「おいっ、なんだこれ! 咲耶、まさかお前が邪魔をしたんじゃねぇだろうな!」
暗闇の中で禅が吠える。
吉乃は助けを呼ぼうと慌てて立ち上がり、扉のある方向へゆっくりと足を動かした。
「も、申し訳ありません。今、新しい灯りを持ってまいりますので──きゃあ!?」
けれど、なにかに躓いて、吉乃は大きく体勢を崩した。
(転ぶ……!)
着物に足を取られて身体が傾き、視界が大きく揺れ動いた。
「え……」
けれど、予想していた痛みと衝撃はやってこなかった。
吉乃は今、温かい腕に抱き留められている。
暗闇で相手の顔は見えないが、吉乃には自分を今、抱いているのは禅ではなく咲耶だという確信があった。
「おいっ! 吉乃、なんかあったのか!?」
「あ……い、いえ、すみません。扉を開けようとして、躓いてしまって」
身体が熱くなって、動悸が高まる。
すると、そんな吉乃に気づいた咲耶はからかうように、より強く吉乃の身体を抱き寄せた。
「〝登楼したものが突き出し前の遊女に特別な理由なく触れるのは、帝都吉原の規律に反する〟」
「え?」
「これは転びそうになった遊女を助けたという〝特別な理由〟があるから不問だ」
耳元で、低く甘い囁きが響く。
色気をまとった吐息と声に身体が痺れ、心臓は今にも爆発しそうなほど激しく鳴った。
「吉乃の鼓動の速さが、俺の身体にも伝わってくる」
敢えて言葉にされると余計に羞恥心が煽られる。
今が停電中でよかった。もし灯りがついていたら、耳まで赤くなる様を見られていただろう。
「す、すみません、私……」
「酒に弱いという秘密を暴いた仕置きだ。今は大人しく俺に抱かれていろ」
暗闇の中で、ふっと、咲耶が意地悪に笑った気配がした。
たまらなく恥ずかしくなった吉乃は、咲耶の軍服をギュッと掴んだ。
「吉乃……。そんなふうに甘えられると、お前をここから攫ってしまいたくなる──」
「──大丈夫ですか!?」
と、そのとき。扉の向こうで琥珀の焦ったような声が聞こえて、吉乃は慌てて咲耶から身体を離した。
(わ、私ってば、今なにを――!?)
「申し訳ありません! 突然、紅天楼中の灯りが消えてしまいまして……。今、原因を調査中なのですが、とりあえずこちらの灯りをお使いください」
扉を開けて入ってきた琥珀の手には、狐火が灯った小型の行燈があった。
おかげで、部屋の中に明るさが戻る。
と、すぐそばに立っていた咲耶と目が合った吉乃は、咄嗟に視線を下に落とした。
(ど、どうしよう……。咲耶さんの顔が見られない)
未だに心拍数は上がり続けている。
抱きしめられたときの咲耶の温もりがまだ身体に残っていて、耳元で囁かれた言葉を思い出した吉乃の頬には赤が差した。