高級四輪車は道をすべるように走っていく。緑を抜ければ海が目の前に広がる。暖かい風が途端に冷たい潮風へ変わり、傾いた陽に照らされてキラキラと輝いていた。この景色が近づくにつれ、絹香の心臓は早鐘を打つ。
 そうこうしているうちに、無言のドライブが終了した。米田は迷うことなく御鍵寛治邸へたどり着き、車を停めて事務的に告げた。
「到着いたしました」
「あ、あの、ありがとうございました」
 絹香は思わず運転席に声をかけた。すると、米田はこちらを見ずに会釈した。
 車から降りて手を差し出す敦貴の手を絹香は素直に取り、チラリと運転席を見やった。初老の男性は静かに目をつむったまま動かない。見えていないだろうが、改めてお辞儀した。
 絹香は敦貴に支えられながら小さな鉄門を開けた。敦貴を伴っているので、いつも出入りしている裏手口は使わず表の玄関から入る。ガラスがはめ込まれた木製の玄関にはランプが灯っていた。
 扉を開ける手が少しだけ震える。先ほどあった彼の発言もまだ頭の中に残っており、急激な不安に襲われた。
「た、ただいま戻りました……」
 努めて冷静に声をかけるも、恐怖心を拭うことはできなかった。
 すぐに玄関ホールで若い娘の使用人とばったり出くわす。彼女は絹香の姿を認めるなり、敦貴に挨拶もせず弾かれたように居間へ走った。
「奥様! 絹香さんがお戻りです!」
 後ろに控える敦貴の来訪も一緒に伝えてほしかったが、そこまで気を回せなかったようだ。
「この嘘つき! いったい何時だと思っているのっ!」
 叔母の金切り声が玄関ホールにまで響き渡り、絹香はさっと青ざめた。
 敦貴が懐中時計を出したので、絹香はすかさずその脇から盗み見る。
 現在、十七時。約束の時間から二時間も経過しているので叔母が怒るのも無理はないが、今は敦貴がいるので騒ぎを起こしたくない。凶悪な咆哮(ほうこう)を放ちながら玄関ホールに出てくる叔母を食い止めるため、すぐさまホールの扉を細く開けて懇願する。
「叔母様! どうか、今は抑えて……お客様の御前です」
 それだけ小声で言って扉を開け放つと、疑心たっぷりな叔母が顔を覗かせた。
「あ、あら……その方は?」
 いつも頭ごなしに怒鳴り散らす叔母も、美青年を前にしてはうろたえて勢いをなくすようで表情を引きつらせた。もしくは絹香が男を連れてくることが想定外で、困惑しているのやもしれない。
「こちら、長丘敦貴様です。わたしが事故に巻き込まれてしまい、助けていただいたのです……叔父様にも連絡がいっているかと」
 後ろの言葉は叔母にしか聞こえないよう彼女の耳元でささやいた。
 この時間ならば叔父も帰っている頃かもしれない。しかし、この夫婦仲は冷え切っており、会話もろくに交わさない。
 絹香は焦りと緊張で心臓が張り裂けそうだった。一方、叔母はぎこちなく微笑み、敦貴へ深々とお辞儀する。
「これはこれは、遠路はるばるご足労いただき、誠に恐縮でございます。まさか、この子が長丘様のお手を煩わせるなど……後できつく叱っておきますのでどうかご勘弁を」
 叔母はしどろもどろに言い、彼を邸の中へ案内した。敦貴も会釈したが、帽子を取らなかった。
「主人からも長丘様へお礼をぜひ。さぁ、どうぞお上がりになって」
「失礼」
 敦貴はそっけなく返し、ようやく帽子を取ると、叔母の案内で邸の中へ入った。
 絹香は戸惑うまま、その後ろをついていった。廊下の突き当たりにある居間の扉を開けると、待ち構えていたかのように外行きの服装の叔父がいた。突き出た腹と赤ら顔、灰色の(ひげ)をたくわえた、見た目は父にそっくりな叔父、寛治である。
「あぁ、長丘様。このたびは絹香がお世話になりました」
 敦貴の目の前では叔父も叔母も名演技を披露する。絹香は心底呆れたが、この読心術家の目を欺くことなどそう簡単にはいくまいと考えた。
 敦貴はさっさとソファに座り、叔父たちをジッと観察しながら口を開いた。
「まさか商談パーティーの前にこうして相対するとは思わなかったが、これもなにかの縁でしょうな」
「いやはや、とんでもないご無礼をいたしまして。昔からこの娘はお転婆なところがございましてね。十八となった今でもまだ嫁のもらい手がないのですよ」
 叔父が笑いを交えながら言う。縁談を寄越さないのは叔父の意向だが、絹香は反論できるはずがなく黙って聞いているしかない。
 すると、敦貴も同様に笑った。
「なるほど。では、絹香嬢をうちで預かり、行儀見習いでもさせてみようか。どうだろう? その方が御鍵家のためにもなりそうだ」
 敦貴の提案に、この場にいる誰もが目を丸くした。
「はい? 絹香を、長丘様の元に、ですか?」
 叔父が慌てて問うと、敦貴は足を組んでふんぞり返った。どこまでも優位な彼の振る舞いが、余計にこの場の焦燥を(あお)る。
 叔母は目を白黒させ、叔父も挙動不審になって言葉を探していた。
「そんなそんな、とんでもない……絹香を長丘様の元に置くなど……この娘は礼儀作法もままならないのです」
「だからそのための提案だ。しかし、礼儀作法がままならないのは彼女ではなくあなた方ではないかな」
 滑らかな声音はとても冷ややかだ。絹香は天井を仰ぎたい気持ちに駆られたが、敦貴は構わず後を続ける。
「先ほど、ご夫人が絹香嬢を怒鳴りつけていた。いいや、他にも不審な点がある。絹香嬢の健康が危ぶまれているのではないかと私は懸念しているんだよ」
 敦貴の声は茶会で世間話をするかのように軽やかではあるが、相手を黙らせるほどの力を持っている。
 言葉をなくした叔父は絹香を睨んだが、すぐに不気味な笑みを浮かべた。その意味を読み取り、絹香はおずおずと口を開く。
「も、申し訳ありません、長丘様。そのお申し出はご遠慮させていただきたく……」
 消え入るような声で断ろうとすると、敦貴は目を細めた。
 やや時間を置いた後、敦貴は不満げに「ふむ」とうなずく。
「であれば、仕方ない。君は器量もよさそうだし、私の秘書として働いてもらいたかったのだが……まぁ、気が変わればいつでも連絡したまえ」
 次々と出てくる言葉の意味がわからないが、思ったよりもあっさりと引かれてしまい、絹香は拍子抜けした。
「では、パーティーでまた。その際にはよい返事が聞けるといいのだが」
 そう締めくくって彼は立ち上がり、使用人に持たせていた帽子を取る。
 スタスタと居間を出ていく彼を、叔父たちは見送ることもできないほど放心していた。絹香も同じく(ほう)けていたが我に返り、慌てて廊下に出る。
「あ、あの、長丘様!」
「なんだ。もう気が変わったのか?」
 立ち止まって振り返る敦貴。
「いいえ、そんな大層なお役目、わたしに務まるはずがありません」
 咄嗟に正直な気持ちが口から飛び出せば、彼は眉を曲げて不満をあらわした。
「そうか。残念だ。君をこの家から解き放とうとした私の厚意が無になった」
「はぁ……あの、なぜそこまでのことを……?」
 敦貴の厚意はありがたく恐縮するものだが、手を差し伸べてくれる理由がいまいちわからない。すると、敦貴も首をかしげた。
「紳士たるもの、君みたいな美しい女性が困っているのを放っておくことはできない。さっきもそう言ったじゃないか」
「…………」
 絹香は不信感を抱き、しばし無言になった。これがもし想いを()せる殿方の言葉なら頬を紅色に染めているだろう。だが、彼の言葉はあまりにも淡々としていて熱がない。
「ほ、本気でおっしゃってます?」
「本気だよ。まぁ、初めはこんなにも不遇な令嬢だとは思わなかったが……これで御鍵家の劣悪さが明るみになったな。もっとも寛治氏はクサイと睨んでいたのだが、君のおかげで探偵を雇わずに済んだよ」
 そう言うと敦貴は「クッ」と冷たく笑った。御鍵家の弱みを握るような物言いに、絹香は今度こそ天井を仰いだ。この八年間、家のため会社のためと耐え忍んできたのに、一番知られてはいけない人に知られてしまった。
 絶望のあまり無意識に苦笑を漏らす。すると、彼は絹香の髪を手の甲で撫でた。
「君みたいな美しい女性に憂い顔は似合わない。もう少し自分を大事にしたらどうだ? この髪や着物みたいに」
 絹香はもうなにも言えず「はぁ」と気の抜けた声で返事した。すると、敦貴は残念そうに踵を返してゆっくりと玄関ホールまで歩いていく。その背中をただ黙ってついていくと、彼は絹香に聞かせるようにひとりごちた。
「君を邸に招いて、そうだな……秘書もいいが、私の〝恋人役〟はどうだろう。君はなんだか他の娘とは違って思慮深いようだからちょうどいい」
「こ、恋人役……? あの、それも本気でおっしゃってます?」
 突拍子もない言葉にだけはすぐに反応できた。
 恋人役とはなんだろう。考えてみるも頭が働かず、また後ろからついていくだけでは彼の思考を読むことは不可能だった。
「本気だよ。謝礼も弾む。金で雇う〝恋人役〟だ。こちらの都合だから、乗り気じゃないなら詳細を話す義理もないが」
 それにしては脈絡のない申し出だ。熱烈に誠意を込めた愛の告白ならば喜んで受け入れただろうが、陰気な玄関ホールの真ん中で事務的に告げられては現実味がない。愛の告白ではないのだから当然ではあるのだが。
 顔をしかめていると敦貴が振り返った。帽子の下にある双眸(そうぼう)は真剣そのもので、絹香は困惑するばかりだった。
「とにかく、気が変わったら私の元へ来るといい。この家に死ぬまで尽くすというのなら、なかったことにしよう。あぁ、見送りはここで結構だ。養生するように」
 彼はくるりと踵を返して玄関を出ていった。バタンと扉が閉まるまで、絹香は呆然とする。
 その場にゆるゆるとしゃがみ込むと、思い出したように足首が痛んだ。すぐに触れれば湿布の下にある断続的な痛みが徐々に和らぎ完治していく感覚がした。
「はぁ……」
 だが、その安らぎも束の間で、ため息を漏らすと同時に叔父の怒声が耳をつんざいた。
「絹香!」
 すぐに立ち上がり、乱れた髪と着物を整えながら居間へ入る。
 叔父は絹香を忌々しそうにつま先から頭まで睨みつけた。叔母は主人の手前、黙っているが、威圧たっぷりに絹香を見ている。
「どういうことだ?」
 叔父は口の端を痙攣(けいれん)させながら静かに訊いた。
 しかし、なんと説明すればいいかわからない。答えが見つからず、絹香は顔を強張らせるだけだった。すると叔父は声を荒らげ、洋杖(ステッキ)を振り上げた。その威嚇に(おび)える。
「答えろ! なぜあの若造がお前を欲しがる? お前、さては色目でも使ったのか? え? この卑しい化け物が!」
 その罵声に絹香は身構え、目をつむる。
 しかし、叔父はなにもしなかった。絹香を見下ろし、憎々しげになじる。
「お前など、なんの価値もない。そして、この家を出ることは許さん。これからも永遠に!」
 この家から出られない。その言葉が強く耳に残り、恐怖と絶望に縛られる。
 一視が一人前になって戻ってきたら、この家を去って自立するつもりだった。どこか遠くの家に嫁ぐか、身分を隠して働きに出るのもいいだろう。毎日、罵声を浴びせてくる叔父と叔母は、自分がいなければ幸せなのだと思っていた。
「お、叔父様は、わたしがお嫌いなんでしょう? どうして、わたしを引き取ったのですか?」
 思わず問うが、答えはなんとなくわかっている。だから、彼の口が嘲るように吐く言葉も容易に想像できた。
「お前はこの家の飾り。意思などいらん。ただの人形だ」
 そうだ。自分は社会的体裁のために引き取られただけの人形。理解していたはずだが、改めて突きつけられれば衝撃のあまり全身が震えた。

 話が済んでも、絹香は自室へ行く気にはなれなかった。この家から逃げたい。だが、その術がない。道は塞がれ、どこにも行き場がない。
 台所の丸椅子に座り込んでぼうっと考え事をしていると、敦貴の言葉が脳裏をよぎった。
 ──〝恋人役〟って……。
「ううん。ありえないわ。この家からは出られないんだから」
 急いで振り払う。無駄な希望は持つまい。
 陽が暮れてきたから、そろそろ瀬島が学校から戻ってくる。とにかく彼に相談してみよう。この悲しみを誰かに打ち明けたい。
 そう思っていると、裏口から瀬島が顔を覗かせた。目元には疲労があり、いくらか狼狽(ろうばい)しているよう。だが、絹香の胸中も不安でいっぱいだったので気遣う余裕がない。
「瀬島さん」
「やぁ、ただいま」
「おかえりなさい。あ、あの、お話があるのだけれど」
「奇遇だ。僕もあなたに話があります」
 いつになく瀬島は強い口調で絹香の声を遮った。
 彼の話を聞くべく絹香は先を促した。すると、瀬島は頬を引きつらせながら笑った。
「絹香さん、あの男、誰?」
 唐突な問いに拍子抜けしていると、瀬島は苛立(いらだ)つように眉を吊り上げて絹香に迫った。
「あの男だよ。身なりのいい、あの男。君、今日は東京に来ていたんだね。それで、あの男とどこかへ出かけていたと」
「もしかして、長丘様といるところを見ていたの?」
「長丘──そうか、例の要人か。確か、華族の」
 低く呟くと、彼は肩の力を抜くように苦笑した。そして、絹香を抱き寄せる。
「ちょっと、瀬島さん、なにを……!」
「見ていましたとも。あなたがあの男と一緒にいるのを。なんだか綺麗に着飾って、随分楽しそうだなって」
 思わぬ言葉に、ひやりと肝が冷えた。
「僕はあなたを愛しています。お会いした時からずっと。不遇なあなたを大事にしてきたのは僕だけだった。それなのに、あなたは気づいてくれない」
 力強く抱きしめる瀬島の力に絹香は怯えた。そんなふうに見られていたとは思わず、また彼を異性として意識していなかったこともあり、申し訳ない気持ちになる。
「瀬島さん、ごめんなさい……わたし、あなたと一緒にはなれないわ」
「なぜ?」
 訊き返す彼の声が暗がる。
「叔父様が、わたしをこの家から出さないって……」
「それなら僕がこの家に入ればいい」
 すかさず瀬島の柔らかな声が耳元を撫でた。その甘やかな吐息に体が硬直する。
 家から出たい気持ちが強く、その申し出は受け取ることができない。そんな絹香に構わず瀬島は嬉々(きき)として後を続ける。
「夫婦になろう。そして、この家で暮らそう。叔父上には僕からお願いするから」
「瀬島さん、そんなにわたしのことを想ってくれるなんて……ありがとう。でも、やっぱりそれはできな──」
「嫌だ! そんなこと言わないでくれよ。あなたは僕のものだ」
 いっそう強く抱きしめられる。彼の強烈な想いが恐ろしく感じられ、身をよじって逃れる。
「やめてください!」
 改めて彼の顔をうかがうと、瀬島は動揺しているのか両目を大きく開いていた。
「でも、誰にも渡したくないんだ。ここまで言ってもまだわからないかい? あなたを愛せるのは僕だけだ。あなたが化け物でも、僕なら全部愛せるよ」
 そうささやいて、彼は絹香の頬に触れた。今朝にも感じたものと同じ冷たさに身震いする。
「化け物……あなたまで、そう言うの?」
 言葉にして吐き出すと、無意識に涙が目尻からこぼれ落ちた。
 彼だけは叔父や叔母、他の使用人たちとは違い、絹香の異能を知っても態度を変えずに接してくれていた。むしろ友好的で、気にかけてくれているようだった。しかし、信頼していた彼も心の内では叔父たちと同じように考えていたのだろう。
 すると瀬島は(ひる)むようにさっと手を引っ込めた。絹香から離れ、台所からそそくさと逃げていく。
 一方、絹香はその姿を目で追いながら、その場に立ち尽くしていた。どんな罵倒よりも耐えがたいものだった。強い喪失感を覚える。今まで散々痛めつけられた体だが、どんな傷よりも心が痛い。
 絹香はたまらず台所の裏手口から外へ出た。
「……っ」
 唇を噛んでも涙は止められない。(せき)を切るようにどんどんあふれていく。少し歩いて、あぜ道の脇でうずくまるも、頭の中は真っ白だった。
「もし。そこの君」
 唐突に、深い男性の声音が降りかかってくる。ハッと顔を上げると、そこには涼しい顔つきの長丘敦貴がいた。
「どうして……お、お帰りになったのでは」
「君が出てくるまで待っていたんだよ。あんなことがあった後だ。なにか起きるだろうと思っていた……読みどおりだったな」
 だが、彼の声は相変わらず感情がこもっていない。絹香は慌てて涙を拭った。
 敦貴は軽薄に抱きすくめるでもなく、ハンカチを差し出すわけでもない。ただ、その場で絹香の様子をうかがっている。そんな彼の前では、乱れた心も不思議と落ち着いていった。
「あの、長丘様……」
 絹香は努めて冷静な声を出した。
「わたしを長丘様の恋人役に取り立ててもらえるというお話、具体的にはどういうことだったんでしょうか?」
「ほう、気が向いたか」
「……興味があります」
 もうあの家に居続けることはできない。限界だ。
 これまでどんなに心を殺し『化け物』だと罵られても、異能で傷口を塞ぐかのごとく心の傷を隠して生きてきたが、結局はその場しのぎの荒療治であり深いところまでは癒やせないことをようやく悟った。
「よろしい。では話そう」
 絹香の真剣さを読み取る敦貴も生真面目に腕を組んで言葉を紡いだ。
「私は常人より情が薄いそうだ。愛情なんてものもよくわからない。理解できない。それでもよいのだが──困ったことに許嫁(いいなずけ)が、私とは正反対の気質だ」
 淡々と無感情に言う彼の言葉に嘘はないが要領を得ない。絹香は首をかしげた。
「と、言いますと?」
「つまり、彼女は愛情にあふれた生活をしている。一方で私は愛のない生活をしてきた。女と深い関係を築くこともなかったし、愛情を求められても返せない。だが、今後の夫婦生活に支障が出てはならないんだ。だから君を雇いたい」
「しかし、恋人とは雇うものなのですか?」
 敦貴の提案は相手にとっては失礼千万だが、絹香も今しがた瀬島から歪んだ愛の告白を受けたこともあり正常な思考ではなかった。
 絹香の真面目な問いに、敦貴も冗談めかすことなく平坦(へいたん)に返す。
「おそらく論外だが、私にも矜持(きょうじ)がある。取り急ぎ愛情とやらを習得しておきたい。であれば、雇う方がはるかに効率的だ。君も安全な寝床を確保できる。どうだろう? 私と契約上の恋人になる気はあるかね」
 次から次へと飛び出す無機質な言葉に、絹香は当然ながら不審を抱いた。
 彼は本当に〝愛情〟を知るために尽くそうと考えているのだろうか。しかし、許嫁のためにまず女を知っておこうと考えているところ、彼女への敬意はあるのだろう。
「許嫁様には、恋人を雇う話をなされるのですか?」
「できないから困っているんだよ。もちろん他言無用でかつ至急だ。来年三月に彼女と結婚するまでの間、君は私と生活をする。契約終了後、君には手厚い支援をする」
 それは、またとない好機だ。
 絹香は敦貴を見つめた。心はすでに乾ききっている。彼の恋人を演じるくらい簡単だろう。
 暗がりの中、絹香は姿勢正しく腰を折り曲げた。
「そのお役目、ぜひともお受けいたします」
 凛として、はっきりと答える。顔を上げ、今までにないほど穏やかな微笑みを浮かべた。すると、彼も口の端をニヤリと吊り上げる。
「生意気な笑い方をする」
 そう言いつつ、彼は美しい仕草で手を差し出した。
 この手を取れば、もう後戻りはできない。そんな予感がしつつも、頭の中は浮かれることなくひんやりと冷静だった。

 長丘邸は東京の中心街から少し離れた閑静な場所にあるという。洋装の彼とは違い、立派な日本家屋だった。真正面には大きな門がそびえ立ち、くぐり抜ければ立派な屋敷が目の前に広がる。周囲は森で囲まれていて、都会の賑やかさから隠されているようだ。
 ここには敦貴と米田をはじめとする使用人だけが複数住んでいるという。
 到着してすぐ絹香は使用人たちに迎えられ、なにも(とが)められることなく静かに床の間へ通された。い草の香りが鼻腔(びくう)をくすぐり、知らない家だと感じられる。
「ここで待っていろ。叔父上に連絡してくる」
 敦貴は使用人たちを部屋の外へ待機させ、どこかへ向かった。絹香は部屋にひとり、残される。
 待つこと数分。彼は静かに戻ってきた。
「ひとまず、今日のところは話をつけた」
「どうやって黙らせたんです?」
「なんてことないさ。私に逆らえる者はいない。とはいえ改めて後日、商談パーティーで君とのことを話し合う。君も同席したまえ」
「承知しました」
 叔父たちは絹香を取り戻そうとするだろうか。しかし、敦貴の手を取った今なら怖いものはないはずだ。
「さて、君はひとまず客間へ案内する。好きに使うといい」
 敦貴はそっけなく言い、さっさと部屋を出ていった。
 彼は思わず見惚(みと)れてしまいそうなほどとても美しい。しかし、言動のせいかまったく心が()かれない。
 使用人の案内を受け、絹香は息を整えて部屋を後にした。

 一週間後──御鍵寛治邸にて。
 混乱を避けるため、話し合いは商談パーティーが始まる前に行うこととなった。
 飾り立てられた居間にはあの料理人が豪勢な大皿をいくつも用意しており、七面鳥の丸焼きは実に見ごたえのある一品だが吟味する余裕などない。陰鬱とした空気が漂う。
 絹香は叔父と叔母、さらには瀬島の非難めいた視線に耐えながら敦貴の後ろに控えた。背後には米田が衛兵のように立っていたので、乱暴なことはされないとひとまず安堵する。
「絹香を預かりたいとは、どういうことですかな? 本当にこの娘を秘書かなにかに取り立てると? そのような仕事が務まるとは思いませんが」
 寛治は青筋を立てながらも笑いを交えて訊いた。一方、敦貴は冷たくあしらった。
「問題ない。この家で彼女の才を持て余す方がもったいない。御鍵家のご令嬢を、この私が気に入ったと言っているんだ。それに取引も再開させる。これ以上の不足があるのか」
「いいえ、不足など……ただ、この娘が長丘様に粗相をしでかさないか不安で」
 しばらくごねる寛治だったが、敦貴の気品たっぷりな風格に圧倒されているのは目に見えて明らかである。叔母も瀬島も脇に控えてこの交渉を見届けていたが、あからさまに不満をあらわにしつつなにも言わない。
 そんな不甲斐(ふがい)ない彼らをさらに追い詰めるかのごとく、敦貴は長いため息を投げつけた。
「はっきりしないな。では、言葉を選ばず正直に申し上げよう。彼女はとても心を痛めている。この家での仕打ちがあまりにも劣悪極まりなく、あなた方への信用もない。このことを公にすれば世間からの批判が──」
「ど、どうぞ、仰せのままに!」
 敦貴の言葉を遮った寛治は大仰にひれ伏した。最初から最後まで敦貴が優位であり、この展開は避けようがない。
 寛治の動揺ぶりを敦貴は満足げに眺めた。足を組み替えてソファにふんぞり返る。
「よろしい。これでパーティーが楽しめるな」
 彼のその言葉に、御鍵家の者たちは全員凍った笑いを漏らす。絹香はやはり恐ろしくて顔を上げることはできなかった。
 こうして絹香の身柄は敦貴の預かりとなり、事前にすべての盟約が結ばれた無意味なパーティーが終了した。

「ふぅ……」
 長丘家へ戻り、ようやく緊張が解けた絹香はしきりに安堵の息を漏らす。
 てっきり一週間過ごした客間へ向かうのだろうと思っていたのだが、邸に着くなり応接間でひとり、待機させられていた。
 ぼんやりと蝋燭(ろうそく)の灯りを眺めていると、使用人ではなく敦貴が顔を出す。
「絹香」
 深い声音で呼ばれ、胸がドキリと跳ねた。彼は部屋着である着物をまとっており、上げていた前髪も下ろしていた。
「部屋の準備が整った。案内しよう」
「え?」
 突然のことなので反応が鈍くなる。これに敦貴は片眉を曲げて不審そうに返した。
「今日からこの邸が君の住まいだ。あの客間では使い勝手が悪いだろう?」
「そんな……わたしにはもったいないです」
 そう答えるも敦貴は「来い」と言わんばかりに無言で部屋を出ていく。その後ろを慌ててついていくしかなく、絹香は少ない荷物を抱えて長い廊下を歩いた。
 使っていた客間よりも邸の奥深くへと進んでいけば、おもむろに敦貴が一室の前で立ち止まる。
 そこは玄関から程遠く、窓から立派な枯山水が一望できる場所にあった。
 無言のまま部屋の戸を開けて中へ入る敦貴の後ろから、絹香はこわごわ顔を覗かせるようにして一歩ずつ入る。
 御鍵家で使っていた独房とは違い、殺風景ながらも広々として生活に必要なタンスや化粧台、文机、押入れなどがあり、とても使いやすそうだ。
 床板に置かれた白い花瓶が大層美しく、そこに生けられた菖蒲(しょうぶ)が青々と鮮やかな色を放っていた。燃える行灯(あんどん)の火が温かい。
 ──やっぱりわたしにはもったいない部屋だわ。
 そんなことを胸の内に秘めていると、敦貴が口を開いた。
「では、改めてよろしく頼む」
 至って冷静に事務的な挨拶をする。その双眸には輝かしい光も希望も、愛も情もない。そもそも持ち合わせていない。そんな彼のために絹香は心を(ささ)げると誓う。
「はい、なんなりとお申し付けください」
 静かに両手をついてかしこまると、呆れの笑いを投げかけられた。
「そう堅苦しくしないでくれ。私と君は恋人なのだから」
「はぁ、そうおっしゃるのでしたら……わたしは長丘様をどうお呼びしたらよいでしょうか」
 律儀に問うと、敦貴は大して面白くなさそうに鼻で笑った。
「敦貴でいい」
 絹香は顔を上げた。
 廊下に立つ彼は、部屋着用の地味な着物をまとうだけで無気力そうになる。先ほどまで叔父と対峙(たいじ)していた凛々しい華族の青年とは思えない。
「では、敦貴様。ふつつかものではございますが、よろしくお願いいたします」
「あぁ」
 彼はそっけなく返し、スタスタと廊下を歩いてその場から姿を消した。
 絹香は息を整えて辺りを見回した。今日からここが住まいになる。
 緊張からようやく解放されたと同時に、一抹の不安を抱いた。恋人初日だというのに、出だしがこんなにも事務的でよいのだろうか。
 偽りとはいえ、給金をいただくとなるならば、恋人らしく振る舞うべきではないか。これでは給金泥棒となってしまうのでは。
 そもそも、こんなに立派な居を構える子爵家令息の恋人役とはなにをしたらよいのだろう。無事に契約終了まで命を果たすことができるだろうか。
 思わず勢いで飛び込んだ世界だが、これが真っ当な仕事であるとは決して思えないのもまた事実で、だんだん現実を感じ始める。
「いいえ、これは不誠実な契約。愛なんかどこにもないのだから、しっかり務めるのよ」
 絹香は頬を思い切り叩いて意気込んだ。しかし、あまりにも痛むのですぐに治癒した。