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「なにを……言ってるの、理沙……」
信じられない言葉を聞いた。呆然とする佳乃に、理沙は苦しそうに応えた。
「あの時貴女が無邪気にそう言ったから、そうしてきたのよ……。それなのに……、また私は貴女から突き放されなきゃいけないの……?」
理沙は何を言ってるのか分かっているのだろうか。勘違いしているのなら、正してやらないといけない。
「理沙、落ち着いて……。友情をなにかとごっちゃにしちゃ駄目よ……。貴女、相沢さんと結婚するんでしょう?」
「そうよ、そのつもりだったわ。だって、佳乃が結婚することが幸せなんだって言ったから……。でもやっぱり駄目。再会して、貴女と話して……、分かったのよ、私……」
「理沙!」
佳乃は声を張った。それ以上言っちゃ駄目だ。言葉は人を縛る。理沙は自由に人生を羽ばたいて良い人なのだ。佳乃とは違う。
「私、貴女のこと……」
「言わないで。それ以上、言っちゃ駄目」
佳乃は、再び目に涙を浮かべ始めた理沙の口を手で封じた。言葉を閉ざされて、理沙は悲しそうに雫を落とす。理沙の口を封じた佳乃の手を、理沙の目から零れ落ちた涙が伝って落ちた。床にぱたりと落ちた雫は砕けて形を無くした。
この雫のように。自分たちの『それ』は無いものになるのだ。あってはならない。理沙の、素晴らしい未来の為に。
「勘違いを言葉にしちゃ駄目。貴女の未来がおかしくなるわ」
佳乃の必死の懇願に、しかし理沙はゆっくりと瞼を閉じ、佳乃の手を退けて、再び目を開けると瞳に強い光を宿して言った。
「勘違いじゃ……、無いわ……。確かに私は、貴女のこと、……好きだった……」
友情か、恋情か。その境さえあいまいな、少女が少女に抱く思慕、憧憬のようなもの。理沙は確かに佳乃に対して、それを感じていたのだ。……佳乃の呼吸が、止まる。
「好きだった……。佳乃のこと。……愛していたかどうかは分からなかったけど、あの時……、私たちの道が分かたれる時まで、……ううん、分かたれてからも、私は確かに貴女が好きだった……。この気持ちを、無かったことには出来ないわ……。この気持ちがあったから、私は佳乃に示された道を歩んでこられたし、その世界で翔に会ったの……。だから私は、貴女にありがとうと言えるわ……。私を愛してくれたこと。翔に出会わせてくれたこと。私と……、ずっと『親友』で居てくれること……」
親友、と言って、一瞬理沙は悲しそうに目を伏せた。その表情だけでは、理沙が心の中で相沢と佳乃のどちらをより愛しているのかは、佳乃には分からない。憂いの表情で、佳乃を『親友』という括りに縛り付け、相沢に会えてよかったと言っている。どちらが理沙の心の奥底の気持ちであるか、佳乃には図ることは出来ないが、いずれにせよ、理沙はその言葉で自分の心を縛り、自分の気持ちに結論をつけた。次の瞬間に開いた瞳は、しっかりと佳乃を見つめ、透明のしずくが零れる。ああ、理沙は。その足でちゃんと時を歩んでいる。強い光を宿した瞳。理沙はちゃんと前を向いている。佳乃は置き去りにされた己の醜い感情から、ぽろりと一粒、涙をこぼした。
「……理沙……、お願いがあるの……」
佳乃がぽつりと言うと、理沙は痛いものを見るような瞳で佳乃を見た。『大切な親友』にこんな目をさせてしまった自分を叩(はた)きたい衝動に、佳乃は駆られた。
「貴女に、子供を産んで欲しいの……」
ずっと好きだった。理沙の全てがいとおしかった。理沙に訪れる筈の、夫となる男性に愛されて愛おしまれて過ごす『普通の』幸せな未来を邪魔したくなかった。恋人の居る理沙。理沙は異性と愛し合えるのだ。そうであるならば、周りの全てに愛される彼女の遺伝子が、未来の何処までも続いていくことが、佳乃の夢だ。いくら理沙を愛しても、自分には不可能な、理沙の命を永遠に繋いでいくという夢。理沙はその夢を叶えてくれると言う。佳乃が出来ないこと。相沢にしか、出来ないこと。
「取り上げるのは、私じゃなくても構わない……。貴女は貴女の子供を産んで、そして家族で幸せに暮らして欲しい……」
脳裏に浮かぶ、やさしい理沙の両親の姿。彼らのことを思ったら、理沙と想いを通じ合わせることなんて出来なかった。彼らにも、理沙の子供を抱いて欲しい。その喜びを味わってほしい。理沙の両親を失望させたくなかった。理沙は佳乃を見ていた目をゆっくり閉じて、……そして再び瞼を上げた時には、もう迷いはなかった。形の良い唇が引きあがる。
「……分かったわ……。佳乃がそう言うなら、そうする。貴女が納得するなら、そうするわ……」
「そう……、誰も悲しまない。理沙のおじさんおばさん、相沢さん、理沙の仕事仲間、理沙を応援している女の子たち……。みんなみんなが幸せになれる……。……勿論、理沙も私も幸せになるのよ……」
佳乃も言霊で、自分たちを縛る。枷となったそれは、理沙と最高のパートナーとの愛を実らせ、理沙は幸せな家庭を築くだろう。其処に佳乃は要らない。独り女医の道を歩んでいる佳乃の未来にも、また、理沙は居ない。理沙と決別する代わりに、佳乃は産科医として命を繋ぎ続ける。佳乃と理沙が命を繋いでいく方法は、それしかない。……それで、良いのだ。みんなで幸せになる為に、いっときの激情を超えて、自分たちは友達に戻る。それで、良い。
「佳乃……、最後にお願い……」
無防備に差し出された唇に、しっとりと濡れた理沙の瞳が何を言うのか分かっていた。昔から、佳乃は理沙のお願いを断ることなんて出来なかったけど、これだけは聞くわけにいかなかった。自分たちの想いは何もかもが叶ってはいけない。自分たちを愛し、いつくしんでくれたみんなが幸せになる為に、そうであらねばならないのだ。
「駄目よ、理沙……。私たちはいっときだって叶っちゃいけない。別々に幸せにならなきゃいけないの……」
佳乃の言葉に理沙が寂しそうな顔をして俯いて、……そして次に顔を上げた時にはにっこりと微笑んだ。それは今までと同じ、明るく花開いた真っ赤な大輪の薔薇のようで。
「さよなら、佳乃……」
さよなら、理沙。そして、さようなら、私の恋……。
佳乃は理沙がドアの向こうに消えるのを見送ると、佳乃はキャビネットに飾ってあった紅茶を開封した。四人で会った時に理沙から土産でもらった紅茶のパック。それから匂った芳醇な茶葉の香りは、少しだけ佳乃を慰めた。
――――私たちは、今日、此処から飛び立つ。幼い日の自由な陽だまりの中から、課せられた高い空の向こうを目指して。