「ただいま」
午後9時過ぎに、彼は家に帰ってきた。
「おかえり。今日も残業?」
「ああ。ちょっと込み入った案件があって」
「そっか。ご飯、できてるよ」
「ありがとう」
込み入った案件、と聞いて、彼と出会ったばかりの頃に、コンペで負けてしまった話を思い出した。心底悔しそうにしていた彼だったけれど、それほど一生懸命仕事と向き合っているのだと分かった瞬間でもあった。
彼と自分の分のご飯をよそいながら、昼間に菜乃から言われた言葉を思い出す。不安に思っていることを聞いてみればいい。多分それは怖いことだし緊張もするだろう。現に今、その瞬間のことを考えれば考えるほど心がざわっと動くのが分かる。胃の中にサイダーが溜まっていて、彼と向き合うことを思い出す度にシュワシュワと炭酸が浮き上がってくるような感覚。
「はい、どうぞ」
白ごはんと、お味噌汁と、ナスのお浸しと、エビフライ。大したおかずは作れないけれど、いつも彼にお腹いっぱいになるぐらいは食べて欲しいと願う。
「ありがとう。いただきます」
エビフライは、彼の好物だった。初めて彼に振る舞った時、「うわっ。すっごい美味そう!」と興奮していた姿を思い出す。懐かしい。それに比べたら、最近は特に、大きなリアクションをとることなく淡々と食べてくれる。別に、それで十分なのだけれど、少し淋しくもあった。
「美味しい?」
「うん」
料理の味なんて、普段は聞かない。「美味しいか」と聞かれて、「美味しくない」と答える男性はいないだろう。分かっちゃいるけれど、なんとかして以前のように彼から感激の言葉を引き出したいという下心が働いてしまった。
「良かった。喜んでくれるか不安だったから」
いつもより、余計に口が動く。初めて手料理を振る舞った女の子でもあるまいし、案の定彼は私の言葉を訝しがっているようだった。
私も、彼と一緒に自分で作ったエビフライを食べた。時間が経って、少し柔らかくなった衣は、揚げたてのエビフライに比べると到底及ばない。言うほど美味しくなかったかも、と瞬時に悟った。
「お仕事、最近忙しそうね」
「うーん、プロジェクトの最中だからなあ」
いつかの時と同じように、今度はとある化粧品会社の新商品のプロモーションを提案してくれと言われているらしい。また、コンペだ。コンペの前は、決まって昴さんは心が忙しそうだった。
「そうよね」
どうやら私は、「忙しい」という言葉に弱いらしい。その言葉を口にされると、それ以上は何も聞けなくなってしまう。忙しいのだから仕方がないよね、という諦め。今まではそうしてきた。けれど、このままではだめだ。菜乃に、背中を押してもらったんだから。家族って、なんでも聞けてなんでも話せるから家族なのだと。今日教えてもらったばかりだ。
「あのね、昴さん」
私は、右手に握っていたお箸をお茶碗の上にそっと揃えて彼と向き合った。
お味噌汁のお碗に口をつけていた彼とばっちり目が合う。
「なんだい」
彼も、何事かと私と同じように手に持っていたものを全てテーブルの上に置いた。
「何があったか、話して欲しいの」
言えた。とてもシンプルな一言。たったこれだけを言うのにどれだけ時間がかかったんだろう。
「どうしたんだい、急に」
「ごまかさないで欲しい。あの日、私たちの結婚記念日に、旅行に行ったでしょう。あなたの誕生日でもあった。私はその日、あなたと時計を交換して、とても嬉しかった。お互いに大事なものだったから。これまでよりもお互いが繋がった気がして安心したの。私たちようやく夫婦になれたのかもしれないって。だけど、あの日からあなたは変わってしまった。どうしてなの?」
旅館の部屋。布団の上で、不安と驚愕に揺れる彼の瞳が脳裏にちらつく。あの時彼の身に何が起こったのか。
あの時彼は、何を見てしまったの……?
「それは——」
昴さんは、自分の左腕の時計を一瞥した。彼のその仕草が意味するところは明らかだった。彼の口が、少しずつ開き、息が吐き出された。けれど、眉根を寄せ、その先の言葉を紡いではくれない。
どうして。
私がこれほど本気で向き合っても、話せないと言うの。
沈黙がはっきりとした形をもって、全身を突き刺すように私を、私たちを痛めつけた。私は彼の言葉を待って、彼は私が諦めてくれるのを待った。
耐えられなくなったのは私のほう。「分かった」と何も了解していないのに、火がついてしまって、思い切り机の端を叩いた。
「私には、話せない内容だって言うんでしょう。他に女の人でもできた? それならそうと、正直に言ってくれればいいのにっ」
違う。本心から思ったんじゃない。
違うと分かっているのに、止まらなかった。
目の前に座っていた彼の顔が、みるみるうちに引きつってゆくのが分かった。
これまではなんとか長期戦でも穏やかに問題を解決しようと策を練っている冷静な紳士を演じていたのに。突然、舞台から降りて生身の「人間」になった。そんな目をしていた。
「なんだよそれ。浮気でもしてるって? そんなバカな」
初めてだった。彼が声を荒げているのを聞くのは。
感情を剥き出しにした彼を見るのは。
どんな時も、彼は年上のお兄さんで、道に迷っている私を、「仕方ないな」と呆れながらも喜んで導いてくれるような男性だった。私も、そんな彼に甘えていた。
けれど、都合が良い。
もう、いいんだよ。仮面なんて被らないで、面と向かってぶつかりたい。私は、他でもないあなたの声が聴きたかった。
「だって最近、帰りが遅いじゃない。それに」
夜だって。
さすがに、それは口にはできなかった。
「だから仕事だって。僕が嘘をつかなくちゃいけない理由がどこにあるんだ」
「そんなの、どうやって信じられるっていうの。あなたは何も言わない。私がどれだけ心配してるか分かってる?」
「ああ、分かるさ! でも、言えるわけないだろう。どうしてこんなっ。こんなことっ……」
彼は、なぜかとても悔しそうに、下唇を噛んでいた。私は、彼の気迫に気圧されて、それ以上は何も聞けなかった。彼が次に何を言おうとしていたのか、そうまでして言えなかったことはなんだったのか。私に、教えて欲しい。その一言を、私は。
言えなかった。
彼が、あまりにも苦しそうだったから。
私が知らない彼が、そこにいたんだ。