桜庭書房は、昔馴染みの書店の、古臭くも落ち着いた雰囲気をした店だった。本はあまりよく読む方じゃないけれど、店内を眺めているだけでもちょっと楽しい。小説家からビジネス書、旅行雑誌、参考書まで、意外にもジャンル様々な本が並んでいた。狭い店だけれど、本好きには愛されそうな場所だな。

「こんにちは」
後ろから、誰かに声をかけられたのは、ざっと店内を見て、文庫本の前で立ち止まっていたときだった。
「こんにちはっ」
まさか、お店の中で突然声をかけられると思っていなくて、一歩たじろぐ。
声をかけてきたのは、30代くらいの女性。黒髪を後ろで一つに括っていて、自分と同じ髪型をしている。
エプロンをつけ、右手に短めのモップを持っているところを見ると店員さんに間違いなかった。よく見るとエプロンに名札がついていて、「芦田」と書かれている。心なしか、お腹が膨らんでいるように見える。妊婦さんかもしれない。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「えっと、いや、なんとなく入ってみただけで」
「そうですか」

彼女は、私の制服姿を見て、すぐに美山中学の生徒だと分かっただろう。多分、中学生が一人で店に来るのが珍しかったに違いない。そのまま手に持っていたモップで本棚を掃除し始めた後にも、何度か私の方を見てきた。その度に、学校の先生に報告されるんじゃないかって怖くて、いたたまれない。

さっさと出なきゃ……。
そう思うのに、どうしても、まだここから出たくないという気持ちがあった。店員さんに見られているということ以外、こんなにも居心地の良い場所はなかったから。普段、学校では私の居場所なんかなくて、それでも家に引きこもるのが嫌で、なんとか外に居場所がないか探したかった。

その願いが叶ったみたいに、桜庭書房の懐かしい香り、好きでもない本に囲まれているのに、なぜか湧き上がる心地良さが、私を離してくれないのだ。
今度は私の方からちらりと店員さん——芦田さんを見た。彼女はもう、私を見てはこないようだ。最初は中学生だと思って気になったんだろうけれど、彼女の様子を見ていると、特に私を学校に突き出してルール違反を告発しようなんて魂胆はないように思えた。
良かった。
もう少しだけ、ここにいよう。
これまで、あまり関心のなかった本にも、ちょっとだけ興味が沸いた。店内には児童書コーナーもあったけれど、もう中学生なんだし、児童書は違う気がする。とはいえ、どんな本が自分に合っているのか、面白いと思えるのか、さっぱり分からない。

迷いながらお店を歩き、ふと雑誌コーナーで立ち止まる。
雑誌ラックに置かれていたとある雑誌に、惹かれたからだ。
表紙に載っているのは、三毛猫。桜庭書房の店前に鎮座していたあの子に、とてもよく似ていた。その雑誌は猫の飼育の仕方が載っている雑誌らしい。うちは母親が動物嫌いでペットは飼えないけれど、そのあまりの猫の可愛さに、手を伸ばした。
「可愛い……」
思わず口からこぼれてしまうほど、愛くるしい瞳と、ふさふさの毛並み。目の前に存在するわけでもないのに、その子の頭や背中を撫でたときの感触を想像してきゅんとした。今、誰かに心を読まれたら絶対に変人だと思われる。いや、雑誌を前にじっと表紙を見つめて動かないだけで十分変な奴だと思われるだろうが、幸い今この店には私と店員さん以外に、お客さんがいない。
「その本、お気に召しましたか」
「ひゃっ!」
ぬっと、横から現れた芦田さんに、失礼だけど驚いておかしな悲鳴を上げてしまった。一体、どれだけ気配を消せるんだこの人は!
「……ごめんなさい。びっくりして」
「いえ、こちらこそ突然話しかけてごめんなさい。お客様が、あんまり嬉しそうにその雑誌を眺めていらしたから」
私は、そんなに嬉しそうな表情をしていたのだろうか。猫写真への心のときめきを顔に出した自覚がなかったので、心外だった。