「失礼いたします。白蛇妃様はいらっしゃいますでしょうか」
 水星宮の扉を叩く音が聞こえる。寝台の上で数多の木蘭ぬいぐるみに埋もれて眠っていた苺々は、「ハッ」と飛び起きた。
(徹夜でぬい様を製作しているうちに、いつの間にか意識を失っていました……。ああでも、たくさんのぬい様に囲まれて眠ったおかげか、睡眠時間は短いはずなのに超回復している気がします)
 ふっふっふ、まるで禁断の仙薬をキメた気持ちです! と、苺々は寝ぼけた頭でおかしなことを口走る。
「もし。水星宮の女官の皆様? いらっしゃいませんか?」
「は、はい、います! 少々お待ちくださいませ!」
 窓の外を見るに、尚食の女官が来る時間にはまだ早い。
(後宮の朝餉はほとんど昼餉という感じですものね)
 そう思っているのは実は苺々だけなのだが、彼女はそれを知らない。
 苺々の朝餉が遅いのは、尚食の女官たちが互いに仕事を押し付け合っているためである。それで朝餉の時間が終わるギリギリの頃に、冷め切った御膳を持って、嫌々ながらしぶしぶやってくるのだ。
(どなたでしょうか? この声、どこかで聞いたことのあるような、ないような……? と、その前に着替えなくては)
 苺々は慌てて寝台を降り、簡素な衣装に手早く着替えて、扉を開ける。
 そこには昨日見た顔があった。朱色を基調とした衣をまとった、木蘭付きの上級女官だ。
「白蛇妃様……?」
 上級女官は出てきたのが妃本人だったことに驚いた様子で一瞬ぽかんとすると、すっと礼のかたちを取った。
「前触れも出さずに突然のご訪問、申し訳ございません。わたくしは朱貴姫の女官、朱 若麗(ジャクレイ)と申します」
(皇帝陛下の後宮では〝貴妃〟に相当する貴姫の冠をいただく最上級妃、木蘭様の上級女官……。それも木蘭様と同じ血筋の)
 瞠目した苺々は、無礼に当たらぬよう即座に礼を取る。
「若麗様。白 苺々でございます」
 家格は同等か、いや、朱皇后陛下の縁者なのだから彼女の方が上になる。
 それに朱家の若麗姫と言えば、朱州を治める朱家当主の三の姫に違いない。二胡の名手と名高い、高貴な血筋の姫君だ。
 もしも木蘭が後宮に上がらなければ、現在十八歳の若麗が後宮に上がり貴姫となっていただろう。齢六の木蘭と比べて、皇太子殿下との年齢も近く釣り合いが取れている。
「まあ、苺々様。今の私めは一介の女官、本当に気にしないでください。どうか若麗とお呼びくださいね」
 若麗は苺々に気を使わせぬようにか、優しく微笑みながらそう言った。
 苺々を忌避している様子はまったくない。物腰も柔らかく、話していると〝姉〟のような親しみやすささえ感じられる。
「わたくしったら、お客様にお茶もお出しせずに申し訳ありません。ささ、お上がりくださいませ」
 人との会話に飢えていた苺々は、木蘭のこぼれ話など聞きたさに、若麗を部屋の中に招き入れた。
 円卓の前にあるひとつしかない椅子を彼女に勧め、それからいそいそと、水星宮の女官さながらにお茶を出す。実家ならば姫様がお茶を出すなど言語道断、と彼女付きの侍女に咎められそうな光景だが、ここに苺々の侍女はいない。
 若麗に至っては、今は女官という立場から驚きつつも、水星宮の主のもてなしを断ろうなどとはしなかった。どちらもお人好しなのである。
 ふたりはお気に入りのお茶などを語らいながら意気投合すると、しばし和んだ。
「あの、それでどうして若麗様がこちらに?」
「そうでした。こちら、苺々様宛に木蘭様がしたためた文にございます」
「まあ! 木蘭様からの文!? さっそく額縁に入れて家宝にいたしますわ!」
 苺々は若麗から受け取った文を、胸にぎゅうっと抱きしめる。
「苺々様!? まずはどうかご一読御くださいませ」
「はっ。わたくしとしたことが、つい高ぶってしまいました……」
 木蘭が白州の実家に訪問する際に届いた文は、その痕跡を消すために、父がすべて燃やしてしまった。なので、『推し直筆の文は燃やされる前に全部保存しておきたい欲』が、人前にも関わらず暴れてしまったのである。
「な、なんと書いてあるのでしょうか……?」
「文の内容は確認しておりませんので、私にはちょっと」
「そうなのですね。ああ、なんだかドキドキして手に汗握ってしまいますわ。……すーぅぅ、はーぁぁぁ。……よ、読みます」
 深呼吸をして、浅く早かった呼吸を整えてから、上質な手触りの紙を広げる。
 苺々はそこに記された内容を見て、「ええぇぇ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

 その後。苺々は本日も遅めにやってきた朝餉を食べ、急いで身支度を整えた。
「大変です、大変です、これは大変なことになりました……!」
 苺々は衣装箪笥から一張羅(いっちょうら)の白衣の大袖を取り出す。これは皇太子宮に上がった初日に着た〝白蛇の白衣〟だ。白州の上質な絹を特殊な針と異能を使って自ら縫い上げ、蛇の鱗のような刺繍を施した破魔の装束である。
「ままままさか、木蘭様の宮にお呼ばれされるとは。夢のようです……!!」
 推しである木蘭様が――最上級妃が開くお茶会に呼ばたのだから、散策時のような気軽な襦裙で伺うことはできない。
 鏡の前で薄く化粧をしてから着付けを終えると、最近は手慣れてきた髪結いに取り掛かる。結った部分にいくつかの簪をさしたら完成だ。
 大きく長い袂にはいつもの簡易裁縫道具を忍ばせる。さらに、徹夜で作ったくさんのぬい様を籠の中に全部詰めて、水星宮を出た。

 そして昼下がりの今――苺々は木蘭の住まう紅玉宮に来ていた。
 苺々は紅玉宮の女官長である若麗に案内され、紅玉宮の一室に通される。
 水星宮の十倍は広い妃の私室には、雛鳥のように可憐な朱色の衣装を着て、黒髪を子犬の垂れ耳のようなお団子に結い上げた木蘭が待っていた。
「白家の姫君。妾の宮に、わざわざ来てもらってすまない」
「こちらこそ、本日はお招きいただきありありがとうございます」
「格式張った場ではないので、どうか楽に過ごしてほしい」
(ふぁぁあっ! 本日も大変お可愛らしいです、木蘭様……! それに、なんだか良い匂いがします! これは紫木蓮の花の香り……っ。きっとお庭で手ずから育てられた紫木蓮を、毎日頑張って花瓶に活けられているのですね。おもてなしのお気持ちのこもった、素敵なお部屋です!!)
 幼い彼女の完璧な気遣いから『木蘭様の一日』の妄想が捗り、苺々はぱぁぁっと、とろけるような笑顔を浮かべながら答える。
 対して、昨日よりもいくらか顔色の良い木蘭は、しゅんとした様子で頭を下げた。
「あやかしから守ってくれたこと、誠に感謝している。あの時は妾の力が及ばず、宦官の投獄を止めることができなくて申し訳なかった」
「そんな、頭をお上げください。もう本当に、あの、胸がいっぱいです……っ」
 苺々は大好きな木蘭の前で頑張って取り繕っていた。が、初めて推しの宮に招待された緊張と興奮で頭がどんどん混乱してきて、段々とわけがわからなくなってきていた。
 胸が熱くて、目がぐるぐると回る。
「白家の姫君」
「ど、どうか苺々とお呼びくださいまし!!」
「では、苺々と」
(はうぅぅ! 木蘭様に名前を呼んでいただけるなんて、わたくしもう死んでもいいですわぁああっ)
 勢いで『後宮へ上がる以前より、ずっと推しております!!』と口走り言いそうになるのをぐっと堪えて、真っ赤に染めた頬を隠すように団扇で顔を隠す。
「……っ! その、木蘭様にお怪我なくて何よりでした。昨日はあれから大丈夫でしたか?」
「ああ。妾の心配よりも、苺々の方だ。宦官に打たれ、縄をかけられて投獄されたというのに……。怪我はないのか?」
「怪我は……す、少し、青あざになった程度でしたので、ええ、その、すぐに治ると思いますわ!」
 苺々は団扇で顔を隠しながら推しを心配させまいと嘘をついた。
 本当はかなり痛くて、青あざもひどい。糸切り鋏で切った手のひらは、血が滲んでいたのでここへ来る前に包帯を取り替えてきた。
 手のひらに関しては自分でやったものだが、幼い木蘭に余計な心配や責任を感じてほしくはないので、袖の中から指先以外が見えないように気をつけている。
「だったらいいが……。痛ければすぐに言うように。妾が皇太子殿下に(ことづ)けておく」
「お気遣いありがとうございます」
 部屋に紅玉宮付きの女官たちが入室し、お茶や茶菓子を円卓の上に並べていく。木蘭はそれを見届けると、「皆、退がるように」と女官長の若麗とともに全員を退出させた。
「それで、本題なのだが」
「はい。内密のご相談があるのでしたよね」
 そうなのだ。文には紅玉宮付きの女官にも内緒で、白蛇の娘の異能を頼りたいとあった。そのために白蛇の娘の正装と、形代となるぬいぐるみたちを持参したわけである。
「以前、白州に伺った時のことは」
「……申し訳ありませんッ!! 昨日のことのようにしっかりと覚えております! 一言一句忘れられませんでした!」
 木蘭様は『忘れてくれ』とおっしゃいましたのに、と苺々は白状する。
 しかし木蘭は怒ることなく、
「そうか。内密にしてくれたのだな。恩に着る」
と新春に花が綻ぶような、やわらかな微笑みを浮かべた。
「あっ、あっ、あっ。尊みが深いですっ」
(そんな、当然のことですわ)
 苺々は淑やかな笑みを浮かべる。推しの摂取過多で、本音と建て前が反対になっているのには気づいていないらしい。
 木蘭は内心、『尊みが深い? とは?』と首を傾げる。
「朱家から届いた茶菓子だ。食べながら話そう」
「はい。いただきますわ」
(ああ、ふたりきりでお茶会だなんて、心臓がいくつあっても足りないです)
 苺々は舞い上がるような気持ちで、勧められたお茶菓子を手に持った。
 照れ隠しに、ひとくち食んで……あら? と目を丸くする。
 さすが紅玉宮のお茶菓子だ。木蓮の花を型どられた茶菓子は、上品な甘さで確かに美味しいのだが……なぜだか飲み込むたびに、胸が痛くなる気がする。
 毒味の女官はいるはずだし、毒ではないだろう。
(これは、まさか)
 白蛇の娘にだけ受け継がれている書物の内容を思い出す。
 だとしたら、木蘭の身体が心配だ。
「今回相談したいのは、その時に話した呪詛の件とは別になると思うのだが……最近、まったく眠れないのだ。不眠症というのだろうか」
「眠れない……。他にはなにかありますか? たとえば、身体のどこかが痛む、というような」
「ああ。清明節の二週間ほど前からだろうか、内側から胸が痛む」
「……やっぱり」
 苺々の予想は確信に変わってしまった。
(幼い木蘭様になんという仕打ちを)
「その症状が時々、消えることがあるのだ。大抵、妾が外に出た日なのだが……昨日は特に顕著だった。この症状は病ではなく呪詛で、苺々が異能を使って祓っているのだろう?」
 木蘭は確信に満ちた様子で問う。
 苺々はビクッと肩を震わせると、罪人のようにしゅんと俯いた。
「はい。木蘭様の言うと通り、わたくしの異能です……。まことに勝手ながら、木蘭様をお守りするために異能を行使しておりました。許可なく勝手をしていた罰は受けますわ」
 震えながら、「どうぞ、煮るなり焼くなりいたしてください」と深く頭を下げる。
「なぜそうなる。妾は苺々に感謝しているのだ」
「え?」
「苺々のおかげで、妾はこうして今も生きている。……礼を言う」
「あっ、あっ」
 苺々は感動のあまり、だばーっと涙を流した。
 バレたら大変だと思っていた推し活が、まさか、まさか感謝されるだなんて。
「ううっ、ぐすっ……。これからもわたくし、木蘭様を悪意からお守りするために全力を尽くして参ります……! 配慮は最大限に、ですが、もう遠慮はいたしませんわっ!!」
 苺々は袂から簡易裁縫道具を取り出して円卓の上に置く。そして、持ってきていた籠から布を外し、その中身も遠慮なく円卓の上に並べた。
 裁縫道具や大筆、朱塗りの皿、絹の団扇にぬいぐるみと、木蘭からして見れば繋がりのわからないものばかりだ。いや、絹の団扇とぬいぐるみだけはわかるか。見事な紫木蓮の刺繍と木蘭によく似た人形……とくれば、これが自分に関連付けられるものだということくらい理解できた。
「これは白蛇の娘に代々伝わる〝白蛇の神器〟というものです。こちらから『白蛇の針』、『天狐の毛筆』、『龍血の銘々皿』と言います。わたくしはこの白蛇の神器を使って、自らの血に流れる異能を操り、この世の悪意を祓うことができるのです」
 苺々は涙腺の緩んでいた顔をキリリと引き締め、指先を揃えた手で円卓の上に置いたものたちを差した。
「この世の悪意とは五つの姿があるとされています。〝呪靄(じゅあい)〟〝呪妖(じゅよう)〟〝呪毒(じゅどく)〟〝呪詛(じゅそ)〟そして〝怪異(かいい)〟――」
 白蛇の娘が書き記した書物には、『この世の病や死は五つの悪意からもたらされる』とされている。人間の肉体、精神、魂の三つのうち、肉体か精神が欠けると病にかかり、魂が欠けると死に至るらしい。
「木蘭様に向けられているのは、呪靄と呪妖、そしておそらく呪毒です」
 呪靄は人々の胸に宿る悪意や口から放たれた悪意で、その感情の強さは五つの悪意の中でもっとも弱い。そのため呪靄は日常的に発生し、精神を侵そうとまとわりつく。呪靄に侵されると疲れやすくなったり、感情が乱されたりするだけでなく、長く侵されると精神を蝕む病にかかるとされている。
 呪妖は呪靄が集まって変化し意思を持ったものだ。より強い悪意の塊で、発生源となる人間を操って、物理的に害をなそうとしてくるのが特徴である。
 呪毒は食べ物に宿る。呪靄や呪妖よりも精製された悪意で、匂いもなければ眼にも見えない。呪毒が宿った食べ物を口にすると、肉体が内側から蝕まれて病にかかる。徹底的に隠れているので見つけにくく、対処が遅れやすい。
 他には呪詛、怪異と、さらに強い悪意があるのだが、今は割愛しておく。
「原因不明の病であったり、突然気がふれたように別人になってしまう方は、悪意に蝕まれているのですわ」
 白蛇と婚姻した白家の娘のように。
 苺々は木蘭に五つの悪意の詳細を説明すると、「ですが」と言葉を濁した。
「悪意がどこのどなたから向けられているのかということを、わたくしには見抜くことができません。特に呪靄はたくさんの方の悪意の集合体です。向けられるたびに封じて祓う……という方法をとることになります」
 同じく発生源に宿る呪妖も、目には見えても誰に害をなそうとしているのかはわからない。呪妖を心に飼っている人間は多いし、そんな人間に白蛇妃のお祓いなんて受けてもらえるはずもない。なのであらかじめ形代を用意して、自動的に集めてしまうのが解決への近道であった。
「そのために、『白蛇の針』を使うのです」
「この白銀の針か。見たことのない材質だな……」
「『白家白蛇伝』に出てくる大蛇の鱗で作られたものだそうです。この針と異能を使って、守護対象者を象徴する意匠を布に刺繍することで、悪意を封じ込めることができますわ」
「なるほど。それで木蓮の花を刺繍した絹の団扇と、妾の形をした布偶があるのか」
 ふむ、と木蘭は納得した様子で、白州刺繍の技法で刺された見事な紫木蓮が咲き誇る団扇を手に取る。その瞬間、団扇に青い火が灯った。
「は?」
「木蘭様っ! お手をお離しください!」
「……っ!」
 床の上に打ち捨てられた団扇が、ボゥッと青い炎に包まれる。
「も、燃えているが」
「申し訳ございません……。木蘭様が手にされた時に、団扇に封じられる悪意の限界がきたようです。この青い炎は、いわゆる燐火ですわ。元気に燃え盛っておりますが、こう見えて見た目だけなので触れても害はありません。悪意自体は封じられて祓われたあとですので」
 ですが、七つまでは何が起きてもおかしくはありませんから、木蘭様は触れられないようになさってください、と骨組みだけになった残骸を苺々が拾う。
「一応、こちらはわたくしが回収させていただきますね」
 異能の術を使った証拠が残っていては面倒になる。
「すまない、せっかくの大作を」
「いいえっ。これでまた、木蘭様を想って新しい図案を考える楽しみができましたわ! はぁぁぁっ、想像力が掻き立てられます……っ!! 次の作品では木蘭様の初夏の装いにぴったりの図案を考えますから、ぜひ贈り物にさせてくださいませっ。あああ、そうですわ! 先日、わたくしの実家から朱色の絹が送られてきましたの。良かったら破魔の衣裳も作らせてくださいまし……!」
 全力で推し活をしてきた苺々だが、〝白蛇〟の冠をいただく最下級妃という立場上、最上級妃への贈り物だけは許されなかった。
 王都の市井で行われている推し活では、推している演劇の旅一座や演者本人に宛てて熱心に贈り物を送ったり、姿絵を購入して間接的に貢いだりすると聞く。
(こんなに全力で推しに貢げる絶好の機会……逃しません!)
「衣裳は……燃えるのか?」
「破魔の衣裳は、悪意を寄せ付けないために特別な技法を用いて縫う衣ですので、燃えませんわ。ご安心ください」
「そうか。では、いつか貰えたら嬉しい」
 眉を優しく下げて、可愛らしい幼妃が目を細める。
(あっ、あっ。この限りない喜びを、木蘭様推しのみなさまと分かち合えたら、どんなにか……っ。そうですわ、あとから若麗様とお話できないでしょうか!? 若麗様は木蘭様の筆頭女官ですし、絶対に木蘭様推しですわよね!?)
 後宮妃で推し活をしているのは奇特な苺々くらいだが、女官には嗜みとして浸透している。
 女官たちの推し活は妃を慕って尽くしたり、他の妃を推す女官と応援合戦や代理戦争をするもので、市井の推し活文化も取り入れた木蘭様過激派の苺々とは若干推し活の方向性が違うのだが――それを知らぬ苺々は、『若麗様とお話するのが楽しみですわ』と微笑んだ。
「はっ! わたくしとしたことが、話が逸れてしまいました。……こほん。木蘭様が眠れなくなっている原因は、呪靄によるものでしょう。呪靄はわたくしが刺繍の手を止めてしまうと祓えませんので……おそらく、木蘭様は夜中にも悪意を向けられているということになります」
「夜中にも、悪意が……」
「ええ。まさか木蘭様が不眠に悩まされているとも知らずに、わたくし、亥の刻(二十一時)から日の出まで、ぐっすりと就寝しておりました……。一生の不覚です……っ」
 苺々の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。
「その前に。まさか苺々は一日中、妾を守護するために刺繍を?」
「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」
「は……? 待ってくれ、一日中?」
「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」
 推しが毎日幸せであることが、苺々の幸せだ。それを叶えるためなら、刺繍の一時間や二時間、いや十時間や十二時間だってお茶の子さいさいである。
 木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。
 ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺々に、木蘭は無表情で閉口する。
 一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服に配属されている針子でもしないだろう。給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。その心の向け方は、常人には真似できない。
 ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。
「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖を心に飼っている女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」
「猫魈……そうだったのか」
「ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が触れた食事(・・・・・)に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」
 つまりは、先ほど苺々が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。
 苺々はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく銘々皿を手に取る。文字通り龍の血で作られたものだ。
「食事に宿った呪毒は、この『龍血の銘々皿』を使った時にのみ形にでき、祓うことができますわ」
(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)
 食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど殺意に似ている。苺々がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから殺したいほど憎まれるような経験はまだ無い。
「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」
「いや。やろう」
「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」
 苺々の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。
 それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。
 木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。
(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました! こ、これは完全に有罪ですわ!!)
「わたくし、明日はまた牢獄かもしれません」
「それは絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」
 龍の血の赤に、木蘭の血の赤が溶けていく。
 契約が正常に行われた証拠を見届けてから、苺々は「薬箱はどこですか!?」と急いで木蘭の指の手当をした。
「これで契約は完了です。あとは木蘭様が呪毒の宿った食事に触れるだけで、この銘々皿に呪毒が形を伴って抽出されますので、それをわたくしが封じることで祓えますわ」
 試しにそのお茶菓子に触れてもらっても? と、苺々は茶菓子を示す。
 木蘭が従うと、銘々皿の上にことり、とどこからともなく茶菓子が現れた。
「……は? まさか、その茶菓子が呪毒なのか?」
「はい。そのようです」
 書物によると、どんな飲食物に宿った呪毒も、すべて茶菓子の形をとって現れると書いてあった。何もなかった空間から突如現れた茶菓子は、目の前の茶菓子をそのまま模していて、少し不気味である。
 でも、これが銘々皿の上に現れたということは……木蘭の食事に長い間、呪毒が宿っていたという動かぬ証拠になる。苺々は険しい表情で、目の前の茶菓子擬きを睨んだ。
 さて。これは刺繍でも形代でもなく、白蛇の娘が自らに封じて祓わなくてはいけない。書物によると、『捨てたり腐らせたりすると呪詛になる』とあった。
「どのような味がするのでしょうか。ちょっとドキドキいたします」
「こんな怪しいもの、食べなくてもいい」
「いえ。わたくしが食べなくては、大変なことになりますから。――いきます」
 苺々は意を決して、はむっと食らいつく。
「ん……んんん!?」
「ど、どうした?」
「お、美味しいです……! なんということでしょう……。人生で食した茶菓子の中で、一番美味しいです……っ!」
(なんと繊細な歯触り、洗練された甘みなのでしょうか! 見た目はもちろんのこと、食感も素晴らしいですわ。まるで超高級お茶菓子!!!!)
 苺々は茶菓子を片手に持ったまま、「餡が舌の上でとろけます……極上のお茶菓子ですわ……」と頬をを抑える。
「そ、そうか。それなら身体に害もなさそうだな」
「はい。わたくしもそう思います」
 苺々はペロリと呪毒の茶菓子を平らげた。
 さあ、これで証拠は出揃った。
 木蘭の就寝時間や散策へ出かける頃合いを把握していて、なおかつ、昨日までは予定になかった唐突な来客の茶菓子に触れられる、女官。
「残念ですが、恐ろしい女官の方は……この紅玉宮にいる木蘭様付きの女官ということになりますわ。けれど猫魈様を操れるほどの道士であっても、白蛇の娘が書き記した五つの悪意と三位一体の構造は、ご存知ないのかもしれませんね」
 わたくしも道術は(かじ)っておりませんし、あやかしを操るすべも持っておりませんから。
 そう結論づけた苺々に、幼い妃は鷹揚に頷く。
「なるほど。確かに、あやかしや道術を操り用意周到に妾を害そうとする者が、異能持ちだと噂される『白蛇の娘』の前にわざわざ証拠を残すはずもない。だが、どうやって炙り出すかだな……」
「ええ。ですがこの勝負、有利なのはわたくしたちの方です」
「いったいどうするつもりだ?」
「それなのですが……――本日、わたくしを紅玉宮に置いてはくださいませんか?」
 真剣な表情で問うた苺々に、木蘭は菫色の瞳を大きく見開いた。
「は?」
「大変ご無礼を申しているのは承知しております。ですが、木蘭様の危機とあっては、この苺々、命を懸けないわけには参りません!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。紅玉宮に置くというのは、妾の部屋に泊まるという意味か?」
「いいえ、言葉通り紅玉宮のどこかに置いていただくだけで大丈夫ですわ! 室内がダメでしたら、回廊でも、お庭でも、どこでも構いません。木蘭様か、紅玉宮の女官のみなさまのどちらかをつぶさに観察できる場所に置いていただきたいのです」
 お茶や茶菓子を運んできた女官たちの胸に、青黒い靄を灯らせている者はいなかった。しかし木蘭の行動を完璧に把握しているのだから、犯人は絶対に紅玉宮の女官だ。
 木蘭はもう一ヶ月近くよく眠れずに、胸が痛む日々を過ごしている。大人にとってもひどい状況だが、六歳の幼女にとってはもっと過酷で辛い状況だろう。
(一刻も早く、解決してさしあげねば)
 苺々が熱い決意で燃えているのとは裏腹に、木蘭は「それ以外の方法は――」と必死な形相を隠すようにして言い募る。
 しかし、木蘭様に害をなそうとしている恐ろしい女官を()らしめる気満々の苺々は、「ないです!」と一刀両断した。
(そして一刻も早く、その恐ろしい女官の方に木蘭様の素晴らしき愛らしさを布教しなくては。天女の御使のごとき木蘭様の尊さがご理解できれば、きっと悪さをしようなどとは考えられなくなりますわ! 推し活の真髄を、叩き込んで差し上げます!!)
 木蘭は、苺々の背後にごうごうと燃える炎の幻覚を見た。どうやら、苺々を紅玉宮に一泊させる以外の方法はないらしい。
「……わかった。では、空いている部屋を用意するよう、女官に伝えよう」