ずっと、求めていた声だった。けれど、今は一番聞きたくない声かもしれない。子供みたいに、ううん、子供よりも情けない姿で地面にうずくまる女子大生のわたし。格好悪すぎて、彼の目を塞いでしまいたい。

「どうして、先輩」

わたしは、春人さんのこと、いつも「春人さん」としか呼ばない。先輩と呼ぶには少し遠いと感じていたのと、男の先輩を「さん付け」で呼ぶのが、大学生の嗜みだとばかり思っていたから。大人になりたかったのだ。まだ、立派な子供のくせに。
「どうしてって、彩夏ちゃんが心配だったから」
いつもと同じ、そっと傷口に触れるような口調だった。その優しさが今の自分にはとても痛い。
「でも、先輩が好きなのは、わたしじゃない」
突然「好き」という言葉を口にしたわたしを見て、春人さんは困ったような表情で数秒間固まった。
「先輩が好きなのはわたしじゃなくて、弥生でしょ」

こんな時にこんなことを口にすべきでないということは分かっている。恋愛感情の有無に関係なく、春人さんはただ、苦し紛れに急に駆け出した後輩を心配して追いかけてきてくれただけなのだ。それなのに、心配した当の相手から、怒られる。理不尽極まりないだろう。

それなのにわたしは、彼を責めたかった。
いくら心配しているとはいえ、あまりに女心を知らなすぎる。別の女の子のことを——わたしの親友のことを好きなくせに、どうしてこんなことするの。わたしが春人さんを好きなことだって、彼は気づいているはずだ。わたしだけじゃなくて、香奈さんが自分を好きなことだって、絶対に知っている。それでもなお、香奈さんと仲良しのフリをする。そんなの、卑怯だ……!
「先輩は、ひどいです」
一方的にわたしに責められる春人さんは、けれどずっとその場から動かずにわたしの言葉にじっと耳を傾けていた。
春人さんの顔が見られない。顔を上げて、彼が今どんな表情をしているのか、確認することができない。歪んでいるのか、泣いているのか。いや、さすがに泣いてはいないだろうけれど。

「彩夏ちゃんは、知ってたんだね。誰にも、ばれてないと思ってた」

雨が、地面を打ち付ける音が、急に聞こえなくなる。
と同時に、頭や肩、腕、膝から、冷んやりとした刺激がなくなった。
春人さんがうずくまるわたしの身体の上で、傘を差してくれているのだと分かった。
「ばればれですっ……。見たら分かりますよ」
違う。
本当はわたしだって、気がつかなかった。
春人さんはずっと、香奈さんが好きなのだと思っていた。だって、彼女から分かりやすいアピールをされても、嫌な顔なんて全くしなかったから。それどころか、二人で仲良くすることに、居心地の良さを覚えているような、満足そうな表情をいつも浮かべていたから。

だからね、気づかなかったよ。
びしょびしょに濡れてしまった、桜庭書房の『ブラック時計』を右手で触る。桜庭家の、恵実さんの大事な時計。これがなければ、春人さんの真意なんて、知らないままだった。今は香奈さんのことをちょっと良いと思っているけれど、諦めないで想っていれば、もしかしたらいつか、わたしにも目を向けてくれるんじゃないかって。

でも、だめじゃん。
相手が弥生だなんて。親友だから分かる。
香奈さんとは違って、人の気持ちを真っ先に察して応えてくれる弥生。
彼女が相手で、わたしが敵いっこない。
「……」