「僕は、学生のころ教師になるつもりだったんだ。親は医者だから、それを押しのけてね」

「学校の、せんせい……」

「教育学部に入って、僕はバイトを始めることにしたんだ。親は医学部に受からなければ学費は払わないと言っていたし、家は追い出された。学費はまぁ奨学金でなんとかなっても、家賃までは賄えないから」

「大変……でしたね」

「うん。両親は俺が泣きついてくるのを待ってたんだよ。でも、意地悪でしてた訳じゃないと思う。代々医者の家庭だったし、教師は薄給。精神的負担もあるからね、不幸になってほしくない気持ちが強すぎたんだろうね」

 確かに、お医者さんの先生も大変そうだけど、学校の先生も大変そうだなと思う。小学校の頃は、生徒が授業を終えたらてっきり帰ってるものだと思っていたけど、許可証とか、保護者の判子がいるプリントを仕事終わり……夜の九時ごろ学校のポストに入れに行ったとき、普通に電気がついていた。

 それに教師の自殺率が高い……みたいなニュースも見覚えがある。

 元々希死念慮があったわけではなく、優しくて生徒に寄り添える先生がある日突然自殺してしまって残された生徒がショックを受けたりとか、真面目すぎた……とか。 

「僕は家庭教師のバイトを始めたんだ。そこで、ある女子生徒に出会ったんだ。あまり学校に行けないから、自習を見てやってほしいと言われてね」

 教育学部に入って、さらに家庭教師のバイトをする。よほど先生になりたかったんだろう。

 今、先生は学校の先生じゃない。でも初めて見た時から、どことなく学校の先生っぽいと思ったのは、先生の雰囲気とか抽象的なことではなく、話し方とか物理的なものなのかもしれない。

「彼女は、僕が教える必要なんか無いんじゃないかってくらい優秀だった。でも、実習問題は苦手だった。暗記教科が好きで、科学や物理の計算も問題なかったけど、図形と証明問題連立方程式のあたりで躓いていてね。問題集を見てやり方を読み込むよりも、実際の授業を見たほうが分かりやすいものは、やっぱり苦手になっていたんだ」

 確かに、数学などは参考書を読むだけじゃ分かりづらい。動画を見たりして今は勉強してるけど、先生が大学生の頃は動画サイトもなかったように思う。

 もし今、動画サイトが無かったら、私も勉強できていなかった。一人だったら、駄目だった。

「だからか、そういう問題は必死に質問してきてね、ここが分からない、どうしてこうなるのとよく質問攻めにされた。彼女は申し訳なさそうにしていたけど、僕はずっと理数系の人間として生きていたから、得意分野でありがたいくらいだった」

「得意分野……」

「苦手はあるからね、誰にでも。彼女はめきめき成長していったよ。こんなに教えがいがあるなんてってびっくりするくらい、どんな問題も解けるようになってね。大学受験の問題だけじゃなく、大学生が手こずるような問題にも挑戦するようになった」

 先生は嬉しそうに、遠くを見て話す。

 先生には、大学生の頃、生徒に教えていたころの光景が見えているのかもしれない。真黒なはずの先生の目は、夏の太陽を映して輝いている。

「ネットなんて無い時代でね、僕は彼女に数学の参考書を買ってあげた。家庭教師として、生徒に渡すにはレベルの高いものだったけれど、彼女の可能性を狭めたくなかったんだ。ただでさえ同い年の子は、プールへ行ったり海水浴へ行ったりしているのに、その子の世界は一部屋だけだったから」

 一部屋だけの、世界。

 さくらちゃんのことを思い出す。彼女は殆ど外の世界を知らないと言っていた。

「その時に、近くでやっていた数学の展示の話をしたんだ。近くでやってるんだと。先生は行くのか聞かれて、見に行けないと答えた。教育実習の準備に母校へ行かなくちゃいけなかったから。でも物販は開かれていたから、その子にボールペンも買ってあげようと思って、反応を見るために聞いてみたんだ」

 流石に、なんだこれって思うものはあげられないからね。先生は苦笑しながら話を続ける。

「分度器のマスコットがついたボールペンが売られているなんて話をして、その子は子供っぽいからなんて言ってて、先生はいいと思うなんて軽口で言ったんだ──それが駄目だった」

 先生は声色を落とした。

 すぐに分かった。先生のターニングポイントは、選択は、ここがきっかけだったのだと。

「彼女は、参考書のお礼がしたいと思ってしまったんだ。いい子だったから。優しい子だったのに。身体が弱いのに、猛暑日の展示に向かう途中で、亡くなってしまった。軽い熱中症にかかることが、命にかかわる子だった」

 ちょっと熱中症になったっぽい。そう言うくらい、ありふれたものだと思っていた。

 予防のために水分を取ろうと言い合うことはあれど、緊迫とした気持ちは持ち得ていなかった。私はどう返事をすればいいのか、返事をすること自体正解なのか分からなくなって、押し黙る。

「後で聞いた話なんだけど、両親は大学を受験させる気はなかったらしい。それまで……大学入学を迎える年まで生きれるほど、彼女の臓器は機能していなかった。僕が彼女の寿命を、縮めたんだ」

「違いますよ。先生のせいじゃ──」

「僕はバイトも、大学もやめた」

 私の否定を拒絶するように、先生は静かに私を見返した。

「そのままアパートで何もせず過ごしていたら、家賃を滞納していたのを親に知られて、実家に引き戻されたんだ。それからは、もう、何かを考える時間が怖くて、親の望むままに医大の再受験に打ち込んだ。そこで落ちてたら、何か変わってたかもしれない。でも僕は医大に受かって、医師免許を取って、今ここにいる。患者さんを、見てる」

 先生はそう言って、中庭で過ごす子供たちに目を向けた。この病院には、先生や看護師さん、病院で働く人たちの子供たちの為の幼稚園があるらしい。その子たちと、病院に入院している子供たちが、花壇を見つめたり、散歩をしている。

「怖くて逃げたのか、使命感にかられてかは分からない。親は喜んでいたよ。医者になるのを望んでいたから。僕も心地よかった。誰かのお願いを聞いて動けば、誰かのせいに出来る。自分は悪くないといえるからね」

 先生は、笑みを浮かべた。柔らかな笑みに反して、その手は固く握りしめられていく。声色にも後悔ややりきれない思いが滲んで、抱えている苦しみに拍車をかけるように、言葉を絞り出している。

「ただ、何人救っても、救っても、救っても、私が殺したあの子の顔が浮かぶ。皆言うんだ。お前は悪くない。でもそんなもの意味がないんだよ。あの子の許ししか、意味がないんだ。そしてそれは永遠に手に入らないから、僕はここにいる。亡くなったひとに囚われていたら、救える患者すら見失ってしまう。わかるんだ。自分が医者に、人にかかわる仕事に向いていないということが。でも、最後のさいごまで、どうしていいか分からないままきてしまった。だから言える。君は人に関わることに、向いていると。向いていないのは、人殺しの僕のほうなんだ」

 最後の最後まで。その言葉の響きに、重さと覚悟を感じた。そんなわけない。ありえないと思いながらも、このまま手術をしなければ死んでしまう の笑顔が、妙に思い浮かぶ。

「君が見える理由はよくわかるよ。僕は死に近い。余命宣告が下りたんだ。時間はもう残り少ないらしい」

「先生──……」

「だから病院も……もうやめるんだ。今日で、退勤になる。表向きは実家を継ぐことになっているけれど、診察中に倒れるわけにはいかないからね」

 先生が、死ぬ。

 なんとかならないのかと思うけれど、お医者さんである先生がその手立てを知らないはずがなかった。私は俯いて、自分の手のひらをぎゅっと握りしめる。

「死んだら、あの子に会えるかな。会って謝りたい。あの子は、僕になんて会いたくないかもしれないけど、会って謝りたい」

「なら、会ってみては、いかがですか」

 いつかの、縁川天晴のように呟く。先生は「え」と声を漏らす

 声色に期待が込められているのを感じた私は、そっと微笑んだ。

 私の背後の空気の密度が、わずかに濃くなる。

 女性はいつも、特徴的な花丸のしおりを手にしていた。何かの答案……それもテスト用紙ではなく、ルーズリーフの線の入った紙を、ラミネートするようにした手製のものだ。わざわざそれを首から下げていたのだから、会いたくないわけがないだろう。

 寂しい寂しいと、死にぞこないの私を連れて行こうとしたのは、怨霊としての便宜上ではなく、先生と関わった残り香みたいなものを辿っていたからかもしれない。

「彼女はずっと先生に感謝していました。恨んでなんてません」

 そう言って、私はそっとベンチを立った。道の先には、彼女がいる。

「先生……」

 女性の瞳は、これまでの渇望や執着が嘘のように晴れていた。ただただ、誰かに恋をする少女のあどけなさで、先生の名前を呼ぶ。

「お医者さんに、なったんですね。おめでとうございます」

 鮮やかな恋する乙女の笑顔で、彼女は噺田先生を祝福した。 先生は、首を横に振る。

「ちがう、わたしは、逃げだだけだ。君の死がつらくて、君を思い出すたびに生きていけなくて、教師という仕事ことから逃げただけなんだ」

「そんなことないです! 先生は、私の先生は優しい人です。逃げたんじゃない。きっと心のどこかで、私が死んだのを、自分のせいだって思って、私みたいに死んじゃう人を減らそうとして、お医者様になったんです。私の希望も入っちゃってますけど、きっとそうです。先生は逃げてない!」

 ぶんぶんと顔を横に振って、彼女は噺田先生の言葉を否定する。先生は静かに目を閉じて、息を吐くと瞳から涙を溢れさせた。

 手で目を覆い、嗚咽を漏らす。

「待ってて、くれないか。きっと僕ももうすぐ、そっちに行くから」

「いやです!」

 彼女はきっぱりと断った。そしてはつらつと、優しく微笑む。

「ゆっくりで、いいです。先生が病気なのは、今聞いてました。でも、なるべく苦しくないように、たくさん、たくさん優しい中で、過ごしてから来てください。そしてまたたくさん、前みたいに色んなお話し、聞かせてください」

 やがて、彼女から、まばゆい光があふれ始める。遠岸楽の時と同じだった。人がこの世界から去っていくときの光だ。

 それを先生も理解してか、首を横に振る。

「待ってくれ、僕は、君に──」

「さよなら、先生。私、先生のこと恨んでません。先生が、学校の先生になれなかったのが、残念なだけ。でも、私だけの先生かなって、思っている自分がいて──先生、わたし」

 ──先生のことが好きです。

 そう彼女は口にして、光に溶けて消えていった。涙を流しながら先生は空を見上げている。

 いつも瞳に帯びていた悲壮さは、光の瞬きとともに消えていた。 


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 先生と別れ、私は縁川天晴と一緒に、さくらちゃんの麻酔が切れるのを廊下で待った。

 よくドラマでお医者さんが手術室から出て「成功です」と伝えるシーンがあるらしいけれど、手術室の前で待つことは出来ず、さくらちゃんの両親は彼女の病室で、近親者ではない私たちは廊下で待っていた。

 手術自体は、特に何事もなく終えたらしいけれど、それでも不安になってしまう。