佳乃が食事を終えて両親とゆったりと過ごしていると、インタフォンが鳴って理沙が遊びに来た。本当に子供の頃のようで童心に帰ってしまう。

「理沙ちゃん、本当にきれいな娘さんになって。佳乃も少しは見習ってほしいわ」

ため息をつきかねない母親に、佳乃は苦笑する。

「元が違うわ、お母さん。理沙は昔からお人形さんみたいで人気者だったじゃない。私なんかと比べたらだめよ」

人気者だったからこそのトラブルも多かったけど、それらから理沙を守っていたという佳乃の自負は、今でも胸の中にある。

「やだ、佳乃。そんな冷たいこと言わないでよ、外見なんてどうでもいいじゃない。親友にそんな冷たいこと言われたら、私、今日ショックで寝れないかも」

理沙がおどけて言うので、佳乃も笑い話にする。

「理沙の家庭科の課題の巾着袋を手伝ったのは、未来永劫内緒にしておくわ」
「そうこなくっちゃ、我が親友!」

やっぱり明るくきゃははと笑う理沙は、佳乃の胸のつかえまで吹き飛ばしてくれそうな陽気さだ。佳乃は理沙に自室で待ってるように言うと、自分はキッチンに立った。キャビネットからティーポットとティーカップを取り出し、カップをお湯で温める。その間にアールグレイの茶葉を取り出してティーポットに茶さじ2杯分を入れて、熱湯を注ぐ。砂時計をひっくり返して3分蒸らしている間に、あたたまったカップからお湯を捨て、3分経ったらハチミツと牛乳、オレンジリキュールを入れたカップに紅茶を注いで、ホットオレンジミルクティーの出来上がりだ。それを自室に持って行くと、理沙の目が輝いた。

「はい、いつもの」
「これを待ってたのよ」

紅茶を理沙に差し出してやると、理沙は嬉しそうにティーカップを両手で持って、かぐわしい匂いを吸い込んだ。

「はあ~。このオレンジの芳醇な香りと、ミルクの甘い香りがとってもマッチしてて、私、佳乃が淹れるミルクティー大好きなのよね~。私も手順を真似るんだけど、どうしても同じような香りと味にならないのよ。やっぱり淹れる人が違うからなの?」

まさか、そんなことある訳ない。手順通りに淹れればお茶はちゃんと香りを立たせるし、牛乳だってオレンジリキュールだって、ごく市販のものだ。

「そっかあ……。でも同じ料理でも、自分で作るのと、外食で食べるのだとやっぱり味が違って感じるじゃない? 私にとっては、佳乃に淹れてもらうってことで、このミルクティーの特別感が増してるんだと思うわ」

佳乃からの友情を、何一つ疑うことなくにこやかに話してくれる理沙に、佳乃は胸の奥がずきずきと痛むのを感じた。……もうこういう気持ちになりたくないから、理沙とは会わないつもりで今の仕事に就いたはずなのに、それでも今日の女子会の誘いに乗ってしまったのは、やっぱり自分の弱い心の所為だった。
それは、女子会のお知らせに添えられたメッセージだった。

――『もしかしたら、こんな風に自由に会える時間も限られてくると思うから』

それは理沙が恋人と結婚を考えているのだと知らせるようなものだった。仕事を持っているとはいえ、独身と既婚では、当然後者である方が時間の制約が多い。一人勝手なことも出来なくなるだろうし、そうなると、これが理沙に会う最後の機会のような気がした。だから、出席した。

思えばいつの頃からか、佳乃は人に言えない悩みをずっと抱え続けてきた。実の母親であっても話すことのないそれを、一生抱えていくのかと思うと鬱々とした気持ちで過ごしたこともあった。しかし、佳乃の人生を滲色に彩ってくれたのもまた、その悩みの根源だった。それは、決して人には明かさないが、佳乃の心の奥底に根付く、大事なものだった。佳乃はそっと胸に手を当てて、その居場所を探る。ほうと静かに息を吐くと、その『大事なもの』まで届きそうな気持になった。

「佳乃?」

ふと、理沙が佳乃を呼んだ。

「なに?」
「……ん。なに、考えてるのかなって。今日みんなと居る時も、佳乃、なんか黙りがちだったから。……仕事で疲れてた?」

気遣ってくれるのが嬉しい。でもそれは、あまり外には出してはいけない感情だった。

「……そうね。たった一日の休みじゃあ、半年の疲れは取れないわよ。もっと何にもない所……、海とか森とかに囲まれた、世俗から全く隔離された場所で一週間くらい暮らしたら、息もしやすくなると思うけど……」
「そんなに深い、心の澱(おり)なの?」

理沙は何ということないように、でも佳乃を鋭くえぐってくる。
仕事の忙しさに紛れさせたつもりだった。今の言葉のどこに、そんなことをにおわす要素があっただろうか。理沙の顔をふと見て、そして真っすぐな視線に耐えられず逸らすと、理沙はカップに添えたままの佳乃の手にそっと触れた。

「私で良かったら、何でも聞くわ……。伊達に幼馴染みやってないわよ。会えなかった時間も多いけど、話してくれれば分かるわ……」
「駄目よ……」

理沙の言葉に即答した佳乃に、何故? と理沙が問う。

「……言葉ってね、凄い力を持ってるから、色々と簡単に言ったりしたら駄目だと思うのよ。昔から『言霊』って言うでしょ。あれ、間違いじゃないと思うのよ」
「でも、メンタルヘルスのお医者様だってよく言うじゃない。心に不満や不安をため込みすぎないことが、心の平穏につながるって」

佳乃の軽口と真面目な言葉を理沙は確実に区別して捉えて返事をする。それは、もしかしたら理沙の、佳乃への心向きを示しているのかもしれない。……しかし、それを喜んではいけないのだ。

心配そうに窺ってくる理沙の視線を外して、手をティーカップに添わせる。紅茶のぬくもりで、心の影をあたためて言葉を出来るだけ軽くしようとした。

「……言うとね、自分の中であやふやだった感情が実体化っていうか、現実味を帯びるっていうか…、そんな感じになるのよ。実は違った感情がホントになったりしたら怖いし……。負の感情がホントになっちゃうのって良くないと思うから、だからあんまり思わないようにしてるわ」
「……それって、無理してない……?」

それでも佳乃の企みは成功しなかった。眉を寄せて、理沙が問う。佳乃は静かに、頷いた。

「私の所為で、人に何か影響を与えるなんて、ごめんよ。……折角生み出す仕事に就いているのに……。新しい時間を生み出して……、自由を作り続けてきたのに……」

自分のたった一つの罪から逃れる為に、佳乃は今の仕事に就いた。それは自らに課した枷だった。だから、今の佳乃の夢は仕事をつつがなく終えて、朽ち果てることだ。
理沙が、悲しそうな目をした。首に腕を回して、佳乃に抱き付いてくる。ふわっと香る、佳乃の知らない香水の香り。

「親友の心が折れるかもしれない時に、私は何もしてあげられないの……?」
「ごめんね、理沙……。貴女にでも、言えないことはあるの……」

佳乃の拒否の言葉に抱き付いた腕が一瞬ぎゅっと強まり、そして離れていった。

「貴女に、信頼できる寄る辺があると良いのに……」

自分では力になれなくとも、誰かが佳乃を救ってくれたら良い。そういう理沙の思いを感じて、佳乃は微笑んだ。

「それこそ、仕事よ。私がこの世に対して出来る、最高の仕事だもの……」
「佳乃がおばあちゃんになって女医さんを引退した時に、そうだった、と聞けると良いわね……」

寂しそうに、理沙が言う。ありがとう、と佳乃は応えた。