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ばふ、と投げつけたカバンが硬いところに当たる音がして、私は目を疑った。
自分で言うのもなんだが、運動神経には自信がある。中学の球技大会では必ずチームを引っ張っていたし、高校ではあらゆる運動部の先輩たちから部活の勧誘を受けた。
だから、私がこの距離で的を外すはずがない。
それなのに男を目掛けて投げたはずのカバンは、どうしてか彼の後ろの壁に当たったのだ。それだけじゃない。私が投げたカバンは、彼の身体を貫通して壁に当たったように見えた。
「は……」
あまりの衝撃に、私は二の句が継げなくなる。
一体これはどういうこと? なぜ男にカバンが当たらないの? ていうかこれ、本当に現実?
何一つ理解が及ばなくて、一歩後退りするのが精一杯だった。
これ以上私の出方を待っても埒が明かないと思ったのか、男はゆっくりと口を開いて、右腕を上げた。
やばい、殴られるっ!
観念した私は、目をぎゅっと瞑ってこれから受けるであろう衝撃に備える。もう、どうしようもない。来るなら来やがれ!
この危機的状況に格闘技精神で迎え撃つというのは己の本能が恐ろしい……。
……。
…………。
「……」
あれ……?
しばらく目を瞑っていたのだが、予想に反して衝撃は何もこない。
不思議に思い、うっすらと目を開ける。
「よお」
そこには、まるで久しぶりに会った友人に挨拶でもするかのように、右手を上げてにっこりと歯を見せる男がいた。

さて、状況をまとめよう。
私はいま、一人暮らしのマンションの一室にいる。大学進学のため、千葉から京都に引っ越してきた。ちなみに大学は街中にある私立大学。
今日はバイトから帰ってきてご飯も食べずにまずお風呂に入った。早く疲れを癒したいと思ったからだ。
そして、お風呂から上がると、1Kの部屋に不審な男がいたってわけ。
ふむふむ。
順を追って状況を整理するうちに、分かったことがある。
私はやっぱり、この男がいつ、どうやってうちに侵入したのか、投げたカバンが当たらなかったのか、なぜ私を襲うでもなく笑顔でそこに立っているのか、さっぱり理解できない。

「あのお……不審者、ですよね」
不審者を前にしてこんな呑気な質問をするバカがどこにもいないことは分かっているのだが、なんとなく、目の前の男が悪い人ではないような気がして訊いた。
「へ? うーん、まあ君からすればそうなるのか」
男は、すっとぼけたような返事をして後頭部を掻いた。
「いや、そもそもここ、私の家です。不法侵入です。出てってくれませんか」
矢継ぎ早に用件だけ伝える。不審者に対し、冷静に要望をつらつらと述べている現状がおかしすぎてたまらない。
「いやあ、俺も出て行きたいんだけどさ。それが、無理なんだよ」
「は? なんで?」
なんか、だんだんイライラしてきた。
なぜこの男は侵入した赤の他人の家でこうものんびりとしてやがるのだ。家主に見つかったんだから、とっとと退散しなさいよ。
「だって、ほら」
突然男は私の方へ——いや、玄関へと続く廊下の方へ歩いて行った。おお、やっと出て行ってくれる気になったのか。よろしい。もう警察に連絡する気は満々だけれど。
しかし、私の希望とは裏腹に、彼は玄関の前で立ち止まると、その場で足踏みをしだした。なぜ。
そこまで来ているのに、なぜ出ていかない?
「これ以上、前に進めない」
何度か足踏みした彼がふと動きを止めて、振り返って私を見た。
「は、どういうこと? 意味分かんないんだけど」
「えーと、告白するとさ。俺も自分がなんでここにいるのか、分からないんだ」
「……アンタ、頭大丈夫?」
「いやいや、ちょっと待ってよ。最後まで話聞けって。俺はその……、つまりだな。その」
そこで男は言葉を続けるか迷ったのだろう。足元に視線を落とし、自分の爪先と、私の顔を交互に見つめゆっくりと口を開いた。
「幽霊なんだ」