私がその授業の異変に気がついたのは、教室の時計を見た時だった。
あくびが出て眠たいと感じていた時に自然と目線がそこを向いていた。
まだ、二時半か。そう思って再び教科書に目を向ける。
おしょうの読む英語が耳に入って、どこを読んでいるのか探しているときに、活字が二重に見えて気力が抜けていく。
眠気と抗っているうちに、音が消えて周りが静寂になっていくのを感じていた。
意識がなくなる一歩手前。このままでは眠ってしまうと残っている力を込めてかぁっと目を見開いた。
その勢いで背筋を伸ばして前を見れば、おしょうはテキストを読むのをやめていた。どうしたのだろうと暫く様子を見ていたが、いっこうに動く気配がない。時計も二時半を差してからずっと動かず、何かが変だと思い始めた。
「嘘だろ」
その声が聞こえた時、自分が言ったのかと思ったほど、全てが止まってしまっていることに気がついた。
「おい、今、声を出したのは誰だ?」
何が起こっているのか、暫く様子を窺った。
私は自分のマイナスになることはしたくない。輪に入るよりも傍観者でいることの方が多い。この時もただじっとして耳だけは澄ましていた。
多感な年頃が集まる中学二年生という羽目を外しやすい時期に、変なことに巻き込まれて自分の学歴に傷がつくのは絶対いやだ。
私はいい高校になんとしても入りたい。優等生になって真面目な生徒だという事を先生にアピールし、内申点を稼がないといけない。
だからと言って露骨にガリ勉になるのもいけないから、友達付き合いもほどほどに敵を作らず嫌われることのないように配慮する。
勉学に励んでいるが、勉強ができる事を自慢しているわけではない。私が唯一自分の能力を誇示したいのは、すでに高校生になった姉なのだ。姉には負けるわけにはいかない。
しかしすでに一番偏差値の高い高校に入ってしまった姉に勝つには私もそこを目指すしかないのだ。
小さい頃から姉はいつも私の上を行き、私はその後をついていくしかない。
先に生まれた姉は常に両親から褒められ、私は二の次だった。
私だって頑張っているのに、先に姉が出来るところ見せると、それと同じ力を発揮していても私は霞んでしまう。
こんなに頑張っても常に劣等感を抱いて私はそれが嫌でたまらない。
「他に誰か動ける奴がいるのかって訊いてるんだよ」
胡内大志が立ち上がると、広瀬歩夢も戸惑いながらそれに答えていた。
ふたりのやりとりをできる限り動かずに見ていた。この場はすぐに参加しない方がいい。
広瀬と大志のふたりの様子に聞き耳を立てていた。
あのふたりは小学生の頃は仲がよかったはずだ。
広瀬は絵が描くのが上手くて、よくみんなの似顔絵を書いていた。
コンクールに出品してそれが金賞を獲って全国でもちょっと有名になったことがあった。
それから広瀬は絵ばっかり描いて、将来は漫画家になるとか言っていたけど、中学一年でちょっとした事故――いや事件と言った方が正しいのかもしれない、その事が原因で広瀬は性格が変わってしまった。
大志も中学生になってからは虚栄心にまみれて自分を大きく見せようとしている。
それをかっこいいと思う女子もいるから調子に乗って、自己顕示欲が止まらない。
「えっと、オレっちも実はそうなんだけどさ」
次に、一之瀬光星が私の反対側の窓際の隅から立ち上がった。軽いノリで大志とやりとりをしだした。
コーセーはいつもにやけてヘラヘラしてるけど、目が笑ってないと思う。
強いものにすぐに取り込まれて、調子よく合わせるから信用置けないものを感じる。
癖のある奴ばかりが名乗りをあげて、私は益々この中に入りたくないと思ったその時、また声がした。
「あのさ、動かないからって勝手に触ってんじゃないよ」
嘘、ミーシャ!?
彼女の声を聞いたとき、私はびくとした。
手足が細くて長く、運動神経がとてもいいミーシャ。
体育の時間、走る彼女を見て自分が努力しても唯一勝てないモノを持っていると思ったもんだった。
小さい頃からバレエを習っていた彼女は体がしなやかだ。
体に染み付いたバレエの動きの基本。いつも姿勢がいい。
習っていたバレエも主役に抜擢されるくらい上手かったのに、飽きたからといってあっさり辞めたと聞いた。
冷めやすいその性格はあっけらかんとして、思った事をすぐに口にする。
他人事だと自分がはっきりと口に出せない分、ミーシャが代弁をしてくれるとスカッとするけど、それが自分の事を悪気なく言われると腹が立つ。
そのバランスの具合が他人事であればあるほどミーシャのような存在は憎めないと言われる理由だと私は思っていた。
あまり彼女とは関わらないようにしていたが、立ち上がったミーシャがちらっと私がいる方向を見た。
「でも女は私だけなのかなぁ?」
ミーシャは私が動けるのを見抜いていた。
なぜそれがそこにあるのかは分からないが、彼女の机には小さなコンパクトミラーが置かれていた。ちょうど角度が私に向いて、それに映っていたのだろう。
私は仕方なく、控えめに声を出した。
「えっと、私も動けるんだけど、一体これってどうなってるの」
立ち上がっているみんなが私を見るので、ひとりひとりと目を合わせた。
大志と目が合ったとき、喜んでくれているようなそぶりを感じた。その直後、急にかっこつけたようにこの場をしきりだした。
「他に動ける奴はいないのか?」
もしかしたら私のように様子を見ている者が他にもいるかもしれない。動けないフリをしている人はいないか私も注意深く見ていた。
その時、ひとつ席が空いていることに気がついた。その席に座っていた者を思い出そうとしていると、入り口の引き戸が開く音が聞こえて私はびっくりしてしまった。
誰が入ってくるのか注視していたら、いち早く気づいたミーシャが「理夢!」と叫んだ。
私の位置からは廊下側に立っている姿が見えない。
少し移動して角度を変えれば、確かにそこには理夢がいた。
「リム、どうしてピンクのスウェット着てるの?」
空いている席は理夢の席だったのだろうか。
てっきり着替えて現れたのかと思えば、広瀬が素っ頓狂な声で「佐野がふたりいる」なんて言った。
何を言っているのかと広瀬を見れば、その隣に理夢が座っていたから私も「えっ、どういうこと」と驚いてしまった。
ピンクのスウェットを着ている理夢も「私のこと知っているんですか」なんてふざけた事をいうから、益々この状況に困惑する。
みんなそれぞれ理夢に声を掛けて、その流れで私も裸足の理夢が気になって靴のことを聞いた。
結局広瀬が動かない理夢の上履きを脱がせてそれを渡した。
理夢は戸惑いながらもそれを履けばフイット感に満足したそぶりを見せた。
「あの、一体何が起こってるんでしょう。ほとんどの人が動いてないなんて」
答えが聞けるとばかりに懇願した目をそれぞれに向けたけども、誰もその質問に答えられるはずがない。
大志もわからないと説明し、ミーシャは理夢の変な態度を記憶喪失扱いした。
広瀬は何か言いたそうに口元をわなわなさせてたけど、それだけだった。
理夢は完全に自分を見失い辛そうにしている。
「何をどう考えたらいいのかわからない。ただ私は……」
理夢の顔から血の気が引いたみたいに怯えるから、私は助けたくて思わず駆け寄った。理夢が以前私を助けてくれたように。
中学一年のとき私はテストを受ければ満点を獲るのも珍しくなく、九十点以下になることはなかった。
筆記テストがある勉強は暗記さえすれば答えられる。授業態度もいいし、取り組む姿勢も人一倍頑張ったお陰でほとんど評価は『5』をもらえた。
だけども体育の成績だけは実技で決まるために好成績を獲るのは至難の業だった。
中一の一学期の成績で『3』をつけられたときはショックを受けてしまった。
それから二学期と三学期は必死に取り組んで『4』になったけども『5』には届かなかった。
中学二年になっても私の努力は続く。
技能で一番を獲れないが、全く運動音痴でもなかったので、頑張っていると先生が思ってくれれば、悪い成績にはならないはずだ。それは中学一年の時に学んだ。
だから二年生でも体育の授業は欠席せず、全力で頑張っていた。その横でミーシャは軽々と何でもこなしていて、羨ましいと思ってばかりだった。
そんな時に体育の真田先生が、私に近寄って「和泉はさすがだな。なかなか筋がいいよ」と笑ってくれてすごく嬉しかった。
先生に気に入られれば、プラスになるかもしれない。いい成績を獲るのが難しい教科は計算高くなってしまう。
廊下で先生に会えば、挨拶はきっちりしたし、授業も真面目に参加した。
真田先生は背も高く体育の教師だけあって適度な筋肉がついていてスタイルがよかった。
顔もすっきりとしてイケメンといわれて女子生徒からは人気の的だった。
私も憧れている女子生徒のひとりと思われていたかもしれない。でも実際は興味がなかった。
でも真田先生は違った。
ある日の夕暮れ時の静まり返った校舎、生徒たちはすでに学校を去った後だった。
遅くまで残っていた私は偶然下校時間が重なった真田先生と出会って、学校の門を出る前に少し立ち話をすることがあった。
「和泉、今、帰りか。結構遅い時間になったんだな」
「はい、図書委員の仕事が長引いて」
「そっか、和泉は図書委員をしてたのか」
そんな他愛もない会話をしていると、先生は急に距離を縮めて、声のトーンを下げて言ってきた。
「和泉は、頭はいいし、顔もいい。他の生徒よりも大人だな」
その時の真田先生の目がいやらしかった。
でも深く考えず当たり障りのないように「ありがとうございます」と返した。だけど内心何か納得がいかない。
「どうだ、今からお茶でも飲みにいかないか。もちろんおごるよ」
「えっ」
私はどう答えていいのかわからなかった。なんだかおかしいような気もするが、ここで一緒に過ごしたらもっと先生と仲良くなってプラスになる気もする。
でもそこまですべきことなのか、判断を下せずに困っていると、理夢が後ろから現れた。
「あっ、和泉。それに真田先生も。こんにちは」
フレンドリーに笑おうとするが、どこか引きつって無理をしている。
理夢は勇気を出して声を掛けている感じがした。でもそれがありがたかった。
「おう、えっと、佐野だったな」
「私みたいな地味な生徒でもちゃんと名前覚えてくれるんですね。嬉しいです」
「あ、当たり前だろ。生徒には平等だ。ほら、お前たち、もう遅いから早く帰りなさい」
真田先生の態度が急によそよそしくなった。先ほど私を誘った事は冗談だったと言いたげに教師を演じているようにも見えた。
「はい。先生も仕事で疲れてますもんね。じゃあ、先生、失礼します。和泉、一緒に帰ろう」
理夢は私の手を引っ張って前を歩く。
「おう、気をつけてな」
先生に見送られながら、私たちは頭を下げて校門を出た。
理夢は暫く話さなかったけど、学校が離れたところで大きく息を吐いて私に振り向いた。
「和泉、真田先生に弱みを見せちゃだめだよ。あの先生、そういうところ利用するらしいから」
「えっ?」
突然のことに私は驚いた。
「和泉は体育の成績を良くしたいから先生に近づいているって、絶対先生にばれてるよ」
「なんでわかるの」
私は理夢の口からそんな事を言われてびっくりした。だけど、理夢は私を心配して私を守ろうとしてくれている。理夢の目が潤んでいたからだ。
「和泉は先生のいいなりになるような子じゃない。体育の成績だって実力で獲れるって。何もミーシャのように早く走らなくてもいいじゃない。バレーボールの試合では和泉がいるチームは必ず勝つんだから」
それを聞いて私はふと肩の力が抜けていった。
「和泉は頑張り過ぎだと思う。いつか倒れちゃわないか心配。でもそれもまた和泉の信念だから、そこまで自分に厳しくなれる和泉を私は尊敬してるんだけどね」
理夢と一緒にいると気持ちが和んで目頭が熱くなっていく。
「理夢、ありがとう」
「ううん、私の方がありがとうだよ」
素直にお礼を言われるのが恥ずかしかったのか、理夢はへへへと笑って誤魔化した。
理夢にあの時会わなかったら、私は真田先生に流されるままお茶に付き合ってたかもしれない。あのいやらしく見つめた目が思い出されて後になって身震いした。
「ところで、理夢は遅くまで学校で何してたの? 部活?」
軽く質問したけど、理夢は急に真剣な顔つきになって話を逸らす。
「ねぇ、和泉はドリームキャッチャーって知ってる?」
「うん、知ってるけど、それがどうしたの?」
それを訊いたとき、理夢の眼差しは深く私を捉えていた。
「それが学校にあるかなって色んなところ探してたんだ」
なぜそんなものが学校にあると思っていたこと自体不思議だったけど、探している理由を聞いても理夢は教えてくれなかった。
そのドリームキャッチャーが二学期になって教室の後ろの壁に飾られた。
理夢が飾ったのかと訊いたけど、リムは首を横に振った。でも嬉しそうだった。
いつか何の意味があるのか問い詰めようとは思っていたけど、記憶がなくなった理夢が現れた今、この異常な世界も含めて絶対にあのドリームキャッチャーが関係あるに違いない。
「なあ、オレたちって元に戻れるのかな」
コーセーが恐れている事を口にした。にやけた顔が泣いているようにも見えた。
大志は一時的なものと楽観的な言葉を呟きながら語尾が弱まっていた。
広瀬は何を考えているのか心が上の空だ。
それを見た大志が腹いせに広瀬に怒りをぶつけている。
言い返せない広瀬の代わりにミーシャが大志を責めたが、広瀬のことまで悪くいう。私はうんざりして口を挟んだけど、却って裏目にでてしまった。
調子に乗った大志は私の下の名前を呼び捨てにしようとする。
「それはダメ、絶対ダメ。和泉で結構。下の名前で馴れ馴れしく呼ばれたくなんかないわ」
むきになってしまった。私は貴子という自分の名前が嫌いだ。
タカコだなんて真ん中のカがなくなればタコになってしまう。
私の姉の名前は花音と名づけられた。
私が生まれたとき、それによく似たように朱音という名前になるところ、母に内緒で祖母が勝手に貴子と戸籍登録をしてしまった。
祖母は今時の名前が好きじゃなく、姉の名前も当然気に入らない。私の名前が姉よりももっと酷いと感じたからだ。
母がそれに気づいたときには遅かった。母も憤って祖母と険悪になり、未だにその恨みは続いている。
母からそれをずっと聞きながら育ち、母と祖母の仲が悪いのは私の名前のせいだと思うとマイナスのイメージしかない。
母も私の名前を呼ぶことに抵抗を持ち、私が一生懸命頑張っても姉と同じようには扱ってくれないのも、この名前が原因だと私は思っている。
そこで姉と喧嘩したときに、タコと呼ばれたことから私はこの名前が益々大嫌いになった。
何がしわしわネームだからだ。人の気も知らないで、この時はミーシャの勝手な憶測にも腹を立てた。
気持ちのままに言い合いしたけども、こんな事をしている場合じゃないとミーシャも思ったのだろう。それ以上の争いは自然消滅した。
「感情に走って争ってる暇はないわ。どうして私たちがここにいるのかその原因をつきとめなくっちゃいけないわ。元の世界に戻るには、この世界に閉じ込められた理由をまず考えるの。それを辿れば必ず打開策があるに違いない」
理夢はきっと何かを知っているはずだ。彼女の記憶さえ戻ればこの世界は元に戻るに違いない。幸いみんなも私の意見に賛同してくれている。
広瀬は何か納得いかない顔をしていたけど、私はそれを無視した。意見をはっきり言わない広瀬が悪い。
教室の後ろに飾られているドリームキャッチャーに視線を向け、私はそれを指差す。
「あそこに飾られているドリームキャッチャーだけどさ、あれいつからあそこにあった?」
私がそういったとき、広瀬は怯えた顔をし、急に落ち着かなくなった。
「私、同じようなのを見たことある」
唯一見覚えがあるものを見たことで理夢は興奮して息を荒くしだした。
あくびが出て眠たいと感じていた時に自然と目線がそこを向いていた。
まだ、二時半か。そう思って再び教科書に目を向ける。
おしょうの読む英語が耳に入って、どこを読んでいるのか探しているときに、活字が二重に見えて気力が抜けていく。
眠気と抗っているうちに、音が消えて周りが静寂になっていくのを感じていた。
意識がなくなる一歩手前。このままでは眠ってしまうと残っている力を込めてかぁっと目を見開いた。
その勢いで背筋を伸ばして前を見れば、おしょうはテキストを読むのをやめていた。どうしたのだろうと暫く様子を見ていたが、いっこうに動く気配がない。時計も二時半を差してからずっと動かず、何かが変だと思い始めた。
「嘘だろ」
その声が聞こえた時、自分が言ったのかと思ったほど、全てが止まってしまっていることに気がついた。
「おい、今、声を出したのは誰だ?」
何が起こっているのか、暫く様子を窺った。
私は自分のマイナスになることはしたくない。輪に入るよりも傍観者でいることの方が多い。この時もただじっとして耳だけは澄ましていた。
多感な年頃が集まる中学二年生という羽目を外しやすい時期に、変なことに巻き込まれて自分の学歴に傷がつくのは絶対いやだ。
私はいい高校になんとしても入りたい。優等生になって真面目な生徒だという事を先生にアピールし、内申点を稼がないといけない。
だからと言って露骨にガリ勉になるのもいけないから、友達付き合いもほどほどに敵を作らず嫌われることのないように配慮する。
勉学に励んでいるが、勉強ができる事を自慢しているわけではない。私が唯一自分の能力を誇示したいのは、すでに高校生になった姉なのだ。姉には負けるわけにはいかない。
しかしすでに一番偏差値の高い高校に入ってしまった姉に勝つには私もそこを目指すしかないのだ。
小さい頃から姉はいつも私の上を行き、私はその後をついていくしかない。
先に生まれた姉は常に両親から褒められ、私は二の次だった。
私だって頑張っているのに、先に姉が出来るところ見せると、それと同じ力を発揮していても私は霞んでしまう。
こんなに頑張っても常に劣等感を抱いて私はそれが嫌でたまらない。
「他に誰か動ける奴がいるのかって訊いてるんだよ」
胡内大志が立ち上がると、広瀬歩夢も戸惑いながらそれに答えていた。
ふたりのやりとりをできる限り動かずに見ていた。この場はすぐに参加しない方がいい。
広瀬と大志のふたりの様子に聞き耳を立てていた。
あのふたりは小学生の頃は仲がよかったはずだ。
広瀬は絵が描くのが上手くて、よくみんなの似顔絵を書いていた。
コンクールに出品してそれが金賞を獲って全国でもちょっと有名になったことがあった。
それから広瀬は絵ばっかり描いて、将来は漫画家になるとか言っていたけど、中学一年でちょっとした事故――いや事件と言った方が正しいのかもしれない、その事が原因で広瀬は性格が変わってしまった。
大志も中学生になってからは虚栄心にまみれて自分を大きく見せようとしている。
それをかっこいいと思う女子もいるから調子に乗って、自己顕示欲が止まらない。
「えっと、オレっちも実はそうなんだけどさ」
次に、一之瀬光星が私の反対側の窓際の隅から立ち上がった。軽いノリで大志とやりとりをしだした。
コーセーはいつもにやけてヘラヘラしてるけど、目が笑ってないと思う。
強いものにすぐに取り込まれて、調子よく合わせるから信用置けないものを感じる。
癖のある奴ばかりが名乗りをあげて、私は益々この中に入りたくないと思ったその時、また声がした。
「あのさ、動かないからって勝手に触ってんじゃないよ」
嘘、ミーシャ!?
彼女の声を聞いたとき、私はびくとした。
手足が細くて長く、運動神経がとてもいいミーシャ。
体育の時間、走る彼女を見て自分が努力しても唯一勝てないモノを持っていると思ったもんだった。
小さい頃からバレエを習っていた彼女は体がしなやかだ。
体に染み付いたバレエの動きの基本。いつも姿勢がいい。
習っていたバレエも主役に抜擢されるくらい上手かったのに、飽きたからといってあっさり辞めたと聞いた。
冷めやすいその性格はあっけらかんとして、思った事をすぐに口にする。
他人事だと自分がはっきりと口に出せない分、ミーシャが代弁をしてくれるとスカッとするけど、それが自分の事を悪気なく言われると腹が立つ。
そのバランスの具合が他人事であればあるほどミーシャのような存在は憎めないと言われる理由だと私は思っていた。
あまり彼女とは関わらないようにしていたが、立ち上がったミーシャがちらっと私がいる方向を見た。
「でも女は私だけなのかなぁ?」
ミーシャは私が動けるのを見抜いていた。
なぜそれがそこにあるのかは分からないが、彼女の机には小さなコンパクトミラーが置かれていた。ちょうど角度が私に向いて、それに映っていたのだろう。
私は仕方なく、控えめに声を出した。
「えっと、私も動けるんだけど、一体これってどうなってるの」
立ち上がっているみんなが私を見るので、ひとりひとりと目を合わせた。
大志と目が合ったとき、喜んでくれているようなそぶりを感じた。その直後、急にかっこつけたようにこの場をしきりだした。
「他に動ける奴はいないのか?」
もしかしたら私のように様子を見ている者が他にもいるかもしれない。動けないフリをしている人はいないか私も注意深く見ていた。
その時、ひとつ席が空いていることに気がついた。その席に座っていた者を思い出そうとしていると、入り口の引き戸が開く音が聞こえて私はびっくりしてしまった。
誰が入ってくるのか注視していたら、いち早く気づいたミーシャが「理夢!」と叫んだ。
私の位置からは廊下側に立っている姿が見えない。
少し移動して角度を変えれば、確かにそこには理夢がいた。
「リム、どうしてピンクのスウェット着てるの?」
空いている席は理夢の席だったのだろうか。
てっきり着替えて現れたのかと思えば、広瀬が素っ頓狂な声で「佐野がふたりいる」なんて言った。
何を言っているのかと広瀬を見れば、その隣に理夢が座っていたから私も「えっ、どういうこと」と驚いてしまった。
ピンクのスウェットを着ている理夢も「私のこと知っているんですか」なんてふざけた事をいうから、益々この状況に困惑する。
みんなそれぞれ理夢に声を掛けて、その流れで私も裸足の理夢が気になって靴のことを聞いた。
結局広瀬が動かない理夢の上履きを脱がせてそれを渡した。
理夢は戸惑いながらもそれを履けばフイット感に満足したそぶりを見せた。
「あの、一体何が起こってるんでしょう。ほとんどの人が動いてないなんて」
答えが聞けるとばかりに懇願した目をそれぞれに向けたけども、誰もその質問に答えられるはずがない。
大志もわからないと説明し、ミーシャは理夢の変な態度を記憶喪失扱いした。
広瀬は何か言いたそうに口元をわなわなさせてたけど、それだけだった。
理夢は完全に自分を見失い辛そうにしている。
「何をどう考えたらいいのかわからない。ただ私は……」
理夢の顔から血の気が引いたみたいに怯えるから、私は助けたくて思わず駆け寄った。理夢が以前私を助けてくれたように。
中学一年のとき私はテストを受ければ満点を獲るのも珍しくなく、九十点以下になることはなかった。
筆記テストがある勉強は暗記さえすれば答えられる。授業態度もいいし、取り組む姿勢も人一倍頑張ったお陰でほとんど評価は『5』をもらえた。
だけども体育の成績だけは実技で決まるために好成績を獲るのは至難の業だった。
中一の一学期の成績で『3』をつけられたときはショックを受けてしまった。
それから二学期と三学期は必死に取り組んで『4』になったけども『5』には届かなかった。
中学二年になっても私の努力は続く。
技能で一番を獲れないが、全く運動音痴でもなかったので、頑張っていると先生が思ってくれれば、悪い成績にはならないはずだ。それは中学一年の時に学んだ。
だから二年生でも体育の授業は欠席せず、全力で頑張っていた。その横でミーシャは軽々と何でもこなしていて、羨ましいと思ってばかりだった。
そんな時に体育の真田先生が、私に近寄って「和泉はさすがだな。なかなか筋がいいよ」と笑ってくれてすごく嬉しかった。
先生に気に入られれば、プラスになるかもしれない。いい成績を獲るのが難しい教科は計算高くなってしまう。
廊下で先生に会えば、挨拶はきっちりしたし、授業も真面目に参加した。
真田先生は背も高く体育の教師だけあって適度な筋肉がついていてスタイルがよかった。
顔もすっきりとしてイケメンといわれて女子生徒からは人気の的だった。
私も憧れている女子生徒のひとりと思われていたかもしれない。でも実際は興味がなかった。
でも真田先生は違った。
ある日の夕暮れ時の静まり返った校舎、生徒たちはすでに学校を去った後だった。
遅くまで残っていた私は偶然下校時間が重なった真田先生と出会って、学校の門を出る前に少し立ち話をすることがあった。
「和泉、今、帰りか。結構遅い時間になったんだな」
「はい、図書委員の仕事が長引いて」
「そっか、和泉は図書委員をしてたのか」
そんな他愛もない会話をしていると、先生は急に距離を縮めて、声のトーンを下げて言ってきた。
「和泉は、頭はいいし、顔もいい。他の生徒よりも大人だな」
その時の真田先生の目がいやらしかった。
でも深く考えず当たり障りのないように「ありがとうございます」と返した。だけど内心何か納得がいかない。
「どうだ、今からお茶でも飲みにいかないか。もちろんおごるよ」
「えっ」
私はどう答えていいのかわからなかった。なんだかおかしいような気もするが、ここで一緒に過ごしたらもっと先生と仲良くなってプラスになる気もする。
でもそこまですべきことなのか、判断を下せずに困っていると、理夢が後ろから現れた。
「あっ、和泉。それに真田先生も。こんにちは」
フレンドリーに笑おうとするが、どこか引きつって無理をしている。
理夢は勇気を出して声を掛けている感じがした。でもそれがありがたかった。
「おう、えっと、佐野だったな」
「私みたいな地味な生徒でもちゃんと名前覚えてくれるんですね。嬉しいです」
「あ、当たり前だろ。生徒には平等だ。ほら、お前たち、もう遅いから早く帰りなさい」
真田先生の態度が急によそよそしくなった。先ほど私を誘った事は冗談だったと言いたげに教師を演じているようにも見えた。
「はい。先生も仕事で疲れてますもんね。じゃあ、先生、失礼します。和泉、一緒に帰ろう」
理夢は私の手を引っ張って前を歩く。
「おう、気をつけてな」
先生に見送られながら、私たちは頭を下げて校門を出た。
理夢は暫く話さなかったけど、学校が離れたところで大きく息を吐いて私に振り向いた。
「和泉、真田先生に弱みを見せちゃだめだよ。あの先生、そういうところ利用するらしいから」
「えっ?」
突然のことに私は驚いた。
「和泉は体育の成績を良くしたいから先生に近づいているって、絶対先生にばれてるよ」
「なんでわかるの」
私は理夢の口からそんな事を言われてびっくりした。だけど、理夢は私を心配して私を守ろうとしてくれている。理夢の目が潤んでいたからだ。
「和泉は先生のいいなりになるような子じゃない。体育の成績だって実力で獲れるって。何もミーシャのように早く走らなくてもいいじゃない。バレーボールの試合では和泉がいるチームは必ず勝つんだから」
それを聞いて私はふと肩の力が抜けていった。
「和泉は頑張り過ぎだと思う。いつか倒れちゃわないか心配。でもそれもまた和泉の信念だから、そこまで自分に厳しくなれる和泉を私は尊敬してるんだけどね」
理夢と一緒にいると気持ちが和んで目頭が熱くなっていく。
「理夢、ありがとう」
「ううん、私の方がありがとうだよ」
素直にお礼を言われるのが恥ずかしかったのか、理夢はへへへと笑って誤魔化した。
理夢にあの時会わなかったら、私は真田先生に流されるままお茶に付き合ってたかもしれない。あのいやらしく見つめた目が思い出されて後になって身震いした。
「ところで、理夢は遅くまで学校で何してたの? 部活?」
軽く質問したけど、理夢は急に真剣な顔つきになって話を逸らす。
「ねぇ、和泉はドリームキャッチャーって知ってる?」
「うん、知ってるけど、それがどうしたの?」
それを訊いたとき、理夢の眼差しは深く私を捉えていた。
「それが学校にあるかなって色んなところ探してたんだ」
なぜそんなものが学校にあると思っていたこと自体不思議だったけど、探している理由を聞いても理夢は教えてくれなかった。
そのドリームキャッチャーが二学期になって教室の後ろの壁に飾られた。
理夢が飾ったのかと訊いたけど、リムは首を横に振った。でも嬉しそうだった。
いつか何の意味があるのか問い詰めようとは思っていたけど、記憶がなくなった理夢が現れた今、この異常な世界も含めて絶対にあのドリームキャッチャーが関係あるに違いない。
「なあ、オレたちって元に戻れるのかな」
コーセーが恐れている事を口にした。にやけた顔が泣いているようにも見えた。
大志は一時的なものと楽観的な言葉を呟きながら語尾が弱まっていた。
広瀬は何を考えているのか心が上の空だ。
それを見た大志が腹いせに広瀬に怒りをぶつけている。
言い返せない広瀬の代わりにミーシャが大志を責めたが、広瀬のことまで悪くいう。私はうんざりして口を挟んだけど、却って裏目にでてしまった。
調子に乗った大志は私の下の名前を呼び捨てにしようとする。
「それはダメ、絶対ダメ。和泉で結構。下の名前で馴れ馴れしく呼ばれたくなんかないわ」
むきになってしまった。私は貴子という自分の名前が嫌いだ。
タカコだなんて真ん中のカがなくなればタコになってしまう。
私の姉の名前は花音と名づけられた。
私が生まれたとき、それによく似たように朱音という名前になるところ、母に内緒で祖母が勝手に貴子と戸籍登録をしてしまった。
祖母は今時の名前が好きじゃなく、姉の名前も当然気に入らない。私の名前が姉よりももっと酷いと感じたからだ。
母がそれに気づいたときには遅かった。母も憤って祖母と険悪になり、未だにその恨みは続いている。
母からそれをずっと聞きながら育ち、母と祖母の仲が悪いのは私の名前のせいだと思うとマイナスのイメージしかない。
母も私の名前を呼ぶことに抵抗を持ち、私が一生懸命頑張っても姉と同じようには扱ってくれないのも、この名前が原因だと私は思っている。
そこで姉と喧嘩したときに、タコと呼ばれたことから私はこの名前が益々大嫌いになった。
何がしわしわネームだからだ。人の気も知らないで、この時はミーシャの勝手な憶測にも腹を立てた。
気持ちのままに言い合いしたけども、こんな事をしている場合じゃないとミーシャも思ったのだろう。それ以上の争いは自然消滅した。
「感情に走って争ってる暇はないわ。どうして私たちがここにいるのかその原因をつきとめなくっちゃいけないわ。元の世界に戻るには、この世界に閉じ込められた理由をまず考えるの。それを辿れば必ず打開策があるに違いない」
理夢はきっと何かを知っているはずだ。彼女の記憶さえ戻ればこの世界は元に戻るに違いない。幸いみんなも私の意見に賛同してくれている。
広瀬は何か納得いかない顔をしていたけど、私はそれを無視した。意見をはっきり言わない広瀬が悪い。
教室の後ろに飾られているドリームキャッチャーに視線を向け、私はそれを指差す。
「あそこに飾られているドリームキャッチャーだけどさ、あれいつからあそこにあった?」
私がそういったとき、広瀬は怯えた顔をし、急に落ち着かなくなった。
「私、同じようなのを見たことある」
唯一見覚えがあるものを見たことで理夢は興奮して息を荒くしだした。