「紅華はんは、ええどすなぁ」

 車夫が引く人力車の座席に腰をかけ、心地よい風の感触を楽しんでいた紅華(べにか)は、隣に座る小絲(こいと)に突然羨ましがられ、きょとんとした表情を浮かべた。

「ええとはなんのことですやろ」

「紅華はんの旦那はん、松本様のことや」

 ふっくらとした丸顔の小絲は、おちょぼ口を尖らせた。

「お金持ちで、お優しゅうて、何よりお若い。そのようなお方に水揚げしもらわはるやなんて、羨ましゅうてかなわんわ」

 京都には五つの花街がある。その中の一つが祇園町。紅華と小絲は祇園町の中でも、祇園甲部と呼ばれる地域で舞妓をしている。
 紅華は、先を走る人力車に目を向けた。あの人力車に乗っているのは、松本清一朗(まつもとせいいちろう)氏。十年前に勃発した第一次世界大戦によってもたらされた特需で、木材を扱った会社を興したいわゆる成金である。そして、紅華を贔屓にしてくれている旦那だった。

「紅華さん、小絲さん。今度、僕と出かけませんか。岡崎公園で、東宮殿下のご成婚を祝う博覧会が開催されているのですよ」

 先日の宴席で、紅華と小絲は、松本にそう誘われた。今、京都は、東宮殿下裕仁親王のご成婚で、祝賀の雰囲気が盛り上がっている。岡崎公園では連日、ご成婚を奉祝する万国博覧会が催されていた。

「まあ、うちも連れて行ってもらえるんどすか? おおきに」

 嬉しそうな小絲の隣で、紅華も、

「松本様、おおきに」

 と、微笑んだ。

 紅華と小絲は、それぞれに別の置屋で生まれた娘だ。置屋は、舞妓や芸妓を目指す女の子たちを預かって教育をする場所のことだ。舞妓を目指す女の子は、どこかの置屋へ年季奉公し、仕込みさんとなる。仕込みさんは厳しい修行を受けて、見習いとなり、お店出しとなるのだが、紅華と小絲も実家が置屋のため年季奉公の必要もなく、恵まれた環境にあった。

 小絲がしきりに「ええなぁ」と言っているのは、水面下で置屋のおかあさんが進めている、紅華の水揚げのことだ。