春人さんは答えない。
無言のまま、それでもわたしに傘を差してくれている。
優しさが、痛い。
傷つけて、やりたかった。
これ以上、わたしだけが痛くなるなんて、そんなの理不尽だ。こんなにたくさんの女の子から想われて、自分は選び放題で、女の子の誰かが傷つくレースだということを知りながら、わたしじゃなくて弥生が好きなのを自覚しながら、こうして優しくするなんて。
春人さんなんか、ぐちゃぐちゃに傷ついて、同じ痛みを思い知ればいい。
「……わたしは、春人さんが好きなのに」
最悪のタイミングを測り、わたしは決定的な言葉を口にした。
もう、自分の恋が成就するなんてこれっぽっちも思っていない。どうせ届かない気持ちならば、せめてその想いで、先輩が傷つけばいい。昇華しきれないわたしの気持ちを、刃に変えて。
見なくても分かる。
春人さんが、わたしの告白に驚いて、何も言えずにいるということ。わたしの気持ちを知っていたか知らなかったかは分からないけれど、きっと今このタイミングで想いをぶちまけたわたしを、自分勝手なやつだと思ってるんだろうな。
ああ、もう終わりだ。
春人さんへの恋は、ここで終わり。
彼はこの先、当分の間わたしに話しかけてこなくなるだろうし、わたしも春人さんともう、話せなくなるかもしれない。
止まない雨。さっきまで、冷たくて痛くて、雨なんか大っ嫌いだったけど、この雨に紛れて、私の涙も負の感情も垂れ流すことができるから、ありがたかった。
お互いに言葉を発しない。わたしたち二人の側を通り過ぎてゆく通行人。傘をさしながら自転車を漕ぐ人たち。通り過ぎたあと、自転車のせいで跳ねた水が、わたしの身体に降りかかった。けれどもう、雨でびしょ濡れのわたしは、何も動じない。痛くも痒くもないよ。
「ごめん」
ぽつりと、頭上から降ってきた彼の言葉。
春人さんの口から、一番聞きたくなかった言葉。
「……謝らないでください」
「ああ。でも、ごめんな」
その言葉が、ちっともわたしの心を癒してなんかくれないこと、分かってるくせに。むしろ、余計にかき乱されることを、知っているくせに。春人さんはわたしに謝ることで、自分が楽になりたいんだろう。その気持ちも分かる。多分、わたしが春人さんと同じ立場でも、同じことをしていたと思う。
「ばかばかばか……」
背を向けたまま、わたしの身体の上に傘を差してくれている春人さんに、無意味な抵抗をぶつけた。
「ああ」
その言葉も、何もかも、春人さんは受け止めるつもりだ。それが彼の覚悟なんだろう。
「先輩なんか、早くどっかいっちゃえ」
「うん」
「弥生に、早く気持ち伝えればいいんだ」
「そうだな」
「わたしのことも香奈さんのことも、知らんぷりして、自分の気持ちをぶつけてきてよ」
「……ああ」
痛いのは、春人さんの言葉じゃなかった。
自分自身の言葉。
片思いのくせして彼に怒りをぶつけている自分自身が、痛い。
もう、やめよう。
彼に投げかける言葉は、嫌味や罵倒ではない。わたしが彼を好きなように、彼は弥生のことが好きで、苦しんでいるのかもしれない。弥生と彼がどこまでの関係なのか知らないけれど、もしかしたらわたしなんかよりもずっと、弥生は春人さんと関係が深いのかもしれないけれど。
現在のところ、春人さんと弥生が恋人なわけではないのだから。あとは春人さんが弥生に気持ちを伝えるかどうかの問題じゃないか。
わたしは、振られたんだ。
香奈さんも、いずれはわたしと同じように振られてしまうだろう。
そうしたら春人さんは、弥生に気持ちを伝えにいくんだろう。
「寒いから、帰りましょう」
固まっていた足に、ようやく感覚が戻ってきて、のらりと立ち上がった。膝もコートもびしょ濡れで、髪の毛からは水滴が滴って、とても人に見られても大丈夫というような状態ではなかった。
「送るよ」
「はい」とも「いいです」とも言えなかった。ただ、好きな先輩と、好きだった先輩と、最後でもいいから一緒に過ごせるならそれで良かった。これからは、一緒に帰るなんてことはないのだろう。偽善でもいい優しさを、わたしは甘んじて受け取った。
春人さんは何も言わず、そのまま自分の傘の中にわたしを入れてくれた。相合傘、という言葉が頭にちらつくのに、気分は切なかった。
「……弥生に、好きって言うんですか」
雨の中を駆け出す前、様子がおかしいわたしを心配してくれていた弥生の優しい表情が脳裏に浮かぶ。弥生はとても良い子だ。だから彼女が春人さんを好きで、告白を受け入れたとしても、わたしは応援する
「そうだな、いい加減、伝えようと思う。彩夏ちゃんを傷つけてしまっただし。俺は臆病で、弥生ちゃんに振られるのが怖かったんだ。本当、馬鹿だよな。人のことは傷つけておいて、自分は傷つきたくないなんてさ」
馬鹿だよな、と笑う春人さんの気持ちを聞いて、皆同じなんだと分かった。片思いをしている自分も、その相手も、誰かの気持ちを知ることが怖い。相手が傷ついたらどうしよう、傷つけられたらどうしようと、永遠に考え続けて行動ができないでいる。わたしが恋焦がれる格好良い先輩だってこのザマなんだから、わたしが臆病だったのも、仕方ない。
そう思うと、ちょっとだけ、自分を許せる気がした。
誰しも恋愛で抱える悩みなんて、似たり寄ったりだ。
傷つき、疲れ、迷い、踏み出そうとしてやっぱり踏みとどまる。
それでも、恋をしている間は、幸せな気分になれる。
大学2年生にもなって恋愛とは何かなんてことに気がつくなんて今更なのかもしれないけれど、わたしが抱く気持ちは決して特別じゃない。誰もが皆感じることなんだ。
「ありがとうございます」
結局わたしの家の前に着くまで、春人さんは傘を差してくれていた。
「ううん。こっちこそ、話してくれてありがとう。それと——」
多分彼は、「傷つけてごめんな」という言葉を必死に飲み込んだんだろう。「いや、これはいいや」とその先の言葉をしまった。
「うん。言わないでくれると嬉しいです。今はまだ気持ちの整理がつかないけれど、春人さんのこと、わたしは突然嫌いになったりしませんから」
春人さんのためではない。自分のために言うのだ。わたしはわたしの気持ちと、気の済むまで付き合うつもりで。一度抱いた気持ちを、無理に否定しないようにするために。
「ありがとう。俺も、彩夏ちゃんのことが嫌いなわけじゃない。こういうとまた怒られるかもしれないけど、人として、仲間として本当に好きなんだ。だから、これからもよろしくな」
彼の頭上に見える「浦田弥生」の文字は、永遠に消えない。それを見て、わたしはやっぱり傷つかないことなんか、ない。この時計を外してしまえば、彼の気持ちはブラックボックスに戻るのだろうけれど、はっきりと文字が見えなくたって、もう分かる。
彼の、弥生への気持ちが本物だってこと。
覆すことは難しいのだということ。
だったら、早い段階で彼の気持ちを伝えてくれた『ブラック時計』に感謝するべきだ。
春人さんを好きな気持ちを抱えたまま、時間が経てば経つほど、消えなくなる。この気持ちに、取り返しがつかなくなる。
だから良かったんだと。
ただ、もしも他の誰かがこの『ブラック時計』をつけたとして、今わたしの頭の上に、誰かを想う気持ちを見るとするならば。
わたしの頭の上の「坂本春人」という文字も、悲しいくらい一生懸命大きくなろうとしているのだろう。
その夜、わたしは弥生に電話した。大学に入学してから、わたしは何をするにも弥生と一緒だった。お互いに誰が好きだの、告白されただのと話すこともあった。大抵は、たまたま同じ講義を受けてひと言かふた言、話したことがある程度の相手だった。「イケメンだ」とこちらが一方的に「好きかも」と思うこともあれば、男子の方から突然告白してくることもあった。わたしも、弥生も似たようなことが続き、結局どの恋愛も、一時的な感情の昂りに終わる。容姿が格好いい、というだけで、心から人を好きになれたことはない。ただわたしたちは、恋に恋をしていただけだったのだ。
だから春人さんは、わたしにとって、初めて本気で心から好きになった人だ。
でもそれは、わたしだけじゃないのかもしれない。
わたしだけじゃなくて、弥生も。
「もしもし」
『彩夏……?』
わたしを呼ぶ彼女の声は、震えていた。別れ際、彼女に泣き顔を見せてしまった。必死に隠そうとしたけれど親友の彼女に、ばれていないはずがない。
「弥生。さっきは、はごめんね」
彼女からすれば、わたしが急に泣き出してこの雨の中、走ってどこかへ行ってしまっただけだ。なぜそうなったのか、きっと何も知らないだろう。
そう思う反面、弥生なら全てを話さなくたって、わたしの心中を知ってくれていると少し期待していた。その期待通り、電話の向こうで、弥生が「大丈夫?」と優しく聞いてくれた。彼女はわたしの全てを察していて、わたしが春人さんを好きなことも、春人さんから振られたことも知っているのだ。
「……大丈夫」
一体、わたしの中のどの強がりの虫が、言うのだろう。
帰宅して、びしょ濡れになった身体を温めるためにお風呂に入り、一通り寒さから逃れられたはずなのに、ぽっかりと空いた心の隙間が、まだ寒かった。
春人さんを好きだという気持ちが、行き場をなくして彷徨っているのに、その空いてしまった穴には絶対に入ってはいけないのだと思う。
『大丈夫じゃないときは、大丈夫って言っちゃ、だめなんだよ』
そう言う弥生の声も、心なしかいつもより覇気がない。躊躇いがある、と言った方が正確かもしれない。わたしを励ます言葉に、躊躇いがある。つまりそれは、彼女の心の中に、何か後ろめたい気持ちがあるのだということだった。
「うん、ごめん。あのね、弥生。弥生は知ってたんだよね。わたしが春人さんを好きだってこと」
早く解放されたかった。弥生とこのまま友達でいられなくなるんだろうか。そんな不安な気持ちから、早く。
『知ってたよ。誰かに聞いたんじゃないけれど、彩夏のこと側で見てて気づいた。でも、あえて言う必要もないかなって』
やっぱりそうだったんだ。
だから何ということはない。彼女がわたしの気持ちを知っていたとて、それは仕方がない話だ。察しの良い弥生のことだから、いちいち言葉にしなくても伝わってしまうのだ。
「そうだね。言わないでくれて良かった。わたし、誰にも言わずに春人さんのことを好きになってる自分に、ちょっと酔ってたんだと思う」
これは本当だ。
わたしは、自分がこんなに熱烈に誰かを好きになれるということを知らなかった。春人さんに恋をして初めて気づいたんだ。その気持ちは自分の中で喜ばしいものだったし、あえて誰かと共有しようなんて思わなかったから。
自分一人で楽しめれば十分だった。一人で向き合えれば、十分。わたしは春人さんが好き。わたしにも、こんなに人を好きになれるんだ。そのこと自体に、どれほど自分が酔いしれていたんだろう。
一人暮らしの部屋の中から、カーテンを開けて窓の外を眺めようとした。でも、気づかないうちに外は真っ暗になっていて、カーテンを開けたところで外の景色は何も見えない。見えるのは、反射した自分の姿と部屋の中の明かりだった。
『ごめんね、彩夏』
唐突に、電話越しに彼女が謝った。どうしてそんなことを言うのか分からない。彼女が悪いことなんて、ひとつもないじゃないか。
確かに、彼女がいなければ、春人さんはわたしを見てくれていたのかもしれない。不謹慎だから絶対に口には出せないけれど、そういうこともあっただろう。でもそれは結局、もしもの世界の話でしかないし、弥生がいても春人さんを振り向かせる努力をしなかった自分が悪いのだ。
どちらにせよ、彼女が謝ることはない。その必要は、どこにもない。
「弥生は何も悪くないでしょ。どうして謝るの」
彼女の顔が、見たかった。今、そんな表情でわたしの言葉を聞いているんだろう。少なくとも、明るい表情ではないだろう。鼻をすする音が、つんと耳の奥にこだましたのを考えると、その目が涙に濡れていることは分かった。
『違うの……っ。私が、悪いの。さっき、春人さんから電話がかかってきて、好きだって、言ってきて』
どくん。
自分の心臓が、一気に跳ねると同時に、分かってはいたけれど、想像していたことが現実に起こったことに対する動揺が、身体の真ん中を貫いて震えた。
「そう……春人さん、早いなあ」
確かにわたしとの別れ際、彼は弥生に告白すると言っていた。わたしが春人さんに好きだと伝えたからだ。それに触発されたんだ。
『私、嬉しかったの。私、春人さんが、好きだった』
か弱い声で、弥生が本音を口にするのを聞いて、わたしはどこかほっとしていた。
弥生が、わたしの気持ちを慮って本音を言えないんじゃないかって、気にしていたのもある。でもそれ以上に、とどめの一撃をくらって、これ以上傷つくことがないんだと確信したからだ。わたしは卑怯だ。弥生の口から、春人さんが好きだという想いを告げてもらうことで、自分の気持ちを落ち着かせようとしたのだから。
親友の彼女を、利用したのだから。
「そっか。弥生も、好きだったんだね。たまに春人さんと弥生が同じタイミングでスマホを見てることがあったのも、連絡とってたからなんだね」
『うん……』
そう。弥生はきっと、ずっと前から春人さんとLINEでやりとりをしていて、もしかしたら二人でデートなんかも行っていたのかもしれない。
自分が春人さんと多少うまくいっていることを感じていて、その上でわたしや香奈さんが春人さんを好きなことにも気づいていて。友達思いの弥生は、さぞ苦しかっただろう。もちろん、親友に裏切られた気分にならないといえば嘘になる。そんなに前から春人さんのことを好きだったのなら、わたしに一言教えてくれたらよかったのにって。でも、弥生はそうしなかった。春人さんへの気持ちと、わたしの恋が叶ってほしいという気持ちがバッティングしていたから。
弥生は、わたしの気持ちを尊重しようとし、自分の気持ちとも折り合いがつけられずに悩んでいたのだ。それなのにわたしは、自分の恋がなかなか叶わないことに囚われて、弥生の気持ちを察してあげられなかった。
「わたしは、弥生の気持ち知らなくて、気づかないうちに傷つけてたと思う。だから弥生が謝る必要は本当にない。わたし、弥生に幸せになってほしいよ」
これだけは、本音だった。
まだまだ私も、春人さんへの気持ちに折り合いがつけられていない。もし彼が今、わたしを好きだと言ってくれたら、たちまち弥生のことを忘れて春人さんの元へ駆けてしまうと思う。
けれど結局、選ぶのは春人さんだ。
春人さんが弥生を好きだというのだから、わたしは諦める。傷は、すぐには拭えないけれど、その分弥生が幸せになるなら、わたしはまだ歩ける気がするのだ。
恐る恐る、鍵のかかっていた窓を開ける。
まだ雨が降っていると思って、土砂降りで部屋の中に雨が入ってきたら嫌だなって。けれど、窓の外で雨はもう降っていなかった。代わりに、冷たい冷気が吹き付けた。暖房をつけ、ぬくぬくと温まっていた頬や首筋が、急に冷やされて痛い。痛い。もう、わたしはこれ以上、痛みを味わいたくない。
すぐに窓を閉めて、ふう、と息を吐いた。部屋の中と外で、こんなに気温差があるなんて。気温差でブルっと身体が震え、再び電話の向こうにいる彼女の声に耳を澄ました。
『ありがとう……彩夏。私、大学で彩夏と出会えて良かった』
「なにそれ、なんか、お別れみたいじゃん」
『確かにそうだね。じゃあ、これからもよろしくね』
「うん、もちろん」
大丈夫。わたしの生きる世界は、まだまだ温かい。外の空気が冷たくたって、心が傷ついて冷えたって、またすぐに温めてくれる人がいる。
お互いに、「おやすみ」と言って通話を切った。
部屋に残るのは、静けさ。わたしが声を発しなければ、この部屋で音を立てるものはいない。
春人さん。
わたし、本当に春人さんが好きだった。
でも、同じくらい、弥生が好きだよ。
だから弥生のこと、ちゃん守ってよ。
明かりを消して、ベッドの上、布団の中に潜り込む。温かい。いつかまたわたしが別の誰かに恋をしたら、今度こそ、同じぬくもりに触れられたらいい。
わたしが桜庭書房の店長、芦田恵実から預かった『ブラック時計』は、恋した人の恋する人を教えてくれた。決して幸せなことではなかったけれど、春人さんの気持ちを知って、弥生の気持ちを知って、わたしは一歩大人になれた気がする。まだまだ、傷を癒すのはこれからだけれど、一応感謝しておくか。
机の上に置いたその時計が、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされて、幻想的に光っている。ところどころ傷があって、年季ものだと一眼でわかるその時計。
だんだん、まぶたが重くなってゆくのを感じた。今日はいろんなことが起こりすぎて、疲れた。
ゆっくりと沈んでゆく意識の中で、わたしはふと、思い出す。
ブラック時計。
桜庭書房。
店長の恵実さんと、旦那さんの昴さん。
控えめな恵実さんのそばで、「今日も来てくれたんだね」と明るく笑う昴さん。その手につけられた、黒い腕時計。
そういえばこの時計、昴さんがつけていたんじゃなかったっけ……?
◆◇
1月12日。
今日から中学2年生の3学期が始まる。1年生のときの3学期の始まりの日、担任だった野村先生が「三学期は『行く、逃げる、去る』であっという間に過ぎます。後悔しない1年生最後の学期にしましょう」とありきたりの言葉を投げかけた。それ、小学2年生の時も、6年生の時も聞いたよ。皆、言うことは同じだな、と毎年のように思う。
いつもの通学路。コートを着てマフラーを巻き、手袋をつけても、剥き出しの足が寒い。セーラー服で、ハイソックスが禁止の美山中学の制服はおしゃれとは程遠く田舎臭い制服だ。都会の中学生たちはきっとブレザーを来て、膝上のプリーツスカートを履き、学校の帰りに友達と近くのアイスクリーム屋さんでおしゃべりなんかするんだろうなと思うと、今の自分の姿が惨めに思える。もっとも、美山中学の子たちはみんな同じ格好をしているのだけれど。自分が惨めな姿だと思うのは、こうして3学期の始まりの日に一人憂鬱な気分で登校しているからだ。
長期休み明けの学校がだるいとか、そんな単純な理由からではない。
「おはよう」
「……」
2年3組の教室の扉を開け、最初に目が合ったクラスメイトの桑畑さんに挨拶をした。彼女は3学期初日に普通に登校してきた私の姿を見て、一瞬目を丸くして、さっと視線を逸らした。まさか、登校してくるとは思っていなかったんだろう。私も、思わなかったよ。自分が結構ずぶとく生きられることに。
桑畑さんと挨拶を交わすことは諦めて、自分の席につく。休み明けだと時々どの席が自分の席だったか、忘れることがあるけれど今回は大丈夫。なんてったって、私の席は窓際の一番後ろの席だから。席順は、1ヶ月に一度くじ引きで決められる。去年の12月に私が引いたのは、窓際から二列目の真ん中の席だった。それを譲ってくれたのは、田中理恵という女の子だ。おそらく、真ん中の席の方が、仲の良い友達と席が近いからだろう。特に、理恵のお気に入りの串間悟が窓際の列の真ん中の席だったから。
理恵はクラスの女子の中で中心的な人物。明るくて、自分の考えをはっきりと示すし、容姿もそこそこ。クラスの男子たちも、何かと遊びの話をする時にはまず、理恵に話した。「今度、クラスの皆でプール行くんだけど、女子も一緒にどう?」「え、行く行く!」。理恵が「うん」と言えば、大抵のクラスメイトたちは「私も」「うちも」と後に続いた。その中で手を挙げないのは、単に遊びの予定が合わないという子か、群れるのが嫌いだったり、アクティブな遊びが苦手だったりする数人だけ。そういう子たちはむしろ、自分の信念のもと理恵たちの遊びに参加しないだけだったので、陰で何かを言われることもなかった。
「あの子、また来ないんだ」
そう、裏で囁かれるのは、クラスでたった一人。
私——吉原加奈だけだ。
◆◇
初めてクラスメイトからはっきりと避けられていることを感じたのは、10月に行われた合唱コンクールの練習でのことだった。
私はアルトパートのメンバーとして、合唱に参加していた。曲目は「心の瞳」。バラード調のメロディーで、14歳の私たちにはまだちょっと早い、大人向けの歌詞だと感じていた。
けれど、私はこの「心の瞳」が好きだった。美しいメロディーと歌詞が心にぐっと響く。アルトパートで気持ちよくメロディーを歌えないのは残念だけど、逆にハモリができる心地よさがあった。
「ねえ、アルト、一人だけ声がでかいんだけど、誰?」
指揮者をしていた浦部美雨が、ぶっきらぼうに告げた。
クラス全体での練習をしたのは、まだこのときが始めてだった。
「え? 誰だろう」
アルトパートのパートリーダーだった海堂詩織が、私たちをぐるっと見回して、「あっ」と声を出した。その目が、私の口元を見ている。
「吉原さん」
確かに、アルトパートでパート練習をしている時に、私には自分の声が一番大きく響いているという自覚があった。いや、みんなが小さすぎるのだ。やる気がないのか、パート練習で自分の声だけが大きく聞こえるのは確かに腑に落ちなかった。だって、私は普段の声がとりわけ大きいわけではないのだ。
「他の人の声と調和してなくてキンキンするから、ちょっと抑えて」
浦部さんは、「調和」というもっともらしい言葉を使って、私を牽制した。
気取っているのか恥ずかしいだけなのか、私を覗くアルトのメンバー全員が、全力で声を出していなかった。
それなのに、全力を出していた私が、なぜ注意されるのか。
その瞬間は分からなかったけれど、今なら分かる。
答えは一つしかなかった。
私をクラスでたった一人の敵にすることで、みんなの団結力を高めたかったのだ。
それが浦部さん一人の策略なのか、理恵や他のみんなが企んだことなのかは分からないけれど。結果的に、3組は3位入賞を果たした。正直なところ、私はほっとしていた。自分がクラスメイトの攻撃の対象になったとしても、せめてコンクールで入賞してほしいと願っていたからだ。だってそれぐらいしか、やられっぱなしだった自分を、肯定できる術がないじゃないか。
それなのに、その日以降も、私はクラス中の人から「アイツは自分だけ目立ちたいと思ってる」と白い目で見られ、何かにつけて無視されるようになった。
関係が、なかった。
私の声が一人だけ大きくて目立っていたことも、合唱コンの結果がどうなるかも。
みんなにとって、「それ」は暇つぶしに過ぎない。悪意の塊がただそこにあるだけだった。
私はその悪意の塊に、つまずかないように、細心の注意を払って生きている。
誰かに無視されても動揺せずに前を向くこと。
物を隠されたり壊されたりしても、執着せずに許すこと。
全然気にしてませんって顔をして本業の勉学に打ち込むこと。
それでいい。それでいいじゃない。
自分を納得させるように、夜寝る前に何度も心の中で復唱する。大丈夫、私は平気。子供っぽい周りの子たちとは違うんだから。
実際、必死に取り繕っていると、もはや他人から自分の言葉をスルーされることこそが「普通」な気がした。無視されることが多過ぎて、違和感を覚えなくなった。
それでも、どうしてか。
3学期が始まったこの日も、例外なく胸が痛い。
クラスメイトから無視される、という事態が始まったあの日から、本当はかなりダメージをくらっていたのだと気づく。
誰も、自分の言葉に耳を傾けてくれないこと。
どれだけ建設的な意見を叫んでも、聞いてくれないこと。
単なる挨拶でさえ、交わすことができないということ。
2年3組の担任、石原千恵子先生は私がクラスのみんなから無視されていることを知っている。ドラマに出てくる教師みたいに、いじめに近いこの状況に気づいて、何もしないひ弱な先生ではなく、再三注意もしてくれている。けれど、その注意の仕方が、型にはまりすぎていて、誰の心にも響いていないのだ。「友達を無視するのは良くありません」って。それ、無垢な小学生にしか通用しないよ。私たちもう、中学2年生なんだよ。14歳ないし13歳の私たちには、十分に善悪の判断がついている。それを今更もっともらしい言葉で注意したところで、改善されるはずがなかった。
ホームルームで言うことは相変わらず、「行く、逃げる、去る」。
だから毎日の時間を大切に過ごしましょう。
分かってる、先生。確かに、中学1年生までの3学期はとても早かった。28日間しかない2月、冬休み、春休みのおかげで20日ほどしかない1月と3月。ほんと、一瞬で終わるという感覚だ。
でも、これから始まる中学2年生の3学期は、絶対に短くなんかない。あっという間なんかじゃない。
2学期の途中から冬休みに入るまでだって、十分に長かったんだもの。
きっとこれからの数十日間だって、信じられないほど長いんだ。
そう思うとさ、投げ出してしまいたくなるよ。
毎日の登校時間、授業中、昼休み、下校時間。
中学2年生の残りの学校での時間をすべて。
手放して、このまま終えてしまいたい。
新しい学期の始まりはいつも、始業式とホームルームで終わるから、早く帰ることができる。文芸部という週に2日しか活動がないゆるい部活に所属しているため、この日は当たり前のように活動がなかった。
ホームルームが終わるとさっさと荷物を詰めて教室を出る。中学校から自宅まで、歩いて10分ほど。早歩きしたら7分ぐらいで着くだろう。
こんなに時間があるのに、中学生ってお金持っていないし、不自由だ。
不自由。
下校途中、赤信号に引っかかって、空を見上げる。
相変わらずの曇天模様。
今朝学校に行くときには、ほんの少しばかり期待もしていた。もしかしたら、クラスメイトから無視されていたのも、2学期だけのことだったのかもしれないって。3学期になれば、みんな私を無視していたことなんか忘れて、前みたいに普通に話しかけに来てくれるんじゃないかって。そもそも私は、根暗だとか愛想が悪いとか、そういう性質を持ち合わせているわけではない。少なくとも自分ではそう思っていない。自分から挨拶もするし、仲の良い友達には遊びに誘うこともあった。もちろん、田中理恵のようなクラスの中心的人物は別として。
それなりに、「普通」の生徒だったはずだ。
それが、気がつくとクラスメイトから省かれている。最初は気にしないようにしていたけれど、本当はかなりダメージをくらっていた。
赤信号が、青に変わる。
今まで走っていた車がピタリと止まり、横断歩道を渡る歩行者を睨み付ける。私にとって、なぜかそれが心地よい。学校で無視されているからか、運転手たちがぼんやりとでも自分を見ていてくれることが、嬉しかった。虚しいけれど。
そのまま真っ直ぐに道を進んでゆけば、自宅にたどり着く。家に帰ればそこが私の居場所だ。さすがに、家族からも無視されるなんてことはない。むしろうちの親は過保護でちょっと面倒なくらいだ。
不自由。
学校と自宅を往復するだけの時間なんて。しかも、学校に私の居場所はない。空気のように、できるだけか影を薄くして息を潜めているだけ。
一歩。
自宅へと続く横断歩道を渡り終えた私は、体の向きを九十度転換し、右の横断歩道を渡り始めた。
なんとなく、抜け出したくなったから。
不自由な毎日から。正真正銘の寄り道。道を踏み外してみたくなった。クラスの皆が、一人のクラスメイトを無視するという、道徳に欠けることをしているのだから、私にだって、これくらいの自由、許されるはずだ。
下校中に通学路から外れて寄り道をするのは初めてだ。規則違反をしているという罪悪感はあったけれど、心のどこかでワクワクしている。真っ直ぐ続くこの道が、自分をまだ見ぬ新しい場所へ連れて行ってくれる気がした。全く知らない道ではないけれど、親と一緒のとき以外は子供だけで校区外に出ることが禁じられているので、緊張した。
5分、10分、と歩くうちに、道沿いのとある店の前にちょこんと座っている猫が目に入った。
「あ」
道端で猫を見かけると、ついつい愛でたくなる。母親は「野生の動物を触るのは汚いからやめて」と言ってくるが、母の目を盗んで犬や猫の背中を撫でた。大抵の子はすぐに逃げてしまうけれど、たまに人間に慣れている動物もいて、触ってもじっとしている。それどころか、私が立ち去ろうとするとすり寄ってくる猫なんかもいるから可愛い。とにかく、動物と触れ合っていると癒されるのだ。
その猫は、『桜庭書房』という本屋さんの前に居座っていた。番犬ならぬ番猫のようなものだろうか。近寄っても、じいっと私を見つめたまま動かない。
「猫さん、こんにちは」
猫を撫でる時は、頭からではなく、あごの下から撫でるのがコツだ。上から撫でると敵とみなされて警戒されてしまう。「危害を加えませんよ」というふうに、下から撫でて徐々に慣らしていくのがポイント。
「番人」の三毛猫は、私が近寄っても全然逃げない。まあ、お店に鎮座するような動物が人に慣れているんだろう。
喉を鳴らし、気持ち良さそうに目を細める姿を見て、憂鬱だった気分がすっと晴れた。動物に癒されてるなんて、私もまだまだだ。
せっかく仲良くなった猫が守っている『桜庭書房』をそのまま素通りするのも何だと思い、私は木製の扉を開けた。下校中の寄り道は禁止されているから、店に入る時は周りを見て、知っている人に見られていないかと緊張した。特に、先生に見られていたらたまったもんじゃない。
無事に誰にも見られていないという確認が取れたのでほっとしながら店内に立ち入ると、ほわっと漂う木の匂いに、懐かしさを覚えた。田舎に住むおばあちゃんちの匂いだ。人によっては苦手だと感じる人もいるだろうけれど、私は嫌いじゃない。
桜庭書房は、昔馴染みの書店の、古臭くも落ち着いた雰囲気をした店だった。本はあまりよく読む方じゃないけれど、店内を眺めているだけでもちょっと楽しい。小説家からビジネス書、旅行雑誌、参考書まで、意外にもジャンル様々な本が並んでいた。狭い店だけれど、本好きには愛されそうな場所だな。
「こんにちは」
後ろから、誰かに声をかけられたのは、ざっと店内を見て、文庫本の前で立ち止まっていたときだった。
「こんにちはっ」
まさか、お店の中で突然声をかけられると思っていなくて、一歩たじろぐ。
声をかけてきたのは、30代くらいの女性。黒髪を後ろで一つに括っていて、自分と同じ髪型をしている。
エプロンをつけ、右手に短めのモップを持っているところを見ると店員さんに間違いなかった。よく見るとエプロンに名札がついていて、「芦田」と書かれている。心なしか、お腹が膨らんでいるように見える。妊婦さんかもしれない。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「えっと、いや、なんとなく入ってみただけで」
「そうですか」
彼女は、私の制服姿を見て、すぐに美山中学の生徒だと分かっただろう。多分、中学生が一人で店に来るのが珍しかったに違いない。そのまま手に持っていたモップで本棚を掃除し始めた後にも、何度か私の方を見てきた。その度に、学校の先生に報告されるんじゃないかって怖くて、いたたまれない。
さっさと出なきゃ……。
そう思うのに、どうしても、まだここから出たくないという気持ちがあった。店員さんに見られているということ以外、こんなにも居心地の良い場所はなかったから。普段、学校では私の居場所なんかなくて、それでも家に引きこもるのが嫌で、なんとか外に居場所がないか探したかった。
その願いが叶ったみたいに、桜庭書房の懐かしい香り、好きでもない本に囲まれているのに、なぜか湧き上がる心地良さが、私を離してくれないのだ。
今度は私の方からちらりと店員さん——芦田さんを見た。彼女はもう、私を見てはこないようだ。最初は中学生だと思って気になったんだろうけれど、彼女の様子を見ていると、特に私を学校に突き出してルール違反を告発しようなんて魂胆はないように思えた。
良かった。
もう少しだけ、ここにいよう。
これまで、あまり関心のなかった本にも、ちょっとだけ興味が沸いた。店内には児童書コーナーもあったけれど、もう中学生なんだし、児童書は違う気がする。とはいえ、どんな本が自分に合っているのか、面白いと思えるのか、さっぱり分からない。
迷いながらお店を歩き、ふと雑誌コーナーで立ち止まる。
雑誌ラックに置かれていたとある雑誌に、惹かれたからだ。
表紙に載っているのは、三毛猫。桜庭書房の店前に鎮座していたあの子に、とてもよく似ていた。その雑誌は猫の飼育の仕方が載っている雑誌らしい。うちは母親が動物嫌いでペットは飼えないけれど、そのあまりの猫の可愛さに、手を伸ばした。
「可愛い……」
思わず口からこぼれてしまうほど、愛くるしい瞳と、ふさふさの毛並み。目の前に存在するわけでもないのに、その子の頭や背中を撫でたときの感触を想像してきゅんとした。今、誰かに心を読まれたら絶対に変人だと思われる。いや、雑誌を前にじっと表紙を見つめて動かないだけで十分変な奴だと思われるだろうが、幸い今この店には私と店員さん以外に、お客さんがいない。
「その本、お気に召しましたか」
「ひゃっ!」
ぬっと、横から現れた芦田さんに、失礼だけど驚いておかしな悲鳴を上げてしまった。一体、どれだけ気配を消せるんだこの人は!
「……ごめんなさい。びっくりして」
「いえ、こちらこそ突然話しかけてごめんなさい。お客様が、あんまり嬉しそうにその雑誌を眺めていらしたから」
私は、そんなに嬉しそうな表情をしていたのだろうか。猫写真への心のときめきを顔に出した自覚がなかったので、心外だった。
「私、動物が好きなんです」
実際に飼ったことはないけれど、特に犬や猫を愛する気持ちは誰にも負けないと思う。小学校の頃、仲の良かった友達が犬を飼っていて、よくその子の家に遊びに行っていた。ゴールデンレトリバーで、体は大きいけれど大人しくて可愛い。何度も会いに行っていたから、私の匂いを覚えてくれて、全然吠えられることもない。慣れてきたら座っている私の膝にあごを乗せて甘えてくることもあった。でも、友達はよく些細なことで犬を叱っていて、どうしてそんなに怒るんだろう、と不思議でたまらなかった。私が見ていないところでは、デレデレだったのかもしれないけれど。
「そうなんですね。購入されますか?」
店員なのだから、お客さんに本を買うように勧めるのは当たり前といえば当たり前だ。ただ、芦田さんの聞き方は、どうしてか全然いやらしくなくて、「はい」とそのまま答えてしまいそうだった。
「欲しいけど、お金持ってなくて……」
中学では学校にお金を持っていくことも禁止されているため、こうして登下校中に寄り道した先で何かを買うことができない。それでもこっそり現金を持ち歩いて買い食いする生徒がいるから、時々生活指導の先生にばれて問題になっている。
私はそういう、「問題児」扱いされるのは御免だ。
優等生でなくてもいいから、せめて波風を立てない人間だと思われたい。
でも。
手にした雑誌の表紙を飾る愛くるしい三毛猫が「私を買って」と訴えかけてくるようでつらい。私だって、本当は買ってあげたい。う〜ん。
無理だということは分かっているのに、どうしても手放せない。そのまま目を瞑って雑誌ラックに戻せばいいのに、身体が動かない。三毛猫の大きな瞳に吸い寄せられているかのようだ。
「そういうことでしたら、お客様。私に考えがあります」
唐突に、店員さん——芦田さんが、張りのある声でそう言うと、すたすたとレジカウンターの奥の部屋に行き、小さな箱を手に持って戻ってきた。
「それ、何ですか?」
彼女が持っていたのは白い箱だったが、色褪せて茶色に変色していた。たぶん、だいぶ古いものなんだろう。
芦田さんが右手で白い箱の蓋を開けて、中身を見せてくれた。
これは、時計?
見る角度によって、黒光りする時計。多少キズが入っているところを見ても、年季ものなのだと分かる。
しかし、時計の針は今もなお、きちんと動いているから、十分に使えそうだ。
「見ての通り、腕時計です。“ブラック時計”と呼んでいます」
そのままじゃないか——と突っ込みたい気持ちは抑えて、それ以上に気になっていることを訊いた。
「腕時計と雑誌に何か関係があるのですか?」
そう。私が「雑誌を買いたいけれどお金がない」と言ったところで、なぜ急に腕時計が出てくるのか、不思議だった。
「つまりですね、雑誌をタダで差し上げる代わりに、一定の期間、この腕時計をつけていただけないか、というお願いのです」
つまり、というわりに、全くもって説明になっていない。
私は、おそらく自分の倍以上は生きているであろう店員さんを、胡散臭いなと目で疑った。
「うーん、あまり意味が分かりません」
正直な感想を述べさせてもらう。
自分よりもうんと年上の大人の人から、今みたいな説明をされたところで理解できる人の方が少ないだろう。というか、もしそんな人がいたら宇宙人に違いない。