「そうか。お前に怪我がなくて、本当に良かった。だが、痛むところが出てきたらすぐに言え。我慢する必要はないからな」


穏やかな笑みを浮かべた咲耶は、大蜘蛛を叩き斬ったときとはまるで別人だ。

たった今、吉乃は絆されてはいけないと自分を諫めたばかりなのに、こんなふうに優しく声をかけられたら戸惑わずにはいられなかった。

(どちらの彼を、信じたらいいんだろう)

黒い靄をまとった咲耶と、今、慈愛に満ちた目で吉乃を見つめる咲耶。

ふたりは同一人物とは思えないほど、まとう空気がまったく違い、吉乃は困惑してしまった。


「それでは行くぞ」


けれど次の瞬間、予告なく身体が宙に浮いて、吉乃の口からは短い悲鳴が漏れる。


「ひゃっ……!」


(う、嘘っ)

咲耶が、吉乃を軽々と抱え上げたのだ。

いわゆるお姫様抱っこをされた吉乃は驚き、思わず挙動不審になった。

 
 

「あ、あの! 私、自分の足で歩けるので下ろしてください!」


慌てて抗議をしたが、咲耶が応じる気配はない。

まだ彼を信じていいものかどうか悩んでいる最中なのに、こんなことをされたら、余計に冷静な判断ができなくなってしまう。


「いいから大人しく、俺に抱かれていろ」


しかし咲耶は吉乃を抱きかかえたまま案内所を出ると、路地を過ぎた先にある、花街の仲之町通(なかのちょうどお)りに降り立った。

仲之町通りは大門から真っすぐに延びた、花街の中央にある目抜き通りだ。

両脇には遊女がいる見世に客を紹介する【引手茶屋(ひきてちゃや)】が並んでいて、昼夜を問わず人目がある。

(どうしよう……。すごく、見られてる)

貧相な人の女を、眉目秀麗な軍人が抱きかかえて歩いていたら、注目を浴びて当然だ。

羞恥心から吉乃は必死に下ろしてほしいと懇願したが、咲耶はやっぱり聞き入れてはくれなかった。

 
 

「わ、私のせいで、咲耶さんまで好奇の目で見られてしまいます」

「そんなことは、どうでもいい。寧ろ俺は見せつけているんだ。お前は俺のものだと、帝都吉原に住む者たちに知らせている」

「え……?」


その上、返ってきたのは思いもよらない返事だった。

(私を自分のものだと知らせるって、どういうこと?)

咲耶とは、ついさっき初めて会ったばかりなのに。

どうしてそんなことを言われるのか、吉乃にはさっぱりわからなかった。


「あなたは……私を、どうするおつもりなのです?」

「さて、どうしてやろうか。美味しく食べてしまうのもいいかもしれないな」

「た、食べるって……」


と、腕の中で肩を強張らせた吉乃を見た咲耶はそっと顔を綻ばせると、不意に吉乃の耳元に唇を寄せた。

 
 

「悪い、冗談だ。吉乃はなにも事情を知らないのだから、戸惑うのも無理はない」

「冗談……?」

「とにもかくにも、もう少しだけ大人しく俺に抱かれていろ。どうせなら邪魔の入らぬところで、ふたりきりで話がしたい。お前を食べるのも、ふたりきりのときの方が良さそうだしな」

「なっ!」


色香をまとった甘く掠れる声に鼓膜を揺らされ、吉乃はさらに身を硬くした。

顔を茹でダコのように赤く染めた吉乃の初心(うぶ)な反応を見た咲耶は、今度は面白そうに口角を上げて笑う。

(も、もしかして、私の反応を見て楽しんでる?)

疑問を抱いても声には出せない。

結局、吉乃は目的地につくまで咲耶の腕に抱かれたまま、借りてきた猫のように大人しくしていることしかできなかった。




 


  *
  ・
  ゜
  ★
  .
  *
  薄紅色の(えにし)

 
 




「ここは……?」


咲耶が吉乃を下ろしたのは、帝都吉原の外れにある、白い鳥居の前だった。

花街の賑わいが嘘のように静まり返ったその場所は殺風景で、古い鳥居と小さな(ほこら)以外は、なにもない。


「この先に俺の屋敷がある。そこで話そう」

「お屋敷が?」


咲耶の言葉に、吉乃は首を傾げてしまった。

(お屋敷があるって……この先には、遊女の逃亡を防ぐための大きな堀、〝お歯黒どぶ〟があるだけのような……)

どう見ても、お屋敷が建つスペースはない。

けれど咲耶は戸惑ってばかりの吉乃の手を引くと、静かに呪文のようなものを唱えながら古い鳥居をくぐった。

 
 

「え──」


すると次の瞬間、辺りの景色が一変する。

それまで吉乃が見ていた帝都吉原の風景は消え、目の前に美しい参道(さんどう)が現れた。


「ど、どうして……?」


石畳の参道の先には、豪壮(ごうそう)な武家屋敷らしきものが建っている。

屋敷の前には一本の桜の木があり、空に向かって大きく枝を広げていた。


「あれが俺の屋敷だ。この場所は普段は神力で隠されていて、俺の許可なしでは誰も入ってこられないようになっている」


後ろを振り向くと、そこには先ほどくぐった白い鳥居が建っていた。

つまり、鳥居が門の役割をしているということか。

あまりの不思議な体験に驚いた吉乃は、迷子になった子供のように、隣に立つ咲耶を見上げた。

 
 

「ここは、帝都吉原ではないのですか?」

「いや、残念ながら帝都吉原だ。正確には、帝都吉原内の空間の歪みに結界を張って作った神聖な場所……といったところか」

「神聖な場所?」

「ああ、だから、ここなら誰に見つかることもなくふたりきりで話ができる。安心しろ」


そう言うと咲耶は、吉乃と繋いでいる手に力を込めた。

そして言葉の通り、本当に吉乃を安心させるように微笑んだあと、繋いだ手を引いて歩き出した。

(でも、安心しろって言われても……)

そうそう、安心などできるはずもない。ここは帝都で、咲耶は人ならざる者なのだ。

(まさか本当に、食べられたりしないよね?)

吉乃は均整のとれた横顔をこっそりと見つめながら、大蜘蛛を斬ったときの咲耶の変貌ぶりを思い出した。

髪は闇色に染まり、瞳は燃えるような紅色になった。

黒く禍々しい靄に包まれた彼は残忍で、躊躇なく自分と同じ人ならざる者である大蜘蛛を消し去ったのだ。

 
 

「あ……」


と、そのとき。思い悩む吉乃の目の前を桜の花びらが横切った。

誘われるように顔を上げた吉乃は視界を埋める満開の桜に驚き、思わず息を呑んで感嘆した。


「すごい、綺麗……」


白く霞がかった空には薄紅色がよく馴染み、まるで生きた水彩画を見ているようだ。

たった今、咲耶について悩んでいたのに、モヤモヤとした思いは心の隅へと消えていく。

同時に、吉乃はなぜだかとても懐かしい気持ちになった。

(どうしてだろう……。初めて来る場所なのに、初めて来た気がしない)

風が吹く度に花びらが舞い落ちる様はとても幻想的で、この世のものとは思えぬほど美しい。


「不思議……。私、この桜の木を、どこかで見たことがあるような気がします」


そう言った吉乃は咲耶の手を離し、ゆっくりと桜の木の下まで歩を進めた。

はらり、はらりと舞う薄紅色はとても綺麗で、まるで吉乃を歓迎してくれているようにも思える。