***

 華道の家元が邸に見えるまで、絹香は黙々と新聞を読んでいた。
 今日も世間は政府への批判や事件などを取り上げている。それらを真面目に読み(ふけ)り、恋愛小説の枠は最後にとっておく。もっぱら、好きな食べ物を最後に食べる性格だ。
 新聞で連載中のそれは、実話を元に作られたような糖分たっぷりの熱烈な物語だった。身分違いの恋をする男性の主人公が、儚げな美少女との逢瀬(おうせ)で悟る一場面。物語は佳境で、できることなら最初から読んでみたかった。
「ふむ……恋愛とはいつだって見知らぬ男女から始まり、いつの間にか落ちているもの……」
 感銘を受けた文章を紙に書き写す。
 その時、部屋の前で猫が踏みつけられたような(うめ)き声が聞こえた。不審に思い、戸を開けると、洗濯物を落とした侍女がうずくまっていた。苦悶(くもん)の表情には脂汗が浮かんでいる。面長の侍女は今朝会った恒子ではないようだ。
「大丈夫ですか!?」
 駆け寄ると、侍女はふるふると首を振った。
「こ、腰が……外れたみたいに、痛いです」
「まあ、大変だわ。ぎっくり腰かしら」
 絹香は辺りを見回した。助けを呼べる人はおらず、絹香はおろおろと侍女の腰に触れた。
「この辺りが痛む?」
「は、はい……っ」
「大丈夫よ、すぐに楽にしてあげるわ」
 尾てい骨より上の少し丸みのある部分に手を当てると、侍女は声にならない悲鳴をあげた。よほど痛むらしい。
 絹香は手のひらに熱をこめた。優しくさすると、侍女の顔がわずかに和らいでいく。
「お、お嬢様、いったいなにを……?」
「少しさすっただけよ。どうですか? 痛みは引きました?」
「えぇ……あれ? 軽くなった」
「じゃあ、もう大丈夫ね」
 絹香は急いで立ち上がり部屋に引っ込んだが、ふと思い立ち戸から侍女の様子をうかがった。
「あなた、お名前は?」
「はい、ゐぬ(いぬ)と申します」
「ゐぬさん。覚えたわ。念のため、お医者様にかかってくださいね。お大事に」
 そう言って、返事も待たずにピシャリと戸を閉めた。
 異能を使ってしまった。今さら緊張して動揺する。しかし、痛みに苦しむ人を黙って見過ごせるはずがない。彼女が黙っていてくれたら幸いだが……。
 絹香は迂闊(うかつ)な行いを反省した。これは敦貴に知られないようにしなければと、決意はいっそう固くなる。
「お嬢様、ありがとうございました」
 戸の向こうから、ゐぬが言う。その声は見違えるほどにすっきりしている。
 絹香はゆるゆると障子に口を寄せた。
「このこと、他の人には内緒ですよ」
 それが届いたかどうかわからない。ゐぬは落としていた洗濯物を回収し、部屋の前から去った。

 それからとくに問題もなく、お華の稽古の後は地味な灰紫色の着物で過ごしていた絹香は敦貴が戻るまで自室で繕い物をしていた。
「絹香」
 障子戸の向こうから、敦貴が声をかけてくる。
「はい!?」
 つい返事が裏返った。化粧はしていたものの、まさか彼が部屋を訪ねてくるとは思わず、絹香は慌てふためく。
「入るぞ」
「はい、どうぞ……」
 返事をするなり戸が開く。敦貴は仕事から帰ってすぐ部屋へ来たようで洋装のままだった。相変わらず無感情な顔でこちらを見つめている。
「お帰りなさいませ……お出迎えもせず、申し訳ありません」
「いや、いい。手紙を書いたから、先に渡そうと思ってな。着替えと食事を済ませたら呼ぶから、今夜も部屋に来なさい」
「しょ、承知しました」
 絹香は両目をしばたたかせながら答えた。彼はしっかりと封をした白い封筒を寄越し、そっけなく部屋を出ていく。まさか敦貴が一日で手紙を書いてくるなど思いもせず、絹香は動揺した。
「……仕事がお早いことで……えぇっと、先に読んでしまってもいいのよね」
 あの言い方からして、そう解釈してよさそうだ。
 絹香は丁寧にペーパーナイフで封を切り、便箋を出した。

 御鍵絹香様
 五月雨に潤う入梅の候、貴姉におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 今朝よりいただいたお手紙、拝読しました。
 一家団欒の情景が、貴姉の筆からありありと伝わってきました。
「まずはお互いを知ることから」とのことで、私も筆をとってみたものの、これといって幸福な思い出などなく、つまらぬ話となりましょう。
 私は愛にあふれた家庭で育ったわけではなく、屋敷を一戸与えられてからは米田をはじめとした使用人と暮らしていました。
 幼い頃から家庭教師をつけ、学問や礼儀作法などに励み、幼稚舎から大学まで学業成績では上位を修めてまいりました。他、音楽、剣術、武術、馬術なども(たしな)みましたが、ただただ己を磨くための稽古事でありました。
 これらの師範や専門家を呼びつけることは可能ですので、入用でしたら遠慮なく申し付けください。
 長丘敦貴

 こちらは便箋三枚を入れたが、敦貴は一枚で事足りるほどに少なかった。
 しかし、彼はとても生真面目で、筆も丁寧なものだった。普段の威圧的な態度とは大違いである。この落差に絹香は驚き、思わず頬が緩んでしまった。
 手紙をもらうのはいつだって嬉しいものだ。今までは弟の一視くらいしか相手がいなかったので、新鮮な気分を味わっている。
「案外、楽しいものだわ……ふふふっ」
 ひとつ屋根の下で、遠距離の恋愛ごっこをしている。そう思うと、胸の奥が弾むようで、久しぶりに浮かれた。
 絹香はクスクスと忍び笑い、髪をとかした。彼に会うのが、昨日より幾分も楽しみになる。
「絹香様、よろしいでしょうか」
 障子の向こうから侍女の声が聞こえる。ゐぬだろうか。
「はい」
 返事をすると、戸を開けたのは恒子だった。今朝、彼女はきちんと新聞を持ってきてくれたのだが、依然として仲良くなれそうな気配はない。今も恒子は固い表情で絹香に言う。
「敦貴様がお呼びです」
「わかりました。すぐに向かいます」
 絹香は手紙を文机の上に置いた箱へ仕舞い、身なりを整えて部屋を出た。
 敦貴となにを話そうか。手紙のことに触れてもいいのだろうか。いや、手紙は手紙だけの会話にとどめておこう。
 絹香は高揚するあまり廊下を急ぎ足で進んだ。
 敦貴の部屋へ向かう間、幾人かの使用人たちとすれ違い、その中にゐぬもいた。元気そうでなによりだ。
 彼女たちが膳を片付けているところを見るに、敦貴の食事は済んだのだろう。
 絹香は呼吸を整えて、敦貴の部屋の前に正座して声をかけた。
「敦貴様、絹香です」
「入れ」
 すぐさま彼の声が障子戸の向こうから聞こえ、絹香は静かに戸を開けた。
 彼は文机に向かって座っており、絹香に背を向けていた。振り返らない。そんな凛々しい背中に、おずおずと話しかける。
「敦貴様、お手紙ありがとうございました」
「あぁ、読んだか」
「はい。楽しく拝読いたしました」
「楽しく? つまらんものだったろうに。物好きなことを言う」
 敦貴の背中は気を抜いたように小さく丸くなった。そして、彼は眠たそうにこちらを見る。
「まぁ、最初のうちはあんなものかと思ったが……初手で切り捨てるほどのことではないからな。明日もよろしく頼む」
 その言葉の意味がよくわからず、絹香は首をかしげた。
「初手で切り捨てる、とは?」
「君の話がつまらなかったということだよ」
 すかさず敦貴は抑揚のない声で言う。絹香は頬を引きつらせ、顔をうつむけた。
「そう、でしたか……つまらなかったのですね……申し訳ありませんでした」
「いや。こちらが勝手に期待をしていただけだった。構わん。初めから期待を上回る仕事ができれば世話ないさ」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
 他に言葉が見つからず、結局は謝るしかなかった。
 返事をもらっただけで舞い上がっていたが、敦貴はただ礼儀として返事をしただけにすぎなかったのだ。
 絹香はすっかり消沈した。対し、敦貴はのんびりとあくびをする。
「案外、難しいものだな。恋愛というのは」
「……お言葉ですが、恋愛は学問やお稽古事によって身につくものではありません。いつだって見知らぬ男女から始まり、いつの間にか落ちているものなのです」
 絹香はもどかしくなり、つい厳しい言葉を投げかけた。今日の新聞に寄稿された他人の恋物語から引用しただけである。
 これに、敦貴が片眉を上げて反応した。
「ほう。君、新聞を読むのか? それは今朝の連載小説の一節だったはずだ」
「え? はい……」
 彼もあの小説を読んでいたことに驚いたが、それよりもまず恥ずかしさが込み上げる。
「叔父の家では誰よりも早く起きて、こっそり読んでおりました。申し訳ありません」
「女が新聞なんて」と蔑まれるに違いないと覚悟したが、彼はただただ感心げにうなずいていた。
「謝ることはない。それにしても変わった趣味を持っているな」
「俗世とのつながりが欲しくて……これくらいしか楽しみがなかったのです」
「なるほど。あの家じゃまともな教育を受けることもできないだろう。学校も退学させられたのかな? あの叔父上なら『女に学問は不要』と熱弁を振るったに違いない」
 容易に言い当てられ、絹香は挙動不審に目を泳がせた。一方で敦貴は切り込むように迫ってくる。
「なにを恥ずかしがっている? 私に恋愛がなんたるかを教えようと意気込んでいたんじゃないのか?」
「……こ、心を読まないでください」
 絹香はそれだけ返した。一方、敦貴は悪びれることなく鼻で笑った。
「慣れてくれ」
「慣れてしまったら、心を閉じます」
 意固地になって生意気な口を叩くと、敦貴はからかうように片眉を上げた。
「うちの使用人たちはそうしているぞ。心を読まれたら困るような後ろめたさがあるから悪いんだ」
 絹香はまじまじと彼を見つめた。こうなったら失礼ついでに訊いてみよう。
「敦貴様って……ご友人はいらっしゃいます?」
「いない」
 ──でしょうね。
 絹香は呆れた。そのわずかな感情も敦貴は読み取っていく。
「そんなもの、必要ない。しかし、君だっていないんだろう? 君が学校を退学した後、幾人の学友が心配した?」
「それは……」
 敦貴の言葉に、絹香は思わず怯んだ。
 そんなこと、考えもしなかった。学友たちの多くは良家に見初められて退学し、忙しい毎日を送っている。卒業せずに嫁ぐのが淑女としての格というものである。つながりといえば文通しか手段がないが、文を送る余裕などないだろう。
 黙っていると、敦貴はつまらなそうにため息を落とした。
「今日はもういい。また明日にしよう。寝る」
 無慈悲にも会話の終了を宣言される。絹香は仕方なく引き下がった。
「おやすみなさいませ」
 部屋の戸を閉め、絹香はがっくりと肩を落としたまま部屋へ戻った。
 手紙を書かねば。今の自分には、これしか彼にアプローチする術がない。
 新聞を読むことに興味を示した様子だったから、それについて書いてみようか。時事の話は手紙のネタに事欠かないから、何枚も便箋を使えそうだ。その中で彼の興味を惹くものを探ってみたい。
 絹香は拳を握って、気合いを入れた。
「絶対、楽しんでもらいますからね」
 不敵に満ちた声は誰もいない廊下に響くことなく、静かに夜の月だけが聞いている。上弦の月はさながら、笑うように細める目だった。