ほっとしたように、彼女が口元を緩めた。不安そうだった表情が一気に年相応の大人の女性の自然な顔になってわたしも安心した。
「いえ。それより、わたしが買う本を悩んでるときに時計の話をされましたけれど、何か関係があるのでしょうか」
「うーん、直接的には“ない”かな」
あっさりと、わたしが本選びに迷っているのと時計をつける実験に関係がないことを認める彼女。
「じゃあ、どうしていきなり時計の話なんか」
「それは……確証はないけれど、もしかしたらその時計が、彩夏さんの悩みを解消してくれるんじゃないかって、思っていて」
「悩みを、解消?」
「ええ」

悩み。
わざわざ口にするまでもなく、わたしの悩みは一つに決まっている。
春人さんへの気持ちに、収拾がつけられなくなっていることだ。
もっと簡単にいえば、彼を好きすぎて仕方がないこと。
でも、サークルの先輩の香奈さんも、誰の目にもはっきりと分かるくらい、春人さんを想っている。さらに、気持ちを伝えるどころか、アピールさえできないわたしとは違って、周囲の目も気にせず春人さんにアタックしていて。
春人さんは春人さんで、分かりやすく気持ちを表現する香奈さんに、まんざらでもないふうに接している。
どこからどう見ても、わたしの恋に突破口はない。
そんな気持ちを少しでも慰めたくて——。ううん、あわよくば、恋を叶えたい。そのためのバイブルを探していたんだ。

「この時計が、本の代わりにわたしの悩みを解決してくれるんですね」
「はっきりと断言できるわけではないわ。もしかしたら、解決してくれるかもしれない、というだけで」

恵実さんも、『ブラック時計』を着けてもらった例が少なすぎて、「着けた人の悩みを解決してくれるかも」というのが憶測に過ぎないことを知って、確証が持てないのだ。けれど、もしこの時計がわたしの悩みを解決してくれて、さらに恵実さんにサンプルとして結果を伝えてくれるのなら、わたしも恵実さんも目的を達成できて一石二鳥だと言いたいのだろう。
「なるほど……」

この時計の実験に、それほど深い意味があるとは思ってもみなかった。でも、彼女の言うとおり、やってみる価値はある。そもそも、着けたところで、悪者に狙われるとか命の危険があるとか、そういったことはなさそうだし。
「それでももし、彩夏さんが本を読みたいのなら、これを貸してあげる」
彼女は今の今まで読んでいた『痴人の愛』をわたしに差し出した。何度も読み返しているため、色あせた表紙。
「いや、結構です……」
突然前のめりになって本を勧めてきた彼女に、わたしは思わず身を引いてしまった。というか、普通店員だったら、新しい本を進めるべきじゃないのか。まあ、そうしないところが彼女のいいところではある。
「そっか」
思ったよりも引き際あっさりの彼女は、また先ほどのように『痴人の愛』を手元に置いた。
「とりあえず、この時計着けてみます」
「ありがとう。効果はわりとすぐに出るみたい。何が見えるようになったか、また教えてくれたら」
「分かりました」
何はともあれ、日頃お世話になっている恵実さんのお願いを引き受けられて良かった。

「彩夏さん」
そろそろ桜庭書房から出ようかと考えていたとき、恵実さんが再びわたしの目を見つめた。
「はい。どうしましたか」
「あの、もし覚えていたら教えて欲しいのだけれど。夫と……最後に会ったとき、何か言ってなかった……?」
震えていた、完全に。
恵実さんの声と、口元。
目に見えない、けれど絶対に太刀打ちできない運命という敵に翻弄された彼女が、なんとか身を奮い立たそうと懸命に足掻いているのが分かって。
何か少しでもいいから、ヒントが欲しい。
なぜ、彼が消えなければならなかったのか。
起こったことだけを並べたてれば、恵実さんの夫、昴さんが亡くなったのは交通事故としか言いようがない。不幸な事故だった。
でも彼女は、そこに事実以外の真実を見出そうとしている。
昴さんが車で事故に遭ったとき、車には別の女性が同乗していたと聞いた。恵実さんはきっと、二人の関係が由々しきものだと信じているのだ。わたしも、昴さんとその女性のことは知らないが、二人の間に何もなかったに違いないなんて、簡単に慰めることはできない。
真実は、闇に葬られてしまったのだから。
「すみません。わたしは何も……。最後に会ったの、いつだったかな」
「そう……」
寂しげに目を伏せる彼女を見て、いたたまれない気持ちになる。
「力になれなくて、ごめんなさい」
「いえ。そうですよね。彩夏さんは何も、知らないですよね」
彼女が、そっとお腹に手を当てる。また、腹痛らしい。
つくり笑いをした彼女に頭を下げて、わたしはその場から早く消え去ることしかできなかった。