記念日や私の誕生日にデートの計画を立てるのは、決まって彼の役目だった。約束したわけではないけれど、私が何か用意するよりも早く、彼の方が動いている。彼は近年まれに見るマメな男なのだ、きっと。

でも、今日ばかりは私にも彼にサプライズがあった。

昴さんと散歩している間、鞄の中のポケットに、例のものがちゃんと入っているか、何度も触って確認する。
大丈夫。忘れていないわ。
だんだんと日が傾いてゆき、彼と二人で歩く海辺には橙色の光が降り注いだ。私は、日々桜庭書房の店の中から外の光が時間の経過とともに変わってゆく様を見ているけれど、今日ほど美しい夕陽に出会ったことはなかった。遠くの方で、沈みゆく太陽の輪郭がぼやけて、周りの空を真っ赤に染めている。子供の頃、学校の校庭で遊んでいた放課後。友達との鬼ごっこで、私は鬼だった。鬼ごっこの鬼は楽しくない、というのが私たちの共通認識。例に漏れず、私はいやいや友達を追いかけていた。足が遅くて、活発な子たちをなかなか捕まえられない。疲れた、と心の中で呟いても、そばには誰もいない。皆自分から逃げていたから。

もう、帰りたいなあ。
家に帰って、おばあちゃんから、今日読む本をおすすめしてもらうのが楽しみだった私は、友達との鬼ごっこの最中にもそんなことを思っていた。
ふと、疲れた体にぶつかる光の眩しさに気づく。
広くて、見晴らしの良い校庭だった。学校の周りには背の高いマンションやビルは全然なくて、見えるのは空と山だけ。
その、空を赤く染め、山の向こうに沈み始めた太陽。当時の私にとって、太陽は明るくて、いつも元気に燃えていて、力強い、父親みたいな存在だった。
けれど、その日見た太陽は胸を切なくさせる色を放ち、どこか淋しさを湛えているように見えた。けれど、生まれて見てきた太陽の中で、一番綺麗だとも思った。
あの日と同じ夕日が、今輝いているということ。
隣を歩む彼の息遣いが、自分が一人きりでないことを感じさせた。私の魂はもう、一人きりで泣いてはいないのだ。
「昴さん、あのね」
「ん」
彼の手を少し引いて、私は「止まって」と意思を伝えた。
「お誕生日おめでとう。これ、ずっとあなたが欲しがっていたものよ」
鞄の中から掌サイズの黒い箱を取り出して、彼の前に差し出した。
「……これは」
彼にとって、それは予想外のものに違いなかった。なにせ、彼が何度「貸して欲しい」と言っても、私が頑なに首を縦に振らなかったものだから。
ブラック時計。
今も、彼の左腕にはめられたお義父さんの時計とそっくりの、けれど決定的に普通の時計とは違う腕時計。
「いいのかい」
震える手で、彼は私の手からそっと『ブラック時計』を持ち上げた。
「ええ。あなたになら、良いと思った」
最初は、他の誰かに『ブラック時計』を着けさせるなんて、怖くてできなかった。けれど、彼と一緒に過ごした日々が、私の心を溶かした。一人きりだった私の人生に、光をくれた人の願いを、叶えてあげたいと思って。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
きっと、普通のカップルならネクタイとか財布とか、実用性の高いものをプレゼントするだろう。私だって、これまではそうした。
でも、今、彼が心から笑っている姿を見ると、『ブラック時計』を貸すというプレゼントを思いついて本当に良かった。
昴さんは元々付けていたお義父さんの時計を外し私の腕に彼の時計をつけ、自分の腕には桜庭家の『ブラック時計』をつけた。
「僕の時計は君が持っていて欲しい」
「ありがとう」

昴さんの体温が残っている時計が、左腕で圧倒的な存在感を放った。私は彼と、一つになったような感覚に陥った。
「今日の、君からのプレゼントは、単に『ブラック時計』を貸してくれたってことだけじゃない。おじいさんから受け継いだ大事なものなんだ。僕なら信用できると思ってくれたんだろう。だからこれは、僕たちの心が繋がっている証拠なんだ」
繋がっている。
彼の言葉はいつも、私にとって大切なことを教えてくれる。
彼の表現が好きだった。
彼の、優しい感性が好きだった。
私はもっと、彼の優しさに触れたかった。
だから、『ブラック時計』を彼に預けた。
 
それが、間違いだったことに、気づくはずもなく。