「俺を呼ぶ、愛しい声が聞こえた」

「え……」

「吉乃、ようやく俺をその瞳に映してくれたな。あの日からずっと……俺が吉乃を想わない日はなかった」


〝あの日〟とは、蛭沼の一件のあった日のことだ。

そこまで言うと咲耶は神術で吉乃の腕を縛っていた紐を切ったあと、吉乃から視線を外して、がしゃ髑髏に向き直った。


「さて、愛しい花嫁との時間を持ちたいところだが、その前に片付けなければならないことがあるようだ」


そう言った軍服姿の咲耶は、がしゃ髑髏と切見世長屋の遊女を冷ややかに見下ろした。


「言い訳のしようもない状況だが、どうするつもりだ?」

「ひ、ヒィッ! お許しを! ほんの出来心だったんです……! 俺はこんなこと、するつもりはなくて!」


とても通用しない言い訳だ。

ちらりと視線だけで吉乃を振り返った咲耶はあるところで目を留め、片眉を持ち上げた。


「吉乃、その腕はあいつにやられたのか?」


咲耶が見たのは今の今まで掴まれていた吉乃の腕だ。

着物の肩の部分は裂け、間から見えた腕にはくっきりと手の痕が残っていた。


「え……あ……は、はい」

「そうか。随分と力任せに掴まれたな。痛かっただろう」


着物が裂けるほどだ。

吉乃は慌ててはだけた着物を手繰り寄せると、傷のついた腕を隠した。


「だ、大丈夫です。骨が折れたわけではないので」


咲耶に指摘されるまで腕の傷には気づかなかった。

その様子を見た咲耶の瞳は、吉乃が気づかぬうちに燃えるような紅に色を変えた。


「――貴様はここが生ぬるいと思えるような、本物の地獄へ堕としてやろう」


次の瞬間、もう一度がしゃ髑髏に向き直った咲耶がなにかを唱えはじめる。


「ギャアアアア!!」


すると、がしゃ髑髏の足元に黒い沼のようなものが現れ、がしゃ髑髏の身体がズブズブと沼の中に沈んでいった。


「がしゃ髑髏の旦那ァ!」


切見世長屋の遊女が手を伸ばして悲鳴を上げた。

けれど、トプン!とすべてが飲み込まれた音がして、がしゃ髑髏はあっという間に沼の中に消えてしまった。

断末魔さえ聞こえなくなった部屋の中は静かで、吉乃はまだなにが起きたのかわからず、呆然と黒い沼があった場所を眺めていた。

あまりに一瞬の出来事だった。

同時に咲耶の紅色に変わった瞳は、元の黒に戻っていた。