◆◇
幽霊とデートの約束をしてから一週間後。紅葉を観に行くなら人の多い休日より平日の方が良いということで、私は木曜5限目の経営学の講義をサボり、午後5時に大学を後にした。
「で、どこに行きたいんだっけ」
京都には有名な紅葉スポットがいくつもある。清水寺や東寺、南禅寺あたりが有名どころで観光客も多く訪れる。といっても、京都に来て二年目の私はまだまだこの地に詳しくない。
「えっとね、ここ」
周囲に人がいないのを確認して、彼が雑誌の一面を開く。
そこに書かれていたのは、「永観堂」というお寺だった。
「永観堂……聞いたことないわね」
「そう? 紅葉では割と有名なんだって」
彼に言われてすぐにスマホのマップで場所を調べる。見ると、京都市を南北に流れる鴨川を渡り、平安神宮の方まで下る。そこからさらに東側にあるみたいだ。
多分一番手っ取り早いのは地下鉄かバスで近くまで移動することなんだろうけれど。
チラッと隣を浮遊する彼を見る。いつもは後ろを歩いている彼も、今日ばかりは隣にいる。
交通機関を使うと、こいつの肩身が狭くなるかな。
いい運動だし歩いて行くのも悪くないかもしれない。
いつの間にか幽霊に気を遣っている自分がなんだかおかしい。でも不思議と嫌な気持ちはしない。
「このまま歩いていくの?」
「ええ」
「大変じゃない?」
「大丈夫。歩くの好きだし」
「そっか。ありがとな」
ドキ、と心臓が跳ねる。あれ、私どうしたんだろう。身体の反応に戸惑う。幽霊に感謝されたくらいでなんだ。
「と、とにかくさっさと歩く!」
「はーい」
軽々しくすーっと前を飛んでく彼が憎たらしい。まあ、私から5メートル以上離れられないから遠くまでは進めないのだけれど。
京都市内は坂が少なく、自然が多いため歩くだけでも楽しい。私が京都の大学に進学したのも、修学旅行で京都に来た際にその美しい景観に見惚れたからだ。だから歩くのは苦痛じゃなかった。それに今は、変な幽霊と一緒だしね。
それから、彼と他愛のない会話をしながら、30分くらい歩いただろうか。
ようやく目的の永観堂の入り口にたどり着いた。
時刻は17時40分。もうとっくに日が落ちて本格的な夜のようだ。
「うわ、すごい人」
永観堂の入り口には平日にもかかわらず人波が押し寄せていた。確か、開館は18時だったはず。20分も前から長蛇の列ができている。そのほとんどが大学生カップルで、さすが「京都は学生の街」と言われるほどのことはある。どこにも、一人でいる女の子はいない。男性ならば立派な一眼レフを抱えた人が幾人もいるが。
肩身の狭さを覚えた私は、行列の中に埋もれるようにして立つことにした。
「うへえ、こんなに人いるのか〜」
幽霊の涼真も初めて来る永観堂のライトアップの人気に度肝を抜かれたらしい。
彼と二人で黙々と並ぶこと約20分。ようやく列が動き出し、入り口が開放された。拝観料を支払い、私たちは永観堂の中へと一歩足を踏み入れる。
「綺麗……」
中へ入ってすぐに、真っ赤に色づいた紅葉がライトに照らされる様が目に入ってきた。一気に幻想の世界へと引き込まれてゆく。すごい。この美しさをどう言葉で表現したら良いのか分からないが、とにかく心が惹かれている。
「めちゃくちゃ綺麗だな」
おおお、とその見事な景色に圧倒された涼真は、紅葉の木の周りを一周して360°からその美しさを堪能する。私は初めて「幽霊っていいなあ」と思った。
「ねえ、涼真、あっちも行ってみよう」
「お、おう」
「どうしたの」
「いや、初めて名前で呼んでくれたと思って」
「あ……」
私はついうっかり自然と彼の名を呼んでしまったことに気がつき、恥ずかしさが込み上げて来た。
いつも彼を呼ぶ時は「ねえ」とか「あのさ」とか、呼称をつけないようにしていたから。
「……心の中ではずっと呼んでたんだよっ」
だって、仕方ないじゃん。それしか呼び方がないんだから! この人混みじゃ、はっきり名前を呼ばないとはぐれちゃうし!
実際は彼と私がはぐれることなんてないのだけれど、心の中で精一杯言い訳をした。
「分かった、分かった。ありがとう、唯佳ちゃん」
きゅう、とお腹の底で心が鳴く音がした。なんだ、これ。どうしちゃったんだ私。胸が疼いて、ちょっと苦しい。ついでに頭もちょっと痛い。彼の方を見られない。今目が合えばきっと、私は冷静でいられなくなる。
「ちょっと、待ってよ」
ずんずん、ずんずん。
彼がついてこられないように、早足で永観堂の中を進んだ。左右に生えている紅葉の木が、私を見てと泣いている。でも今私はそれどころじゃないんだ。一刻も早く、この場から逃れたい。
彼から遠く離れたい。
「どうしちゃったんだ。もっとゆっくり紅葉見ようよ! ほら、こんなに綺麗な紅色。唯佳ちゃんの好きな色じゃないか」
ザッと。必死に私を追う彼の言葉に私は足を止めた。
私、彼に赤が好きだなんて言ったことあったっけ……?
ドクン、と心臓が跳ねる。彼はどうして私の好きなものを知ってるんだろう。そもそもどうして、私の目の前に現れたんだろう……。うるさいくらいに鼓動が速くなる。
「なんで、知ってるの……?」
「え?」
「どうして私の好きな色なんか」
あなたが知ってるの。
本来ならば、そこまで気にすることはないのかもしれない。好きな色なんて、当てずっぽうでも言い当てることはできる。
それなのにどうして、こんなにも胸がざわつくのだろう。
「そういえば俺、どうしてそんなこと言ったんだろう……。君から聞いたことなんて、一度もないはずなのに」
なぜか涼真も、自分がなぜ私の好きな色を言えたのか分からないらしく、首を傾げている。なんだそれ、なんだそりゃ。ちっとも理解ができない。
「……なんかちょっと、疲れたね」
疲れたのは自分のせい。私が彼を置いて早足で逃げて行ったせい。彼に赤くなった顔を見られないようにせっせと遠ざかろうとしたせい。
「そうだね。少し休憩するか」
この人混み中、どこで休憩すれば良いのだろうと辺りを見回したところ、池のすぐそばにお茶やぜんざい、お団子を売っているところがあった。
「あそこに行こ」
「おっけー」
神社の中に現れたお茶屋さんに吸い込まれるようにして私たちは中へと入った。お客さんも多く、外に並べられた長椅子に赤い毛氈がかけられている。「いかにも」な雰囲気に、乱れた心が一気に高揚した。
「私、みたらし団子食べたい」
甘辛い醤油の香りが鼻をかすめた途端、私の腹の虫がぐうと鳴いた。大学が終わってから何も口にしていなかったため、かなりお腹が減っていた。
「いいよ。俺に構わず食べて」
「ありがとう!」
何も口にできない幽霊の厚意に甘えて、お店の人にお茶とみたらし団子を注文した。そろそろ一人でいるのが気にならなくなってきて、空いている長椅子に贅沢に一人で腰掛ける。
「ふう、紅葉綺麗だけど人多くてちょっと疲れるわね」
「そうだな。でも俺は来られて良かったよ」
「……それは、私も」
なんだかんだ言いつつ美しいものを見れば心は癒される。それも、好きな人と一緒ならばなおさら。
……て、今私何を考えた?
好きな人。
涼真が私の好きな人……?
そんな、馬鹿な。
だって相手は幽霊だよ。生きている人間じゃないんだよ。どうして恋なんかできる?
「お待たせしました。熱いのでお気をつけください」
店員さんがお茶とみたらし団子を運んできてくれた。艶のあるお団子の表面。見るからに甘くて美味しそうだった。
「唯佳ちゃん、食べないの?」
お団子を前にしてもなかなか手をつけない私を訝しく思った涼真が訊いてきた。
「た、食べるよ!」
ふぅ、とまずはお茶に息を吹きかけてひとくち口に含んだ。
「あつっ」
舌が痺れるほど熱々のお茶が喉を潤してゆく。香ばしいお団子を口にすると、先ほどまでの乱れた心が一気に和やかになるのが分かった。
やっぱり、美味しいものを食べると元気になれる。そんな当たり前のことに今更気がつくなんて。
「おいひ〜」
側から見れば私は一人で紅葉を見にきた寂しい女に見えるのかもしれないけれど、実際はそんなことない。最初は幽霊と二人でデートなんてどうかと思ったが、目の前の素晴らしい景色と美味しい食べ物のもとに、些細なことはどうでもよくなった。
ふと、隣に腰掛けた(ふうに浮いている)涼真を見る。彼はもう、食べたいものを口にすることができないのだ。どんなに綺麗な風景を見られたとしても、それも私を通して見られるだけで、自由に行きたいところに行くことができない。
それってどれだけ不自由で大変なことなんだろう……。
「……ごめん」
こみ上げきた切なさの代わりに出て来たのは謝罪の言葉だった。
私だけ、良い思いをしてごめんなさい。
謝る必要なんてないことぐらい、分かっている。どちらかと言えば幽霊に取り憑かれた私は被害者なのだ。本来ならば今日だって、沙紀と一緒に紅葉を見に来ていたのだろう。いつものように近況を語らいならが、二人で記念の写真を撮る。スマホには私と沙紀の笑顔が光っている。
「なんで謝んの?」
足元に落ちていた紅葉を拾う仕草をしながら、でも絶対に掴むことのできないそれを指で弄ぶようにする彼が私の方を見た。
「だって、隣で美味しいお団子食べたりしてさ。あなたは食べられないのにっ。それに、
いっつも私が行くところにしか行けないじゃない。大学とかバイト先とか、行ったってつまらないでしょう? だから」
「そんなの、関係ねーよ」
ぶすっとした表情で私の言葉を否定する彼。紅葉を触ることを諦めたのか、今度は腕を組み胡座をかいた。
「別に俺は、特別なことをしたいわけじゃない。最初から自分がなんでこうなっちゃったのか、分かんねえし。でも一つだけ言えるのは、俺はただ唯佳ちゃんといられればそれでいい。大体今日だって、俺がここに来たいって言ったんだ。だからさ、ありがとな」
ふっと、表情を和らげて彼は笑った。
なんでだろう。
どうしてだろう。
目の淵に、自然と水滴が溜まってゆくのを感じる。決して溢すまいと、必死に袖で拭う。
それに。
「私、いつ誰から言われたのか思い出せないのだけれど、同じようなことを言われたこ
とがある気がする。『唯佳ちゃんといられればそれでいい』って……。思い出せない。でも絶対に、聞いたことがあるの」
そしてその言葉を聞いた時、心がとても温かくなったのを覚えている。頭では思い出せないのに心が覚えている。
「そっか。そいつ、俺のライバルかな。でも、唯佳ちゃんはそいつのことがすっごい好きだったんだろうな。」
ニカっと、歯を見せて笑う涼真。幽霊なのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。どうしてこんなにも、彼の言葉に心が揺さぶられるのだろう……。
「私さ、実はちょっと前に、事故に遭ったことがあって。結構大きな事故だったんだけど、たいした怪我がなくて奇跡だって言われてて。家族も不幸中の幸だって泣いて喜んでくれて。でも私、なんでか心がざわつくの。事故は終わったことなのに、私は今ここで生きているのに、何か、大切なものを忘れているような気がして」
あまり思い出したくないことだから、これまで事故のことを他人に振るようなことはしなかった。話された方だって気を遣うし、できれば忘れたいことでもある。沙紀や他の友人、家族にはたくさん迷惑をかけた。みんなのためにも、取り留めた命と健康を大切に日々を楽しく過ごしたいと思っていた。
それなのに、今日の私はどこかおかしい。幽霊と共に生活を送るうちに、ネジが一つ外れてしまったんだろうか。
涼真といると、心の隙間まで見られているような心地がして。実際そんなことはないのだろうけれど、何でも話したくなってしまう。弱い自分を見せてしまう。
「そんなことが、あったんだな。辛かっただろう」
彼が私の頭を自分の胸に引き寄せる仕草をして、私は焦る。突然の出来事に、脈拍が上がる。私が男の子に抱擁されていることは誰にも見られていないのに、恥ずかしさで顔が紅潮してゆくのを感じた。夜の闇が、こんなにもありがたいと思ったことはなかった。大丈夫。きっと誰にも、気づかれていない。
「……なんか、変ね」
「ん」
「幽霊のあなたに、励まされるなんて」
「そうか? 幽霊だろうがなんだろうが、俺は唯佳ちゃんに笑ってほしい」
「また……」
そんなこと。
さらっと言ってのける彼が、新種の生物に思える。普通そういう歯の浮くような台詞、恥ずかしくて口にできない。
何を続ければ良いか分からなくなって、私は残りのお団子に夢中でぱくついた。タレが唇や頬についても気にせず一気に平らげる。「そんなに急いで食べて大丈夫?」という彼の気遣いも無視して黙々と口を動かすことだけに集中する。
「ぷは」
ビールでも飲んだかのようにお茶を飲み干して、「ごちそうさま」と手を合わせた。じっとしていると感情の波が収まらない気がして、早く動き出したいと思った。
「さて、もう少し紅葉を楽しんでから帰りましょう」
椅子から立ち上がって、彼がいる方に顔を向ける。なるべく、周りの人から見て変人だと思われないような自然な仕草。彼と過ごすうちにいつの間にか身についてしまった。
「そうこなくっちゃ」
満面の笑みを浮かべる涼真がすうっと高く飛び上がり、「こっちに来て」と私を呼んだ。
彼に置いていかれないように、私は早足で歩き出す。
深い青色の空に、明かりで照らされた紅葉の赤がよく映える。その間を飛んでゆく彼を見て、自由だとちょっぴり羨ましくなった。
幽霊とデートの約束をしてから一週間後。紅葉を観に行くなら人の多い休日より平日の方が良いということで、私は木曜5限目の経営学の講義をサボり、午後5時に大学を後にした。
「で、どこに行きたいんだっけ」
京都には有名な紅葉スポットがいくつもある。清水寺や東寺、南禅寺あたりが有名どころで観光客も多く訪れる。といっても、京都に来て二年目の私はまだまだこの地に詳しくない。
「えっとね、ここ」
周囲に人がいないのを確認して、彼が雑誌の一面を開く。
そこに書かれていたのは、「永観堂」というお寺だった。
「永観堂……聞いたことないわね」
「そう? 紅葉では割と有名なんだって」
彼に言われてすぐにスマホのマップで場所を調べる。見ると、京都市を南北に流れる鴨川を渡り、平安神宮の方まで下る。そこからさらに東側にあるみたいだ。
多分一番手っ取り早いのは地下鉄かバスで近くまで移動することなんだろうけれど。
チラッと隣を浮遊する彼を見る。いつもは後ろを歩いている彼も、今日ばかりは隣にいる。
交通機関を使うと、こいつの肩身が狭くなるかな。
いい運動だし歩いて行くのも悪くないかもしれない。
いつの間にか幽霊に気を遣っている自分がなんだかおかしい。でも不思議と嫌な気持ちはしない。
「このまま歩いていくの?」
「ええ」
「大変じゃない?」
「大丈夫。歩くの好きだし」
「そっか。ありがとな」
ドキ、と心臓が跳ねる。あれ、私どうしたんだろう。身体の反応に戸惑う。幽霊に感謝されたくらいでなんだ。
「と、とにかくさっさと歩く!」
「はーい」
軽々しくすーっと前を飛んでく彼が憎たらしい。まあ、私から5メートル以上離れられないから遠くまでは進めないのだけれど。
京都市内は坂が少なく、自然が多いため歩くだけでも楽しい。私が京都の大学に進学したのも、修学旅行で京都に来た際にその美しい景観に見惚れたからだ。だから歩くのは苦痛じゃなかった。それに今は、変な幽霊と一緒だしね。
それから、彼と他愛のない会話をしながら、30分くらい歩いただろうか。
ようやく目的の永観堂の入り口にたどり着いた。
時刻は17時40分。もうとっくに日が落ちて本格的な夜のようだ。
「うわ、すごい人」
永観堂の入り口には平日にもかかわらず人波が押し寄せていた。確か、開館は18時だったはず。20分も前から長蛇の列ができている。そのほとんどが大学生カップルで、さすが「京都は学生の街」と言われるほどのことはある。どこにも、一人でいる女の子はいない。男性ならば立派な一眼レフを抱えた人が幾人もいるが。
肩身の狭さを覚えた私は、行列の中に埋もれるようにして立つことにした。
「うへえ、こんなに人いるのか〜」
幽霊の涼真も初めて来る永観堂のライトアップの人気に度肝を抜かれたらしい。
彼と二人で黙々と並ぶこと約20分。ようやく列が動き出し、入り口が開放された。拝観料を支払い、私たちは永観堂の中へと一歩足を踏み入れる。
「綺麗……」
中へ入ってすぐに、真っ赤に色づいた紅葉がライトに照らされる様が目に入ってきた。一気に幻想の世界へと引き込まれてゆく。すごい。この美しさをどう言葉で表現したら良いのか分からないが、とにかく心が惹かれている。
「めちゃくちゃ綺麗だな」
おおお、とその見事な景色に圧倒された涼真は、紅葉の木の周りを一周して360°からその美しさを堪能する。私は初めて「幽霊っていいなあ」と思った。
「ねえ、涼真、あっちも行ってみよう」
「お、おう」
「どうしたの」
「いや、初めて名前で呼んでくれたと思って」
「あ……」
私はついうっかり自然と彼の名を呼んでしまったことに気がつき、恥ずかしさが込み上げて来た。
いつも彼を呼ぶ時は「ねえ」とか「あのさ」とか、呼称をつけないようにしていたから。
「……心の中ではずっと呼んでたんだよっ」
だって、仕方ないじゃん。それしか呼び方がないんだから! この人混みじゃ、はっきり名前を呼ばないとはぐれちゃうし!
実際は彼と私がはぐれることなんてないのだけれど、心の中で精一杯言い訳をした。
「分かった、分かった。ありがとう、唯佳ちゃん」
きゅう、とお腹の底で心が鳴く音がした。なんだ、これ。どうしちゃったんだ私。胸が疼いて、ちょっと苦しい。ついでに頭もちょっと痛い。彼の方を見られない。今目が合えばきっと、私は冷静でいられなくなる。
「ちょっと、待ってよ」
ずんずん、ずんずん。
彼がついてこられないように、早足で永観堂の中を進んだ。左右に生えている紅葉の木が、私を見てと泣いている。でも今私はそれどころじゃないんだ。一刻も早く、この場から逃れたい。
彼から遠く離れたい。
「どうしちゃったんだ。もっとゆっくり紅葉見ようよ! ほら、こんなに綺麗な紅色。唯佳ちゃんの好きな色じゃないか」
ザッと。必死に私を追う彼の言葉に私は足を止めた。
私、彼に赤が好きだなんて言ったことあったっけ……?
ドクン、と心臓が跳ねる。彼はどうして私の好きなものを知ってるんだろう。そもそもどうして、私の目の前に現れたんだろう……。うるさいくらいに鼓動が速くなる。
「なんで、知ってるの……?」
「え?」
「どうして私の好きな色なんか」
あなたが知ってるの。
本来ならば、そこまで気にすることはないのかもしれない。好きな色なんて、当てずっぽうでも言い当てることはできる。
それなのにどうして、こんなにも胸がざわつくのだろう。
「そういえば俺、どうしてそんなこと言ったんだろう……。君から聞いたことなんて、一度もないはずなのに」
なぜか涼真も、自分がなぜ私の好きな色を言えたのか分からないらしく、首を傾げている。なんだそれ、なんだそりゃ。ちっとも理解ができない。
「……なんかちょっと、疲れたね」
疲れたのは自分のせい。私が彼を置いて早足で逃げて行ったせい。彼に赤くなった顔を見られないようにせっせと遠ざかろうとしたせい。
「そうだね。少し休憩するか」
この人混み中、どこで休憩すれば良いのだろうと辺りを見回したところ、池のすぐそばにお茶やぜんざい、お団子を売っているところがあった。
「あそこに行こ」
「おっけー」
神社の中に現れたお茶屋さんに吸い込まれるようにして私たちは中へと入った。お客さんも多く、外に並べられた長椅子に赤い毛氈がかけられている。「いかにも」な雰囲気に、乱れた心が一気に高揚した。
「私、みたらし団子食べたい」
甘辛い醤油の香りが鼻をかすめた途端、私の腹の虫がぐうと鳴いた。大学が終わってから何も口にしていなかったため、かなりお腹が減っていた。
「いいよ。俺に構わず食べて」
「ありがとう!」
何も口にできない幽霊の厚意に甘えて、お店の人にお茶とみたらし団子を注文した。そろそろ一人でいるのが気にならなくなってきて、空いている長椅子に贅沢に一人で腰掛ける。
「ふう、紅葉綺麗だけど人多くてちょっと疲れるわね」
「そうだな。でも俺は来られて良かったよ」
「……それは、私も」
なんだかんだ言いつつ美しいものを見れば心は癒される。それも、好きな人と一緒ならばなおさら。
……て、今私何を考えた?
好きな人。
涼真が私の好きな人……?
そんな、馬鹿な。
だって相手は幽霊だよ。生きている人間じゃないんだよ。どうして恋なんかできる?
「お待たせしました。熱いのでお気をつけください」
店員さんがお茶とみたらし団子を運んできてくれた。艶のあるお団子の表面。見るからに甘くて美味しそうだった。
「唯佳ちゃん、食べないの?」
お団子を前にしてもなかなか手をつけない私を訝しく思った涼真が訊いてきた。
「た、食べるよ!」
ふぅ、とまずはお茶に息を吹きかけてひとくち口に含んだ。
「あつっ」
舌が痺れるほど熱々のお茶が喉を潤してゆく。香ばしいお団子を口にすると、先ほどまでの乱れた心が一気に和やかになるのが分かった。
やっぱり、美味しいものを食べると元気になれる。そんな当たり前のことに今更気がつくなんて。
「おいひ〜」
側から見れば私は一人で紅葉を見にきた寂しい女に見えるのかもしれないけれど、実際はそんなことない。最初は幽霊と二人でデートなんてどうかと思ったが、目の前の素晴らしい景色と美味しい食べ物のもとに、些細なことはどうでもよくなった。
ふと、隣に腰掛けた(ふうに浮いている)涼真を見る。彼はもう、食べたいものを口にすることができないのだ。どんなに綺麗な風景を見られたとしても、それも私を通して見られるだけで、自由に行きたいところに行くことができない。
それってどれだけ不自由で大変なことなんだろう……。
「……ごめん」
こみ上げきた切なさの代わりに出て来たのは謝罪の言葉だった。
私だけ、良い思いをしてごめんなさい。
謝る必要なんてないことぐらい、分かっている。どちらかと言えば幽霊に取り憑かれた私は被害者なのだ。本来ならば今日だって、沙紀と一緒に紅葉を見に来ていたのだろう。いつものように近況を語らいならが、二人で記念の写真を撮る。スマホには私と沙紀の笑顔が光っている。
「なんで謝んの?」
足元に落ちていた紅葉を拾う仕草をしながら、でも絶対に掴むことのできないそれを指で弄ぶようにする彼が私の方を見た。
「だって、隣で美味しいお団子食べたりしてさ。あなたは食べられないのにっ。それに、
いっつも私が行くところにしか行けないじゃない。大学とかバイト先とか、行ったってつまらないでしょう? だから」
「そんなの、関係ねーよ」
ぶすっとした表情で私の言葉を否定する彼。紅葉を触ることを諦めたのか、今度は腕を組み胡座をかいた。
「別に俺は、特別なことをしたいわけじゃない。最初から自分がなんでこうなっちゃったのか、分かんねえし。でも一つだけ言えるのは、俺はただ唯佳ちゃんといられればそれでいい。大体今日だって、俺がここに来たいって言ったんだ。だからさ、ありがとな」
ふっと、表情を和らげて彼は笑った。
なんでだろう。
どうしてだろう。
目の淵に、自然と水滴が溜まってゆくのを感じる。決して溢すまいと、必死に袖で拭う。
それに。
「私、いつ誰から言われたのか思い出せないのだけれど、同じようなことを言われたこ
とがある気がする。『唯佳ちゃんといられればそれでいい』って……。思い出せない。でも絶対に、聞いたことがあるの」
そしてその言葉を聞いた時、心がとても温かくなったのを覚えている。頭では思い出せないのに心が覚えている。
「そっか。そいつ、俺のライバルかな。でも、唯佳ちゃんはそいつのことがすっごい好きだったんだろうな。」
ニカっと、歯を見せて笑う涼真。幽霊なのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。どうしてこんなにも、彼の言葉に心が揺さぶられるのだろう……。
「私さ、実はちょっと前に、事故に遭ったことがあって。結構大きな事故だったんだけど、たいした怪我がなくて奇跡だって言われてて。家族も不幸中の幸だって泣いて喜んでくれて。でも私、なんでか心がざわつくの。事故は終わったことなのに、私は今ここで生きているのに、何か、大切なものを忘れているような気がして」
あまり思い出したくないことだから、これまで事故のことを他人に振るようなことはしなかった。話された方だって気を遣うし、できれば忘れたいことでもある。沙紀や他の友人、家族にはたくさん迷惑をかけた。みんなのためにも、取り留めた命と健康を大切に日々を楽しく過ごしたいと思っていた。
それなのに、今日の私はどこかおかしい。幽霊と共に生活を送るうちに、ネジが一つ外れてしまったんだろうか。
涼真といると、心の隙間まで見られているような心地がして。実際そんなことはないのだろうけれど、何でも話したくなってしまう。弱い自分を見せてしまう。
「そんなことが、あったんだな。辛かっただろう」
彼が私の頭を自分の胸に引き寄せる仕草をして、私は焦る。突然の出来事に、脈拍が上がる。私が男の子に抱擁されていることは誰にも見られていないのに、恥ずかしさで顔が紅潮してゆくのを感じた。夜の闇が、こんなにもありがたいと思ったことはなかった。大丈夫。きっと誰にも、気づかれていない。
「……なんか、変ね」
「ん」
「幽霊のあなたに、励まされるなんて」
「そうか? 幽霊だろうがなんだろうが、俺は唯佳ちゃんに笑ってほしい」
「また……」
そんなこと。
さらっと言ってのける彼が、新種の生物に思える。普通そういう歯の浮くような台詞、恥ずかしくて口にできない。
何を続ければ良いか分からなくなって、私は残りのお団子に夢中でぱくついた。タレが唇や頬についても気にせず一気に平らげる。「そんなに急いで食べて大丈夫?」という彼の気遣いも無視して黙々と口を動かすことだけに集中する。
「ぷは」
ビールでも飲んだかのようにお茶を飲み干して、「ごちそうさま」と手を合わせた。じっとしていると感情の波が収まらない気がして、早く動き出したいと思った。
「さて、もう少し紅葉を楽しんでから帰りましょう」
椅子から立ち上がって、彼がいる方に顔を向ける。なるべく、周りの人から見て変人だと思われないような自然な仕草。彼と過ごすうちにいつの間にか身についてしまった。
「そうこなくっちゃ」
満面の笑みを浮かべる涼真がすうっと高く飛び上がり、「こっちに来て」と私を呼んだ。
彼に置いていかれないように、私は早足で歩き出す。
深い青色の空に、明かりで照らされた紅葉の赤がよく映える。その間を飛んでゆく彼を見て、自由だとちょっぴり羨ましくなった。



