「森本ちゃん」
一日の報告書を書き上げて、部活動をしている生徒たちの帰宅の時間を告げるチャイムとともに裏門から外に出たわたしは、そこで待ち伏せしていた高梨くんの存在に気が付いた。
「高梨、くん?」
どうして?
「俺、森本ちゃんのこと、好きだから」
どうしてここに?という疑問を一気に吹き飛ばすような威力の高い言葉がいきなり直球で飛んできて、耳を疑う。
「え?」
いきなり、何を…
「高校時代にずっと好きだったの、知らなかったでしょ?」
え、えっと…
「ちょ、何言ってるの」
なんで今、そんな話を…
「再会して、あの頃の気持ちを思い出して、やっぱり好きだなって思いながら今日まで過ごしてきたんだ」
「い、いや、ちょっと待って。そんなこと言ってる暇…」
仮にも実習生としてここへきている身だ。
生徒にでも見られたら、とはっと我に返ったわたしはあたりを見渡す。
幸いにも駅から遠いこの裏門を使っている人間は少なく、今も変わらずそんな様子でほっとする。
「言わないとわかってくれないでしょ、森本ちゃんは。高校時代も、今も」
ごめん。と、声を落とした高梨くんは小さく謝る。
「わ、わたしは恋愛をするつもりでここへ戻ってきたわけじゃない」
母校で、どんな時よりも一番、自分自身が自分らしく輝いていたこの場所に、戻ると決まった時にそう決意していた。
「私は先生になりたくてここにいるの」
「俺だってそうだよ」
だから、と続けたかったけど、高梨くんは引こうとしなかった。
「俺がついてても先生になれるよ?」
夕日を背にした彼の顔は、逆光でどんな表情をしているのかわからなくなった。
「なんで、なんでそうやって、昔から人から壁を作ろうとするの?」
「え?」
壁?
そんなんじゃない。
即答したかったけど、言葉が出てこない。
その瞬間、いろんな感情が脳裏を駆け巡る。
大好きな真ちゃん。
わたしはその背中を追い続けていた。
それ以外は前に向かって走り続けていて、また、大好きな背中が見えた。
でも、見えてこない学校での生活。
笑い合った友達との記憶。
わたしには、覚えのない高校生としての記憶。
「つ、作ってな…」
言いかけたら、目頭がじんと熱くなった。
(私は、何をしているの?ここに、戻ってきて…)
なんとも言えぬ恐怖が襲ってくる。
「わたし…」
高校生活の思い出がないから、あるひとつの思い出に浸っているわけではない。
そう思いたいのに、もやもやと廻る思考回路を止めることはできなかった。
(わたしは…)
「まだ大学生に戻るには、一日早いぞ、おまえら…」
手で覆っても涙が止まらず、自分の情けなさに嫌気が差した時、突然後ろから響いた低い声に飛び上がった。
「う、上林先生…」
「青春ごっこは大学生に戻ってから」
頼むぞ、先生!とわたしたちの後ろで上林先生が困ったように笑っていた。
いつものジャージ姿とは違って、藍色のジャケットを羽織ってスタイリッシュな私服に身を包んだ彼は、別人のようだった。なぜ今、こんなタイミングで…と思ったけど、わたしは思わず目を奪われた。
「特に、高梨!」
「は、はいっ!」
さきほどまでの深刻さが嘘のようにムードのない声を荒げた返事で、直立する高梨くん。
生きた心地はしなかったけど、なんだかほっとして、どちらかといえばあまりに固まった高梨くんの様子がおかしくて、いつの間にか涙が引っ込んでいだ。
これが体育会系の上下関係というものなのだろうか。
上林先生が一言何かを言うたびに、高梨くんが機敏に返事を返し、謝罪の言葉を並べる。
わたしと小池先生にはない彼らの様子をぼんやり眺めていた。
「高梨、実習生なんて関係ない。おまえは今、生徒にとっては尊敬すべき教師なんだ。わきまえて行動しなさい」
最後の言葉はじんと胸に響いた。
(私は…教師…)
何よりも、なりたかったもの。
(一人でも多くの生徒たちの笑顔が見たくて…)
つらい時は一緒に泣き、嬉しい時は一緒に喜ぶ。
誰もがいつの日か思い出してふと笑顔になれる。そんな高校時代を一緒に作っていきたい。そう思っていた。大切だと思っていた友達たちとはもう笑いあえることなんてなかった。でも、わたしには支えてくれた大切な思い出があった。その気持ちを思うたび、今でも強くなれるように。
(そう、私は…)
あの時、真ちゃんが言っていた。
「た、高梨くん、ごめんなさい」
ずっと決めていた。
「わたしは、立派な教師になりたいの」
今しかできないことを精一杯の力で挑めることを伝えたい。
「憧れていた先生のようになりたいの」
ぐっと拳に力を入れたら、思ったよりもしっかりした声が出た。
「今はまだまだ弱いけど、もっともっと強くなって、それで…」
言葉を続ける前に、わかったよ、と高梨くんは悲しそうに笑った。
それから、「お騒がせしました」と上林先生の方に向かってお辞儀をし、そのままわたしたちに背を向けた。
ひどいことを言ったことは理解している。でも、彼の姿が暗闇に消えてしまうまで、わたしはその姿を目で追うことしかできなかった。
ぐっと握ったこぶしが震えている。
あれでよかったのか。気持ちにこたえることもできないのに罪悪感を覚えてしまう自分も嫌だ。負けるものか…と、ぐっと目を閉じ、そして、隣にいる存在を意識した。
「上林先生、すみませんでした」
静かに頭を下げると、少し上林先生は驚いたようだったけど、再び優しく細められた瞳にはわたしが映った。
「勢いいっぱいで突進型。高梨のいいところなんですけどね」
「ええ、うらやましいなって、いつも思っています」
わたしは、あんな風になれないから。
「わたし、忘れていました。昔から、どんな時も前を見て歩こうと決めていたことを」
自信がなくて、いつも下ばかり向いていた。こんなはずではなかったのに。
『おまえは、俺を好きじゃない』
真ちゃんは、あの時そう言った。
『教師としての俺に錯覚しているだけだ』
だから、おまえとは付き合うことはできないのだと。
『年相応の恋愛をしろ。今しかできない、そんな恋を。五歳以上も離れている相手に、貴重な時間を使ってる暇なんてないんだ』
最後の最後に振られた台詞は、一度も目を離すことはなく、真剣な面持ちで言われた。今を大切にしろ、と。何度も何度も。
わたしは、真剣だった。
だからこそ、その時は泣いた。どうやったらわかってもらえるのかと。
でも、わかってしまった。自分が先生の立場になって、生徒達を見ていたら。一秒ほどの一瞬がとても長く感じられたあの日々が、かけがえのないとても貴重な日々だったことに。そして、そんなこともわからずに大人ぶっていた自分がいかに子どもだったかということに。
『今という時を大事にしてくれ』
あの時、真ちゃんはそう言った。
「私、今を大事にしています。ひとりの大人として」
だから、その言葉を守ろうと決めた。
「そして、明日まではもちろん先生として」
自分が真ちゃんにしてもらったように、今度はわたしがその立場に立っていたい。
どうして先生になりたいと思ったの?
一語一句覚えていたはずなのに、あの時、彼はなんていったんだろう。思い出すことができない。それでも、記憶の中の大好きだった人は、そのまま前に突き進め、と言うように力強く頷いてくれた。
「と、取り乱してすみません」
いつの間にか、ひとり思い出にふけり、語り続けていた。
あまりに痛々しいやつすぎて、突然穴があったら入りたくなる。
「わ、わたし…」
「そうですね」
上林先生は穏やかな瞳で、わたしを見ていた。
「森本先生は、きっといい先生になれる」
その表情を見ていたら、やっぱり涙が止まらなくなった。
本当に、何やってるんだろうと、思うしかなかったけど、これも乗り越えるべき試練のひとつなのだと言ってくれている気がしたから。
きっとわたしは、また前に進める。
一日の報告書を書き上げて、部活動をしている生徒たちの帰宅の時間を告げるチャイムとともに裏門から外に出たわたしは、そこで待ち伏せしていた高梨くんの存在に気が付いた。
「高梨、くん?」
どうして?
「俺、森本ちゃんのこと、好きだから」
どうしてここに?という疑問を一気に吹き飛ばすような威力の高い言葉がいきなり直球で飛んできて、耳を疑う。
「え?」
いきなり、何を…
「高校時代にずっと好きだったの、知らなかったでしょ?」
え、えっと…
「ちょ、何言ってるの」
なんで今、そんな話を…
「再会して、あの頃の気持ちを思い出して、やっぱり好きだなって思いながら今日まで過ごしてきたんだ」
「い、いや、ちょっと待って。そんなこと言ってる暇…」
仮にも実習生としてここへきている身だ。
生徒にでも見られたら、とはっと我に返ったわたしはあたりを見渡す。
幸いにも駅から遠いこの裏門を使っている人間は少なく、今も変わらずそんな様子でほっとする。
「言わないとわかってくれないでしょ、森本ちゃんは。高校時代も、今も」
ごめん。と、声を落とした高梨くんは小さく謝る。
「わ、わたしは恋愛をするつもりでここへ戻ってきたわけじゃない」
母校で、どんな時よりも一番、自分自身が自分らしく輝いていたこの場所に、戻ると決まった時にそう決意していた。
「私は先生になりたくてここにいるの」
「俺だってそうだよ」
だから、と続けたかったけど、高梨くんは引こうとしなかった。
「俺がついてても先生になれるよ?」
夕日を背にした彼の顔は、逆光でどんな表情をしているのかわからなくなった。
「なんで、なんでそうやって、昔から人から壁を作ろうとするの?」
「え?」
壁?
そんなんじゃない。
即答したかったけど、言葉が出てこない。
その瞬間、いろんな感情が脳裏を駆け巡る。
大好きな真ちゃん。
わたしはその背中を追い続けていた。
それ以外は前に向かって走り続けていて、また、大好きな背中が見えた。
でも、見えてこない学校での生活。
笑い合った友達との記憶。
わたしには、覚えのない高校生としての記憶。
「つ、作ってな…」
言いかけたら、目頭がじんと熱くなった。
(私は、何をしているの?ここに、戻ってきて…)
なんとも言えぬ恐怖が襲ってくる。
「わたし…」
高校生活の思い出がないから、あるひとつの思い出に浸っているわけではない。
そう思いたいのに、もやもやと廻る思考回路を止めることはできなかった。
(わたしは…)
「まだ大学生に戻るには、一日早いぞ、おまえら…」
手で覆っても涙が止まらず、自分の情けなさに嫌気が差した時、突然後ろから響いた低い声に飛び上がった。
「う、上林先生…」
「青春ごっこは大学生に戻ってから」
頼むぞ、先生!とわたしたちの後ろで上林先生が困ったように笑っていた。
いつものジャージ姿とは違って、藍色のジャケットを羽織ってスタイリッシュな私服に身を包んだ彼は、別人のようだった。なぜ今、こんなタイミングで…と思ったけど、わたしは思わず目を奪われた。
「特に、高梨!」
「は、はいっ!」
さきほどまでの深刻さが嘘のようにムードのない声を荒げた返事で、直立する高梨くん。
生きた心地はしなかったけど、なんだかほっとして、どちらかといえばあまりに固まった高梨くんの様子がおかしくて、いつの間にか涙が引っ込んでいだ。
これが体育会系の上下関係というものなのだろうか。
上林先生が一言何かを言うたびに、高梨くんが機敏に返事を返し、謝罪の言葉を並べる。
わたしと小池先生にはない彼らの様子をぼんやり眺めていた。
「高梨、実習生なんて関係ない。おまえは今、生徒にとっては尊敬すべき教師なんだ。わきまえて行動しなさい」
最後の言葉はじんと胸に響いた。
(私は…教師…)
何よりも、なりたかったもの。
(一人でも多くの生徒たちの笑顔が見たくて…)
つらい時は一緒に泣き、嬉しい時は一緒に喜ぶ。
誰もがいつの日か思い出してふと笑顔になれる。そんな高校時代を一緒に作っていきたい。そう思っていた。大切だと思っていた友達たちとはもう笑いあえることなんてなかった。でも、わたしには支えてくれた大切な思い出があった。その気持ちを思うたび、今でも強くなれるように。
(そう、私は…)
あの時、真ちゃんが言っていた。
「た、高梨くん、ごめんなさい」
ずっと決めていた。
「わたしは、立派な教師になりたいの」
今しかできないことを精一杯の力で挑めることを伝えたい。
「憧れていた先生のようになりたいの」
ぐっと拳に力を入れたら、思ったよりもしっかりした声が出た。
「今はまだまだ弱いけど、もっともっと強くなって、それで…」
言葉を続ける前に、わかったよ、と高梨くんは悲しそうに笑った。
それから、「お騒がせしました」と上林先生の方に向かってお辞儀をし、そのままわたしたちに背を向けた。
ひどいことを言ったことは理解している。でも、彼の姿が暗闇に消えてしまうまで、わたしはその姿を目で追うことしかできなかった。
ぐっと握ったこぶしが震えている。
あれでよかったのか。気持ちにこたえることもできないのに罪悪感を覚えてしまう自分も嫌だ。負けるものか…と、ぐっと目を閉じ、そして、隣にいる存在を意識した。
「上林先生、すみませんでした」
静かに頭を下げると、少し上林先生は驚いたようだったけど、再び優しく細められた瞳にはわたしが映った。
「勢いいっぱいで突進型。高梨のいいところなんですけどね」
「ええ、うらやましいなって、いつも思っています」
わたしは、あんな風になれないから。
「わたし、忘れていました。昔から、どんな時も前を見て歩こうと決めていたことを」
自信がなくて、いつも下ばかり向いていた。こんなはずではなかったのに。
『おまえは、俺を好きじゃない』
真ちゃんは、あの時そう言った。
『教師としての俺に錯覚しているだけだ』
だから、おまえとは付き合うことはできないのだと。
『年相応の恋愛をしろ。今しかできない、そんな恋を。五歳以上も離れている相手に、貴重な時間を使ってる暇なんてないんだ』
最後の最後に振られた台詞は、一度も目を離すことはなく、真剣な面持ちで言われた。今を大切にしろ、と。何度も何度も。
わたしは、真剣だった。
だからこそ、その時は泣いた。どうやったらわかってもらえるのかと。
でも、わかってしまった。自分が先生の立場になって、生徒達を見ていたら。一秒ほどの一瞬がとても長く感じられたあの日々が、かけがえのないとても貴重な日々だったことに。そして、そんなこともわからずに大人ぶっていた自分がいかに子どもだったかということに。
『今という時を大事にしてくれ』
あの時、真ちゃんはそう言った。
「私、今を大事にしています。ひとりの大人として」
だから、その言葉を守ろうと決めた。
「そして、明日まではもちろん先生として」
自分が真ちゃんにしてもらったように、今度はわたしがその立場に立っていたい。
どうして先生になりたいと思ったの?
一語一句覚えていたはずなのに、あの時、彼はなんていったんだろう。思い出すことができない。それでも、記憶の中の大好きだった人は、そのまま前に突き進め、と言うように力強く頷いてくれた。
「と、取り乱してすみません」
いつの間にか、ひとり思い出にふけり、語り続けていた。
あまりに痛々しいやつすぎて、突然穴があったら入りたくなる。
「わ、わたし…」
「そうですね」
上林先生は穏やかな瞳で、わたしを見ていた。
「森本先生は、きっといい先生になれる」
その表情を見ていたら、やっぱり涙が止まらなくなった。
本当に、何やってるんだろうと、思うしかなかったけど、これも乗り越えるべき試練のひとつなのだと言ってくれている気がしたから。
きっとわたしは、また前に進める。