はっきりと「好き」だなんて書いてあるわけでもないのに、痛いほど分かった。だって、香奈さんから渡された水を飲みながら、横目でわたしの左にいる弥生をちらりと見たのを、わたしは知っている。香奈さんは気づいただろうか。いや、きっと彼女は何も分かっていない。春人さんと一番心を近づけられているのは自分だと思っているだろう。
わたしは、隣にいるはずの弥生を見ることができなかった。
だってもし、彼女がわたしと同じように、春人さんの方を見ていたら。香奈さんと同じ瞳で彼を捉えていたら。
香奈さんと春人さんが仲睦まじく話している時の、わたしと同じ気持ちでいたら。
わたしはもう、弥生と友達でいられないかもしれない。
これまで、同じ人を想うことで香奈さんとは先輩・後輩の位置関係が複雑になったって、諦めようと思っていたのに。
わたしは同じことを、弥生に対して思えるだろうか?
ひたすら、目の前に突きつけられた現実から目を背けたかった。ブラック時計がなければ、春人さんの本当の気持ちなど、知らなくて済んだのに。
わたしは、右手で握り込んだ左腕の時計を、打ち壊してしまいたい衝動に駆られる。途端、脳裏に浮かんだ恵実さんの寂しそうな表情が、私の心を鎮めた。
そんなことをすれば、恵実さんが悲しむ。この時計は、桜庭家の大事な時計だ。おそらく、亡くなった旦那さんとの思い出が詰まった大切なもの。はっきりと聞いたわけではないけれど、この間の彼女の様子を思い出せばそうとしか考えられなかった。
わたしの隣で、弥生の小さな息遣いが聞こえてくる。
走り回って肩で息をしているプレイヤーたちとは違う。彼女の視線の先に、春人さんがいないことを祈った。
わたしは、なんてことを考えているんだろう。
その日の練習の帰り道、雨はまだ止んでいなかった。行くときよりは弱くなっていたけれど、傘を差さないと歩けないぐらいには降っていた。
今日も、相変わらず春人さんの隣をしっかりとキープして、一緒に帰ろうと迫る香奈さん。昨日までのわたしなら、どうしてそこまで積極的になれるのか、不思議でたまらないと思っていたに違いない。
でも今は。
彼の本当の気持ちを知ってしまった今は、そんな香奈さんの積極的な誘いが、ひどく滑稽に見えた。
「彩夏ちゃん、今日もお疲れ様」
どうして、わたしなんだろう。
香奈さんに「ちょっと待ってな」と断りを入れて話しかけにくる相手が、どうして。
弥生でなくて、わたしなの。
そんなふうに、頭の上に『弥生』の文字を浮かべて。
どうしてわたしに、笑顔でお疲れなんて言うの。
春人さんが本当に話したいのは、わたしじゃなくて、隣にいる弥生でしょう。
そう分かってしまって。
ぶわりと目尻に、涙が浮かぶのを感じた。
やばい。
このままじゃわたし、とんでもない醜態を晒してしまう。
頭ではそう思うのに、瞳の奥から溢れ出てくる水滴を止めることができない。やだ、春人さんには見られたくない。わたしは男の前で急に泣き出す女が、大嫌いなんだ。
「彩夏……?」
ぐずぐずと、鼻をすすりながら目元を押さえるわたしに、とうとう弥生が気づいてしまった。
やだ、弥生には見られたくない。
咄嗟に、ざっと後退りして、傘を放り投げて走り出した。
「え、どうしたの、彩夏!」
なになに、と他のメンバーたちがささやき合う声が遠く聞こえた。耳に残る「彩夏」とわたしを呼ぶ、弥生の声。
その声が、弥生でなくて、春人さんのものだったら良かったのに。
そう思う自分が、たまらなく憎たらしかった。
肌にバチバチと容赦無く突き当たる雨が、冷たくて、凍えそうだった。
途中まで、水浸しになったアスファルトの上を駆けていたはずなのに、ぐにゅんと、柔らかい土の上に足を踏み入れてそのまま転げた。前のめりに転び膝と手首を突いたので、じんとした嫌な痛みが全身を駆け巡った。こんなふうに盛大に転んだの、いつぶりだっけ。小学校の運動会のために、リレーの練習をしている時だったか、中学の授業でハードルを跳んでいた時だったか。
いずれにせよ、身体を地面に打ち付けた途端、痛み以上に羞恥で泣きたくなった。
こんな情けない姿を、誰にも見られたくない。
「……っ」
ギリ、と歯を噛み締めて、痛む手首を押さえながら私は立ち上がろうとした。でも、足が思うように動かなくて、結局また手をついて、足をさすった。
こんなことをしている間にも、降り続ける雨が体温をどんどん奪っていく。早く、家に帰りたい。一人暮らしで誰もいない家だけれど、暖房をつけてスープでも作ればきっと暖かい。