長丘敦貴は幼い頃から優秀だった。人間の動向を観察し、場の空気をいち早くつかみ、大人の要望にきちんと応える。それは由緒正しい血筋によるものだろう。
 彼が生まれた頃より父は金融、諸外国との貿易、さらには学問まで幅広いビジネスを束ねる辣腕だった。母は文部大臣の家系に当たる名門華族令嬢であり、自ら教鞭(きょうべん)をとるほどの才女である。そんなふたりの血を色濃く受け継いだのだから、間違いなく優秀である。
 しかし、彼には学友と呼べる相手も、張り合う同志も、羨望する師もいない。生まれついての天才にはごくありふれた家族の形もなく、幼くして与えられたのは巨万の富と確固たる地位。両親と過ごした記憶はなく、使用人たちに囲まれ手厚く大切に育てられた──。
「敦貴様は、人の心を読むのです」
 米田がふと漏らした言葉に、絹香は耳を疑った。
 弟への手紙を出しに行こうと、米田の運転する車で街へ向かっている。
「それは、いったいどういうことですか?」
「言葉どおりです。あの方は(さと)い。異能でも持っているのかと疑う者も中にはおりますが、そのような非現実的なものは皆無です。命が惜しければ妙な勘ぐりはされませぬよう」
 米田の静かな声に、絹香は緊張した。
 すると、彼はバックミラーでチラリと絹香を盗み見る。
「なにも脅しているわけではありません。あなたと敦貴様のことを知っているのは私だけです」
 絹香に使用人は与えられていない。出かけの際に米田をつける程度である。他の使用人に敦貴との契約を知られてはならないためだが、米田だけでも十分だった。
「もっとも、私は敦貴様が誰かに興味を持つことを多少なりとも嬉しく思っております」
 それにしては感情が乏しい。長丘家で過ごすようになって二週間経ったが、どの使用人も表情が変わらない人形のようなので不安に思っている今日この頃だ。それはこの米田も同じで、彼は言葉とは裏腹に沈着冷静で心が読めない。
「ともかく、敦貴様の前で感情をさらけ出すのは厄介です。あの方は人の言葉の裏を見て、こちらの感情を読み取ろうとします」
「そうなんですか……そんな方が慕う許嫁様とは、いったいどんな方なんでしょう?」
 絹香は率直に訊いた。
「名は矢住(やずみ)沙栄(さえ)様。『矢住外貿株式会社』のご令嬢です。敦貴様は対応にお困りのようですが……なにせ、おふたりは愉快なほど性格が正反対で」
 敦貴曰く沙栄は『愛情にあふれた生活をしている』とのこと。確かに正反対なふたりのような気がしてならない。
「しかし、これは沙栄様が生まれた頃から両家の父君が会社の統合を約束するために取り決められました。端的に言えば政略結婚でございます」
 米田の流れるような説明に、絹香は感心した。
「では、沙栄様は幼い頃から敦貴様との婚姻を言い聞かされて育ったのでしょうね。将来を約束されたお相手との婚姻はさぞ夢のようでしょう。敦貴様は王子様ですね」
 もちろん、沙栄にとっての王子様だ。そんな絹香の言葉に、米田は初めて笑った。
「ははぁ、なるほど。〝王子様〟というのは西洋の寝物語に出てくる皇族のことですな」
「えぇ。矢住外貿のご令嬢ならば、知っているやもしれませんね」
 なんとなく想像がつく。絹香もまた幼い頃がそうだったからだ。諸外国との貿易を生業にする家柄ゆえ、各国からの嗜好品(しこうひん)や工芸品、現地の読み物などがお土産だった。
 両親のような恋愛結婚も魅力的だが、幼い頃から約束された婚姻というのも乙女ならば誰しも心ときめく夢のひとつ。そんな望みは(かな)わないと知りながら、絹香もつい最近までは素敵な殿方との婚姻生活に妄想を膨らませていたものだ。
 思わずため息がこぼれる。沙栄と同じ貿易会社の令嬢なのに、どうして今はこうも立場が違うのだろう。
「絹香様」
 米田に呼ばれてハッと顔を上げると、車はいつの間にか郵便局の前に着いていた。
「あ、ありがとうございます、米田さん」
「礼には及びません……あの、絹香様」
 彼は少し言いよどんだ。
「なんでしょう?」
「敦貴様は完璧主義です。ゆえに、妻となる方の期待を裏切ることができないのではないでしょうか。そうお見受けします」
「…………」
「ですから、敦貴様をよろしくお願いいたします。こんなことを頼むのは、なんだか筋違いのような気がしてなりませんが」
 米田の声は迷いを含んでいた。これにどう答えたらよいかわからず、絹香は曖昧に笑って車から降りた。
 急いで郵便局へ手紙を預け、長丘邸へ戻ることにする。車に戻ると、米田が静かに訊いてきた。
「お買い物などはよろしいのですか?」
 先ほどのぎこちない空気はすでに失せ、彼は無表情だった。わずかながら時間をあけたおかげで、あの気まずい空気が緩和されたように思えた絹香は気を取り直して答える。
「えぇ。安全な寝床があるだけで十分ですから」
 御鍵家に自身の持ち物はないので、最低限度の着替えのみを携えて長丘邸に飛び込んだ。あの淡い桃色の着物は敦貴のはからいで呉服店に補整を頼んでおり、今日は涼やかな藤色に繊細な花弁が散りばめられた借り物の着物を身にまとっている。上等ながら控えめな色みだ。
 満足げに微笑む絹香に対し、米田は困惑気味に唸った。
「うぅむ……そうですか……」
 物欲のなさを怪しんでいるような、そんな濁し方だ。またも気まずい空気が漂うが、米田はそれきりなにも言わず車を邸へ走らせた。

 平日の暮らしは、御鍵家にいた頃より随分とゆるやかだった。使用人との接触を避けていれば、部屋で裁縫をするか読書をするかのどちらかだ。
 しかし、あくまでも花嫁修業として身を置かせてもらっているので、長丘家へ来たその翌日からお茶やお華の先生らに挨拶をした。手習いをするのは久しぶりなので、週に一度の稽古事が楽しみでもある。
 一方で夜が近づくにつれて焦燥に駆られることがあった。もし敦貴が部屋に来て、恋人としての営みを提案されたら困る。
 だがそれも杞憂(きゆう)だった。彼とはあの商談パーティー以来ろくに顔を合わせていない。会社や学習塾、銀行の理事を務める彼はとても忙しく、出張で家を空けることもよくあるそうだ。身構えたこちらがバカだったと、肩透かしを食らった気分になる。
 米田の話を聞く限り、敦貴はおそらく恋人とはなんたるか考えるのは二の次のようだ。ひとまず許嫁と同年代の女性と暮らしてみた、とそれだけで恋人と認識しているのかもしれない。
 これはきっと、こちらから仕掛けないとダメなのだと悟る。とにもかくにも給金泥棒にだけはなるまいと固く誓う絹香はその夜、敦貴の戻りを玄関先で待っていた。
「ただいま」
 敦貴が戻ったのは午後十一時半だった。
「お帰りなさいませ」
 三つ指をついて折り目正しく深々と主の前に伏す。
「なんの真似だ?」
 彼は使用人に上着と帽子を預けながら言った。
「敦貴様、お話がございます」
 周囲の怪訝な目に耐えながら静かに申し出ると、彼は「ふむ」と冷めた様子で返した。
「聞こう」
 そうして、彼は絹香の脇を通り過ぎる。その後を絹香はしずしずと追いかけた。
 敦貴の部屋は、絹香の部屋と同じく清潔で殺風景だった。ただ、広さが違う。タンスや文机があるが、畳の上には重厚な絨毯(じゅうたん)が敷いてあり、真鍮のポールがある。洋タンスや外国製の大きな姿見も。ふすまの向こうは寝室だろうか。ふすまには蓮の花を模した美しい絵画が描かれている。
 彼は絹香の前でネクタイをしゅるりと取った。
「さっそく妻気取りなのかと思ったが、違うらしいな」
「わたしは妻ではありません。あなたの恋人です」
 すかさず言葉を返すと、敦貴は長く嘆息して自嘲気味に笑った。
「恋人と妻、なにが違うのだろうな。私には女との付き合いはよくわからない」
 そう言う彼のネクタイを、絹香はすかさず使用人のように受け取った。
「まずは着替えてもいいかな?」
「えぇ、どうぞ」
 すでにシャツのカフスを外していながらなにを今さら断りを入れるのかと頭の片隅で呆れながら、絹香はしばし彼の着替えを手伝った。
 敦貴は藍色の着物に替えた。その際、絹香はただただ使用人と同じく平静にその場に居続けた。それを奇妙に思ったのか、敦貴は首をかしげる。
「……絹香」
「はい」
「君は使用人のような動きをするが、それが日常だったのか?」
「……弟の着替えは手伝っていましたわ」
 咄嗟にごまかすも口の端が引きつった。もちろん嘘ではないが、八年も前の話であり言い訳とするには少々苦しい。
 すると、絹香の苦笑いの意図を読んだのか敦貴が鼻で嘲笑する。
「弟……一視といったか。私を幼い弟御(おとうとご)と同じように見ているわけだ、君は」
「そういうつもりじゃありませんけれど」
「では、男の着替えも平気で見られるほど、君の生活は乱れていたわけかい?」
 絹香は憤慨して目を見開かせた。
 出会い頭からそうだったが、彼はこうして他人の心を探り、先回りしてこちらの言葉を塞ごうとするのが癖なのだろう。
 その手には乗るまい。こちらも散々、叔父や叔母の口撃に耐えてきたのだ。
 不満げに見ていると、敦貴の指が絹香の顎をつかんだ。無理やり上を向かされ、絹香の胸はドキッと爪弾いた。
 彼の美しい顔が近い。たちまち心臓が落ち着かなくなる。
「そんなふうに睨んできたのは君が初めてだよ」
 危険な香りを放つ黒目に見つめられ、絹香は頬を引きつらせた。またもや米田の忠告が脳裏をよぎる。『命が惜しければ──』。
「心配するな。私に逆らったとしても君は殺さない」
 その言い方では、絹香以外なら殺すと同義ではないか。肩が震える。
「……敦貴様、わたしの心を読むのはお控え願います」
 声が上ずりそうになりながらも抵抗を試みる。
 一方で敦貴は絹香の反応を楽しんでいるようで、ようやく手を放すと素早く帯を締めた。
「それで? 話というのは?」
 問われてハッと我に返る。
「あ、えぇと、恋人についての提案をしようと……」
「そういえばそうだな。結局、あの強奪パーティーの後から君とはまともに話していない」
「強奪パーティーって……」
「君をあのろくでもない家から強奪するためだけのパーティーだった。肥え太った叔父上の赤ら顔がたまらなく愉快だったよ」
 あの叔父の名誉を守る気概はないが、他人から親族をバカにされるのは不本意だ。絹香が笑わずにいると、敦貴は肩をすくめた。
「そう真に受けるな。さて、恋人か……君はどんな提案をするんだろう? 前の男の代わりに私を利用しても一向に構わないが。それとも、本当に私に愛だの恋だのを教えてくれるのかな?」
 絹香は訂正するのも面倒に思えたが、少々の苛立ちも見せまいと努めて冷静に言った。
「まず、敦貴様が目指す理想の恋人をお教えください」
「理想の、恋人……?」
 彼は初めて日本語を口にする欧米人のように固い口調で訊いた。腕を組んで考える。その場に座り込み、絹香にも座るよう指示する。
 絹香はためらいながら(しと)やかに正座した。
「そうだな……まず、女と言えば許嫁の沙栄が思い浮かぶ。明朗快活、可憐(かれん)で非の打ちどころがない淑女ではあるが、ふわふわと夢見がちで、かわいいものが好物であると体現している女だ」
「乙女の典型ですね」
「あぁ、典型を地でいく愛すべき許嫁だ。そもそも、我が国の淑女たちはそう教育されている。彼女も例に漏れず、良妻となるだろう」
「では、敦貴様もそのような女性がお好みなのでしょうか?」
「……どうだろう」
 彼は初めて言葉に揺らぎを見せた。つまらなそうに目を細める。
「言い寄る女性(ひと)はすべて、私に愛情を求めてきた。だから、彼女らが好む言葉や贈り物をした。が、私の心が動くことはなかった」
「うぅん……難儀ですね……」
 絹香は肩を落とした。
 彼は女性の扱いに慣れているそうだが、諸外国を相手にしても引けを取らない程度の処世術でしかなく、感情を動かすほどの恋慕は経験がないのだろう。
 絹香は自分に置き換えて考えてみた。
 父と母は大恋愛の末の結婚で、ふたりが生きていた頃は愛情あふれた家庭だった。周囲の人間も昔の学友も恋物語が好きで、自然と憧れたものだが、理想の相手というものをきちんと思い描いたことはなかった。
 また、世間の大多数の恋愛は成就しないことを知っている。つい先日も新聞が心中事件を大々的に取り上げていた。
 身分の違う男女の激しい恋。身を滅ぼすほどに愛に(むしば)まれ、死を選んだふたりは悲恋だが、さぞかし幸せだったろう。それをも嘲りそうな彼に、どうやって恋人という存在を教えたらよいのか──眼の前が暗くなる。
「そもそも、どうして恋人なんでしょう? 愛人ではいけないのですか?」
 絹香はかねてより疑問に思っていたことをおずおずと訊いた。すると、彼は至って真面目に答えた。
「愛人は、私がその女性(ひと)を熱烈に恋い焦がれ愛さなければ成立しないと思っている。また、本妻ありきの存在だろう」
「そうですか……だから〝恋人〟なのですね」
 恋人を金で雇う方が効率的と言い張る人だから、合理性のある答えが返ってくると思っていたが、実際に敦貴の〝定義〟は絹香も納得ができるものだった。
 うなずいていると、敦貴は唇を緩めて笑った。
「君は賢いな。話が早くて助かる」
「……賢くありません」
「そうふてぶてしく言うな。褒めているんだから素直に喜びなさい」
「はぁ……」
 今まで(けな)されることはあれど褒められることはめったになかったもので、考え方が少々卑屈になっているのだろうか。
 すると敦貴が気だるそうにまぶたを落とした。小さくあくびする。
「随分とお疲れのようですね」
 思わず言うと、彼はバツが悪そうに顔をしかめた。
「失礼。つい、疲れが表に出た。この時間はいつもひとりでいるから気が抜ける」
「そうでしたか……それは、大変失礼しました」
 これ以上いると、敦貴の機嫌を損ねてしまうやもしれない。絹香は立ち上がろうとした。しかし、彼は「待て」と制止する。
「いい考えがある」
 敦貴が名案とばかりに目を見開かせて言う。
「この時間は、私の話し相手をしろ。それと、手紙のやり取りもしてみよう」
「よ、よろしいのですか?」
 絹香が驚きを隠せず前のめりに訊くと、彼はこくりとうなずいた。
「いかにも(ちまた)で流行りの〝恋人〟らしいじゃないか。もし、これで私の心が動かなければ別の方向を考える。それでどうかな?」
 意外にも敦貴は乗り気だ。なんとなく、からかわれているだけのような気がしてくるが、これは給金泥棒を免れる好機でもある。
「構いません」
 無論、断るはずがない。
 絹香の即答に、敦貴は満足げに「うん」とうなずいた。

 ***

 絹香が部屋を出ていった後、敦貴は彼女が出た反対の方向から自室を出た。そして、米田を呼ぶ。どこからともなく現れる米田は背筋を伸ばして敦貴の前に立つ。
「それで、今日はどうだった?」
 なんの前置きもなく訊くと、米田は目を伏せて静かに言った。
「はい。今日は弟御への手紙を出しに郵便局へ行きましたが、怪我を気にするわけでもなく、ごく自然に振る舞っておられました。やはり完治しているようです」
「そうか……あとは、他になにかあったか?」
「いいえ。街へ出たというのに、買い物などご興味を示されません。食事はされているようですが、お稽古の時間以外は常に思いつめた様子でした」
 米田の報告に、敦貴はしばらく思案した。
「……やはり、彼女はなにかあるな」
 今はそれだけしかわからない。あの家に長く囚われていたからか、彼女の様子は不自然なまでに普通だ。まるで心を偽ることが当たり前のような。ただただ気の毒になる。
「引き続き、彼女を見張るように。また、他に怪しい動きがあったら報告しろ」
「承知しました」
 米田はさっと引き下がり、夜の冷たい廊下へ消えた。
 ホタルがちらつく小池の中、ささやくように聞こえてくるのはカエルの鳴き声で、落ち着いた低音が辺りに立つ。
 敦貴は縁側で涼もうと座った。
 勢いで絹香を保護したが、彼女は確かに今まで出会ったどの女よりも用心深く、とても賢い。そんな彼女を相手にするのを楽しんでいる自分がいる。
 最初は沙栄と同年代の女であり、令嬢であるから恋人役にうってつけであると思った。しかし絹香は不遇であり、ひとつ言葉を間違えれば反発心むき出しの顔をする。それでいて(もろ)い。不思議な女だ。実に興味深い。そう思える自分の心境に違和感を抱くまでがここ最近の習慣になりつつあった。
「はぁ……女に興味を持つとはな……」
 この変化を、敦貴はあまり好ましく思わなかった。
 仕事をさばくのは得意だが、人心を扱うのは面倒だ。他人の心を読み、効率よく物事を運ぶのが有意義であり、相手を深く思いやることは徒労である。だが、沙栄との婚姻を控えた今は腹をくくるしかない。
 (とばり)の中へため息を投げつければ、カエルが驚いて池の中へ潜っていった。
 そもそも、昔から沙栄が苦手なのだ。
 今年で二十五になる敦貴だが、沙栄は結婚適齢期を迎えたばかりの十六歳。年が離れた彼女の相手をするのは最初のうちはよくとも一生となれば気が遠くなる。
 沙栄が周囲から愛されて育っているということは、彼女が幼い頃に会って学んでいた。そんな彼女を他の女性たちと同じようにあしらうわけにはいかない。それにもし沙栄を傷つけるようなことがあったら、自身のプライドが許さないだろう。
 ひとまず絹香を沙栄だと思って接してみればいい。そうすれば、この結婚前の憂鬱も解消できるはずだ。
「しかし、絹香は……」
 攻略が難しい女である。またなにを秘めているのか未だわからない。それがわずかに魅力的ではあるが。
 ──まぁ、この興味も一時的なものだろう。
 そう自己解釈し、敦貴はようやく床へついた。

 ***

 翌朝早く、絹香は目を覚ました。最初の数日はうまく眠れず、朝食の時間に遅れるなどの大失態をしたものだが、長丘家での生活に慣れれば朝日よりも先に起床できていた。
 髪をとかし、こっそり部屋の戸を開ける。使用人たちはもう起きているだろうか。廊下に出て、台所を探す。玄関に置かれた古時計は五時半を指していた。
 使用人部屋は炊事場近くの大部屋だ。まだ眠っている侍女たちもいれば、起き出して支度を整える者もいる。
「絹香様?」
 声をかけてきたのは、ほうれい線が目立つ年増の女だった。ぼんやりとした素朴な顔立ちである。彼女は怪訝たっぷりに絹香を見ていた。
「こんなところになにか御用で?」
「えぇっと……今朝の新聞、ありますか?」
 絹香はごまかすでもなく、正直に要望を告げた。しかし、それがますます侍女の疑心をかきたてるようで、彼女は眉をひそめた。
「新聞ですか? ご令嬢様が新聞をお読みになるんですか?」
 その言い方は咎めの色を含んでいる。絹香は口の端を伸ばして愛想笑いを返した。
「ないならいいんです……朝早くにごめんなさいね」
「いえ。新聞なら、まず敦貴様がお読みになります。その後でしたらお届けしますが。敦貴様もまだ起きてらっしゃらないでしょうから」
「そ、そうですよね。ごめんなさい。朝食まで、ちょっと暇だったから訊いてみただけ……後で持ってきてもらえると助かります。えぇっと、あなた、お名前は?」
 すると、彼女はツンとした態度で名乗った。
恒子(つねこ)でございます」
「恒子さん。では、よろしくお願いします」
「はぁ」
 絹香はすぐにその場を離れた。だが、恒子の不審げな声はしっかり耳に届いた。
「女が新聞だなんて。物好きな令嬢様もいるものだこと」
 その呆れた声に、絹香は怒るでもなく、むしろがっかりしてしまった。
 世間では女性の労働環境や社会進出について声をあげる者が出てきたが、まだまだ根付くほどではない。男女共に〝こうあるべき〟という概念に縛られている。それが悪いわけではないが、少々息苦しさを感じる。
 恒子の態度は冷たかった。早朝の緩やかな時間に顔を出す外部の人間に、不満をあらわすのもわからなくはない。
 主がいきなり囲い込んだ、どこぞの令嬢である。ろくに説明もなく、突然居座り始めた絹香を好ましく思わない人もいるのだ。すべての使用人が敦貴へ忠誠を誓って仕えているわけではないのだろう。
 絹香は素早く部屋に戻り、仕方なく文机に座った。読書もいいが、刺激的な文章が読みたいところだ。
 そういえば昨夜、敦貴からの提案で文通をすることが決定した。彼はどんな手紙を書いてくるのだろう。ほんの少し好奇心が湧く。
「そうだわ。先に手紙を書いてみようかしら……でも、お話することがあまりないわね」
 引き出しに入っている便箋とペンを取る。なんとなく書き出してみた。
「拝啓、長丘敦貴様……少し堅いかしら? 世間の恋人たちはどうやって文通しているの?」
 そもそも、ひとつ屋根の下で行うことでもないような気がする。しかし敦貴は〝巷で流行りの恋人〟を演出したいのだという。口ではそう言っていたが、本心なのかどうか絹香には判然とせず筆が進まない。しかし、仕事である以上は彼に従わなくてはならないのだ。ここでまごついている場合ではない。
「あぁ、逆らえばどうなることやら。首が危ないわ」
 おどけるように自身の首を触ったが、途端におそろしくなる。
 もし、なんらかの制裁により斬りかかられたとして、傷口を触る余裕さえあれば再生は可能なのだろうか。手や足首を切り落とされたとしても、撫でれば治せるのだろうか。
 ──なにを考えてるの、わたしは。
 おそろしいことを考えている自分に寒気がしてくる。
 数年前、霊能力というものが流行ったが、学者や記者がこぞって霊能者たちをもてはやした。しかし、インチキだとされて悲惨な末路をたどっている。絹香の能力は本物ではあるが、いつ誰に露見し、見世物のごとく扱われるか知れたものじゃない。
「あっ、瀬島さん……」
 咄嗟に彼を思い出した。
『化け物』と罵った彼は、絹香の異能を知る人だ。もし彼がこの情報をどこかに流したら、長丘家との付き合いも、さらには御鍵家の存続も危ぶまれる。絹香は苦々しく唾をゴクリと飲んだ。
 ──異能のことを絶対に知られてはいけない。
 便箋をくしゃくしゃに丸める。
 楽しい話題を考えよう。年頃の女性らしくかわいい無邪気な文章を送るのだ。敦貴が求めていることを考えなければ。
 そうして試行錯誤した末、なんとか一枚を書き上げた。

 長丘敦貴様
 梅雨の香りが刻々と訪れてくる今日この頃、敦貴様との文通が楽しみで、待ちきれずに筆を取った次第でございます。
 今日は、僭越(せんえつ)ながらわたしの幼少時代の話をさせてください。まず、お互いを知ることから始めた方がよろしいかと思います。
 さて、わたしは御鍵商社の社長、御鍵明寛と妻、七重の長女として生まれました。
 父は横濱の出身ですが、母は遠い福岡(ふくおか)の大きな工業都市で生まれ育ったそうです。
 父は学生時代、旅行のため九州に向かいました。その際、母と出会いました。運命の出会いです。目が合った瞬間に恋に落ちたと、よく話して聞かせてもらいました。
 父には許嫁がおりましたが、母との婚姻を望み、周囲の反対を押し切って夫婦になったそうです。母は鉄鋼業を営む大工場の娘でした。これが良縁を結ぶこととなり、父の会社や諸外国との貿易をするため、港を手にすることもできました。
 そんなふたりの物語は、なんだかおとぎ話のようですが、こうして大恋愛の末の婚姻もあったということをお伝えいたします。
 父は忙しく、何日も家を空けることが多かったのですが、わたしをいたくかわいがってくださりました。母は明るくひょうきんな性格で、いつも笑顔を満開にしていました。
 弟の一視が生まれてからは、四人家族、仲良く暮らしていました。毎年写真を撮って、家に飾るのが恒例でございました。父と母はとても仲睦まじく、わたしと一視がいる前ではとにかくふたりでわたしたちを楽しませてくださいました。
 異国のパティスリーのワッフルを食べさせてもらった時、父はわずかに顔をしかめました。口に合わなかったようなのですが、そのお顔が大層面白く、お髭にジャムをこぼしてしまっていて、母が大笑いするのを思い出します。

 そこまで読み返し、絹香は思わず鼻をすすった。まぶたの裏に映る在りし日の思い出に、つい涙腺が緩む。慌てて天井を見上げて笑った。
 父のキレのよい大声と、母の明るいころころとした笑い声、幼い一視の泣きべそや、初めて『ねえさま』と呼んでくれたあどけない笑顔……。
 胸にしまっていた思い出が一気にあふれ、絹香は思わず口を押さえた。長年泣くまいとこらえてきた癖で、誰が見ていなくとも涙を流すのは敗北であると心を頑なに縛りつけている。
 家族の思い出を延々と語れば、便箋は三枚にわたった。それを丁寧に三つ折りにして封筒に入れる。これをいつ敦貴へ届けようか。
 そう思った頃、ようやく屋敷の中が慌ただしく朝の支度を始めていた。朝日ものぼっている。今日は曇り空で、いよいよ紫陽花が(つぼみ)を開く時期に差しかかる。
 外の空気を吸おうと、絹香は障子窓を開け放った。すると、廊下の奥から洋服姿の敦貴が通りかかるのが見えた。
「敦貴様!」
 思わず呼ぶと、彼ははたと足を止めた。不思議そうにこちらを見つめる。
「おはようございます」
 絹香の声に彼はわずかにうなずき、居間へ向かおうとする。その後ろを絹香は追いかけるべく部屋を飛び出した。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「お、お手紙を……書いてみました」
「ほう、さっそくか。張り切っているな」
 敦貴は片眉を上げて絹香をジッと見つめた。無感情な彼に、絹香は物怖じせずに手紙を渡す。
「お手すきの際に、お読みくださると嬉しいです」
「あぁ、わかった。ありがとう」
 彼はためらいもせず、まるで取引先からの挨拶状でももらったかのように事務的に受け取った。内ポケットの中に入れ、さっさとその場から去る。
 素直に受け取ってもらえたことにひとまず安心する。情緒は欠片(かけら)もないのだが。
「うまくいきますように!」
 願掛けをするかのごとく、絹香は両手を合わせて敦貴が去った廊下に祈った。

 ***

 まさか彼女から先に手紙を受け取るとは思わなかった敦貴は、内ポケットに入れた手紙を落としていないか、たまに気にしていた。朝食の時も、仕事に出かける時も、会食に向かう時も。
 いつ読むべきかわからず、移動中はその機会をうかがっていた。
「米田」
「はい、なんでございましょう」
「手紙をもらったことがあるか?」
「手紙、ですか……子供の時分に文通相手がおりましたが、たわいもない子供の遊びでしたよ」
 運転中の米田は探るでもなく淡々と答えた。
「まさか手紙の返し方を知らないわけではないでしょう?」
「当たり前だ」
 敦貴はフンと鼻息を飛ばした。しかし、その勢いもすぐに失せる。
「手紙は、いつ読むべきなんだろうな」
「今お読みになればよいでしょう。銀行へはまだ距離があります」
「いや、こういうのはひとりの時に……なんでもない」
 敦貴はため息をついた。柄にもなく戸惑っている。
 米田はなにも訊いてはこなかった。敦貴がまだ物心がつく前から仕えている米田だが、当時から余計な口出しをすることはなく、深入りもしてこない。
 幼い頃からの付き合いであるゆえに、米田も敦貴の心象に敏感だった。
「まぁ、お早めに読むことをお勧めいたします」
 その助言に、敦貴は真面目にうなずいた。

 長丘家が運営する企業は、運送会社、ホテル、学習塾、銀行と多岐にわたり、今日は視察のため銀行の専用執務室にいた。
 頭取との面会まで時間がある。その間、大きな部屋でひとりきりだった。敦貴は執務机の上で、柔らかな和紙の封筒を出した。絹香からの手紙だ。
 米田の助言をもとにさっそく便箋を開き、すばやく目を通す。
 便箋三枚にわたって(つづ)られていたのは、確かにたわいもない子供の遊びのような何気ないものだった。いつも目を通すような公文書などではなく、人間味を感じるものだった。
 また、このようなものを受け取るのは初めてではなかったが、きちんと目を通した試しがない。
 絹香の字は流麗で達筆だが、ところどころ丸みがあり、とくに平仮名は柔らかい曲線を描いている。そこから語られるのは、実際のところつまらない物語だった。
 どこの令嬢も似たりよったりな生い立ちである。沙栄といい、絹香といい、やはり上流階級の娘たちは愛されて育つのだろう。家族の愛情を知らない自分とは、遠くかけ離れた世界に生きている。そもそも愛情とやらが目に見えないものだから、彼女にとってそれがどれほどの幸福であったかも推し量れない。共感も難しい。
 敦貴は鼻で笑い、手紙を机に放った。
「やはり、くだらないな……」
 心を動かすようなものは感じられない。それに、一通の手紙では絹香のことを知る手がかりは少ない。彼女は父母が亡くなった後の話を書いていなかった。
 ──まるで、隠しているようだ。
 では、彼女の本心を引き出すような話を促してみてはどうだろうか。
 そんなことを考え、なんとなく引き出しの中から便箋とペンを出す。そして、絹香の言葉をなぞるように書き出した。

 御鍵絹香様
 五月雨に潤う入梅の候、貴姉におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 今朝よりいただいたお手紙、拝読しました。
 一家団欒(だんらん)の情景が、貴姉の筆からありありと伝わってきました。
「まずはお互いを知ることから」とのことで、私も筆をとってみたものの、これといった幸福な思い出などなく、つまらぬ話となりましょう。
 勝手ながら割愛させて──

 そこまで書いたところで、敦貴はペンを止めた。そして、便箋に大きくバツを書いた。
 紳士ならば女性を立てるようにうまく話をはずませるのがセオリーだ。相手に合わせて会話をする努力をしなければ、おそらくここで文通は途絶えるだろう。なにより、絹香から『手紙もまともに書けない』などと思われては面目が立たない。
 敦貴は天井を仰いだ。
 豪奢(ごうしゃ)なシャンデリアが吊るされた、奥行きのある天井には四隅に(はと)の彫刻がある。壁はすべて重い濃色(こきいろ)で、調度品は黒檀(こくたん)でできている。机とテーブルとソファだけの部屋で、とくに面白みのある風景ではない。外を見やれど、あるのは蒸気機関車の煙に埋もれる土蔵造りや木造建築ばかりだ。
 もう少し情緒豊かな話はできないものだろうか。
 敦貴は腕を組んだ。
 絹香について知りたいことはなんだろう。それはもちろん、父母の死からの生活である。しかし、彼女は話したがらないだろう。また、米田からの報告で悟った彼女の不審な能力──足首の治癒の早さ。もしくは特殊な医術を持っているのかどうか。
 しかし、初手からこんな話を持ちかけるのは野暮だ。そうして消去法で考えた結果、いかにも平凡で間の抜けた質問しか思いつかなかった。
 とにもかくにも書いてみる。ある程度、文字をしたためていけば書き直すのが面倒に思えてきたので、そのまま筆を進めた。
「長丘様、よろしいですか?」
 ドアの向こうから声が聞こえる。ノックの音を無視していたらしく、相手の声音は困惑に満ちていた。敦貴は手紙を折り畳み、封筒に入れた。
「あぁ、入りたまえ」
「お待たせいたしまして、申し訳ございません」
「いや、構わない」
 敦貴はなに食わぬ顔で、ふた回りも年上の頭取を迎え入れた。