ーー話はここで、ようやく冒頭に戻る。

 僕は鼓動が走るのを抑えながら、そっと物陰から、甲板の方へと目を向ける。
 暗闇の中、手すりにもたれるのはアリア。彼女が顔を向ける波間には、ざんばらに髪を切り刻まれた無惨な人魚たちが、アリアに向かって短刀を捧げていた。
 人魚たちはあれを魔女の短刀と呼んだ。アリアに渡すために髪を代償二子たのだろう。

 もっとも年上らしい人魚が、岩に魚の半身を乗り上げて、アリアにさらに短刀を差し出した。彼女の声は涙声だった。

「アルツォーネ。声も尾鰭も失ってでも、初恋の王子と寄り添いたいと願った健気な娘。私たちの愛しい妹。あなたが泡になって消えるには悲しすぎる。どうか……私たちは、これからもあなたに生きていて欲しい」

 アリアは彼女に押し切られるように短刀を受け取った。
 人魚たちはそのまま波間に消えていく。
 短刀を戴いたアリアだけが、甲板に残った。

 王国の従者なら、ここで短刀を奪い取るのが正解だ。
 けれど僕はそんなことよりも、彼女の本当の名ーーアルツォーネという名を知れた感動でいっぱいだった。

 アリアーーアルツォーネはふわふわとした足取りで、王子と姫の眠る天幕へと向かう。僕もその後ろを足音を殺して追いかけた。
 短刀に何かまじないが込められているのか、新郎新婦の寝室に向かうアルツォーネを阻む衛兵は全ていびきをかいて眠り、ドアの鍵は触れるだけで錆び付いてぼろぼろと剥がれていった。

 ついにアルツォーネは新郎新婦ーー王子と姫の寝室の天幕まで辿り着いた。
 紫の刺繍がされた天幕をめくると、中には裸で並んで眠る二人の姿があった。霰もない姿の王子は酔いが回った幸福そうな顔をしている。

「………」

 アルツォーネは王子を見下ろしながら、短剣をぎゅっと握りしめた。
 しかし手を震わせたまま、振り下ろすことはなく、じっと唇を引き結んでいた。いつしか短剣に、涙の雫が落ちて伝う。刃を濡らす涙が王子の胸をぽつぽつと濡らしていた。
 アルツォーネは次第に、泣きながら優しい笑顔で彼を見ていた。

「……」

 唇が確かに『あいしてる』と動く。そして『さようなら』と。
 彼女は清々しい顔で振り返った。短剣を右手に持ち、天幕から出て。
 彼女は寝室の窓から、迷いなく短剣を投げ捨てようとした。

 僕は三度目の恋に落ちていた。
 自分の為に愛する人を犠牲にできない、その清らかな心が大好きだ。僕のことなんかどうでもいい。好きになってくれなくていい。
 僕はのその生き方が好きだ!!

 僕は咄嗟に、手のひらでナイフを受け止めた。

「ーー!!!!!」

 アルツォーネが目を大きく見開く。急に僕が飛び出したのだから、驚くのは当然だ。
 僕の手のひらから雫が落ちる。試しに僕は血を一滴、アルツォーネの足にかけてみた。
 それでもアルツォーネの足は尾鰭にならない。

「僕じゃあ、君の王子様にはなれないね」

 アルツォーネは首を横に振る。そして僕に縋りつこうとするのを振り払い、僕は天幕を開いた。

「!!!!」

 声にならない声で、アルツォーネが叫ぶ。
 ーー僕は王子様になれない。けれど。

 そこからはあっという間だった。
 僕は思い切り、両手で短剣を掴んで振りかぶり、王子の胸に突き立てた。何度も、何度も。
 王子の断末魔。隣で泣き叫ぶ花嫁。
 アルツォーネが髪を振り乱して声にならない声をあげる。

「アルツォーネ、海に行くんだ!!!」

 窓の外がどんどん明るくなっていく。朝が来てしまう。
 僕は問答無用でアルツォーネの軽い体を抱き上げて甲板へと躍り出た。

 水平線から登る朝日が、僕たちを眩しく橙に染める。ドレスから覗いたアルツォーネの足はあっという間に、半分ほど鱗に覆われ始めていた。
 人魚とばれる前に、彼女を逃さなければ。

 もうすでに船中から近衛兵が迫っていて、もう1秒も時間はない。
 僕は最後の力を振り絞って、アルツォーネを甲板から海に放り投げた。

「さよなら、アルツォーネ!!!!!」

 ばしゃん。
 人魚姫が海に還った喜びの飛沫か。それとも僕の体から吹き出した血潮の音か。
 気がつけば僕は、甲板の血の海に転がっていた。
 何も見えない。叫ぶ声も出ない。
 おそらく全身を槍で突かれたのだろう。痛みに身悶えることも、絶叫することもできない、不思議な絶望だった。

「ジャック!!!!!!!!!!」

 遠くなっていく意識の中、風に乗って女の悲痛な叫びが聞こえた。
 僕の名前なんて覚えてる人、船には乗っていないはずなのに。

 ーーああ、そうか。
 アルツォーネは僕の名前を覚えていてくれていたんだ。

 泡にはなれない僕はそのまま、彼女の最後の言葉だけを胸に、甲板で冷たく土色になっていった。