その日、佳乃のスマホに理沙からメッセージが入っていた。どうしても会って話がしたいと言うことだったので、自分の休診日の午後に会うことにした。果たして待ち合わせ場所に現れた理沙は、おおよそ快活で明るくにこやかな理沙ではなかった。眉を寄せ、今にも泣き出しそうだ。

「ど、どうしたの、理沙……」
「佳乃……」

明るく快活な理沙が悲壮な顔をしていたから、佳乃は理沙をマンションに案内した。床にしつらえたテーブルに座り、ホットオレンジミルクティーを前に、理沙の話を聞く。

「……プロポーズされたの。……翔に……」

胸に突き刺さった言葉は、しかし理沙の身にいつかは訪れる話だった。佳乃は動揺を見せないように、良かったじゃない、と返した。

「良かったのかなあ……。私はまた一歩、佳乃が遠くなるみたいで、嫌だわ……」

理沙の口から零れた言葉に、佳乃はぽかんとする。それこそ、十年以上会っていなかったというのに、今更自分と遠くなるとはどういうことだろう。

「理沙はそのつもりで相沢さんとお付き合いしてたんじゃないの?」
「そうよ。だって佳乃がそう言ったから……」

――『理沙に幸せになって欲しい。輝いて、成功して、そして結婚するの。理沙だから出来ることだよ』

理沙の人生の道標となっていた言葉。佳乃に言われたから、そう歩んできた。理沙の言葉に佳乃は一瞬、歓喜した。しかし直ぐに取り繕って、言葉を紡ぐ。

「何を言っているの、理沙。貴女、卒業してから自分の足で人生を歩んでいたんでしょう? もう私は必要ないじゃない」

そう。理沙の人生に佳乃は要らない。そうあらねばならないのだ。佳乃は自分に言い聞かせ、理沙に応じた。

「相沢さんのこと、真面目な人だって言ってたじゃない。理沙のことを、真剣に考えてくれたんだと思うわ。理沙は、私のことを考えるよりも、相沢さんに向き合わなきゃ」
「それで佳乃が遠くなるのは、嫌なの……」

理沙の言葉に、佳乃の心が痺れるように震える。佳乃は吊り上がりそうになる口角を引き締めて、理沙に言った。

「結婚したって、理沙は理沙じゃない。私の親友であることは変わりないわ」

微笑んでそう告げると、理沙は眉根を寄せて、悲しそうな顔をした。

「そんな優等生じみた言葉が聞きたかったんじゃないのに……」

はらりと涙をこぼす理沙に、佳乃は動揺した。優等生じみた? じゃあ理沙は何が聞きたかったと言うのだろう? それこそ、間違えて(・・・・)は居ないだろうか?

はらりほろりと零れるその光る雫を、佳乃は動揺を露わに見つめた。理沙が泣くところなんて幼稚園以来見ていない。……いや、もしかしたら恋人の前では泣くのかもしれないが、少なくとも佳乃の前で泣いた理沙は、幼稚園以来だった。

「ごめん……、泣かないで? 貴女が何を望んだのか分からないけど、でも私は本当に理沙の結婚を……」

祝福したい。そう言いたかった。そうすることで、佳乃の秘密は守られるはずだった。でも。

「…………っ」

言葉が、喉の奥で詰まった。

大切な人を泣かせてまで守らなければならない秘密って、何だろう……。佳乃は理沙に、笑っていて欲しいだけなのに……。理沙はきっと、幼稚園の時のように、「理沙のこと、大好きよ(・・・・)」と言えば、微笑んでくれる筈なのに。

ぐっと、喉の奥が詰まる。軽くそう言ってやれば良いのではないか? そうすれば、理沙の気持ちも落ち着いて、佳乃もいくらか救われる。……しかし、佳乃は言葉が人を縛ることを知っていた。騎士(ナイト)と言われて喜んだかつての自分のように、理沙を縛り付けることは出来ない。誘惑と決意との間で揺らいだ口許は、僅かに歪んでいた。そんな佳乃をどう見たのだろう。理沙は手の甲で零れた涙を拭うと、ふうっと視線を宙に彷徨わせて、それからゆうるりと佳乃に視線を戻した。……佳乃を見た、と思ったけど、視点は佳乃にも合っていないように見えた。

「……佳乃……。覚えてるかしら……。貴女が進路を医大に決めたって私に言ってくれた時のこと……」

そう言って理沙はぽつぽつと思い出話を始めた。