***

 不覚だった。敦貴は階段を下りながら、口の端を()んだ。
 感情が表に出ることはあまりなく、ただただ求められたものに応じて顔を変えているにすぎない。しかし、どうしてか絹香の前では自分でも気づかぬうちに心に秘めた感情が漏れてしまう。
 こちらが優位に立っているはずなのに、いつの間にか絹香に立場をひっくり返されているような気がしてならない。今回の旅行も、彼女が買い物に出たがらず、共に出かけるのすら拒むから提案したものであり、妙な意地が働いた。絹香に断られたのが我慢ならなかったのだと改めて思う。
 ──柄にもない。
 また、同時に情けなくなる。絹香の恋人として振る舞おうと意識すればするほど、調子が乱されていく。
「待って、敦貴様……」
 考えていると、背後から絹香がパタパタと危なっかしく追いかけてきた。
「慌てて下りると危ないぞ」
 そう言いかけて振り向くや否や、彼女の足がずるっと階段をすべる。
「っ!」
 短い悲鳴を抱きとめるように、敦貴は腕を伸ばした。彼女は手すりをつかんだが間に合わず、そのまま仰向けに倒れていく。
 敦貴は咄嗟に絹香の後頭部に手を回した。なんとか頭を守ることができたものの彼女に覆いかぶさる形になっており、互いに顔が近かった。
 絹香の白くきめ細やかな肌と、赤く染まった頬紅、大きく見開かれた澄んだ瞳はまるで星空のよう。完璧なまでに美しく、ずっと見ていたくなる。
 その時間、どちらの呼吸も聞こえなかった。息を止めていることに気がつき、ハッと我に返ると敦貴は静かに訊いた。
「無事か?」
 真っ赤だった絹香の顔が瞬時に青ざめる。
「申し訳ありません」
「まったく、怪我でもしたらどうするんだ。ここから医者までは時間がかかるんだぞ」
 絹香を抱き起こしながら、敦貴は苛立ち交じりに言った。しかし、絹香は困惑気味に眉をひそめて笑う。
「平気です。ご心配には及びません。わたしは丈夫なので」
「なにを言ってるんだ。ついこの前、車に驚いて足を挫いただろう」
 鋭く指摘すると、彼女は両目をしばたたかせた。そして、気まずそうにうつむく。
「そうでした……」
 その声があまりにも意外そうなので不審を感じた。
 ──まさか忘れていたわけではあるまい。
 敦貴は冷静に考えた。あの怪我はちょっとやそっとのことで治るものではない。米田の報告にもあったが、いつの間にかすでに完治している。だんだん挙動不審になる彼女を、敦貴は目を細めて見つめた。
「絹香」
 立ち上がる絹香の手首をつかむ。
「君、私になにを隠している?」
「えっ」
 絹香の真っ黒な瞳が揺らいだ。彼女は敦貴の目を見ているが、動揺のあまり言葉を失っている。
「君の足はそう簡単には治るはずがないんだ。正直に言いなさい」
 そこまで言えば、絹香は唇を震わせて怯えた。つかんだ手首までもが震え、その振動を感じた。
「あ……あの、敦貴様……わたし……」
 絹香は赤い唇から呻くような声を漏らす。そして、やはり顔をうつむけた。
 そんな顔をされたら、まるでこっちが脅しているようだ。いや、脅しているのか。彼女にとって、よほど聞かれたくない内容なのだろう。
 敦貴はため息を落とし、彼女の手首を放した。絹香の顔がわずかに上がり、おずおずとこちらを見る。
「もういい」
「申し訳ありません……」
 絹香は声を絞り出した。
 そんな怯えた声で謝らせたかったわけじゃない。しかし、今の自分が彼女にとって脅威なのだと気づけば言葉を諦めるしかなかった。
 敦貴は憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちのままその場から離れ、一階の居間へ引っ込んだ。
 彼女といると、煩わしいほどに心がざわつくのだ。いちいち感情に揺れ、彼女の動向ひとつひとつに敏感になる。他人など、どうでもよかったはずなのに。
 出窓に置いた肘掛け椅子に座り、外へ目を向けた。心のざわつきを静めるため、清らかな緑をぼんやりと眺める。すると、道の向こうから白いパラソルがこちらに近づいてきた。
 目を凝らせば、黄色の華やかなワンピースの少女と物腰柔らかそうな着物の老女がこの別荘に歩いてやってくる。来客の予定はなく、この旅行を知っているのは限られた使用人だけのはずだ。
 敦貴は慌てて外に出た。夏の日差しのせいで蜃気楼(しんきろう)でも見ているのかと思った。しかし、そこにあったのは紛れもなく現実だった。
「あ、敦貴さーん! お久しゅうございますー! 沙栄が参りましたよー!」
 ころころと鳴る鈴音のような声を響かせる矢住沙栄がパラソルを持ち上げて登場した。

 沙栄はニコニコと楽しげな笑みで屋敷の中へ入ってきた。お付きのばあやが疲れた様子だったので、米田に紅茶を作らせている。
 居間のソファに敦貴と沙栄、ばあやが向かい合わせで座った。敦貴が暖炉側に座り、部屋全体が見渡せる。すると、二階からようやく絹香が下りてきた。ちょうど沙栄たちが座る方向に階段があり、絹香と目が合う。彼女はこちらの状況を察したように、ゆっくりと上段へ戻っていった。
 そんなヒヤヒヤしたこちらの状況をつゆ知らず、沙栄は愛嬌(あいきょう)を振りまいてくる。
「うふふ。お会いするのはわたくしの誕生日会以来ですね。ちょうど、わたくしもこっちの別荘に滞在しておりまして。ご挨拶に参りましたの」
「そういう時は事前に連絡を入れてほしいところだな。いっさい聞いてないが」
「なんて言うんでしたっけ……あぁ、そうそう〝サプライズ〟ですわ!」
 沙栄が元気よく前のめりになる。敦貴は表情を動かさないよう努めた。沙栄を困らせるということは、自分も困るということ。面倒は避けたい。
 敦貴は話題を変えた。
「髪を切ったのか」
 沙栄はつややかでまっすぐな黒髪を肩の位置で切り、内巻きにしている。先日、会った時は大切に伸ばしていたはずだが、急な様変わりに驚く。
 すると、彼女はあっけらかんと答えた。
「えぇ、わたくしにはこっちの方が楽で。都会的でおしゃれでしょ? うふふふっ」
「……そうか。それはなにより」
 すると、米田がワゴンに紅茶のポットとカップをのせて運んでくる。よどみのない動作で米田は三人分の紅茶を用意した。英国紅茶は沙栄のお気に入りだ。
「ありがとう、米田さん」
 沙栄が微笑みながら言うと、米田は一礼して下がった。
 濃い眉が凛々しく、ほっそりとした顔立ちの沙栄は絹香よりふたつ年下だが幼く見えてしまう。こうして突然押しかけてくることも含み、彼女の自由奔放さに呆れる。
 敦貴は紅茶をひと口含んだ。上品な渋みがあるダージリンは、やはりストレートに限る。気持ちを切り替えるにはうってつけだ。
 味を堪能してから敦貴は、目の前で紅茶にミルクを流している沙栄に訊いた。
「どうして私がここにいると?」
「敦貴さんのお父上から聞きましたわ」
「……そうか」
 敦貴は苦々しく思ったが、顔に出すまいと懸命に努力した。
 確かに休暇を取ると各方面に申告したが、まさか父にまで届いているとは思いもしない。沙栄の恐ろしいところは、なぜか父と親しいところだ。外堀を埋められているようで、ますます気に食わない。
 すると、沙栄がいたずらに笑いながら言った。
「懐かしいですわね……昔、ここで敦貴さんと初めて会った時のことを思い出します」
「そんなこともあったな」
「はい。あれはわたくしがまだ四つくらいのことでしたね。敦貴さんは十三歳でいらっしゃいました。わたくしがあまりにもわがままなものですから、敦貴さんが怒って口をきいてくれなくなって……悲しくて泣きわめいてしまいました」
 そう言って、沙栄は舌を小さく出した。
 敦貴はソファの背にもたれた。思えば、沙栄を泣かせたあの日から、彼女に苦手意識を持ってしまったのかもしれない。今も昔も変わらずにいるつもりだが、やはりあの頃の自分も幼かったのだと認識する。
 そうして懐古にふけると会話が持たず、沙栄が勝手に話題を変えた。
「ねぇ、敦貴さん。いま、御鍵家のお嬢様がいらっしゃるんでしょう?」
 思わず耳を疑う。
「その話は誰から聞いた?」
「敦貴さんのお母上ですわ」
「……そうか」
 敦貴は頭を抱えそうになった。おそらくあの邸で誰かが情報を漏らしているらしいことを把握する。それが誰なのか気になった敦貴は、目線だけで米田に合図した。脇に控えていた米田がすぐに外へ出ていく。東京の長丘家へ戻り、探るように手配した。
 そんなやり取りに構わず、沙栄は好奇心たっぷりにせがんでくる。
「一緒に来ていらっしゃるのですよね? わたくし、ぜひお会いしたくて参ったのですよ」
 そこまで知られているならば隠し立てする方が怪しくなる。敦貴は仕方なくソファから立ち上がった。
「少し待っていてくれ。呼んでくる」
「はい!」
 彼女の元気な声を背にし、敦貴は素早く階段を駆け上がった。
 絹香は二階の部屋でジッと息をひそめていた。そんな彼女に沙栄の相手を頼むのが、わずかに心苦しい。また、先ほど威圧的な態度をとったことが気まずく、まだ顔を合わせたくない。
 深呼吸してノックする。「はい」と声がかかり部屋に入れば、絹香は落ち着き払った様子でこちらを見ていた。微笑をたたえたその面持ちは仕事をするために気合いを入れたようである。
「すまない。沙栄が来た」
「やはりそうなのですね……まさか、こんなことが起きるとは……」
 絹香は物わかりがよく、こちらの状況を把握したように苦笑を浮かべる。敦貴は髪をかき上げ、脱力気味に口を開いた。
「しかももっと悪いことに、君に会いたいそうだ」
「まぁ……それは、想定外ですわね」
 絹香は眉間にシワを寄せて渋面になった。
「あぁ。なんでも、うちの母から君のことを聞いたらしい。この情報を漏らしたやつが長丘家にいる。だが、沙栄の様子からして、君が私の恋人役であることは知らなそうだ」
「では、わたしはどうしたらよいのでしょう?」
「おそらく話し相手でも欲しいんだろう。この別荘に泊まらせることはないから、適当に話を合わせてくれないか」
 すると、絹香は両目を細めて静かに言った。
「承知しました」
 絹香はすっと立ち上がり、表情を強張らせた。感情を押し込めて従順に尽くしてくれるのはありがたいが、彼女の心が見えなくなるとこちらが困ってしまう。
 敦貴は悟った。今、自分は人生で一番気が動転していると。

 ***

 矢住沙栄とはどんな人物か。
 絹香は先ほどあった敦貴との出来事をいったん、頭の中から放り出して務めを果たそうと居間へ向かった。
 黄色のワンピースに、ふわふわと愛らしい短い内巻きの髪型をした少女がいる。
 彼女は振り返って絹香を見た。そしてキラキラと好奇心旺盛に目を輝かせ、立ち上がるや否や駆け寄ってきた。
「絹香さーん! お会いしたかったです!」
 大きく両手を広げて絹香を包み込むように抱きしめる。
「あ、あの……!?」
「ハグです、ハグ! きゃー! 本当にお人形さんみたいにかわいらしい人!」
 あまりのはしゃぎぶりに絹香は思わず敦貴を見たが、助けてくれそうになかった。米田もいない。
「初めまして、矢住沙栄です。お話に聞いていたとおりの人でよかったわ。わたくし、長丘家の方に聞いたんですの。御鍵家のお嬢様が敦貴さんの元で花嫁修業をなさってるって。ぜひともお話がしたかったんです!」
 ペラペラとなめらかに話をする沙栄に、絹香はなんと答えたらよいか困った。気の利いた言葉も思いつかず、ただただ口の端を持ち上げて愛想笑いするしかない。
「そう、なんですか……お会いできて光栄です、沙栄様」
「やだ、沙栄様だなんて。〝沙栄ちゃん〟って呼んでくださいな。わたくしも〝絹香ちゃん〟ってお呼びしますね。うふふふっ」
「それは……あの、えーっと」
 ここは従うべきか。敦貴を見ると、彼は能面さながらの無表情を貫いていた。なにを考えているのかさっぱりわからない。
 絹香は渋々「沙栄様」とは呼ばずに「沙栄さん」と呼ぶことにした。一方で沙栄は勝手に「絹香ちゃん」と呼ぶので任せるしかない。
 沙栄は絹香をソファに座らせて、ばあやと共におしゃべりを始めた。同時に、敦貴はまるで影のようにひっそりと気配を消す。
 ──なんて人……。
 絹香は心の中で盛大に嘆いた。敦貴の非情さが恨めしい。
 話には聞いていたが、この矢住沙栄という人物は確かにかわいいものが好物であるかのような、ふわふわと夢見がちな花の乙女だった。最初はなにか企みがあって、絹香を探っているのかと思っていたが、そんな素振りはいっさいない。疑うことを知らぬ純真無垢(むく)そのものである。
 彼女は好きな菓子や物語などの話題を振ってきた。
「ワッフル、ご存知? あ、知ってるのね! おいしいわよねぇ、癖になっちゃいそう。もちろん、おまんじゅうも大好きよ。でも、(あん)が重たくって、何個も食べられないじゃない?」
 そういえば、彼女は御鍵家と同じく貿易会社の娘だ。幼い頃から西洋文化に敏感で、こういった話をする機会に飢えていたのかもしれない。
 それから外国土産の話が続き、沙栄はとくに西洋のおとぎ話が大好物らしかった。サンドリヨンや人魚姫などは絹香も一時期、憧れたので懐かしくなる。なんとなく話を合わせていると、沙栄の勢いに拍車がかかった。同志を見つけたとばかりにはしゃいでくれる。
「あぁ、やっぱり同じだわ。ほら、ばあや、言ったでしょう。絹香ちゃんはわたくしととても相性がいいのよ。絶対にそうだと思ってたわ」
 興奮気味に話す沙栄に、ばあやは淑やかに「そうですわね」とうなずく。絹香は照れ隠しに笑った。
「絹香ちゃん、笑うととても美しいわ。あぁ、素敵。もっと笑ってほしいな」
 その期待には応えられない。絹香は袖で口元を隠した。
 自分では意識していなかったのだが、人見知りのようだ。いや、沙栄のような女性に出会ったことがないからではないか。だが、それもしっくりこない。
 絹香は遠く離れた記憶を掘り起こした。
 沙栄は亡くなった母によく似ている。奇妙な安心感と戸惑いはおそらくそのせいだろう。
 懐かしさで鼻の奥がうずく。それを悟られまいと、必死に心を押し殺していた。

 それから、沙栄は敦貴との婚姻のことや敦貴との思い出を語って聞かせてくれた。そのほとんどが米田から聞いていたものや彼との文通で知ったことばかりだった。
 やはり敦貴は素顔や本心を誰かに見せたがらない性格らしいことが読み取れる。
 彼女が繰り出す言葉の端々に、敦貴への尊敬と好意がにじみ出ていた。熱烈な恋心を抱いていると確信する。
「敦貴さんはおとぎ話の王子様みたいなの。とても素敵な方でしょう? 優秀で地位もおありで、女の子の憧れですわ。そう思いますでしょう?」
 彼女は何度もそう言うが、絹香は敦貴が〝王子様〟だとは思えなかった。
 確かに敦貴はおとぎ話の王子のように美しい。だがその実、他人の心を読んで先回りし、相手の口を塞ぐ悪癖の持ち主である。意地悪とでも言うのだろうか。
 絹香はそう解釈している。それとも、敦貴は沙栄のことを本当に大事に想っていて、沙栄だけに素顔を見せているのかもしれない。
 そう考えると、自分の存在がいかにも使用人と同じ身分であるということがまざまざと思い知らされた。
 ──わたし、なんでがっかりしているのかしら。
 買い物や旅行に連れていってもらっただけで、何度も助けてもらっただけで、自惚(うぬぼ)れてしまっていたのかもしれない。律していたつもりが、いつの間にか隙だらけだったことに気がつく。
「絹香ちゃん?」
 ハッと顔を上げる。沙栄が心配そうに見ていた。いつの間にかどんよりと表情を曇らせていたようだ。
 すると、ようやく背後から敦貴が現れた。
「昼寝をしていた。君たち、随分と打ち解けているようだな」
「あら、敦貴さん! 聞いてください。わたくし、絹香ちゃんと仲良くなりましたよ!」
「そうか。それはなにより」
 そっけない態度なのは相変わらずだ。それでも沙栄は気に留めることなく話を続けようと口を開く。しかし、それは敦貴によって遮られた。
「もうすぐ夜だ。沙栄、別荘まで送ろう」
「えぇっ? もう!? まだお話したいことがたくさんあるんですのよ」
「ダメだ。父上に叱られても知らないぞ」
「それは困ります! はぁ……仕方ないですわね……絹香ちゃん、またおしゃべりに付き合ってね」
 敦貴に背中を押されながらも、沙栄は絹香に振り返って言った。畳んだパラソルを小さく振ってくる。
 その笑顔が憎めないから困る。絹香は小さく手を振り返した。沙栄の声は夕焼けの中でもよく通り、背中が見えなくなるまでなかなか気が抜けなかった。
 どうやら歩いていける距離に泊まっているらしく、敦貴が沙栄に寄り添って歩いていく。それを見届けて、絹香はソファにしなだれかかった。
 どっと疲れがあふれていく。こんなに気を張る一日は久しぶりだ。御鍵家での日々よりも格段に楽だが、別の緊張感がある。しばらく呆けたように天井を眺めて、沙栄との時間を思い返した。
 親しみやすく、男性へ素直に甘えられるかわいい女性(ひと)。きっと、世の男性は明朗快活な女性を好ましく思うはずで、沙栄はすべてを兼ね備えている。確かに敦貴と正反対な性格だが、それゆえに大事にしなければと気にかけているのも無理はない。ただ、一日相手をすると疲れてしまうことは身に()みてわかった。
「明日も来られたら身がもたないわ……」
 そうしてひとりごとを天井に投げていると、ほどなくして敦貴が戻ってきた。
「安心しろ。沙栄は明日東京に戻るそうだ」
 聞いていたのだろうか。思わず身構える。
 しかし、敦貴はなに食わぬ様子で絹香の前に座った。その顔は、夜に見せる時のような無気力なゆるみがある。
「悪かった。急にこんなことを頼んで」
 また心を読んだのかと思ったが、あまりにも素直な謝罪だったので驚いてしまう。
「沙栄は、ああして一日中ずっとしゃべっている。そのどれもが脈絡ないもので、予測不可能。対応が難しい」
「でも、未来の奥様でしょう? 避けては通れない道ですよ」
「あぁ。だから、君で慣れようとしているんだ。そもそも、女性と長時間過ごすというのは、私にとって苦難でしかない」
 敦貴は肘掛けに腕を立て、疲れたように顎をのせた。絹香をジッと見つめている。対し、絹香はなんと言えばよいかわからず、目のやり場に困っていた。
「……君はおとなしくて可憐だな」
 ふと、敦貴が呟いた。
「沙栄みたいにおしゃべりじゃなく、静かで落ち着きがある。隠しごとは多いようだがな」
「昼間のこと、怒ってらっしゃいますか?」
「いいや。ただ、気になってはいる」
 敦貴はそっけなく答えた。
 あの時、彼は真に迫る様子で絹香に問いかけた。
 足の怪我が治っていることに、敦貴が不審を抱かないはずがない。迂闊だった。どうにかこの異能を悟られない方法はないものだろうか。
 考えていると、敦貴が眠そうに窓の外を眺めていた。橙色(だいだいいろ)の太陽が差し込んでくる。(かげ)る横顔が気だるげで、なにを考えているかわからない。その横顔に不覚にも見惚れてしまう。
 一瞬、彼の頬に触れたいと思ってしまった。そんな(よこしま)な思いをすぐにかき消すと、敦貴が視線だけをこちらに向けた。
「絹香」
「はい……」
「恋慕とは、なんなのだろう?」
 敦貴の問いに、絹香はなにも答えられない。ほんの一ヶ月前は偉そうに誰かの恋物語を語っていたが、なんだかわからなくなってくる。
 恋慕とはどんなものなのだろう。これをもし恋だというのなら、確実に危ない橋を渡っている。自覚したら戻れない。だから、絶対に認めるわけにはいかない。
 彼を好きになってはいけないのだ。彼の仕草にいちいち感情を乱すのはよくない。
 絹香は平常心を心がけた。それが返答に迷っていると捉えられたのか、彼はため息をついて目を閉じた。絹香もただ座って太陽の傾きを眺め続ける。
 そんなゆるやかな時間が終わるのは、それから数分後のことだった。
「……食事にしよう。そろそろ米田も帰る頃だ」
 そういえば、米田の姿を随分と見かけていない。
「米田さんはどちらへ?」
「彼には仕事を頼んだ。沙栄に絹香のことを漏らした者を探っている」
「そうだったんですね……確かに、わたしなんかのことを長丘家の外へ知られたら一大事ですわ」
「まぁ、それもあるが。その前に君の身の安全を確保しないといけないだろう。私のわがままで付き合ってもらっているのだから、全力で君を守りたい」
 敦貴の無感情な声が強い言葉を放ち、絹香は困った。ここで頬を染めたらいけないとわかってはいても、心臓がトクンと音を鳴らして体温が上昇する。
「絹香、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
「違います! もう、敦貴様ってば、そういうことを平気でおっしゃるのですね。心臓が持ちませんわ」
 絹香は顔を覆った。しかし敦貴には不可解だったらしく、真剣な表情で訊いてくる。
「どういう意味だ?」
「それは……」
「私のせいか」
 なおも真剣な調子の敦貴である。絹香はたまらず早口で噛みついた。
「そうです。敦貴様のせいです。あなたのような殿方は路傍に咲く雑草に、無償で厚意を振りまいてはなりません」
 チラリと見上げると、敦貴が口元に手を当てていた。困ったように眉をひそめている。
「礼儀だと思っていたんだが、いけないことだったのか……」
「いえ、いけないことではないんですけれど。敦貴様は乙女の心をわしづかみにする力を持っています。自覚なさった方がよろしいかと」
 ──勘違いしてしまいますから。
 なんとか濁そうとするも、敦貴は生真面目に思案していた。そして涼やかに訊く。
「ふむ。それは、つまり君も私に惚れているということかな?」
「……っ!」
 絹香は頬から蒸気が出そうになるほど熱くなった。
 すると、敦貴の細い目が大きく開いた。しばらくふたりで見つめ合っていたが、いたたまれなくなった絹香はソファから下りた。
「食事の支度はわたしがします!」
 そう宣言し、台所へ飛び込む。
 彼の驚いた顔がわずかに赤らんでいた。それが意外で、とても愛しく感じる。
 ──どうして、そんな顔をするの?
 胸の奥がぎゅっと切なくなり、絹香は台所の壁をパタパタ叩いた。