気を落としていることを悟られないよう、私は夕日を眺める。
「はい。あっ、俺も次のライブ、楽しみにしてますからね!」
追い打ちをかけられ、今度は声も出せずにうなずいた。さくらちゃんも、縁川天晴も、遠岸楽も、私を生き返ると思っている。そのことが心苦しい。
死のうとしたことは、間違っていたのかもしれないと思ってしまうから。
「俺さ」
誰も言葉を発さず寺に向かって歩いていると、遠岸楽が呟いた。さらさらと風が吹いて、遠岸楽の身体が透けて見えた。目を凝らす前に、彼が続ける。
「たぶんそのうち、消えるっぽいんだよな」
「え……」
突然の告白に、時が止まったような錯覚を受けた。どうしてと考えて、ここ最近の、彼のらしくない言動を思い出す。
「最近、ちょっと透けててさ。指とか。なんとなく分かるんだよ。そのうち消えるって」
遠岸楽の焦りは、こちらに踏み込んでくる態度は、自分に残された時間が少ないから。
縁川天晴は、黙ったまま、言葉を紡がない。
「だから、お前ら二人に礼を言っておこうと思って。いつ消えるか、分かんねえからさ。俺、お前らと違って完全に死んでるから」
完全に、死んでいる。
確かに、もう彼の身体は焼かれ、骨になっておさめられている。
でも、目の前にいる遠岸楽は。
今ここに、いるのに。
「ありがとな。色々、お前らのおかげで、ただその辺りうろつくんじゃなくて、すげえ色々考える時間が出来た」
「……」
夕焼けを背に、屈託のない笑みが視界に映った。彼は、こんな風に笑うのか。いつも彼は、平然としながらも悲しみの気配を纏っていた。
物言いは粗暴ながら落ち着いていて、夏が終わった秋の日差しのような人だった。
「お礼を言うのは、僕らだけでいいんですか?」
それまでずっと黙っていた縁川天晴が、口を開いた。
含みをもたせた声音に、私も遠岸楽も縁川天晴を見る。
「まだ、いるでしょう」
縁川天晴はそっと墓地の中、遠岸楽のお墓へ指をさす。そこには、七十歳くらいの柔らかい色のセーターを着た女性が立っていた。
「貴方は、あかりちゃんを助けてくれた」
縁川天晴の言葉を受けながら、遠岸楽は、女性へ視線を向けた。
「ばあちゃん」
答え合わせをするように、遠岸楽が呟く。女性は彼が見えていないようで、視線を彷徨わせながらも必死に何かを探していた。
「いるのかい。楽」
切なげな声色は、遠岸楽に憎しみなんて抱いていないことをはっきりと示していた。
女性はもがくような足取りで、私たちの立つ方向へ視線を向ける。大切なひとを探す瞳をしていた。
「なんで……」
「歩積さんが、墓参りしないかって会いに行ったらしいです。見知らぬ男子高校生も会いに行って、楽がお婆さんのこと心配してるって言って、ついてくるほどには、貴方のことを想っているようですよ」
縁川天晴の返答に、遠岸楽は声を震わせる。
「どうしてそんなことを……」
しかし、「楽」と呼ぶ女性の声に、すぐそちらへ顔を向けた。
「わたしなぁ、絶対おかしいって、ずっと思ってたんだよ。本当は、あのひとが殺したんだろう。お前、なぁ、お前、お父さんの罪を被ったんだろう。虫一匹殺せないお前が、出来るわけないって、だからあんな、今まで聞いたことないような言葉で俺たちのこと、守ろうとしたんだろう! なぁ!」
女性は、とめどなく涙を溢れさせながら、ぺたぺたとお墓に触れる。墓石を通じて、彼に触れているみたいだ。
遠岸楽はそんな様子を眺めながら、目に涙をためている。
「ばあさんいいんだよ。俺は、いいんだ。もう。そんな泣かないでくれよ」
「お前、未来あったろう。いくらでもやり直せただろう。なんで死刑なんか。なんで、若かったのに。何でも、何でも戻れた。間違ったってよかったのにお前、私たちのことなんて守って死んじまうなんて、おかしいだろ。何でお前、生きててくれなかったんか」
「ばあちゃん……」
「わたしも父さんもどんな形であれ、お前に生きてて欲しかった……! 死んでほしくなんてなかった……! どんなお前でも……! 私たちはお前を、お前が好きだったのに……」
お婆さんは腰を丸め、墓石の前でうずくまる。
震える手を合わせながら、祈るように目を閉じている。遠岸楽は、そっとお婆さんに近づいて、目の前にしゃがんだ。
「ごめん……死んで、ごめん」
遠岸楽は、頭を下げる。親に叱られた子供のあどけなさを残しながら、静かに、何度も。
「ごめんな」
そうして、そっとお婆さんの手に触れた。すると、お婆さんが、ふっと顔を上げる。
「いるのかい」
「え……」
お婆さんの瞳は、遠岸楽を捉えていない。けれど気配は感じ取っているらしい。「いるんだろう」と、優しい声で呼びかける。
「お前、とんでもないことして……馬鹿な子だ……」
「ばあちゃん」
「役に立てなくて、ごめんね……」
弱弱しい声に、遠岸楽は首を何度も横に振った。そんなことない。そんなわけあるかと繰り返しながら、お婆さんの手を取る。
「そんなことない。じいちゃんもばあちゃんも、すごい良くしてくれた。役に立てなかったのは俺のほうだ。何にも恩返しが出来なかった。何にも、俺は返せなかった」
「あの世で、幸せになってくれ。頼む。次生まれ変わるとき、幸せでいてくれ。誰よりも、何よりも、自分の幸せだけ考えて、生きてくれ」
言葉もなにも、かみ合っていない。
一方通行だ。
お互いそのもどかしさを堪えながら、お互いに別れを告げる。
「私も、あとどれくらい生きられるか分からないけど、そっちに行くからな」
「ばあさん、長生きしてくれ。幸せでいてくれ。頼む。こっちには来ないでくれ」
「さみしい思いはしないでくれよ、また、会いに来るから」
「元気で、地獄になんて来ないでくれ。さよなら、ばあちゃん」
女性は別れの言葉を告げると、しばらくその場にうずくまっていた。やがて夜が近づくと、自分の目元を掌で拭いながら、力強く立ち上がる。
そのまま女性は、墓場から遠のいていく。
残された形になった遠岸楽は、ただただ涙を流している。私と縁川天晴はそっと彼の隣に立ち、その背中に触れる。そうして気付いた。
遠岸楽の背中は、わずかに発光して透けている。本人も分かっているらしい。口に出す前に、首を横に振った。
「時間みてえだな」
遠岸楽は、ため息を吐きながら こちらへくるりと振り返る。
「俺が成仏できないの、未練だったみてえ。俺、やっぱ。ばーちゃんにさよならって言えなかったの、心残りだったっぽい。女々しいけど」
柔らかく、困ったような笑みに、わざとらしいくらいの明るい声だった。今まではっきりと見えていたはずの肩は、ところどころ透けている。
「女々しいは失礼な表現ですよ」
ぴしゃりと、縁川天晴が指摘する。
「悪い。ちゃんとアレする。アップデートしていく。次は無いだろうけど」
「あるよ。絶対に」
私が付け足すと、遠岸楽は首を横に振った。
「いや、どう考えても俺は地獄行きだろ。じいちゃんの死体も、じいちゃんが殺した奴の死体、もめちゃくちゃにしてんだから」
死体損壊は罪だぞと、念押しまでしてくる。
環境のせいにしたら、いけないんだと思う。でも彼は、環境さえまともであったら、普通に彼の恩人と出会えていたら、今もなお楽しく暮らしていたんじゃないかとどうしても思う。
もっと、自分のことだけを生きていけるような場所で、生まれていたら。
「さくらに言っておいてくれねえか」
改まった声色に、彼とこうして会話をするのは最後なのだろうと実感した。
「なんて」
「将来変な男に捕まるなよって」
「親面?」
軽く返すと、遠岸楽は冗談交じりに否定した。
「違う。俺みたいなのがかっこいいって、明らかに男の趣味終わってんだろ。将来思いやられるわ」
「善処する。見分け方とか、わからないけど」
「ああ、アイドルだもんなお前」
思い出した様子で、遠岸楽は鼻で笑ってくる。不快には思わなかった。
「で、アイドルさんよ」
「何突然」
「炎上の鎮火目的で死ぬの、まぁそうするよなって言ったけど撤回するわ」
まっすぐ見つめられた瞳に、ただ黙って言葉を待つ。
「お前は生きたほうがいい。死なないほうがいい。少なくともお前はやり直せる。お前の為に生きたいやつ、絶対いるだろ。そいつだけ見とけ。お前の隣に、お前は絶対リークもなんもしねえって、妄信信者がいるだけだし」
私は、縁川天晴を見る。
痛いところを突かれた。言い返せない。遠岸楽は矢継ぎ早に訴えてくる。
「お前まだ人も刺してないし、冤罪なんだろ? 遅くねえじゃん。絶対死ぬな。生きろ。お前が生きてるだけで、お前のこと叩いてるやつが苦しむなら、思う存分苦しませろ」
苦しませろ。
そんな暴論を言い放っているのに、その表情はどこまでも清々しいものだ。
いつもより早口で力のこもった言葉に、終わりが近いのだと感じる。
「生きて、生き続けて、ずっとずっと生き残ってやれ。お前のこと叩いてる分だけ、そいつらは自分に時間を使えない。誰の為にもならない。惨めに死んでいくんだぜ。完全犯罪じゃねえか。何があってもしぶとく生き続けて、お前を叩くやつら全員自滅させて殺しちまえ」
ばーか! と笑い交じりに、彼は光の泡になって消えていく。
空に昇り、一面の青色に溶けていった。
それまで彼が立っていた場所は、影一つなく太陽が照らしている。
「成仏、なのかな」
ざあっと吹き荒れる風が風車を回しているのを横目に、縁川天晴に問う。
「間違いなくそうでしょう。あんな笑顔初めて見ましたよ。彼ずっと、お婆さんにお別れを告げられなかったことが、心残りだったんですね」
大切な人に、お別れが言えなかった。
その気持ちは、痛いほどわかる。行ってしまう前に、お別れが言いたかった。
何で突然私の目の前から消えたの、どうして私のことを連れて行ってくれなかったの、残していくくらいなら行かないでよと、責める気持ちも、そんな自分に嫌気がさすことも。
そして、何も言わず去りたくなる気持ちも、よくわかる。
成仏したのだろうから喜ばしいことなのに。心の中に穴が空いたような、世界から取り残された喪失に駆られる。
「せめてあちらの世界では、安らかに在れるといいですね」
「そうだね」
私は自分が消えるとき、きちんとお別れが言えるだろうか。
縁川天晴を見た後、私は遠岸楽が消えた空を眺めていた。
◯◯◯
遠岸楽が消えた翌日、私は一人で病院へ行くことにした。あれだけついて来ようとする縁川天晴は、ついてこなかった。
普段平日に来れない患者さんだけを診ているらしい休日の病院の受け付けは静かで、それとは比例して入院病棟は相変わらずの喧騒を見せている。
ぱたぱたと忙しなく、生かすために看護師さんもお医者さんも足を速め、人を生かす器具を運んでいた。
さくらちゃんに、遠岸楽のことをどう説明していいか分からない。彼は遠くへ行ってしまったと言って、果たして納得するだろうか。
私が両親を亡くしたとき、大人たちは両親について、遠くへ行ったと説明していた。でも幼心にもう会えないのだと悟った。
みんな大人たちは私が幼いから、人の死を理解できないと思っていた。でも、理解していた。
理解したうえで、反応が出来なかった。
どうしていいか分からなくて、普通に、玄関とか、どこかへ行った先で顔を出すように思っていた。
だって今まで、それまでずっと一緒にいたから。朝に一緒に朝食を食べたし、いってきますもいってらっしゃいも言った。その日のドラマの話もした。お母さんもお父さんも、今日死ぬなんて言ってくれなかった。
遠岸楽も、今日消えるなんて言わなかった。私も、自分の手首を切るとき、何も言わなかった。
じっと病床に横たわる自分を見つめる。この身体が、私のものであるという感覚すら最近は薄い。
隣にある装置が私を生きているのだと周りに知らせている。この機械さえなければ、生きているか死んでいるかも分からない。
踵を返して、硝子天井から光の降り注ぐ廊下を歩く。
私は遠岸楽のように、心残りがあるから死ねないのだろうか。こんな風に幽体離脱をしているのは、心残りがあるから?
思い当たるふしが多すぎて、分からない。ただ今私が消えたとして、最も心残りなのは、
縁川天晴の存在だ。後を追うと繰り返している。私のせいで、彼を殺すことになる。
でも、最近はそれだけが理由じゃない。
「君は──」
振り返ると、さくらちゃんの主治医である噺田先生が目を見開いて立っていた。
誰か私の前にいるのか、そういえば一番最初も私はこの人にぶつかりそうになっていた。
「果崎、あかりさん」
視線を戻そうとして、足を止めた。
私の身体は病室にある。この場で名前を呼ぶ必要はない。そもそも私の目の前にはただ長い廊下が伸びるばかりで、誰も存在していない。
もう一度振り返る。
先生は、まぎれもなく私を認識し、見ていた。
◯◯◯
「えっと、つまり君は、幽体離脱の状態と……?」
あれから、私と先生はベンチに移動した。事情を説明すると、先生は比較的すんなりと事実を受け止めたらしく、疑うことなくこちらに問いかけてくる。
「まぁ、そうなると……思います」
「さくらちゃんが、やけに君の話をするから、もしかして病室に入り込んだのかと思っていたんだが……」
やはり、さくらちゃんはかなり私について話をしていたらしい。ここが病院で、学校や幼稚園じゃないことが救いだ。幼くたっていじめはある。何があるかわからない。
「はい。彼女は私の姿が、はっきり見えているみたいで……その、この間までは、すでに亡くなっている人も、一緒にいて、彼のことも見えていて」
「もしかして、きんきらのお兄ちゃん?」
「はい。彼と話をするのがすきだったみたいで……」
それ以上、言葉が紡げなかった。
一瞬であったけれど、遠岸楽と確かに友情に近しいものを感じていたんだと思う。そして今、彼が消えたことをいまいち受け止め切れていない。
「すみません」
「いいんだ。それで、君はどんなふうに過ごして……?」
「えっと、縁川さんのところで、居候というか……」
「なるほど。縁川君の家か」
先生は遠い目を夕日に向けた。彼の兄は、この病院に入院しているらしい。先生の態度からも、重い病気なのだろう。
退院したという話も聞かなければ、症状についても聞かない。あれだけぺらぺら喋る縁川が、何一つ言わないのだ。
「君は、自分の容態についてどれくらい知っている?」
ふいに、噺田先生が訊ねてきた。
「えっと、昏睡が続いていると……」
「その通りだ。このまま目を覚ます確率は、正直低いと言わざるをえない。でも、目を覚ましてもおかしくないくらい、君の今の状態は不鮮明で……だからこそ、今君がここにいることに納得するような……難しいが……」
驚くことはなかったし、先生の気持ちもわかる。
遠岸楽を見た以上、このままゆっくり死に向かって消えていく気がする。
いつ目を覚ますかというのは、それこそ幻のような希望だろう。
「非科学的だが、戻れたりはしないのかい。こう、身体に入り込むかたちで」
「いえ、まったく、わからず……」
物理的に、問題があるのか、それとも戻りたくないという気持ちの問題なのか。わからない。しばらくの間沈黙を感じていると、先生は「なぜ」と、重い声音で口を開いた。
「死んで、しまったんだ。まだ、若いのに」
まだ若い。
その次に言いたいのは、生きたくても生きられない人がいる、だろうか。
先生は生かす仕事をしている。寿命以外で死を迎える人だって、前にする機会は多いだろう。
「死にたかったからです」
私は答えた。
生きたくても生きられない。それは痛いほど分かっている。分かっていてもなお、死にたかった。
だから、手首を切った。
「そこまで死にたいと思うほど、君の仕事は責められるものなのか。さくらちゃんだって、君の話をするたび、ずっと笑顔だったのに」
「人の前に立つ仕事ですから、色んな声があって当たり前です。私は向いてなかった」
いろんな声がある。そう思って頑張ってきた。私のことを好きな人がいれば嫌いな人もいる。
でも、すべてが駄目になった。今まで気にならなかったすべてが、気になるようになった。
結局のところ、私は向いてなかったのかもしれない。SNSだけじゃなく、この仕事にも。
アイドルとしてみんなを笑顔にしたいけど、叩かれたくない、嫌われたくないと思うことは、私の勝手な我儘でしかない。
「本当に、そうなのか。違うんじゃないか」
先生のまっすぐな疑問に、私は形容しがたい感覚に襲われた。
常識を砕かれるようで、返事すら選べない。先生は矢継ぎ早に、言葉を投げかけてくる。
「だって、人の目に触れてるからって、酷いことを言っていい理由にはならないだろう。君たちと同じように、僕らも社会に属している。子供は学校に通う。仕事をしていても、仕事をしてなかったとしても、必ず誰かと関わらなきゃうけない。でも、誰かと関わる以上、酷いことを言われる覚悟を玄関先で問われるなんてことはないはずだ。外で酷いことを言われて傷つく人は、外出に向いてないなんてことはないだろう」
「でも」
「君に、知っておいてほしいことがある。目が覚めた時のために」
大人に、仕事以外でこんなにも真剣に話をされるのは、何年ぶりだろう。反射的に喉が詰まって、肩に力がこもった。
「悪意のほうが、届くのがずっと速い。気を使う必要がないから。好きだと思って、相手を励ましたいと思って、そのまま最高速の好意を送る人は稀だ。スキルになりつつある。そういう人たちは、誇っていいくらい、本当に貴重だと思う」
そして先生は、何かを覚悟した瞳で前を見据えた。
「僕は大学生のころ、手紙をもらったことがある」
「え……」
「人の好意が綴られていく過程を、見たことがあった。すごく時間をかけていた。考えながら、消しゴムで消したりして、何度も何度も試行錯誤していた様子だった。立場上受け取ることは出来なかったが、確かにうれしかった」
手紙。
長文のメッセージをもらうことが、あった。読むたび嬉しくて、何度も力をもらっていた。
「相手のことが好きで、好きで、でも迷惑をかけたくないと、相手に悪く思われたくはないから言葉を選ぶ。でも、すぐ好意を伝えられる人もいるように、考えて、どうやって相手が苦しむか言葉をじっくりと選んで攻撃する人もいたかもしれない。騒ぎに便乗して、お祭りのようにゲーム感覚で何かをいう人間もいたかもしれない。そして言葉は攻撃的であれど、きちんと君を想って厳しい言葉を投げかけている人もいただろう。すべて、僕の想像でしかない。でも、確実に言えることは」
先生はそう言って私をまっすぐに見た。
「きっと君に、もっと励ましの言葉をかけたら良かった、考えていないで、ただ好きだと言えば良かったと思って後悔している人間が、必ずいる。不格好でも、泥臭くても、好きだとぶつけてしまえれば良かったと、思っているはずだ」
後悔をしている人。
思い浮かぶのは縁川天晴の笑顔だ。信号機が明滅するみたいに、こちらを呪う瞳も浮かぶ。
「死を選ぶほど苦しみぬいた君にこんなことを言うのは、不適切かもしれないけれど……」
「いえ……」
先生はまた腕時計に視線を落とした。ベルトを付け替えたデザインに見える時計は、女性もののデザインだった。
「ああ、さくらちゃんに会っていくかい?」
「あ、はい」
突然の提案に、反射でのってしまった。
まだ、さくらちゃんに遠岸楽についてどうやって説明するかも決めてない。遠くへ行ったと言うべきか。手術前のさくらちゃんに、死を伴う言葉は使いたくない。悩んでいると、ちょうど彼女が駆けてきた。
「あーせんせー! 」
さくらちゃんはぶんぶんとこちらに手を振っている。スケッチブックを小脇に抱え、点滴も腕についているから転ばないかひやひやする。
先生はすぐ立ち上がり、さくらちゃんを受け止めた。
「走ったら駄目だと言っただろう」
「でも、あかりちゃんに絵! 描いたから! ほら見て!」
さくらちゃんはスケッチブックを開いてこちらに見せる。そこには、さくらちゃんと、私、縁川天晴に、遠岸楽が描かれていた。
試していないけど、写真に私と遠岸楽は映れなかったと思う。けれどこうしてさくらちゃんと一緒にいたことが形として残ったことが、嬉しい。
消えていく私は、さくらちゃんや縁川天晴に、痛みを与えてしまうのに。
遠岸楽は喪失の瞬間を悟っていた。私に今その感覚はない。いずれ分かったとき、縁川天晴になんて言えばいいだろう。
後は決して追わないでほしい。
黙って消えても、身体が死ねば報道される。
「絵、描いてくれてありがとう」
「うん! あ、先生も描いたよ!」
さくらちゃんは、ページをめくって先生に絵を見せた。何かの紙を持った先生が、佇む姿が描かれている。
答案用紙、かもしれない。
四角ばった花丸を注視していると、さくらちゃんが口元を抑え、笑い交じりに私に耳打ちしてくる。
「先生ねぇ、花丸かくの下手なの。かくかくしてるんだよ!」
「さくらちゃん、聞こえてるよ? それに先生は花丸描くの下手じゃないの。かくかくさせて、世界で一つだけの花丸にしてるの」
先生とさくらちゃんのやり取りを横目に、私はそのしかくばった花丸に目を向ける。外側のぐるぐるが三角形になっている特徴的な花丸。
この花丸。私は見たことが、ある。
私を助けてくれて──恋心について語っていた、あの女性。
たしか彼女は、恋文についても話をしていた。
私に、懐かしいにおいがすると言っていた。
そんな彼女が肌身離さず持っていた、あの栞。
ここに描かれている花丸と、同じものだった。
◯◯◯
「僕らを襲った悪霊が、噺田先生の関係者?」
家に帰って、私は早速縁川天晴に今日のことを報告した。あの女性が持っていた栞に描かれた花丸を先生が描くことや、彼女の語った地元へのエピソードと、類似点が多いこと。すべてを。
「たぶん、あの人が会いたがってるの、先生かなって」
「仮にですよ? もしそうだとしたら、どうするんですか?」
縁川天晴は、ベッドに座り、湯のみでほうじ茶を飲んでいる。
「会ったほうがいい気がして……」
縁川天晴が、テーブルへ湯のみを置いた。私をじっと見つめ、「危ないかもしれませんよ」と付け足す。
「彼女は、貴女を襲ったんです。その事実は変わりません」
「でも、助けてくれてたんだ。私の話してる大学生くらいの人たちに、物を投げたりして」
彼女は私たちを襲おうとした。でも、私を助けてくれたのも事実だ。
助けたいと思う気持ちがなければ、実体がない者たちはこの世界にかかわれない。
あの瞬間確かに彼女は、私を助けようと思ってくれた。
「僕がいないときに襲われたんですか!?」
「いや、そこは気にしなくていいよ」
「また守れなかった……」
肩を落とし始めた縁川天晴に、私は近づいた。あの日染めた髪はすっかり馴染んでいる。相変わらず学校には行ってないけれど、クラスの人からメッセージは来ているようで、「通知音聞いてるとひりひりするんですよ」なんて、切ってるようだった。
「遠岸楽と同じです。僕も間に合わなかった。肝心な時、僕はいつも貴女に間に合わない」
彼は、自分の手のひらを見つめている。
「ごめん、でも、どうしても気になるんだ。先生のことも、彼女のことも」
私はあの人を救う方法を、知っている。そして先生の救いになるかもしれないことも。
「二度はないです。僕は貴女を傷つける人が嫌いなので」
ぽつりと、遠岸楽が呟く。
「でも、貴女を助けてくれた人は、好きです」
そして、ゆっくりとこちらに視線を合わせた。
「ありがとう」
「本当に、二度目はないです。こんなこと推しに言うのあれですけど、危険なことは、してほしくないので」
「ごめんね」
「謝罪はいいです。こんなこと推しに言うのあれですけど」
縁川天晴は先ほどと同じ言葉を繰り返す。
間に合わない。何のことかを言っているかは、よくわかった。
彼は震える手で、自分の親指と人差し指をすり合わせる。
この手は、止めたかった手だ。
私の、死を。
◯◯◯
花丸の共通点を見つけた翌日、私はある場所に寄ってから、また病院へ向かった。噺田先生は回診を終え、中庭で遊ぶ子供たちに一人ずつ声をかけて歩いていた。
ゆっくりと歩く背中に声をかけると、静かに振り返る。
「さくらちゃんの手術は午後だよ。ずいぶん早くに来たね」
「えっと、今日早めに来たのは、先生に用があって……」
「なら、そこのベンチに座ろうか。悪いけど最近筋肉痛がひどくてね、長い時間立ち止まるのはつらくて」
中庭は、うっすらと膜をはったような曇り空に覆われていた。太陽も遮られ、わずかに光が漏れている程度だ。
先生は私をベンチへと促し、座った。座る動作に痛みが伴うのか、力をこめながら神経を尖らせ腰をおろしている。少しずつ背もたれに身を預けてから、先生はこちらに振りむく。
「それで、話というのは」
「先生は、家庭教師か何かをされてたことが、ありませんか」
確信を持ちながら問いかけると、先生は痛みを感じたように一瞬顔を強張らせた後、静かにうなずいた。
「よく分かったね。何か。そういう感覚が鋭いのかな」
苦笑気味に肩をすくめて、先生は話を続ける。