『ちなみに私は、紅天楼よりも大きな見世がほしいとお願いしようかと思っているのよ』

『べ、紅天楼よりも大きな見世ですか?』

『ええ、もちろん。それくらいじゃないと、やり甲斐がないじゃない。年季が明けるまでにもっと貪欲な願いを思いつけば、そっちを頼んでやろうとも思っているわ』


艶やかに笑った鈴音は抜け目なく、なによりとても美しかった。


『……私、やっぱり悔しいです』

『悔しい?』

『だって、鈴音さんはあまりに遠くて、まるで追いつける気がしないので』


でも、今は不思議と心は晴れている。


『鈴音さんのお話を聞けて良かったです。これからも、鈴音さん――いえ、鈴音姉さんから、たくさんのことを学ばせていただければ嬉しいです』


まだ笑い慣れないせいで、吉乃の笑顔はぎこちない。

けれど、そんな吉乃を見た鈴音は、


『勝手に学びなさい。あなたも私の可愛い妹分だからね』


と、凜として応えてくれた。


 * * *


「吉乃、大丈夫だから。あなたらしくやっておいで」


つい二週間前の会話を思い出していた吉乃は、鈴を転がしたような鈴音の声で我に返った。

今日の水揚げのために着ている着物は、鈴音が買い与えてくれたものだ。


「本当に素敵なお着物を、ありがとうございます」

「お礼は水揚げが無事に終わってから言いなさい。さぁ気張って。いってらっしゃい」


背中を叩かれた吉乃は、改めて背筋を伸ばす。

今、鏡に映る自分は、つい二カ月前の自分とはまるで別人だった。

長い髪を結い、綺麗なかんざしをつけ、艶やかな着物を身にまとっている。

(……大丈夫。もう迷わない)

心の中で自分自身に言い聞かせた吉乃は、前を向いて歩き出した。






「そう緊張されると、俺もなかなかやりづらいんだがなぁ」


けれど、固めたはずの決意は禅を前にしたら、豆腐のように頼りないものになった。


「す、すみません。さっきから失敗ばかりしてしまって」


水揚げと言えど、まずは雰囲気作りからと教えられていた吉乃は、前回同様、お酌からはじめ、いくつかの芸事を披露する予定だった。

しかし、最初にお酌でお酒を溢して失敗。琴も緊張で音を外してばかりいた。

結果として雰囲気作りをするどころか、禅には散々笑われる始末だ。

挙句の果てには緊張していることも見透かされ、吉乃はすっかり萎縮していた。


「今日は、お触りもありなんだぜ。だったらもう少し近くに寄れよ。これじゃあ、いつまで経っても距離が縮まらねぇ」


禅に催促された吉乃は、おずおずと足を動かし禅の隣に腰を下ろした。

今日は水揚げ──つまり、初めて魂の味見をされるのだ。

味見の方法は口付けで行われる。

でも、初心(うぶ)な吉乃は、とにかく緊張しっぱなしだった。

 
 

「やり方は、ちゃんと教わってきたんだろう?」

「は、はい。でも、禅さんは慣れているから、禅さんに任せればいいとクモ婆には言われました」


吉乃の返事に禅が小さく舌を打つ。


「あの婆さん、お前にすっかり甘くなったなぁ。惚れ涙の力がそれほどすごいってことなんだろうが、本当になかなか厄介な力だな」


そう言った禅は、吉乃の薄紅色の瞳を覗き込む。


「だが……惚れ涙を飲まなくても、この目に見つめられるだけで、普通の奴ならコロッといきそうなもんだ」

「禅、さん?」

「お前が笑うだけで、なんか特別感もあるしな。ほんの少し、あの婆さんがお前に入れ込む気持ちもわかるような気がするぜ。ついでに――あいつの気持ちもな」


禅の言う〝あいつ〟が誰を指しているのか、緊張している吉乃にはわからなかった。


「まぁ、もう小難しいことはなしにして、そろそろ本題に移るとするか」


そう言うと禅は、吉乃の腰に手をまわした。

ドキン、と吉乃の胸の鼓動が大きく跳ねる。

(これから私は、禅さんに魂を食べられる──口付け、するんだ)

水揚げの際には壁の耳も障子の目も祓われる決まりのため、今は部屋の中には吉乃と禅のふたりきり。

吉乃も、禅が悪い男ではないということは、もうちゃんとわかっている。
 
それでも勉強のためにと、姉女郎たちが人ならざる者に魂を食べさせる様子を見てきた吉乃は、これからされることを想像して身を硬くした。


「なんか、お前の緊張がこっちにまで伝染(うつ)りそうだわ」

「え──」

「なぁ、お前は俺にどうやって喰われたい? 初めてなんだし、お前がされたいようにしてやるよ」


そう言う禅は、驚くほど色っぽかった。

(でも、私がされたいようにしてくれるって言われても……)

口付けは、短いものから長いもの。

そして浅いものから深いものに加えて濃厚なものまで色々あると、吉乃は鈴音を含む姉女郎たちから教わってきた。

 
 

「や、やっぱり私には選べません」

「なんでだよ?」

「だって……だって、私は──」


言いかけて、言葉を止めた。

脳裏を過ったのは、咲耶の優しい笑顔だった。

(咲耶、さん……)

吉乃は思わず、胸元に手をあてて咲耶を想う。

今日も着物の下にはとんぼ玉を入れた巾着袋を首から下げて忍ばせてあった。

この二週間、吉乃は水揚げのことを考える度に咲耶のことを思い出していた。

自分を抱きしめる温かい腕。

何度も自分を助けてくれた咲耶のことを……。

いけないと思っていても、咲耶を想って胸を熱くせずにはいられなかった。

(ああ、やっぱり私は咲耶さんのことが──)

吉乃は、どうしようもなく咲耶に惹かれている。

(でも、そう思うことは許されない)

吉乃は遊女になるのだ。

この期に及んでも、咲耶のことを考えてしまう自分が嫌になった。

禅に対しても失礼極まりないことだ。

今は禅のことだけを考え、禅に身を委ねるべきなのに、吉乃の心の中には咲耶への想いが溢れていた。


「吉乃。いい加減、観念してこっちを向けよ」


けれど、そう言った禅が堪りかねたように吉乃に顔を近づけたら、


「ふ……へえええぇぇぇぇ〜」


突然、気の抜けたような声を出して、禅はバタリと畳の上に倒れ込んでしまった。


「ぜ、禅さん!?」


驚いた吉乃は慌てて禅の身体を揺り動かした。

すると、どういうわけか、禅はグーグーと(いびき)をかいて気持ちよさそうに寝入っていた。


「人のものに手を出そうとするからだ」

「え──」


次の瞬間、艶やかな声と同時に、部屋の中に桜の花びらが舞う。

驚いた吉乃が振り向くと、窓際に座ってこちらを見る咲耶と目が合った。


「さ、咲耶さん!? どうしてここに──」


思わず声を上げた吉乃は狐につままれたような顔をする。

対する咲耶はゆっくりと吉乃に向かって歩いてくると、そうすることが当然のように吉乃の身体を抱き上げた。


「俺以外の男に、吉乃の水揚げなどさせてなるものか。こいつが吉乃の唇に触れることを考えたら気が触れそうだ」

「え……」

「吉乃は俺のものだと、吉乃が生まれる前から決まっていた。吉乃の身体も心も魂も、桜色の唇も――すべて、俺だけのものだ」


そうして咲耶は吉乃を抱きかかえたまま紅天楼から姿を消すと、鳥居の中の桜の木の下まで飛んできた。


 
 

 * * *


薄紅色の花びらが、夜の闇にまぎれて宙を舞う。

美しく咲き誇る桜は幻想的で、まるでここだけ時間(とき)が止まっているかのような錯覚を起こさせた。


「この桜は……咲耶さんのようですね」


美しく清廉で、何者にも邪魔されない凛とした強さを持っている。

満開の桜を見上げた吉乃は、思ったことをそのまま口にして小さく笑った。

すると、吉乃を地面に下ろした咲耶は、木の幹に触れながら薄紅色の景色を静かに見上げた。


「当然だ。この桜は、俺自身なのだからな」

「え……?」

「俺は元々、この桜の木を神木として祀られた山の神だった。俺とこの桜の木は、ふたつでひとつの存在なんだ」


思いもよらない話に、吉乃は驚いて目を見張る。

咲耶は桜の木を神木として祀られた山の神──。

どこかで聞いたことのある話だ。

その昔、山を護るための神が宿った桜の木の伝説を、吉乃は聞かされたことがあった。


「この桜の木は帝都吉原が創建された際に、この地を護る御神木に選ばれ、〝無理矢理〟ここに移植された」

「無理矢理って……」

「本来、俺には護るべき土地があった。けれど俺の力に目をつけた帝都政府と現世政府の役人の手により、俺は自分の意思とは関係なく、この場所に閉じ込められた」


ざわざわと、咲耶の瞳の色が紅く色付く。

それは黒い靄をまとったときと同じで、吉乃は思わず息を呑んだ。


「神でありながら恨みを抱いた俺の魂の半分は邪道に堕ち、邪気に満ちた鬼と化した。結果として俺は魂の半分が神堕ちした状態になり、鬼神と成り果てたのだ」

「鬼神……」


黒く染まりかけた髪が元の銀色と薄紅色に戻っていく。

瞳の色も紅から黒に戻ったのを見た吉乃は、安堵の息を溢した。


「今となっては、力を得られたことは幸運だったと言えるがな。常に有象無象の悪意が蔓延(はびこ)るこの地を護るためには、穢れた鬼の力も必要だ。神威の将官の地位についてからは、さらにそれを実感してばかりいた」


そこまで言うと咲耶は幹から手を離し、吉乃を振り返った。

桜を背負って立つ咲耶は今にも消えてしまいそうなほど儚げなのに、どうしようもなく目を惹きつけられる。

 
 

「どうして私に、そのように大切な話をしてくれたのですか?」

「それはお前が、俺の花嫁だからだ」

「花嫁って……」

「吉乃には俺の純粋な神力が生まれながらに備わっている。お前のその薄紅色の瞳も、異能である惚れ涙も、俺の神力がすべての根源なんだ」


思いもよらない話に衝撃を受けた吉乃は、返す言葉を失くして固まった。

(私の瞳の色と異能は、咲耶さんの神力が根源?)

意味がわからない。

吉乃の気持ちを察した咲耶は、今度こそ覚悟を決めたように口を開いた。


「俺が元々いた土地は、吉乃が生まれた木花村を抱く山々だ」


『木花村にはね、私たちが住むこの土地を護ってくれている、千年桜の伝説があるのよ』

それはずっと昔に、吉乃が両親から聞かされた話。

しかし、吉乃の両親は〝呪われた一族〟と呼ばれ、吉乃が幼い頃に亡くなった。


「吉乃の数百年前の先祖は、俺を大切に祀り、信仰していた一族だった」


吉乃の先祖は咲耶が宿る桜の木が帝都吉原に移植されるときにも、役人たちに『止めてくれ』と、必死に食い下がって抵抗したということだ。

しかし、結果としてその行為によって政府に睨まれ、木花村は数年間、税などの面で冷遇される羽目になった。

吉乃の先祖が〝呪われた一族〟と、呼ばれ出したのもそれがきっかけだ。

古い迷信で桜の木を祀り、政府に歯向かって村を危機に陥れたとなれば、村の人間が疎ましく思うのも当然だった。


「だが俺は、俺を守ろうと必死に政府の者に抵抗した吉乃の先祖たちに、心から感謝していた」


咲耶が完全に神堕ちしなかったのも、先祖たちのおかげだという。

先祖たちが自分の身を危険に晒してまで咲耶を守ろうとしたことが、咲耶はとても嬉しかったのだ。


「だから俺はそのときに、彼らがこの地を護れるようにと力を与え、祝福……つまり、自分の神力の一部を授けたんだ」


その神力が引き継がれる限り、彼らが生きる土地が干上がることのないようにと願いを込めて。


「そうして、巡り巡って俺の神力を強く持って生まれたのが吉乃というわけだ。吉乃がいる限り、あの土地は安泰のはずだったが……お前がここにいるということは、あの場所が枯れるのも時間の問題だろうな」


予想もしていなかった言葉に、吉乃は木花村の面々を思い浮かべた。

吉乃はあの村で長い間、冷遇を受けてきた。

当然、未練などない。

土地が枯れれば、養父母もどうなることかわからない。

 
 

「吉乃の名の由来を聞いたとき、彼らの子孫だと確信して胸が震えた。俺が愛し、大切に想ってきた者たちと、今度こそ深い縁で繋がった関係になれると思ったのだ」


吉乃が咲耶と初めて会ったとき、咲耶はとても驚いた様子だったが、こんな事実が隠されていたのだ。


「じゃあ、私は咲耶さんのものだと、私が生まれる前から決まっていた。私が咲耶さんの花嫁だというのも――それが理由ですか?」


咲耶に問いかけた吉乃は、複雑な気持ちで咲耶のことを見上げた。

咲耶が初めから自分を気にかけてくれていたのは、単に吉乃が咲耶の力を授かって生まれた子だったからなのだと思ったのだ。

(咲耶さんが私を花嫁だと何度も言ったのも、私の先祖が、咲耶さんの大切な人たちだったから?)


「吉乃? なにを萎れている」

「……別に、萎れてなんていません」

「嘘をつくな。こっちを向け。俺を見ろ──」


そっと吉乃の頬に触れようとした咲耶の手を、吉乃は咄嗟にヒラリと(かわ)した。


「……咲耶さんは、やっぱりなにもわかっていません」

「吉乃?」

「私が今、どんな気持ちなのか。咲耶さんが私のことを花嫁だと言う度に、どんな想いになったのか。絶対絶対、咲耶さんはわかってない」


ざわざわと桜の木が揺れ、ふたりを薄紅色の景色が包み込んだ。

赤くなった吉乃の頬を美しい涙が伝う。

それを見た咲耶は目を瞬くと、堪りかねたように破顔した。


「ふっ……ハハッ」

「ど、どうして笑うんですか!? 私は真剣なのに……っ」

「ふっ……すまない。吉乃があまりに可愛くて愛しくて、勝手に顔が緩んでしまった。許せ」

「え──」


次の瞬間、一瞬の隙をついて咲耶が吉乃の身体を抱き寄せた。

途端に、吉乃の鼓動が波打つように鳴りはじめる。

密着したら咲耶にすべて伝わってしまうと思ったが、なぜだか今は、咲耶から少しも離れる気にはなれなかった。


「俺はお前のうちに秘められた静かな強さに惹かれた。吉乃の先祖たちが大切だからじゃない。俺は吉乃が大切で、愛しくてたまらないんだ」

「嘘……」

「嘘じゃない。だから吉乃、下を向くな。お前は常に俺をその瞳に映していろ」

「咲耶、さん……?」

「吉乃と俺は、比翼連理(ひよくれんり)だ。俺だけの、愛しい花嫁。他の誰にも譲るものか」

「ん──っ」


言葉と同時に、唇と唇が重なった。

すると次の瞬間、吉乃の身体を熱いなにかが駆け巡った。

(な、なに、これ……)

熱さは喉元を通り過ぎ、身体の中心で止まると、まるで燃えるように胸を強く焦がしたあと全身に染み渡ってから消えていく。


「い、今、のは……」

「お前の魂を俺が味見した」

「え……」

「よかったな。これで水揚げも終わった。あの馬鹿の世話になる必要はなくなったというわけだ」


不敵に笑った咲耶は、満足そうに吉乃の頬に手を滑らせる。

吉乃は未だに状況が飲み込めず、自身の胸に手をあてるだけで精いっぱいだった。

 
 

「予想通り、吉乃の魂は甘いな。だが、癖になる。吉乃は何度食べても飽きることがなさそうで危険だ」


そう言うと咲耶は、吉乃の額に自身の額を重ねた。ドキドキと胸の鼓動が鳴り止まないのは、咲耶の甘い言葉と綺麗な顔が、吐息もぶつかる距離にあるからだ。


「本当は――今すぐお前をここから連れ去ってしまいたい。お前の味を知る男は、俺だけで十分だ」


けれど、続けられた言葉に、吉乃の心は大きく揺れる。

水揚げも済み、十八になったら吉乃は正式な遊女となる。

そうなれば今のように、今度は客を相手に口付けをすることもあるのだ。


「このままお前を攫ってしまいたい。だが、今の俺はここからは離れられない、呪われた身だ」


そう言った咲耶はそっと目を伏せて、再び静かに話を続ける。


「先ほども話した通り、俺はこの桜の木と一心同体の存在だ。神木であるこの桜の木が帝都吉原にある以上、俺もこの地に縛り付けられる」

「それはつまり……咲耶さんは、私を身請けすることはできないということですか?」

「……ああ。それが、帝都政府との間に結ばれた契約だからだ。地獄に縛り付けられた俺は、現状から逃れることは許されない」


──契約というより、まるで呪いだ。

けれど吉乃は咲耶のその言葉を聞いて、ふとあることを思い出した。


「花魁になったら、ひとつだけ願いが叶えられる……」


(ああ、そうか)

本当にふたりは巡り会うべくして巡り会った、比翼連理なのかもしれない。


「吉乃?」

「今の話だと、咲耶さんは、今は帝都吉原を護る神様で、この桜の木がここにある限り、帝都政府に従い続けなければならないってことですよね?」

「ああ、そうだが……」

「わかりました。それなら、私にもできることがあります」


そう言うと吉乃は真っすぐに咲耶の目を見つめ返した。

力強く眩しい光をまとった美しい瞳に、咲耶は思わず見惚れてしまう。


「私は、紅天楼で花魁になります。そして花魁になれたら帝にお願いして、この桜の木を帝都吉原ではない別の場所に移してもらって咲耶さんの呪いを解きます」


――帝都の帝は、他者の心を手に入れられるような願いは叶えられないが、それ以外の願いなら叶えてくれる。

ようやく吉乃の言葉の意味を理解した咲耶は、驚いて目を見開いた。

対する吉乃は、咲耶を見て屈託のない笑みを浮かべる。


「そうすれば、咲耶さんは解放されるんですよね」

「だが……それでは吉乃に苦しい道を歩ませることになってしまう。俺は以前、帝都吉原では自己犠牲の精神など持っていても、己の首を絞めるだけだと言ったはずだ!」

「いいえ、これは自己犠牲などではありません。これまで私は何度も咲耶さんに助けていただきました。だからこれからは、私が咲耶さんを助けたい。咲耶さんをお慕いしているからこそ、そうしたいんです」


そう言う吉乃の目には、薄っすらと涙の膜が張っていた。

花魁になる――それは正に茨の道を歩むということ。

それでも吉乃は咲耶を救うためなら、その道を行くことをためらわない。

咲耶だけじゃない、自分自身のためにもその道を選びたいと思うのだ。

 
 

「でも……花魁を目指す私を、咲耶さんは変わらず愛してくれますか?」


吉乃は咲耶の手を掴んで、そっと両手で包み込んだ。

これまでずっと、吉乃は迷い続けてきた。帝都吉原に来てからも、自分に遊女が務まるのか不安でしかなかったが、今ようやく覚悟ができた気がしている。

けれど花魁を目指すということは、咲耶以外に自身の魂を差し出すということだ。

(そうなれば、少なからず、今のままの私ではいられなくなるかもしれない)

いつまで魂が持つかもわからない。まさに命懸けの選択でもある。


「そんな私を、咲耶さんはすべてを終えたとき、花嫁に迎えてくれますか?」

「……っ、くだらないことを言うな! 後にも先にも、俺が愛するのは吉乃だけだ! 俺の花嫁は、吉乃以外に有り得ない!」


涙を浮かべた目で自分を見上げる吉乃を、咲耶は強く抱き寄せた。


「咲耶さん……必ずふたりで、ここを出ましょう」

「ああ。吉乃とふたりで帝都吉原を出ることが叶うその日まで、俺は吉乃と吉乃がいるこの場所を命を懸けて護り抜くと誓う──」


そう言った咲耶は再び、吉乃の唇に口づけた。

比翼連理――。

本当に、生まれる前からこうなることが決まっていたかのように、咲耶の身体に吉乃の身体は添うように収まった。


「咲耶さん、私はあなたのことが好きです。これだけはずっとずっと、覚えていてください」


吉乃が微笑むと、目尻に滲んだ涙を咲耶がそっと指先で拭ってくれる。


「俺も吉乃を愛している。この想いだけは、なにがあっても揺るがない」


そのままふたりは、空が白みはじめるまで桜の木の下で寄り添っていた。

いつまでも抱き合うふたりを、薄紅色の花たちだけが見守っていた――。

 
 

 * * *


「んん……? あれ、俺は一体、どうなって……」


長い夜が明け、眠っていた禅が目を覚ましてゆっくりと身体を起こす。


「――禅さん、おはようございます。昨夜はありがとうございました」

「へ?」

「禅さんのおかげで、無事に遊女としての一歩を踏み出せます」


薄紅色の瞳を細めて吉乃が笑う。

禅はなにが起きたのかさっぱりわからない様子だったが、突然目を見開くと、前のめりで吉乃の顔を覗き込んだ。


「ま、まさか、惚れ涙の影響か!?」

「え?」

「昨夜のことを俺はさっぱり覚えてない! まさか吉乃、お前……知らぬ間に、俺に涙を飲ませたのか!?」


禅は真剣だ。

吉乃はキョトンとしながら瞬きを繰り返すと、今度は息を吐くように顔を綻ばせた。


「ふふっ、どうでしょうか」


吉乃の目の前を一枚の桜の花びらが、静かに横切る。

ここは騙し騙され、化かし合いが常の世界。

昨夜の真実を知るのは、吉乃と咲耶のふたりだけ──。