水揚げとは、赤裸々に言えば、経験のない舞妓が、初めて男性と一夜を共にすることを指す。馴染みの旦那が付いていれば、彼に任されることもあるし、特に相手がいない場合は、水揚げを専門にしている、地位と財力のある男性が受け持つことが多かった。紅華の水揚げのお相手は、松本清一朗氏になるだろうと、祇園ではもっぱらの噂だった。

(悪いお方やおへんけど……)

 ぼんやりと、自分を贔屓にしてくれている旦那のことを考えていると、

「うちの時は、西陣の旦那はんで、六十歳のお方どしたえ」

 隣に座る小絲が、頬を押さえて、ふぅと息を吐いた。

「慣れてはる方で優しゅうしてもらえましたけど……。うち、本音では、松本様のように若くて素敵なお方にしてもろたほうが良かったなぁて、思う気持ちもあるんどす。そやから、紅華はんがうらやましおす」

「…………」

 羨望のまなざしを受けて、紅華は曖昧に微笑んだ。
 水揚げを終え、形を変えた小絲の髷にちらりと目を向ける。

(うちもあと少ししたら、割れしのぶからオフクへ変わるんやろか)

 その時のことが想像できず、紅華は「うーん」と難しい表情を浮かべた。
 祇園で育ち、祇園の中しか知らない紅華と小絲は、周りのおねえさんたちが行ってきた慣習を、当然のことだと思って生きてきた。水揚げも然りだ。小絲は今でも何の疑問も持っていないようだが、紅華はある時期を境に、「うちはこのままでええんやろか」と考えるようになっていた。

(世界はもっと広いのと違うやろか)

「あ、紅華はん、見えてきたえ。大きな門やなぁ」

 小絲が袖を押さえて、正面を指差した。疎水に架かる橋の向こうに、「東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会」と掲げられたアーチ状の門が建っている。老若男女、多くの人々が、晴れやかな面持ちで、橋を渡っていく。その合間を、人力車は走り抜けた。