ただいま。
という声もないままに、彼は家に帰ってきた。午後10時を回っている。よっぽど疲れたのか、スーツを脱ぐとすぐにお風呂に入ってしまった。私は、こんな時でも彼が帰ってくるまで自分も夜ご飯を食べずにいた。たとえ一緒に食卓を囲んだとしても会話がないことは分かっている。それでも、二人でご飯を食べる習慣が抜けないのだから仕方がない。
彼がお風呂から上がると、二人で黙々とご飯を食べる。こういうの、なんて言うんだっけ。そうだ、家庭内別居。結婚する前まで、自分がこんなことになるなんて思ってもみなかった。
さんは、ここ数週間の仕事の疲れがピークに達しているらしく、ご飯を食べる手がだいぶゆっくりになっていた。二人、口を利けなくなった今も、私は彼のことが心配だった。私には、自分たちが喧嘩をしているという認識がなかった。彼が何かを抱えていて、それをいつ言うのか言わないのか、どう聞き出すのかを二人で我慢比べしているようなものだと。彼は私が先日声を荒げたことを怒っているのかもしれないけれど。
何も会話のないままに二人でご飯を食べたので、夕食の時間はあっという間に終わってしまった。私は、二人分の食器を洗い、お風呂に入った。お風呂から上がると昴さんは難しい顔をして会社から支給されたスマホを眺めていた。
永遠に続くかと思われる時間の海。
20歳がそこらの頃は、子供時代よりも何倍も早く過ぎ去ってゆくように感じられていた時間が、今は再び莫大なものに思えた。
深夜12時。私は彼よりも早くベッドに入った。目を瞑って、このまま自然と夢の中へと沈んでゆきたい。何も考えず、何も思わず、心を乱されないままに。
目を閉じて、彼との未来を考えた。私たちはこのままなのだろうか。このまま二人で、一人きりの生活を送るのだろうか。何か突破口が欲しいのに、彼が重たい口を開く以外に何も対処法が考えられない。私は、無力だ。
途方もない孤独感に、気がつけば目尻から涙が伝っていた。声を上げずに、私は泣いた。子供みたいに涙を垂れ流し、この激情の波が引いてくれるのを静かに待った。
すうっと、私の頬に何かが触れる。
震えているけれど温かい。自分の涙ではなく、体温の温もり。
「……どうして」
そっと、濡れたままの目を開けると、私がいちばん求めていた人の顔がそこにあった。
昴さんは、肩を震わせながら、私に「ごめん」と呟いた。
「ごめん、恵実」
苦悩に満ちた表情で私の上半身を抱き起こし、私の肩から首の部分を抱きしめた。
久しぶりの感覚だった。
彼に自分という存在を認めてもらい、愛情を確かめることが。その時の彼は、まだとても苦しそうで、私のことを抱きしめる腕に、異様な力が込もっていた。
少し痛かったけれど、強張っていた心が溶けてゆく感覚が愛しかった。
「ううん、私の方こそごめんね」
口にしてしまえば簡単だった。
なぜ、子供でもできるような仲直りの言葉を、私たちは今の今まで発することができなかったのだろう。けれど、簡単に謝罪をして片付くような想いなら、私はこの人と一緒になってはないなかっただろう。
「いや、僕が悪いんだ。不安にさせて、本当に申し訳ない」
「じゃあ」
彼の抱えているものを、彼の口から溢れ出ることを今か今かと待った。
けれど、彼はそれ以上込み入ったことは何も言わず、ただ私を抱きしめたまま、
「でも、言えないんだ」
とはっきりと口にした。もっと、絶望するかと思った。私は、彼のことを知ることができない。それなのに、「そっか」とどこからともなく湧き上がってくる諦めのような感情が意外と丸みを帯びて胸のうちに収まった。
その夜、私たちは久しぶりに交わった。悲しみのオーラに満ちた私たちを、月が明るく照らしてくれた。また今日も、私はカーテンをきちんと閉められなかったんだと、彼の下に埋もれながら思った。