「登楼した者が突き出し前の遊女に特別な理由なく触れるのは、帝都吉原の規律に反する行為だ」
咲耶は淡々と言葉を続けたが、その声には明らかな苛立ちが滲んでいた。
「蛭沼も、それを含めて捕縛に至った。まさか、それらの規律を忘れてしまったとは言わせないぞ」
咲耶が言うように、帝都吉原にはいくつもの規律が存在する。
その多くは逃亡を図ろうとする遊女の心を折るためのものであったが、規律に反したものは遊女のみならず、人ならざる者であっても厳しい処罰が課せられることになっていた。
「おいおい、そんな睨むなよ。つーか、腕、痛ぇし。離せよな」
しかし、当の禅は意にも介さぬ様子で、相変わらずヘラヘラするばかり。
食えない男だ。
咲耶は厳しい表情のまま、掴んでいた禅の腕を宙に放るように離した。
「たとえ相手がお前でも、規律を破った場合、俺は一切の容赦はしないということだけは初めに伝えておこう」
そして再度、禅に深く釘を刺す。
さらに咲耶は吉乃を背に隠すように禅の前に立ちはだかると、腰に差した刀の柄に手をかけた。
(咲耶、さん)
今、咲耶は帝都の秩序を守る責務を負った神威の将官として、規律を破ろうとした禅を糾弾したに過ぎない。
頭ではわかっているのに、吉乃は咲耶の広い背中を見ながら、自身の心拍数が上がっていくのを感じた。
「ちぇー。それを言ったら、帝都吉原内で帯刀することも、規律に反するんじゃねぇのかよ」
「馬鹿は休み休み言え。俺が率いる神威は、いつ何時でも無法者に素早く制裁を加えられるように、常に帯刀する許可を帝から得ている」
「おー、怖。そんなピリピリすんなって。ほんの冗談じゃんか。つーか、お前の言う通り、帝都吉原に遊びに来るのが久々で、規律を忘れてただけだって」
軽口を叩いた禅は、そう言うと両手を上げて降参の姿勢をとった。
(え……)
そして改めて、チラリと吉乃に目を向ける。
目が合った吉乃は一瞬肩を強張らせたが、禅はニヤリと狡猾な笑みを浮かべて、再びゆっくりと口を開いた。
「しかし、なるほどねぇ。噂は本当ってことか。咲耶は随分と、お前に入れ込んでいるな」
吉乃の心臓が波打つように鳴りはじめる。
大きな不安と、僅かな期待。
もしかしたら咲耶は、禅が吉乃に触れるのが気に食わなくて、刀の柄に手を添えたのかもしれない──なんて。
無駄に想像力を働かせた吉乃は、雑念を払うように心の中で首を左右に振った。