卒業式の朝。
 父はスーツの胸ポケットに忍ばせた、母の写真をそっと見せてくれた。

「ちゃんと二人で見に行くよ。高校生活最期の時間を楽しんできなさい」

 そう告げた父は、不意に目を細めて私の頭を撫でた。私を通して、思い出を見ているような遠い眼差しだった。

「お母さんに本当によく似たな、お前は」
「お父さん……」
「泣くのはまだ早いよ。遅刻しないうちに行きなさい。お父さんも間に合うように出るから」
「うん。……それじゃあ、行ってきます」

 家の玄関を抜けると、眩しい太陽がすっかりまばらになった住宅街を白々と照らしている。良い天気だ。
 友達と会っていつものようにはしゃぎながら登校して、少し浮き足立った教室に入った。

 卒業式は始まってしまえば流れ作業のような時間だった。
 今年度で「桜ノ端高校」の名前も改名されるということで、通常の卒業式より多く長く、来賓の言葉が続く。私たちの卒業式というよりも、卒業生も大人も巻き込んだ、桜ノ端高校という存在そのものへの別れの儀式みたいだ。
 列席者の列で父を見つけてからは、私はただ体育館の窓を彩る満開の桜の花に目を向けていた。
 お経のような言葉を聞き続ける体育館の中と反対に、よく晴れた空に咲く桜は綺麗だった。

「本当にもう終わっちゃうんだね、桜ノ端」

 誰かのささやき声が聞こえる。またひそひそと、誰かの返事が聞こえた。

「終わるって言っても合併で名前が色々変わるだけじゃん。大したことないよ」
「確かに、合併したらどんどん人が増えそうだよね」

 みんな、合併に対しては寂しさよりも賑やかになっていく興奮の方が大きいみたいだ。
 私だってそうだった。桜ノ端という言葉がただの地名でしかなかった時は。

「それでは、卒業生による校歌斉唱」

 一斉に、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がる。
 聴き慣れたピアノの伴奏が始まり、私は体育館に掲げられた校歌の額へと目を向けた。

『西に山青く天満宮見守る 東に流れる端川の学舎』

 歌詞に、不意に雷に打たれたような気持ちがした。

「……神様、」

 私の呟きは、伴奏の音色に掻き消える。
 校歌なんて一年に一度歌うか歌わないかだから、ほとんど気にしたことがなかった。だから気づかなかった。
 ーー天満宮の見守る山。
 神様は言っていた。あの廃神社は元々天満宮だったと。その時の歌詞がまだ、ここには残っているんだ。
 校歌で歌われる世界は、長い年月神様が見守ってきた、景色そのものなんだ。

 気づいてしまえば、歌詞の一つ一つがまるで神様を歌う言葉に聞こえる。
 桜ノ端を貫く端川。広がる田園。
 山と田んぼと川しかない、けれどそれが、あなたという土地神様が守ってきた土地そのもの。

「う……」

 涙がぼろぼろと溢れていく。
 卒業に感極まった周りのクラスメイトも泣いているので、私の涙は目立たない。
 これから消える土地の思い出をみんなが語り、その土地の歌を歌う。
 校歌に描かれている風景ーー田園も、裏山も、町の名前も彼が全て愛したものだ。春をもって全て消えていく。
 まるで葬儀みたいだ。

 私が泣いてもどう足掻いても、神様が消える運命は変わらない。
 どんなに泣いても恋しくても、お母さんが死んだ運命が変わらないように。
 けれど、私はお母さんを思って看護師を目指す。
 私はずっと、初恋の相手を覚えて生きていく。
 運命は変えられなくても、未来は変えられる。
 お母さんの思い出も、神様の思い出もーー私はずっと、生きて行く限り忘れない。

 式典が終わった後に落ち合った父も、目尻を赤くしていた。
 父も、母のことを思い出していたのかもしれない。

「卒業おめでとう、遥花」
「お父さんも、『女子高生のお父さん』卒業おめでとう。いつもありがとう」

 私たちの卒業式は終わった。
 けれど私は、もう一人、会って伝えたい人がいる。