その後先輩が大学を卒業し、東京の商社に就職しても。
私が大学を卒業し、地元で公務員になっても。
たまのやりとりで、先輩がまだその女の子のことが好きなんだと何度も知らされて。恋愛相談じゃないけれど、先輩が語るその子が可愛らしく素直で、でも小悪魔なところが愛しいという話を百回くらい聞かされて。
気がつけば、15年。
先輩との関係は平行線のまま、五年ぶりに地元で飲もうという話になった。
「南ちゃん、大きくなったね」
「いや、全然変わりません。というか、もう私も30過ぎなんで、“南ちゃん”はやめてください」
「僕にとっては変わらないよ。南ちゃんは南ちゃん」
母校近くの居酒屋で落ち合った私たちは、昔の思い出話に花を咲かせた。海斗先輩ワールドは健在で、「南ちゃんが楽しそうに僕の話を聞くのが嬉しくて」と悪気もなく「私と一緒にいて楽しい」のだと主張してくる。
この人と付き合ううちに、とっくに理解していたのだが、先輩は男女の分けなく、好きな人間には近づき、そうでない人間とはそれほど心を通わせない。相手が異性だからって、周りの目も気にしない。私は先輩にとって、本当に「興味がある」人間だったのだ。最初に彼が言った言葉はその通りだった。
「そういえば、先輩はどうして、ずっと私のことを描いてくれていたんです」
高校生の頃、先輩が描く絵は私の身体の一部ばかりだった。それを疑問に思いもしたが、すっかり自分に気があるのだと思い込んでいた私は、その疑問を解消することなく大人になった。
「ああ、あれは、南ちゃんのことを知りたかったからだよ」
ほら、また。
先輩はずるい。いくつになっても。私に気を持たせるようなことを言う。それでいて興味があるのは、私という生物であり、私の愛とか恋とかの感情ではないのだ。
でも先輩の言葉は、同時に嬉しくもあった。
先輩は、私を知りたいと思ってくれていた。私が、先輩のことを知りたがったように。だから、最後に見た私の赤い心臓の絵は、私の見る世界を見ようと試みた先輩の、精一杯の努力だったのかもしれない。
そう思うと、たまらなく嬉しい。私は少しでも、先輩の心を掴んでいたのだ。無駄ではなかった。そう思える。
「実はさ、例の女の子、結婚しちゃったんだよねえ」
一時間、いや、二時間ぐらいか。先輩と飲み始めてから随分と長く話をした。その中で、なぜか一度もあの女の子の話が出ないと不思議に思っていたのだ。
始まった先輩の失恋話は止まることを知らず、やれ浮気者だのやれ小悪魔などと愚痴を吐きまくっていた。その全てに、うんうんと頷きながら聞いた。
「そうなんですね、ご愁傷様です」
「それはちがーう」
むう、と頬を膨らませそうな勢いで予想とは違ったであろう私の返しを否定した。
「先輩、よくがんばりました。えらいえらい」
「……僕で遊ぶのをやめてくれないかい」
「15年越しの仕返しです」
実際は、へこんでいる先輩を見るのが嫌で、精一杯慰めたつもりだった。そりゃ、もう30だもんな。その子だって結婚していてもおかしくない。むしろなんで私たち、独り身なんだ、はは。
先輩はやはりショックなのか、「はあ」と大きなため息をついて頬杖をついた。
「大丈夫ですよ。先輩はイケメンだから、またすぐに女の子が寄ってきますって」
「人を客寄せパンダか何かだと思ってない?」
「まあ、それに近い人だとは思っています」
次第にいつものノリに戻ってゆく私たちの会話。これで、いいのだ。先輩の恋が儚くちった夜に、乾杯。
「いつか、先輩に告白したじゃないですか」
「懐かしいねえ」
昔の告白話を当人同士でするこの違和感も、先輩となら普通だと思えた。
「あれ、実らなくて良かったかなって」
「おや、どうしてだい。僕のこと好きだったくせに」
それ、自分で言うな! 心の中でツッコミつつ、話を続けた。
「だって、先輩と結婚したら私、“北南"になっちゃうじゃないです
か。絶対、嫌です!」
「どんな理由かと思いきや……。でも、まあそうだね。僕も、反対さ。きみとはずっとこのままの関係でいたいし」
きみが方位磁石になる未来なんてゴメンだしね。
おかしな例えをする先輩はやっぱり、私が知る北海斗先輩だった。
いつの間にか苦くなくなった生ビールや日本酒を味わいながら、思う。
私も、あなたとの関係はこのままがいい。
一時はその先の関係になることを願ったこともあったけれど、今は違う。
私はこの先誰かと恋愛して、結婚するのかもしれない。先輩だって、別の誰かを愛し、その身体のすべてを描ききってしまうのかも。私はその時、燃えるように嫉妬してしまうかもしれない。そうして先輩と私はどこまで行っても、平行な線のまま、歳老いてゆくだろう。
そのうち老人会でお茶をすすりながら、近所の猫と戯れつつ昔懐かしい話をするのかもれしれない。そのとき先輩は言う。「今もきみに興味がある」って。
それでいい。いや、それがいい。
先輩の声や表情を気にしながら、私は普通の人生を、先輩といつでも昔の話を語り合える人生を、送りたい。
海斗先輩が意味ありげに私に微笑みを浮かべる。先ほどまで失恋話に身を窶していたというのにもう立ち直ったんだろうか。まあ、何でもいい。早く元気になるんですよ。なんて、優しい言葉はかけてあげないから。
「先輩、これからもよろしくお願いします」
あなたと私はずっと、透明な関係。
【終わり】
私が大学を卒業し、地元で公務員になっても。
たまのやりとりで、先輩がまだその女の子のことが好きなんだと何度も知らされて。恋愛相談じゃないけれど、先輩が語るその子が可愛らしく素直で、でも小悪魔なところが愛しいという話を百回くらい聞かされて。
気がつけば、15年。
先輩との関係は平行線のまま、五年ぶりに地元で飲もうという話になった。
「南ちゃん、大きくなったね」
「いや、全然変わりません。というか、もう私も30過ぎなんで、“南ちゃん”はやめてください」
「僕にとっては変わらないよ。南ちゃんは南ちゃん」
母校近くの居酒屋で落ち合った私たちは、昔の思い出話に花を咲かせた。海斗先輩ワールドは健在で、「南ちゃんが楽しそうに僕の話を聞くのが嬉しくて」と悪気もなく「私と一緒にいて楽しい」のだと主張してくる。
この人と付き合ううちに、とっくに理解していたのだが、先輩は男女の分けなく、好きな人間には近づき、そうでない人間とはそれほど心を通わせない。相手が異性だからって、周りの目も気にしない。私は先輩にとって、本当に「興味がある」人間だったのだ。最初に彼が言った言葉はその通りだった。
「そういえば、先輩はどうして、ずっと私のことを描いてくれていたんです」
高校生の頃、先輩が描く絵は私の身体の一部ばかりだった。それを疑問に思いもしたが、すっかり自分に気があるのだと思い込んでいた私は、その疑問を解消することなく大人になった。
「ああ、あれは、南ちゃんのことを知りたかったからだよ」
ほら、また。
先輩はずるい。いくつになっても。私に気を持たせるようなことを言う。それでいて興味があるのは、私という生物であり、私の愛とか恋とかの感情ではないのだ。
でも先輩の言葉は、同時に嬉しくもあった。
先輩は、私を知りたいと思ってくれていた。私が、先輩のことを知りたがったように。だから、最後に見た私の赤い心臓の絵は、私の見る世界を見ようと試みた先輩の、精一杯の努力だったのかもしれない。
そう思うと、たまらなく嬉しい。私は少しでも、先輩の心を掴んでいたのだ。無駄ではなかった。そう思える。
「実はさ、例の女の子、結婚しちゃったんだよねえ」
一時間、いや、二時間ぐらいか。先輩と飲み始めてから随分と長く話をした。その中で、なぜか一度もあの女の子の話が出ないと不思議に思っていたのだ。
始まった先輩の失恋話は止まることを知らず、やれ浮気者だのやれ小悪魔などと愚痴を吐きまくっていた。その全てに、うんうんと頷きながら聞いた。
「そうなんですね、ご愁傷様です」
「それはちがーう」
むう、と頬を膨らませそうな勢いで予想とは違ったであろう私の返しを否定した。
「先輩、よくがんばりました。えらいえらい」
「……僕で遊ぶのをやめてくれないかい」
「15年越しの仕返しです」
実際は、へこんでいる先輩を見るのが嫌で、精一杯慰めたつもりだった。そりゃ、もう30だもんな。その子だって結婚していてもおかしくない。むしろなんで私たち、独り身なんだ、はは。
先輩はやはりショックなのか、「はあ」と大きなため息をついて頬杖をついた。
「大丈夫ですよ。先輩はイケメンだから、またすぐに女の子が寄ってきますって」
「人を客寄せパンダか何かだと思ってない?」
「まあ、それに近い人だとは思っています」
次第にいつものノリに戻ってゆく私たちの会話。これで、いいのだ。先輩の恋が儚くちった夜に、乾杯。
「いつか、先輩に告白したじゃないですか」
「懐かしいねえ」
昔の告白話を当人同士でするこの違和感も、先輩となら普通だと思えた。
「あれ、実らなくて良かったかなって」
「おや、どうしてだい。僕のこと好きだったくせに」
それ、自分で言うな! 心の中でツッコミつつ、話を続けた。
「だって、先輩と結婚したら私、“北南"になっちゃうじゃないです
か。絶対、嫌です!」
「どんな理由かと思いきや……。でも、まあそうだね。僕も、反対さ。きみとはずっとこのままの関係でいたいし」
きみが方位磁石になる未来なんてゴメンだしね。
おかしな例えをする先輩はやっぱり、私が知る北海斗先輩だった。
いつの間にか苦くなくなった生ビールや日本酒を味わいながら、思う。
私も、あなたとの関係はこのままがいい。
一時はその先の関係になることを願ったこともあったけれど、今は違う。
私はこの先誰かと恋愛して、結婚するのかもしれない。先輩だって、別の誰かを愛し、その身体のすべてを描ききってしまうのかも。私はその時、燃えるように嫉妬してしまうかもしれない。そうして先輩と私はどこまで行っても、平行な線のまま、歳老いてゆくだろう。
そのうち老人会でお茶をすすりながら、近所の猫と戯れつつ昔懐かしい話をするのかもれしれない。そのとき先輩は言う。「今もきみに興味がある」って。
それでいい。いや、それがいい。
先輩の声や表情を気にしながら、私は普通の人生を、先輩といつでも昔の話を語り合える人生を、送りたい。
海斗先輩が意味ありげに私に微笑みを浮かべる。先ほどまで失恋話に身を窶していたというのにもう立ち直ったんだろうか。まあ、何でもいい。早く元気になるんですよ。なんて、優しい言葉はかけてあげないから。
「先輩、これからもよろしくお願いします」
あなたと私はずっと、透明な関係。
【終わり】



