく。
 そのまま紫淵が書き終えた書状を受け取り、墨を乾かすために他の机に移す。
「一応、道士の血筋や近しい関係者がいないか、紅玉宮の女官たちの経歴を洗ってみました。ですが、それらしい人物はいなかったです。若麗様なんて朱家の出身ですし、この血筋に関しては紫淵様の方がご存知の通りです」
「よければ今ご覧になります?」と、執務にひと段落ついた紫淵へ、宵世は調査資料を渡した。
 紫淵はそれを受け取って、くまなく目を通した。
(もともと紅玉宮に集められた女官は、なにも名も知らぬ下女や宮女ではない。出生から生い立ちに至るまですべて宵世が厳正な精査を行った、紅玉宮の女官たる素質のある者たちだ)
 向上心があり、年齢にこだわらずに主である妃を尊ぶ。
 言い換えれば、己の価値を知り、立場をわきまえている者たち。
 年上の女官の中には皇后の侍女として仕えていた女官もいる。皇后直属の女官とはすなわち、皇太子宮のどの宮の上級女官だろうが頭を垂れる相手だ。
(ここまでして女官を募ったというのに、紅玉宮内で〝木蘭〟の命を狙う人間が出てくるとは思わなかった)
「……そうだな。相変わらず、怪しい者はいなさそうだ。後宮から出る外出許可もまだ誰も申請していない……となると、後宮内部でなにか取引があったのか?」
「かもしれません。若麗様と怡君様、それから元下級女官の美雀は、もともと皇帝宮の出身です。あちらの後宮に道術をかじった女官がいて、金品を対価にそれを広めていてもおかしくはない」
「つまり犯人の女官本人は、道士ではなく〝使役の術〟だけを行使できるだけの可能性が高いということか」
「ええ」
 宵世は強く頷く。
 あちらの後宮は魑魅魍魎の巣窟と揶揄されるほど、女の陰謀が渦巻いている。
 そこには妃に忠実な女官として暗躍する道士、薬師、調香師、鍼灸師、按摩師、そしてあやかしがいるはずだ。
 彼女たちは密かに身につけた技術を武器にして、必ず後宮でのし上がるってくる。
 時には愛憎と復讐の末に主である妃を貶め、妃嬪の座を手にするのだ。
(そんな西八宮には、いくら宦官の姿をしている宵世でも入り込みにくい。……それに宵世の顔はの補佐官として認知されすぎている)
 皇帝との不和を避けるためにも、西八宮には近づかないのが一番だ。
「女官に術を授けた道士本人を見つけるのは諦めてください。それにしても、あやかしを封じて従属させ、餓死寸前まで追い込んで使役するとは……おぞまし過ぎます。絶対に関わり合いたくない」
「なにせお前はあやかし〝饕餮(とうてつ)〟だしな。しかも妖術も使えず、あやかしの気配がわからない、鈍感な」
 筆を止めて、完全なる人間の肉体を持つ宵世を見上げた紫淵は、東宮補佐官として有能な宦官――いや、知己の悪友に向けてにやりと微笑む。
「うるさいですよ。僕はこの人間らしい成長する肉体を得るために、最高位の霊力を全振りしたんです。それにあやかしの気配はわからなくても、人間の気配はいくらでもわかります。狼よりも耳が良いですし、狼よりも鼻が利きます」
「それから?」
「暗器も習得しました。僕以外に紫淵様の補佐官を務めるに相応しい人材はいません」
「ははっ、違いないな」
 いつもの応酬を繰り広げた悪友たちはくすりと微笑み合う。
(もしここに苺苺がいたら、宵世の正体に飛び上がるほど驚いただろうな。彼女は宵世のことを有能すぎる宦官としか考えていないだろうから)
 紅玉宮に苺苺を住ませることになってからの三日間は、わざと豪華な茶会を催して侍女五人を忙しくさせ、朝餉や夕餉から徹底的に隔離した。
 呪毒が宿らない安全な食事の時間を作り、苺苺に安心して料理を楽しんでもらうためだ。
(水星宮に対する尚食局の女官と宦官たちの嫌がらせは、すでに調査をした宵世から聞き及んでいる)
 報告を聞いた時の紫淵は無表情だったが、「ふぅん?」と彼が相槌を打った瞬間には、怒りで筆が折れていたほどだ。もちろん全員処罰は下した。
(紅玉宮に来てからは苺苺も食事を楽しんでくれている様子なので、なによりだと思う)
 そして、ふたりの妃のために給仕に励む女官たちも、自己肯定感や責任感が強くなっているようで、紅玉宮の女官としてさらに誇り高くあろうとしているのがわかる。
 これにより、向けられる小さな悪意はかなり減少傾向にあるらしい。
(紅玉宮の女官が抱く悪意を一掃できる日も近いだろう。……問題は八つ刻だ)
 たくさんの茶菓子や点心、各州から取り寄せたお茶で、卓子の上は毎日華やかな食器や茶器でいっぱいになる。
 そのおかげで苺苺の持参した『龍血の銘々皿』を上手く隠してくれたので、呪毒が宿った食べ物は紫淵でも認知できた。
(呪毒は変わらず宿っているのに、呪靄(じゅあい)や呪妖は見つからないというのは、よほどの精神力であると苺苺も唸っていたな)
 紫淵も木蘭の姿で五人の侍女をそれとなく見張り、謀の痕跡や暗殺の証拠を得られないかと観察しているが――……彼女たちは、いっそ恐ろしいくらいに静かだった。
(茶会の内容を簡略化し、ひとりずつに準備を任せたら一発で犯人が特定できるだろうが……)
 紫淵があえてそうしないのは、どうせ厨房かどこかで手の空いている誰かが手伝うに決まっているので意味がないからである。
(二人一組にしようが、三人一組にしようが結果は同じだろうしな)
 それからもうひとつ、厄介な理由がある。
 元々一緒に仕事をしていた女官達の序列を、安易に崩さないためだ。
(後宮ではなにが女官同士の(いさか)いにつながるかわからない)
 本人たちが争わずとも、その下についている女官たちが勝手に対立を始めたりもする。
(任せる仕事内容によっても、『主人に贔屓にされている』だの『お前のせいで遠ざけられた』だのと問題になる場合もあるしな……。不満を募らせた末に、木蘭暗殺を企てる女官に肩入して派閥化されても困る)
 はあぁ、と知らず知らずのうちに疲れが溜まったため息がでる。
 結局、五人が朝餉と夕餉に手出ししないよう、日替わりで面倒な茶菓子を作らせて足止めするしかない。
 そのせいで苺苺には呪毒の宿る怪しげな茶菓子を毎日食べてもらうしかなく、夜にはぬい様と名付けられた形代を手に、真っ暗闇の紅玉宮を歩き回ってもらうほかなかった。
 女官ではなく〝妃〟である彼女に頼りきりになり、紫淵は申し訳なく思う。
(犯人探しが終わったら、ふたりでのんびり過ごせるだろうか。そろそろ御花園の油桐花(ヨートンファ)が散る頃だ。提燈(あかり)を持って、深夜に立夏雪(りっかのゆき)を見に行ってもいいかもしれない)
 春の終わりに降る、小さな花の雪。この国ではそれを立夏雪と呼ぶ。
(油桐花の白い花がくるくると舞い降りてくる中、あの銀花亭で密かに踊っていた舞いを見せてくれと頼んだら、近くで見せてくれるだろうか)
 道を埋め尽くす立夏雪が彼女の美しい仕草ひとつで舞い上がるさまを想像するだけで、なぜだか胸が締めつけられた。
(……苺苺は今頃なにをして過ごしているだろう。何事もなく過ごしていたらいいが)
 最近、気がつくとこうして彼女のことで頭の中がいっぱいになっていて、居ても立っても居られなくなる現象が続いている。
(最初は、自分のために彼女が〝異能の巫女〟として昼夜問わず悪意を封じて祓ってくれていることに、人知れず独占できる悦びのような高揚感のような……言語化しにくい感情を覚えていたのに。変だ)
 それが時間が経つにつれ、彼女の身の安全が心配になってたまらなくなるのだ。
 どうしようもなく、そわそわする。
(今夜は暗器を携えた宵世もここにいて、苺苺のそばには誰もいない。あやかしを退ける力や、悪意を封じて祓う術はこの目で見ていたから知っている。でももし、それ以外の彼女が対処できない事柄が彼女の身に降りかかったら)
 そう考えるだけで、紫淵の胸中は不安でざわめき、心臓が鷲掴みされたみたいに苦しくなる。
 それでも、紫淵は皇太子として、紅玉宮から離れなくてはならない。
(宵世と零理(レイリ)以外に、怪異に侵されている俺の補佐ができる人間はいない。……そう思ってこの十八年間生きてきた)
 だが今は――もうひとり、そばにいてほしい人間ができた。
 彼女と過ごす日々は明るく面白く、どれもこれもが新鮮で、なぜか視界が澄んできらめいているような錯覚に陥る。
 暗殺の危機に瀕しているというのに……まやかしの穏やかな日常が、ずっと続けばいいのにとさえ思い始めている。
 すべてが解決したらいつか叶うだろうか。
 皇太子妃として苺苺が自分の隣に立ち、手を取ってくれたなら、どれほど――。
(……は? 俺は今、一体なにを考えていた……?) 
 紫淵は額を押さえて低く唸る。
(怪異が消えたらいつか解体するこの後宮に、未来はない)
 そう、思うのに。
「宵世、ちょっと紅玉宮に行ってきてくれ」
「どうしてです? と、聞かなくてももうわかりますけどね。白蛇妃でしょう。いいですよ、僕は紫淵様の暗器ですからね」
「不審な気配がないかの確認だけでいい」
「わかりました。まったく、あやかし使いが荒いのは()(あるじ)も一緒ですね」
「すまん」
「そう思うのなら、僕の机にある書類をすべて片付けておいてください」
「わかった。……って、は? これ、全部か?」
 宵世のいなくなった部屋で、紫淵は山積みになった書類の柱を見つけて「嘘だろう……」と呟いた。